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教室机の上に一枚のプリントがあった。
灰色にくすんだその再生紙には『進路希望調査票』という題が掲示されている。
一人の男子生徒が、その用紙に自分の名前を書き込んだ。
「丹羽 一兎」それが彼の名前だった。
一兎はプリントの続きに目を走らせる。高校卒業後の進路希望を書かなければならないのだが、一兎の手はピタリと止まって動かなくなってしまっていた。
一兎以外誰も居ない教室で、時計の針の進む音がカチカチと響く。部活に精を出す生徒たちの元気なかけ声が遠くから聞こえてきた。一兎は憂鬱そうな顔で窓の外を眺める。太陽は傾きかけていて、日の光は柔らかく溶ける前触れを見せていた。
その時、一兎の居る教室のドアがガラリと開かれ、若い大人の女性がひょっこりと顔を出した。
「丹羽くん、もう書いたかな?」
眼鏡をかけた浅黒い肌の女性はそう言いながら一兎のそばにやってくる。少し着崩したスーツ姿で、温和そうな雰囲気の女性だった。長い前髪を左右に分けており、少しウェーブのかかったセミロングの髪が、差し込む夕日に照らされて輝いている。
一兎は眼鏡の女性にチラリと視線を送ると、ゆっくりと首を振った。
「うーん、そっかぁ。病気で休職中の田辺先生からも頼まれているし、できれば今日中に書いてほしいんだけどね」
眼鏡の女性はそう言って少し困ったような顔をする。一兎は居心地の悪さを感じて顔を伏せた。
「よし、先生も一緒に考えてあげるから、もう少し頑張ろう!」
女教師は微笑みながら、グッと両手に力を込めて一兎を励ます。新人教師の彼女の首からは名札がつり下げられており『佐藤』という名字が記されていた。
臨時の担任も務めている佐藤は、一兎の前の席に座り、向かい合って進路相談を始める。
「田辺先生がつけていた内申書を持ってきたんだけど、ふむふむ……。丹羽くん、成績は全体的に悪くはないね。得意な科目とか好きな科目はあるの?」
一兎は首を振って答える。
「そっかぁ。えっと、たしか部活には入ってないんだっけ? ボランティア活動とかの課外活動も、特になしと」
佐藤は手元の書類を見ながら次々と一兎に質問していく。
趣味、特技、やったことのある習い事、そして……。
「彼女さんとかはできてたりするのかな?」
一兎は今までと同じように暗い顔で首を振って答えた。
「あ、あははは、なんかごめんね」
臨時の若い女担任は勢いでボケたつもりだったようだが、それほど場は温まらなかった。
「えっと、えっと・・・・・・それじゃあ、小さな頃の将来の夢は?」
一兎は少しだけ逡巡するように固まった。が、すぐに首を振って答える。
「そっかー。うーん」
佐藤は困ったように腕組みをした。一兎は居心地悪そうに椅子の上で小さくなる。
「一兎くんは『自分のやりたいこと』が見つけられていないんだね。それともやりたいことが決められないのかな?」
佐藤は一兎との間にある机に両肘をついて軽く手を組むと、一兎をのぞき込むように顔を近づけてそう囁いた。その視線はどこか熱っぽく、妙な色気を感じさせる。女教師の豊かな胸が机の上に乗りあげ、ブラウスの襟元が広がり、健康的な小麦色の柔肌がちらりと覗き見えた。
一兎は佐藤の艶っぽさにオドオドとして思わず顔を伏せる。
そんな一兎の様子を気にせず、佐藤は一人で言葉を続ける。
「人間は生きていると、色んな選択に遭遇するよね。選択肢が膨大にあるときもあれば、極端に少ないときもある。選んだ結果もすぐにはわからないかもしれない。だから悔いの残らない決断をする必要がある・・・・・・っていうのがよくある意見だね。でもね、そもそも人間の決断なんかで結果が、運命が本当に変えられるのかな? 大きな川に小石を投げ込んだところで、その流れは変えられないんだよ」
佐藤は立て続けにしゃべり続ける。眼鏡の奥の瞳が狂気的な冷たい輝きを帯び始めた。
しかし、佐藤の胸元ばかりをチラチラ見ていた一兎は、その様子にまったく気づかなかった。
「まぁ、要するにそこまで深く思い悩むことないってこと。なるようになる、ケセラセラってね」
そう言って佐藤はニパーっと笑って体を起こした。先ほどまでの虚無的な表情は跡形もなく消え去っていた。
「おっと、結構話し込んじゃったね。とりあえず近場の大学にでも進学して、そこからやりたいことを見つければいいんじゃないかな」
一兎は佐藤に言われるがまま進路相談のプリントに、進学希望の大学名を書き込んでいった。とてもスムーズに事は運んでいく。流れに身を任せるというのはやはり楽だった。
日はさらに傾いていき、教室にまぶしい夕日が差し込んできた。
プリントを書き終え帰り支度を済ませた一兎は、佐藤に軽く頭を下げると教室から出て行こうとした。
「あっ、そうそう、この進路希望調査票で三者面談もするんだけど、一兎君のお父さんは来られそうかな?」
その質問に一兎は振り向き、黙って首を振って答える。
「そっかぁ。一兎君のお父さん、警察の刑事さんだもんね。やっぱり忙しいかぁ……。来月にある三者面談も臨時担任の私が担当することになりそうなんだよね。ホントにこの学校って人手不足なんだなぁって思うよ。新人の私も大忙しだよ」
佐藤は椅子に座ったまま、ストレッチするようにグッと身体を伸ばしながらそう言った。ストッキングに包まれた彼女の足が、黄昏の日を浴びて黄金色に輝いて見えた。
「三者面談の時はまた一兎君と二人っきりだけど、今日みたいにいっぱい、楽しいお喋りしようね」
そう言って女教師は妖艶な笑みを浮かべる。
一兎はわずかに顔を赤らめると、勢いよく頭を下げて教室から出て行った。
教室の扉が閉じられた後、しばらくして女教師は椅子からユラリと立ち上がる。そして誰ともなくつぶやく。
「一兎くんはかわいいねぇ。あの子こそ、ああいう少年こそ今回の物語にはふさわしい」
女教師の貌に夕陽が当たり、眼鏡が光を反射してその奥の瞳を隠した。口の両端が引き裂かれたようにつり上がっていき、異形の笑みを浮かべる。
そして、グルリと顔を傾けると女教師は『こちら』を見た。
「さぁ、さぁ、さぁ、さぁ、物語の始まりだ。優柔不断な少年と、正しい世界を求める女騎士様の物語だ。その幕を今、開こうか!」
芝居がかった台詞を言い終えると、女教師はグニャリと姿をゆがませ、音もなくその場から消え失せた。