10
朝がきた。
古ぼけたフィルターを通したような、薄ぼんやりとした太陽が昇ってきた。ウェンズデイが言うには、この死にかけた最果ての世界では太陽はいつもこんな調子らしい。しかし、そんなくすんだ太陽でも、夜の闇を追い払ってくれるだけで充分に有難かった。
昨夜討伐した『来たるもの』という怪物の死体は、数時間もたたないうちにドロドロに溶けていき、完全に消えてしまっていた。それがまた不気味で恐ろしかったのだが、太陽の光がその恐怖を洗い流してくれるような気がした。
座りこんだまま束の間の休息をとっていたウェンズデイは、昇ってきた朝日に祈りを捧げる。そして焚き火の始末をすると「少し試してみたいことがある」と言って、右手に水の剣を作り出し、一兎から少しずつ離れていった。その様子を一兎は見守る。
ウェンズデイが一兎から五、六メートルほど離れたところで、水の剣は急に形を失い、液体となって地面に垂れ落ちた。
それからウェンズデイはその場で他の水の魔法をいくつか試してみたようだが、全て不発に終わったようで何も起こらなかった。
「ふむ、なるほど。猟犬に奪われた水の鎧の力が、やはり君の中にあるみたいだ。君の近くに居れば私もその力を引き出せるが、ある程度距離が離れてしまうと急激に力が出せなくなって、うまく魔法が使えなくなるらしい」
ウェンズデイは一兎の側まで戻ってくると、マントの下で腕を組み、思案しながらそう言った。昨夜の戦いでウェンズデイの水の剣が急に力を失ったのも、一兎との距離が離れてしまったことが原因だったのだろう。
どうして水の魔力が自転車の一兎に宿っているのか? その原因は不明だが、闇の声が【奪い取った力】と言っていたように、ウェンズデイが元々持っていた力を、はからずとも一兎が奪い取ってしまったような形になっている。その事実に一兎は罪悪感を覚えた。
「君が気に病むことじゃないさ。それに水の鎧の核はまだ私の中にある。時間はかかるだろうが少しずつ力を取り戻していくはずだ」
一兎の考えを読んだウェンズデイがそうフォローする。
「君と私がこうして意思疎通できるようになったのも、同じ水の力を介した繋がりができているからなのだろうね」
ウェンズデイはそう結論づけて納得したように頷いた。
「ところで、君の言う闇の声とはいったい何なんだい?」
女騎士のその質問に、一兎は言葉を詰まらせた。
実は一兎自身、闇の声というのが何だったのか、よく思い出せなくなっているのだった。その声と何か大事な話をしたような気もするし、そうではなかった気もする。どんな声だったのか、男の声だったのか、女の声だったのか、今ではそれさえもはっきりしない。
【奪い取った力】
一兎はもうその言葉しか覚えていなかった。
「ふむ、そうか。だが、もしもまた何か怪しい声が聞こえてきても、相手にせず、心を許さないほうがいいだろう。今この世界では多数の邪悪な存在が、破滅へと誘おうと手招きしているのだからね。……ところで、だ。ここまできて卑怯な誘い方になるかもしれないが、昨夜と同じ嘆願をさせて欲しい」
ウェンズデイはそう言って一兎の前にやってくると、厳かに片膝をついて跪いた。
「一兎。君の力を貸して欲しい。私と一緒に、世界を再起動する旅をしてくれないか?」
ウェンズデイが再び一兎を、自転車を旅に誘う。世界を救う過酷な旅へと。
「旅を続けるには、君に宿った水の魔力が私には必要だ。そんな打算的な理由があることは否定しない。だが、昨夜君と共に戦って私にはわかったんだ。私のパートナーは君しかいない。君と力を合わせれば世界を救うことができる。そう確信したんだ」
ウェンズデイは包み隠さず、思いを伝える。その言葉に嘘は無い。ウェンズデイと心が繋がっている一兎にはそれがわかった。
真っ直ぐに向けられる彼女の眼差しを正面から受け止める自信が、今までの一兎には無かった。昨日まではぼんやりと平凡に生きていたのだ。そんな自分が世界を救うなんて大それたことができるとは思えなかった。
一陣の風が荒野に吹きつける。
一兎は改めて運命を選択をする。
その選択に意味など無かったとしても。
一兎は自らの意思で選び取る。
僕もウェンズデイさんと一緒に旅をしたい。
一兎はウェンズデイをしっかりと見て思いを伝える。その言葉には嘘は無い。一兎と心が繋がっているウェンズデイにはそれがわかった。
だが……それ以上のこともウェンズデイには伝わっていた。伝わってしまった。
突風に煽られてさらけ出された露出過多の水の鎧をガン見しながら、一兎はそう言っていたのだ。
「ありがとう、一兎。……君の邪な視線は気になるが、今は不問としておくよ」
ウェンズデイは風で捲れたマントを正しながら、じっとりとした半目で自転車を睨みつつそう言った。
あっ、いやっ、そのっ! 決して変な所を見てたわけじゃなくて! あのっ! えっと、えっと……。
少々いかがわしい想いをウェンズデイに読み取られてしまった一兎は、あわてふためきながら言い繕う。
「こほんっ、それじゃあ、また君に乗らせて貰うけど、いいかな?」
ウェンズデイは咳払いをして一兎の思考を遮るとそう言った。
ど、どうぞ……。
一兎が少し緊張した声で答えると、女騎士は自転車のハンドルを握った。滑らかな肌触りと、信頼できる力強さを一兎は感じ取った。
そしてウェンズデイが一兎に跨がる。
女騎士の柔らかさとぬくもりが一兎のサドルに伝わってくる。昨夜の戦いの最中は必死だったので気にする余裕が無かったが、今はその感触が強烈に意識された。もしも自転車が頬を赤らめることができたのなら、真っ赤になっていたことだろう。
「……また変なことを考えてはいないだろうね?」
一兎の心の動揺を感じ取ったウェンズデイが、再びジト目でそう声をかける。一兎は必死にごまかすように、な、な、な、なんでも、ないです、と返した。
「ふむ……では、まずは君と出会った場所まで、あの門の所まで戻ろうか。旅のルートはそこからになる」
ウェンズデイはそう言って、ハンドルを巡らせて一兎の進行方向を定める。
そして、しばらく間が空いた。
「……? どうした? 動いてもいいぞ?」
ウェンズデイがきょとんとして訊ねる。
……えっと、やっぱり、動けないみたいです。一兎は申し訳なさそうに答える。
「なんだって? 昨夜は君が自分で車輪を動かしていたではないか」
確かにそうだが、今は一兎の意思ではピクリとも動けなかった。昨夜のような魔法の力は出せそうにない。
「ふむ……どうやら君の中にある水の魔力を、君自身がまだうまく使いこなせていないようだね」
一兎は意気消沈した様子でその問いに肯定する。自転車は乗っている人がペダルを漕がないと動かない。そんな当たり前のことを一兎は改めて思い知った。
「私も水の鎧の力をしっかり使いこなすには、相当な訓練が必要だったよ。なに、心配することはない。君も少しずつ魔法のコツを掴んでいくはずさ。しかし、この乗り物は本来人力で動かすものだったか。確か君もこの、ぺだる? とかいうのを漕いで車輪を動かしていたね。よし、私もやってみよう」
ウェンズデイは一兎を励まし、そして自分の足で自転車のペダルを漕ごうとするが、すぐにバランスを崩してよろめいてしまった。
「な、中々難しいな。だが、すぐに君を乗りこなしてみせるぞ。私はどんな凶暴な馬でも乗りこなしてきたのだからな!」
百戦錬磨な女騎士とはいえ、自転車を漕いで乗るにはまだまだ練習が必要なようだ。
女騎士は何度も失敗しながら、自転車をヨタヨタと進ませていった。
そんな不器用な旅立ちを、遠くから見つめる三つの眼があった。その三眼は燃えるように輝いており、闇が凝縮されたような不定形の体を持っていて、切り立った崖の縁で楽しそうに揺らめいていた。その闇の背後には数十体もの『来たるもの』が控えており、神を崇めるようにひれ伏している。
【ふふふっ、先が思いやられるね】
『這い寄る闇』が笑いながらそう言った。
こうして一兎は騎士の乗り物として旅を始めたのだった。
この物語は「ジャンプ小説新人賞2020バディもの部門」に投稿(落選済み)した短編となってますので、ここで完結となります。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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