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彼は必死に自転車のペダルを漕いだ。呼吸は荒く、短く、喉が喘いだ。
恐怖に取り憑かれて震える彼の足は、今にもぐにゃりと折れ曲がってしまいそうに思えた。自転車全体が危なげにフラフラと揺れている。
グルグルと自転車の車輪が回り、ゴロゴロと乾いた大地を回す。
彼は自転車を漕ぎながら背後を振り返った。起伏の激しい荒野が夕闇に溶け込みそうになっているのが見える。朽ち果てそうな草木が、ひび割れた地面にしがみつくように点々と生えている。風はなく、動く物の気配は無い。死んだような世界がそこにはあった。
彼は一瞬思い悩むような顔をすると、再び前を向いた。彼が乗る自転車の進む先もまた、無人の荒野が広がっており、ところどころに切り立つような崖がある。自転車が走りやすい場所を選んで走ってはいるが、ハンドル操作を誤ればあっという間に悪路に迷い込み、最悪崖下へと滑落してしまうことだろう。
今にも消えてしまいそうな夕陽に向かって、彼と自転車は走り続けていた。そうすれば夜の闇から逃れられると信じているかのように。
彼はもう一度背後を振り返った。先ほどと変わらない、同じ景色が目に映る。
張り詰めていた息を絞り出すように吐き出すと、彼は大きく鼻から息を吸った。
その時、酷い悪臭が彼の鼻を刺激した。汚染された、吐き気を催す匂いだ。
彼の目が恐怖に見開かれると同時に、その喉元に『何か』が食らいついた。
黒いブヨブヨとした不定形の、悪臭を放つ『何か』が強靱な力をもって、彼の喉、いや、首ごと掻き切ろうとしているのだ。
彼は悲鳴を上げようとしたが、それすらできなかった。ゴボゴボという不快な音が耳の奥で鳴り、吐き気と共に濃い血の匂いと味が、喉奥からせり上がってくる。
謎の怪物に命を奪われそうになっている間も、スピードが乗った自転車は愚直に進み続けていた。その先には断崖があり、奈落のような暗闇が待ちかまえている。
彼の喉から大量の血が溢れ出し、体が冷たくなっていく。それと同時に、恐怖に囚われていた彼の思考が妙に冷静になっていった。
死に際に走馬燈を見るというのなら今がその時なのだろう。他人事のようにそんなことを考えていた。
ならば何を思い出すべきか。彼はその短い人生を振り返ろうとする。
憧れていた父の背中。突然消えた母。灰色の学校生活。
他にも色々なことが彼の頭に浮かんでくるが、やはり一番記憶に焼き付いているのは、今日の出来事だろう。
今日、彼は運命の選択に出会った。