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時の流れが鈍磨していくような奇妙な感覚がした。コンマ一秒が永遠に引き延ばされていくような感じがして、世界が静止したように動きを止める。そんな異様な空間で一兎は闇の声との問答を重ねる。
き、君は……神様だって?
【そうだよ。とっても悪い神様だ。そんなことより、ほら、あの円筒缶を見てご覧。あれは『脳缶』と呼ばれている代物だ。女騎士が『来たるもの』と呼んでいるあの生き物は、生きたまま人間の脳みそを取り出して、あの脳缶に入れて保存する技術を持っているんだ。そして気に入った人間の脳みそは永遠の友として扱い、気に入らない人間の脳みそには永遠の苦痛と辱めを与えるのさ。あの女騎士の末路はどっちだろうねぇ、ふふふ……】
そんなっ……。一兎はおぞましさに絶句する。
【さて、このままでは女騎士様の脳みそ摘出ショーが始まってしまうわけなんだけど、君はどうするんだい? このまま指をくわえて見ているのかい? それとも彼女を助けたいと思うのかい?】
助けたいに決まっている!
【そう言うと思ったよ。君は警察官のお父さんみたいに『人助け』ってやつがしたいんだよね。本当は】
……どうして、父さんのことを知っているんだ。一兎は動揺する。
【ふふふ……、ボクは何でも知っているんだよ。神様だからね。でもねぇ、君のお父さんは『人助け』の仕事ばかりしていた結果、君のお母さんは家から出て行っちゃったじゃないか】
ぐっ……。一兎の胸にその言葉が突き刺さった。
【尊敬していたお父さんのせいでお母さんが居なくなってしまった。そのことで君は何も信じられなくなったんだろう? 良い事をしても報われないかもしれない。そう思うと怖くなって何もできなくなってしまったんだろう? でも、それでいいんだよ。誰を助けても、何を選択しても、大いなる運命の前では意味なんて無いんだ】
闇の声が発するその言葉は、一兎自身の言葉でもあった。
どうせ無駄なんだ。できるはずがない。やる意味がない。何もできやしない。
【それに、君は今ただの自転車じゃないか。自転車なんかに何ができるのかな?】
いちいちもっともなことだ。……だがしかし、それならば……。
……確かに僕には何もできないかもしれない。でも、君なら、あなたなら、神様なら、どうにかできるんじゃないですか?
一兎がそう言うと、姿の見えない闇がほくそ笑んだような気がした。
僕はもう死んでしまっているからどうなってもいい。だけど、ウェンズデイさんだけは助けてあげてください!
一兎は必死の思いで神に願う。それが邪悪な神様なのだとしても。
【ふふふ、そんなにあの女騎士に惚れ込んじゃったのかい? 確かにあの水の鎧は扇情的でエッチだったけどさぁ。本当に君はスケベだねぇ】
そ、そ、そ、そんなんじゃない……です!
【そうかぁ、怪しいなぁ……まぁ、いいだろう。契約成立だ。でも、戦うのは君だ。あの女騎士を救うのは君なんだよ】
え……? でも、僕には何もできなんじゃ……。
【何もできない? 冗談はやめてくれよ。君には奪い取った力があるじゃないか】
奪い取った……力?
【今回は特別だ、君の力の使い方を少し見せてやろう】
闇の声がそう言うと、両立スタンドで浮いている一兎の後輪が、止まった世界で音もなく動き始めた。
車輪が回る。回る回る回る。
青白い清浄な輝きが一兎に、自転車に満ちあふれていく。
回る回る回る回る。
火花を散らすほど後輪が高速回転し、両立スタンドが傾き、倒れた。
世界が、時が動き始める。
後輪が地面に接地した瞬間、大量の砂塵が舞い上がり、いななく馬のように前輪がもちあがった。そして、猛スピードで一兎は、自転車は走り出した。
ほんの一瞬の出来事だった。
自転車は猛進し、激突、あの怪物を容赦なく轢き飛ばしていた。
甲虫や甲殻類の外殻がひしゃげたような、グチャリという不快な音がした。怪物がもんどりを打って数メートル吹き飛んでいく。
こ、これが、僕の力?
【違う。これは君が奪い取った力だ。後は自分で頑張って使いこなすんだね】
闇の声がそう答えると、プツリとその存在感が一兎の内から消え失せた。
無人で走る自転車は円を描くように旋回し、うずくまるウェンズデイの元へと駆けつける。
ウェンズデイさん! 大丈夫ですか。
一兎がそう言いながらウェンズデイに近づくと、彼女もまた青白い光に包まれ始めた。雷撃によって痛めつけられた肉体があっという間に再生していく。
「うっ……ん……これは、癒やしの水の力?」
ウェンズデイが活力を取り戻した様子で起き上がりながらそう言った。そして、すぐそばに居た一兎のハンドルに触れる。
何かが正常に繋がったような奇妙な感覚がした。
「やはり、君の中から、一兎から水の魔力を感じる。これは、猟犬に奪われた水の鎧の魔力なのか?」
ウェンズデイは確かめるようにそう呟いた。
闇の声も【奪い取った力】と言っていたが、一兎の中から溢れるこの力は、水の鎧がもっていた本来の魔力なのだろうか。
「闇の声……だと? いや、いまは細かい詮索は後回しだ。やつが起き上がるぞ」
一兎に跳ね飛ばされた怪物が、ガクガクと震えながら起き上がってきた。依然その表情は読み取れないが憤怒に燃えているのが雰囲気でわかった。
「やつは退く気はないみたいだな。一兎、君の力を借りるよ」
そう言ってウェンズデイは一兎に、自転車にヒラリとまたがった。
え? えぇ? ウェンズデイさん?
一兎は突然の出来事に驚く。一兎のサドルに柔らかいモノが乗っている感触がした。
「乗り方はこれであってるな。君と私の二人で、あの怪物を倒すぞ」
一兎のハンドルを握り締め、ウェンズデイがそう言った。
そんなことが、僕にできるの? 一兎は不安そうな声で尋ねる。
「できるに決まっている。私と君なら」
ウェンズデイは迷い無く答える。清らかな水のように澄みきった、純粋な信頼が感じとれた。
ウェンズデイは一兎を信じてくれている。ならば、一兎も自分の力を信じるべきだろう。一兎はそう思った。
……わかった。一緒にあいつを倒そう。
一兎は覚悟を決めて車輪を回転させる。すぐさま車体が加速し、風を切り裂き、怪物との距離を詰めていく。
怪物は折れ曲がった腕を無理やり伸ばし、雷撃銃を一兎達に突きつける。
閃光が真っ直ぐに放たれる。が、それはウェンズデイの展開する魔法の障壁『水幕』によって散らされ、霧散していく。
怪物が虫の羽音のような叫び声を発しながら、大きく空へと飛び上がった。
逃げたのだろうか? (いや、違う!)即座にウェンズデイからの念話が差し込まれる。
邪悪な翼を拡げて夜空に漂う怪物が、狂ったように雷撃銃を連射してきた。次々と打ち込まれる雷撃によって水のバリア、水幕が破られてしまう。
一兎は車輪をフル回転させて、なんとか落雷を回避する。
(やつも必死だ。私の水幕でも全ての攻撃を防ぎきるのは難しい。いったん距離をとって隙を探す。回避行動を任せられるか?)
……わかった。やってみる。ウェンズデイからのオーダーに一兎は答える。
正直なところ、一兎に自信はなかった。しかし、やるしかない。いや、やってみせるのだ。
一兎は自転車の動きとは思えない、慣性の法則を無視したようなジグザグ機動をして『来たるもの』の照準を狂わせる。ウェンズデイもそのデタラメな動きに対応して一兎を乗りこなしていた。まさに人馬一体、いや人車一体となっていた。
『来たるもの』が放つ雷の嵐のほとんどが的を外し、命中コースの攻撃もウェンズデイの水幕によって逸らされる。
そうやって怪物が連続して雷を放っているうちに、雷撃銃の銃身が赤熱化しはじめていた。酷使されたことで雷撃銃がオーバーヒートしかけているようだ。雷撃の連射にも明らかな隙間が見て取れるようになった。空に滞空していた怪物の体も、少しずつ重力に引かれて地面に近づいてきている。どうやら空を自由に飛び回ることはできないらしい。
その好機をウェンズデイは見逃さなかった。
「今だ! 突撃っ!」
ウェンズデイはそう叫ぶと一兎のハンドルから片手を離した。水の魔法により形成された長大な馬上槍がその手に出現する。
ウェンズデイの号令と同時に、一兎は敵に向かって迷い無く、真っ直ぐ突き進んだ。大地に車輪の轍が刻み込まれていく。
女騎士と自転車は、騎兵となり、一本の槍となって夜の荒野を駆ける。
いっけえええええええ! 一兎は心の限り叫ぶ。
空を舞っていた怪物の脚が地面に着いた。再び跳躍することも、雷撃銃による迎撃も間に合わない。明確な、致命的な隙が生まれる。
その瞬間を突き破り、清浄な水の槍が怪物を刺し貫いた。