4
無限に引き延ばされて、無限に押しつぶされていく。
混沌の空間。冷たい輝き。
飢え。乾き。
そして……何かが居る。見る。見返す。気づかれた。逃げなければ。どうやって?
車輪を回す。回す。回す。回し続ける。そして……。
一兎はハッと気がつく。
時刻は再び夕暮れに巻き戻っていた。黄昏時の荒野に一兎は居た。
無意識に漕いでいた自転車を止め、一兎は地に足を着ける。乾いた大地がパリパリと弾ける音がした。
自転車に乗ったまま一兎はキョロキョロと周囲を見渡す。枯れた細い木々がポツポツ立っているのが見え、灰色の空が広がっていた。
それ以外には何も無い……いや、荒涼とした背景に同化するような灰色の長いマントを着た何者かが、ポツンと一兎の近くに立っていた。一兎は驚いてビクリと体を震わせる。
「■■■■■■■」
マントの人物が声を発した。何と言ったのかは聞き取れなかったが、透き通るような綺麗な声だった。マントに付いているフードを目深に被っているので容貌はハッキリとしない。声からして女性のようだが身長は一兎よりも高く、姿勢良くピシリと立っている。
一兎は不審そうな、怯えたような顔でマントの人物を見返す。
「■■、■■■■」
マントの人物が何かを言いながらフードを脱ぎ、その素顔が露わになった。
プラチナブロンドの長い髪。決意に満ちた青い瞳。澄み渡るような白い肌。とても整った顔立ちの美女だった。
歳は一兎より上の二十台前半ぐらいだろうか。声からして女性だと言うことはわかっていたが、ここまで流麗な美人だとは一兎は思わなかった。
思わず思考が停止し、一兎はただただその美貌に見惚れていた。当人はそんな一兎の様子には気づかない様子で再び声を発した。
「■■■■■■■■■■■■■■■■?」
何かを一兎に問いかけているような様子だったが、やはり一兎はその言葉を聞き取ることができないでいた。日本語では無い。かといって学校で習っている英語でもない。テレビや映画などでも聴いたことのない、一兎が初めて聞く言葉だった。
一兎はいつものように首を振って答える。マント姿の女性は困ったように首をかしげた。お互いに顔を見合わせたまま途方に暮れていた。
その時、酷い悪臭が一兎の鼻を突いた。頭痛を伴うほどの酷い匂いだ。
マント姿の女性が驚くような素早さで飛び退く。そして足幅を広げて、わずかに重心を落として一兎を、いや、一兎の背後を注視している。
一兎は鼻と口を手で押さえながら、恐る恐る背後を、悪臭が漂ってくる方へと振り返る。
数メートル離れた場所に、突如として異形の暗闇が生まれ出でようとしていた。
それは地面に転がっている尖った小石の『角』から煙のように吹き出していた。それはあらゆる世界の不浄が凝り固まったような悪臭を発していた。
それは黒く塗りつぶされた闇でありながら実体を持ち、強靱な四つ足で大地をつかむ獣のような姿をしていた。
この世ならざる存在を目の当たりにしたショックで、一兎は自転車に跨がったまま動けなくなってしまった。呼吸が荒くなり、足が震える。
一時的狂気に陥って立ちすくむ一兎の目の前で、怪物の姿がボコリと変形した。植物が芽を出したかのように、闇の固まりから細長い管のような物が伸びていく。それはまるでヘビのように鎌首をもたげると、その先端が一兎に向けられた。
闇の塊から伸びた触手に狙われている、という事を一兎は理解した。明確な敵意が闇の怪物から放たれているのだ。不快な匂いはさらに強まり、その匂いで胃が痙攣しそうだった。それはまさに死の匂いだった。
触手が一兎に向けて放たれる。
もう駄目だ。一兎は恐怖に押し潰されて思わず目を閉じる。
風を切り裂くような音がした。続いて、ギイィイン! と金属が引き裂かれるような音が響く。
予期していたような痛みは訪れなかった。
一兎は怖々と目を開く。飛びこんできたその光景に、一兎は目を見開く。
あのマント姿の女性がいつの間にか一兎と怪物の間に割って入っていたのだ。
その彼女の腹部に怪物の触手が突き刺さっていた。彼女の口から空気を無理やり吐かせたような苦悶の声が漏れ出る。彼女が身を挺して一兎をかばったのだ。
怪物は満足そうな唸り声をあげながら、獲物に突き刺した触手を脈動させる。すると、マントの女性が体を震わせながら悶え苦しみ始めた。見えない何かを吸い上げられ、怪物に捕食されてしまっているようだった。
凄惨な光景だった。しかし同時に「この場から逃げ出すチャンスなのではないだろうか?」とう非情な考えが一兎の脳裏に浮かんだ。怪物が『食事』に夢中になっている今なら逃げられるかもしれない。
一兎は震える足をそっと自転車のペダルに乗せる。マントの女性を餌食にする怪物から目をそらし、歯を食いしばる。
一兎は選択する。
小さな石が怪物に投げつけられ、地面に落下して音を立てた。
不浄な怪物が動きを止め、その石を投げつけた者が居る方向を見る。
その穢れた視線の先には、自転車にまたがった一兎が居た。
一兎は、怪物を呼び寄せるために大声を上げた。今にも恐怖に飲みこまれそうで足が震える。それでも必死に声を上げた。怪物の注意を引きつけるために。怪物に囚われたマントの女性を救い出すために。
怪物の触手が蠢き、捕まっていたマントの女性がドサリと地面に投げ出される。そして怪物はゆっくりと向きを変えると、強靱な四つ足で大地を蹴り、一兎に向けて猛然と走り出した。
一兎は溢れ出そうになる悲鳴を噛み殺し、自転車のペダルに足をのせ、必死に漕ぎ出す。一兎を乗せた自転車が走り出した。
生存を賭けた命がけのレースが始まった。
……が、一兎は結局そのレースに敗北してしまったのだ。
必死に走り続けたが、いつの間にか怪物に追いつかれ、喉に食いつかれ、そして今、崖から放り出されようとしている。
一兎の短い走馬燈が終わりを告げた。衝撃が走り、身体が宙に浮くような感覚を覚える。
『一兎』と『自転車』と『猟犬』はもつれ合うように崖下の暗闇へと堕ちていった。