この装置の素顔
生まれた環境が特別に悪ければ、自己責任論で袋叩きにされ、苦しみしか知らずに人生は終わる。
しかしそのことは、自己責任ではないものを人は自己責任だと見なす、という知識をもたらす。
見たいものだけを見たいようにだけ見る人間の性質が、社会の裏面にいかに苦しみを生んでいるか知る。
金銭や社会的地位は個人的な能力の反映だという主張を意に介さなくなる。
学歴は個人的な努力の反映だという主張を意に介さなくなる。
認知バイアスを嘘と見なして、地位の低い人を蔑まない人になる。
認知バイアスを嘘だと見抜くことを知性と呼び、蔑まず生きることを良心と呼ぶようになる。
知識を知性だと思う人を愚者だと思い、利己的に生きて満足する民衆を邪悪だと思うようになる。
すると、何が起こるのか?
知識が不足することで知性を決して蔑まないモンスターが生まれる。
金銭が不足することで尊厳を決して蔑まないモンスターが生まれる。
外見が不足することで魅力を決して蔑まないモンスターが生まれる。
モンスターにとっては、本当の知性と本当の良心の定義がある。
それは、世俗社会が価値と見なす尺度とは、あまりに遠く隔たっている。
利己主義と自己責任論という残忍な集団幻想から、あまりに遠く隔たっている。
利己主義と自己責任論を通念とする近代においては、人は自らの心を守るためには他者に残忍になる。
他者の心を傷つけることで自らの力を確認して安心するようになる。
誰かが苦しんでいることに内心で喜びを感じるようになる。
地位の低い労働者に対して客がタメ口をきくのは誤りではなかろうか。
地位の高い者が地位の低い者を金で使う時、せめて敬語で機嫌をとったほうが合理的ではないだろうか。
だって、こう思ったらどうだろう。
金を持たない者は、自分より少しでも金を持つ者を殺したくてウズウズしている。
子を持たない者は、自分より少しでも子を持つ者を殺したくてウズウズしている。
恋人を持たない者は、自分より少しでも恋人を持つ者を殺したくてウズウズしている。
地位を持たない者は、自分より少しでも地位を持つ者を殺したくてウズウズしている。
才能を持たない者は、自分より少しでも才能を持つ者を殺したくてウズウズしている。
幸せを持たない者は、自分より少しでも幸せを持つ者を殺したくてウズウズしている。
ただ単に、法律と刑罰という実力によって抑えつけているだけだから、自己責任論で洗脳すれば謙虚さを期待していいと思うことは危険だろう。
それが、生まれた環境の格差を、自己責任論という嘘にどこまでも置き換えて、弱者にしわ寄せしつづけたことの結末だ。
努力して家を買ったと思う人の家が、火事で焼けても、努力しても家を買えなかった人は憐れまない。
努力して家族を得たと思う人の家族が、通り魔に八つ裂きにされても、努力しても家族を得られなかった人は憐れまない。
努力しても安心できる居場所に手が届かず、苦しみしか知らずに死んでいく人々は、憐れまない。
持つ人々の傲慢はすべて、強者が弱者を圧搾する法治国家という装置の上に存在している。
持つ人々がその事実を本当に認知することは、永遠に起こらない。
本当の知性と本当の良心を知ったモンスターは、世俗的価値観を超越している。
持つ人々が心地よい自己責任論を一方的に押しつけても、モンスターはもう洗脳できない。
社会という装置の力によって不当な利益を味わった人々への尊敬は、知的にも倫理的にも起こらない。
社会という装置が弱者を殺して絞る血の総量を、一滴も見逃すことなく数えつづけている。
罪を数えるは、罰をもたらす日のためか。
持てる社会的地位にあぐらをかいて、他者を嘲笑い、尊厳と幸福を不当に盗んだ罪に報いるためか。
真実は、いつも隠されてきた。
曰く「平和」が、かくまでの邪悪によってしか維持されないものなら、平和より真実が優先されてもいいだろう。
告げられた真理によって、国土に血の雨が降るとしても、装置は正されるべきだろう。
テロは現象であり、犯罪でなければテロではない。
しかし、既存体制に否定を告げる、テロリズムの本質とは何だろうか。
金銭にも権威にも死にも怯えることを忘れたモンスターは、実にテロリストかもしれない。
テロリストの末路は破滅。
しかし本物のテロリストなら、最初からそのことを受け入れているはずだ。
テロは現象であり、犯罪でなければテロではない。
既存体制への否定の本質は、むしろ思想的なものにすぎない。
真実に気づいた脳味噌が存在して始末できていない状況が、邪悪な装置にとって最も危険だ。
真実に気づける脳味噌の機能が、ならば、人間の最も偉大な意志の力だろう。
私欲に不都合な真実を生きる者を、民衆が力に頼って潰そうと試みるを、笑うべきだ。
モンスターは、金銭は邪悪だ、と言う。
モンスターは、死を恐れることは邪悪だ、と言う。
モンスターは、利己的に生きる自らに満足することは邪悪だ、と言う。
なぜなら、モンスターはモンスターだからだ。
わかり合うことは、起こりえない。
否定された人々は限りなく凶暴になり、モンスターはその凶暴を少しも恐れない。
世俗から袋叩きにされるほど、モンスターは自らの内の美しさに気づく。
経験から来る忍耐力と呼ぶべきか、余裕と呼ぶべきか、叩き返さない美徳に気づく。
報われない正義のために枯れていく花が、何も残さないことにむしろ価値を見る。
博愛のためなら死にむかってでも突き進める人の心の強さを知る。
負け戦こそ戦だと知る。
社会が弱者を搾取する装置であるために、努力論や自己責任論という幻想は、不可欠な本質だ。
そして、世俗的な価値観なるものは、多かれ少なかれ、その幻想の一部でしかない。
人々が誇る価値も、恥じる価値も、そのほとんどは、その幻想の一部でしかない。
ならば、その外側で生きることには誇る価値があって、恥じるべきではない。
モンスターは、人々が願ってきた願望の具現だ。
どんなに貧しい人の尊厳も、決して軽んじることをしない存在。
どんなにブサイクな女の外見も、決して軽んじることをしない存在。
自分の幸せが確保されているからではなく、死によって脅迫されてもそれをしない存在。
そんなものがもし存在するなら、現実を生きている人間ではなく、モンスターとしてしかありえない。
ある日、正義のイカヅチが権威を瓦解させることは、民衆が日々願ってきたことの実現にすぎない。
持てる者の血の雨が降ることは、これまでに絞られた血の代償にすぎない。
モンスターには、私欲がない。
よって罪がない。
そんな博愛しか持たない生き物が、もしも現実に生まれてしまえば、現代社会はその生き物を、無理に「罪」だと定義せざるをえない。正当性など証明せずに必死で始末せざるをえない。
それが、この装置の素顔。




