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体長150cmほどの奇妙な生き物が、暗闇からヌッと顔を覗かせた。
その顔には目、鼻、口などは存在せず、見た目は入り組んだ突起物が浮かぶグロテスクな珊瑚礁の塊のようだった。体全体が海老や蟹のような赤い甲殻に覆われていて、鉤爪をもった細長い手足が何本も生えている。その複数の手足の一対で直立歩行しており、それ以外の鉤爪や腕で機械のような金属物を保持していた。コウモリや悪魔が持っているような膜状の翼が背中にあり、見る者を威圧するようにそれが大きく拡げられている。
そんな異形の怪物が一兎達の目の前に突如現れたのだ。
(『来たるもの』だ。この世界の外よりやって来た生物で、鉱物などの採取が目的らしい。好戦的な種族ではないし、こちからから不用意に手を出さない限り襲ってはこないはずだ)と、ウェンズデイからの念話が一兎に届く。
「来たるものよ、今すぐここから立ち去れ! この地は私の力で清められている。それ以上近づくと浄化の力で焼けただれることになるぞ」
ウェンズデイは怪物に警告を発する。
その言葉が通じているのかは不明だが、『来たるもの』と呼ばれた怪物は迂闊には近づいてこなかった。かといって立ち去る様子もなく、こちらを観察するように見ながら(目がどこにあるのかはわからないが、間違いなくこちらを見ている)周囲をうろついている。
ジリジリとした緊張感がさらに高まっていく。気味の悪い怪物を目にしているだけで一兎の心は掻き乱され、気が狂ってしまいそうだった。
(落ち着くんだ、一兎)
冷静なウェンズデイの言葉が一兎の心に響く。ウェンズデイは毅然とした態度で、怪物から目を逸らさずに立ち向かっている。その精神力に一兎は尊敬の念と安心感を抱いた。
ふと、怪物が立ち止まり、ウェンズデイ達に向けて一本の腕を差し向けてきた。その鉤爪状の手には金属質な装置が握られている。
そして、次の瞬間、怪物の手にある装置から閃光が放たれた。
同時に、いや、それよりも僅かに先にウェンズデイが動く。
女騎士が左手をサッとかざすと、瞬時に野球ボールサイズの水球が現れ、それが薄膜を展開してバリアのように広がった。
刹那の瞬間、雷撃と雷鳴と雷光が夜の闇に散っていった。
(雷撃銃――『来たるもの』が持つ武器で、自在に雷を放つことができる。水幕――水の魔法のひとつで、敵の攻撃を逸らす魔法の盾となる。私の水幕で敵の雷撃を防いだ。理由は不明だが相手は交戦を望んでいるようだ)
ウェンズデイの知識と思考が一兎に流れ込んでくる。どうやら水の魔法であの怪物の攻撃を防御したようだ。目にも止まらぬ早業だった。
「戦うつもりならばしかたない」
ウェンズデイがサッと伸ばした右手に、聖なる水で構築された魔法の剣が出現する。それはロングソードと呼ばれるようなタイプの長さの剣で、透明感のある輝きを発していた。
「いざ、参る」
放たれた矢のようにウェンズデイは敵に向かって駆けてゆく。マントが風にたなびき、水の鎧とウェンズデイの白い素肌が夜に煌めいた。
『来たるもの』が雷撃銃をウェンズデイに向け、再び雷を撃ち出す。
夜の闇の中にストロボを焚いたような閃光が走るが、ウェンズデイはその攻撃を水の障壁『水幕』で受け流しつつ、肉迫していく。
あっという間に女騎士の剣の間合いに入った。怪物は雷撃銃を持っていないほうの鉤爪を前に突き出し、ウェンズデイを迎撃しようとする。
「はああぁっ!」
ウェンズデイの剣が一閃する。怪物が攻撃のために放った鉤爪を、その腕ごと容易に切断したのだ。怪物が苦悶の叫び声を上げる。
「滅せよ!」
間髪入れずにウェンズデイはもう一歩大きく踏み込み、確実に怪物の首を斬り落とすような鋭い一撃を放った。
が、しかし、怪物のキチン質のような外骨格に届く直前、水の剣が突然消え失せてしまった。
「何っ!」
ウェンズデイの心からの驚愕が一兎にも伝わってくる。
表情すら掴めない怪物がニタリと笑ったように見えた。その手に持った銀色の雷撃銃を至近距離でウェンズデイに突きつける。
容赦のない雷撃がウェンズデイの身体を貫いた。
「ぐぅううぅぅぅ……っ!」
ウェンズデイは痛みを無理やり飲みこむような苦悶の声をもらす。女騎士の身体がガクガクと痙攣し膝が折れ、その場でうつ伏せに倒れこんだ。
ウェンズデイさん!
一兎は悲痛な思いで呼びかける。
(はぁ、はぁ、大丈夫……だ。何とか、生きて……いる。しかし、何故だ? 水の魔力が急激に弱まっている。『水剣』の維持どころか……身体の回復すら、ままならない……手足が痺れて……動けないっ!)
ウェンズデイの弱々しい思念が返ってきた。
怪物はどこか満足げな足取りで、ウェンズデイの周囲をヒタヒタと歩き回る。ウェンズデイは地べたであがき、もがき、何とか立ち上がろうとしている。震える手足でどうにか四つん這いの体勢をとった。
怪物がピタリと足を止める。そして雷撃銃をウェンズデイに向けた。
再び雷が走る。
「いっ……ぎぃ! ……ゃぁああああああああああああっ!」
ウェンズデイの身体が雷撃に嬲られビクビクと痙攣し、再び地面に倒れ伏した。
(あ、あ、あぁ……)
ウェンズデイからの届く念話が衰弱していくのが感じられる。
や、やめて、やめてください、お願いしますから!
一兎は必死にそう懇願するが、その声は音となって発せられることはなく、怪物に届くこともなかった。
来たるものは満足そうに頭部を戦慄かせると、腹部附近の腕で抱え持っていた銀色の円筒型の物体をウェンズデイの頭の傍に置いた。これ以上ウェンズデイに何をするつもりなのだろうか。
地べたでうずくまる女騎士に怪物の鉤爪が迫る。
一兎は怪物の悪行を止めたかったが、どうすることもできなかった。今の一兎はただのママチャリ、自転車にすぎないのだ。怪物に対抗するどころか、自分の意思では身動きひとつできない。
自らの無力さを噛みしめさせられていたその時、一兎の中で『声』が聞こえた。
【おやおや、このままでは女騎士の脳みそが取り出されてしまうぞ】
その声はウェンズデイの声では無かった。闇の底から響いてくるような妖しい声だった。
だ、誰なんだ? この声はいったい? 一兎は心の内に問いかける。
【私は……いや、ボクは神様さ】




