『ファインダー越しの君』
記憶だけじゃ足りないんだ。確かな"記録"が欲しくなっていた。そうして、俺はカメラを手にした。
最近、俺はカメラが趣味になりつつある。
就職して二度目にもらったボーナスで、俺はコンパクトデジカメを吉祥寺の某電器屋で仕入れた。自分で買っておきながら、その理由が特にわからなかった。ただ、無性に欲しかったのだ。学生の頃にやっていたジャズの影響もあるのだろうけど、楽器以外のものに俺の物欲のベクトルが向くなんて我ながら本当に不思議だった。
土曜日の朝、珍しく彼女より先にベッドから起きた俺は、すやすやと寝息を立てる隣の彼女を起こさぬよう、その愛らしい寝顔を四角いファインダーに捉える。ただの隠し撮りじゃないか、と自問したが、俺の本能も理性もその行動を生温く容認していた。
「ん…おはよ、ゆー」
ベッドの上で彼女が布団に潜りながら言う。俺は気づかれぬように慌ててカメラを所定の場所に置き、眠りを妨げない程度に、そっと優しく声を掛ける。半同棲をはじめてから、シンプルだった俺の部屋が次第に彼女のモノで占領されていくのを、日に日に増えていくハンガーの数で改めて感じた。俺の領域を日に日に浸食していくそれらは、雑然ともしていたが、それはどこか嬉しくもあった。
「おはよ。もうちょい寝てていいよ?」
一糸まとわぬ俺は、昨晩ベッドサイドに無造作に脱ぎ捨てたダークグレーのガウンを拾って袖を通す。3月とはいえ、木造アパートの朝はまだまだ裸では寒い。
「いや…起きる~」彼女はもぞもぞ言いながら、すぽんと布団から顔だけ出した。亀か。
「…寒いね」と辺りを見回す彼女。俺は「わかった、でも起きるならすぐ着ないと風邪ひくぞ」と言って、キッチンの冷蔵庫を開けた。一瞥したが、大して食材は残っていなかった。俺はシャツに手を伸ばし、よそ行きの格好に着替えはじめた。
「桜子、悪いんだが食材ないからいつものカフェ行こうぜ」俺は提案した。彼女は「…ん」とだけ答えて、ベッドの淵から手を伸ばし、自分の下着を布団の中に吸い込んで器用に纏い始めた。
阿佐ヶ谷の駅に程近いカフェで、俺たちは向かい合って座っていた。二人ともサンドウィッチのセットを頼んだ。俺は何気なくカメラを取り出し、料理と彼女が写るようにファインダーを覗く。
「なに撮ってんのよ」それまでぼんやり外を眺めていた彼女がこちらに向き直って怪訝な顔をした。「いや、旨そうだなと思って、これ」と俺は答えをはぐらかした。本当はナチュラルな彼女の横顔をメインで撮っているなんて言えない。
サーブされた朝食を食べ終えると、食後のコーヒーをいただく。彼女はブラック。俺はミルクというのがセオリーだった。
「相変わらずここは美味しいよね」満足げに彼女がコーヒーカップに口をつける。本当はこんなシーンも写真に撮りたいと思うのだが、彼女の許しは出ないだろう。
「んで、これからどうする?」彼女の言葉に、俺は「んー」と首を傾げた。
「これが特に何も考えてないんだな」悪びれもなく正直に答えた。
かつての付き合いたての頃なら、それこそあれこれプランも考えたが、最近はあまりしていない。俺が勝手に妄想で立てる数々のプランより、話し合って決めた方が早いからだ。
「桜子、なんか名案ない?」
「…うんにゃ、特にないわ。じゃあ、んー…吉祥寺行こっか?」
“思案を巡らす”を体現したように、顔をあちこちに向けながら、導き出た答え。
「いいと思うよ、行こうか」俺は彼女の言葉に優しく頷いた。
阿佐ヶ谷から吉祥寺までは、JR中央線でたったの3駅。そして、俺たちが共に学生生活と同じ部活を過ごし、恋をはじめた特別な場所でもあった。
中央線に揺られながら、本当は吊革に掴まった彼女のふいに見せるぼーっとした表情をカメラに収めたいのだけど、残念ながら3駅の僅かな間ではその隙は無かった。カメラを使えない代わりに、俺はその表情を記憶のファインダーに捉えた。
「行って何する?」そう彼女が荻窪と西荻窪の間を電車が走っているうちに聞いてきた。
「行こうってさっき言ったのはあなたでしょうに。俺と一緒でノープラン?」
俺は意地悪く聞いてみると、「イエス!」と悪びれもない笑顔が返ってきた。まあ俺としては彼女と一緒に居られれば、それだけでいいのだ。本当にもう…この屈託のない笑顔で、俺は初めて出逢った日から彼女に恋に落ちたのだ。恋に落ちて、あれこれあって、恋が成就し、ふたりの時間があり、今がある。今さらながら学生の時にカメラをはじめておけば、桜子をはじめ部活のみんなの練習風景とかライブとか、学科の仲間とのどうでもいい瞬間も取っておけたのにな、と今になれば思う。もっとも、当時は音楽と勉強に全力でそれ以外の可能性に気づかぬままだった。だけどそれはそれで、後悔はないのだ。
「やっぱ吉祥寺といえばここだよねぇ」
南口を出て、マルイの右脇の道を進む。途中のファミリーマートで酒を仕入れて、井の頭公園に向かう。途中、焼き鳥の日向屋が右手に見える。増築に増築を重ねた違法建築。くたびれた看板に俺は思わず「ちょっと待って」と言って、デシカメの電源を入れる。
「どうしたの?」彼女の問いに「写真撮らせてくれ」と俺。
とたんに「わたし嫌よ?」と警戒するような声が返ってくる。
「ちょっと待てよ。それは自意識過剰というやつだぞ。俺は日向屋を撮りたいだけなんだ」と弁明した。
「む…なら良い。手短にね」彼女が少し恥ずかしがっていたのを、俺は見逃さなかった。
ノーマルモードで1枚、モノクロで1枚、セピアで1枚。カメラの撮影モードを変えて計3枚をSDカードに収めた。仰角気味のいいアングルの絵が撮れたことに満足して、日向屋付近から始まる公園へのなだらかな階段をふたり手を繋ぎ、歩調を合わせ、並んで歩く。
井の頭公園の桜は、三分咲きといったところか。まだ花見客でごった返すには早い。これで再来週にはそこら一帯にブルーシートが敷かれて、足の踏み場もない程に人が溢れる。
ある意味、いいタイミングで来られたとひとり思っていた。
「桜はまだだねぇ」と彼女がひとり呟く。桜といえば、彼女の名前には”桜”の文字が入っていた。「やっぱり、4月1日に産まれた人間としては、桜に何か特別なモノを感じる?」
俺が聞くと、「そうねぇ、まあ、それなりにはね」と彼女は照れてみせた。うん、相変わらずかわいい。
「自分の名前の由来、ご両親に聞いたことある?」そう俺は彼女に尋ねる。
「両親から聞いた話だけど、わたしの産まれた病院の病室の窓から、綺麗な桜が見えたから…ってさ」
「そりゃずいぶんと場当たり的な命名な気もするけど?」
「一応、両親ともあれこれ名前の案は画数とかも気にして考えていたらしいよ。だけど、その病室から見えた桜がたいそう立派だったそうで。これはどうやら母さんからの提案らしく、父も思わず同意したそうな…というところまでは知ってる。ま、変なはなし”わたぬき子”にならずにすんでわたしは良かったと思ってるよ」
公園の中央にある大きな池に掛かる長い橋を渡りながら、少しくすぐったそうにはにかんで彼女はそう言った。ひとの名前の由来なんて、自分以外で初めて聞いたかも知れない。だけど、その名の理由を聞いて俺は大いに納得した。本音を言えば彼女のそのはにかみさえ、ファインダーに捉えたい。でも出来ないもどかしさを感じた。
「確かに、いくら誕生日とは言え”わたぬき子”は困るよなぁ」
「そう言うけどさ、ゆうは自分の名前の由来、知ってるの?」
唐突な質問に、俺は何だったっけ?…と記憶の引き出しをとたんに検索しはじめた。
「どうだったかな…。確か、親父は”優”の字は必ず入れたいって言い張ってたらしい。そしたらむかし死んだおふくろが、優しいだけではダメだ!と言ったそうだ。そんで強く在れという意味で”斗”の字が加わって今の俺の名前になったんだとさ。俺も親父からちょこっと聞いただけだから、作り話の可能性もあるし、どこまで本当なんかはわからないけどなぁ」
俺の言葉に、彼女はふむふむと満足げに頷く。そしてこう言った。
「そうして、ゆうは期待のままにご両親の名前どおりのひとになったわけか~」と優しく俺に笑いかける。橋の上をそよぐ風に揺れる黒髪に、この笑顔。思わずレンズを向けたくなる気持ちを抑えながら、「そうかい?」と聞いた。
「うん。他のひとは知らないけど、少なくともわたしにはそう見えるし感じてるよ。ゆうは優しくて、口数少ないけどきちんと意志を持って行動できるひとだと思う。そういう気遣いやフォローが出来るから、わたしはあなたを副部長に選んだんだ。間違ってなかったでしょ、あの人選」
真っ直ぐな瞳に何と答えてよいものやら。久しぶりに答えに窮して、俺は笑顔で取り繕うことで誤魔化すことしか出来なかった。
「ねぇ、ゆう。アレ乗ろう」と彼女。橋を渡り終えた俺たちの前に、ボート乗り場があった。「いいけど手漕ぎな。スワンは操作とビジュアル的に苦手なんだ」と俺は彼女の意に恭順して、受付でチケットを買った。
水面を渡る風は、まだ冷たい。俺はオールを手にひょいひょいとボートを漕ぎ出した。FRP製の座台がケツに痛いこと以外は、順調な漕ぎ出しだ。正面に座る彼女は、さっきのコンビニで仕入れた酒を早速呑み始めていた。
「あっ、ずるいぞ」と俺が言うと、彼女は「じゃあひとくちどうぞ、船長」と缶を差し出した。彼女のお気に入りのレモンチューハイだ。俺はぐびりとやると、元気がみなぎってくるような気がした。
左右のオールの力加減を微調整しながら船をするすると進めるうち、彼女が言った。
「前はあんなにこの街にいたのに、ボート乗ったのはじめてだよ。ゆうは?」
「俺もはじめてだよ。ここではね」俺はちょいちょいオールを動かして、池の端へと船を寄せる。「ふーん、そうなんだ。”ここでは”ね~」と含みのある彼女に、「別に他意はないぞ」と俺は念のため言っておいた。
「ほんと学生の時のこの街の記憶って、勉強か部活か日向屋だけでさ。それ以外に全く目もくれなかったから、何だか新鮮な気分」あたりを見廻して、彼女が言う。その言葉はそっくり俺にもあてはまる。
「なに、これからあれこれ知っていけばいいだけさ。俺は桜子よりかほんの少しこの街を知ってるし、ふたりで開拓していこうぜ」
彼女は「それもそうだね」と微笑んだ。
俺はオールをちょいと動かして、水面に突き出た桜の幹に近づいた。そして、カメラを用意する。三分咲きの桜とはいえ、撮っておきたかったのだ。本音を言えば満開の桜がいいのだが、贅沢は言っていられない。そうしてファインダーを覗く。今度はアングルを変えて、彼女を捉えるとそのまま少しカメラを下げて、ファインダーから目を離す。
「花見には早いな。2週間後にまた来ようか?」
「ちょっとやめてよ、冗談じゃない。あんな人でごった返すトコにわざわざこっちから行くなんて狂気の沙汰よ」
「そうだよなぁ。桜子は人混み苦手だもんなぁ…」
「おっ、さすがゆう。よーくわたしのこと分かってるじゃん!」と笑顔が咲く。
そんな風に話しながら、手元のカメラのシャッターを押したままにする。連写モードだ。完全に隠し撮りだが、こうでもしないと自然な彼女の表情を捉えることなんて出来ないと思った末の行動だった。無論、後悔はない。
ボートを降りた俺たちは話し合いの結果、公園そばの焼き鳥屋である日向屋に落ち着いた。相変わらず建て増しに建て増しを重ねた違法建築だが、そのレトロ感とカオスさは何かの映画作品に出てきてもちっともおかしくない。学生時代に散々世話になった店で、いまこうして桜子と向かい合っているのは不思議なものだと感じた。俺たちは軽く焼き鳥とモツ煮、それとレモンチューハイを頼んだ。
「ここはホント変わんないよね」あたりを見廻した彼女が、感慨深げに言う。学生の頃と違うのは、今日は座敷ではなくテーブル席にちょこんと座っていることくらいだ。相変わらず煙臭い店内の淀んだ空気に、懐かしさを覚えた。俺はカメラを取り出して、辺りの写真を何枚か撮る。
「いつからそんなカメラ小僧になったのよ?」塩のハツを食みながら、そう聞いてきた。
「それが良く分かんないんだ。ただ、どうしてもこれだけは欲しくなって、さ」言いながら被写体を変える合間に、旨そうに「んー、たまらん」と言っている彼女もさり気なく撮る。
確認は出来てないけど、きっと幸せそうないい笑顔で撮れているはずだ。
「まぁいいや。一度ハマると昔からとことん一直線よね、ゆうは」半ば諦観したような目をしながら、彼女はチューハイを煽った。
「…ハマってるかどうかも、実はよくわからないんだ」俺はありのままを述べた。
「もしや会社で何かイヤな事でもあった?」
「そりゃ仕事だからいろいろあるけど、それとは違う気がするんだ」
ふーん、と彼女は相変わらずマイペースに焼き鳥に手を伸ばす。自分で言った言葉を反芻して、決して仕事絡みではないだろう、と改めて思った。
ちょうど昼頃、日向屋を後にした俺たちは、久々に母校の大学に行ってみようという事になった。ゆっくりと歩く人混みのダイヤ街に、「ここっていろいろお店あったんだね」と彼女がぽつりと言う。
「いろいろあるよ。単純に学生の頃の俺たちが目もくれなかっただけでさ」
自嘲気味に笑って話す俺に、「そんな余裕なかったもんな、4年間」と彼女が言う。
「でも後悔はしてないよ。トランペットとジャズに、私は勉強以外の持てる時間全振りしただけでさ。それなりにいろいろあったけど、嫌になることはなかったな。手放していいもんじゃない、って心のどこかで思ってた。おかげでゆうとも出逢えたしね」
ふっとこちらを向いて、彼女がはにかむ。そうなんだ、こういう何気ない彼女の一瞬を俺はこのカメラで切り取りたいのだ。俺は「全く持って同意するよ」と彼女に応えた。
東急デパートの脇の道に入ると、それまでの賑やかさが嘘のように静かな住宅街。俺たちが4年間通った大学への最短ルートだ。
「ゆう、一杯やろうぜ」彼女は公園に行く前に買った缶チューハイを最後のひと缶を取り出して、ひらひらと揺らしながら、悪い笑顔を浮かべた。「付き合うぜ」そう言う俺の片眉はたぶん上がっていたことだろう。彼女は彼女で遠慮なくプルタブに細い指をかけた。
吉祥寺駅から大学までは、歩いて概ね15分。彼女と歩きながら他愛のない話に興じていると、すぐに母校の正門が見えた。俺はカメラの電源を入れ、ファインダーを覗く。
「またカメラ? ほんと好きねぇ」と彼女が仕方なさそうに笑う。
久々のキャンパスだったが、大して変わりはなかった。去年まではここにいたというのに、随分遠くに来てしまった気がする。俺は1号館そばの桜の樹に歩みを進めた。そうして、いろんなモードで、いろんなアングルで三分咲きの桜を撮りまくった。彼女はそんな俺に声をかける「随分とご執心なことで」と。
俺はシャッターを切る手を止めて、ファインダーから顔を離して彼女に向き合い、笑う。
「ここが、俺たちの【はじまりの場所】だからな。大事なんだよ」
桜子はきょとんとして首を傾げた。別にいいのだ、彼女がその瞬間を覚えていなくても。
キャンパスを通って、俺たちは西部室棟のスタジオに向かっていた。今日は土曜ということもあり、誰かいるかも知れない。ふたりで話し合って、ちょっと顔を出してみようか、という事になった。
西部室棟の風景や、スタジオの入口。俺はカメラの電源を入れっぱなしにして、何枚となく去年まであたりまえだった景色を切り取る。もう戻れない場所に自分自身が来てから、こうして写真に収めるのは”昔は良かったな”と暗に思っていることの表出だった。
「こんにちはー」と彼女は現役時代と打って変わって、静かにスタジオのドアを開ける。数人が練習していた。E年のドラムの沢木と荒川姐、D年の佐々木さんは分かったが、それ以外の面々は初顔合わせだ。今年のC年か知れない。
「あ、藤川先輩!」とドラムの沢木がその手を止めて、彼女に駆け寄る。
「よっ、沢木。練習熱心だねぇ」と桜子さんはにこにことしている。
「今日はどうしたんですか? 篠崎先輩とデートですか?」
「うん。ちょうど吉祥寺来たから、誰かいるかな?って思って来てみたよ」臆面もなく桜子は言う。こういう真っ直ぐなところは、彼女の魅力だ。沢木に続いて荒川姐もピアノの手を止め、桜子のもとへと歩みを進めた。さすがは人気者。
「篠崎先輩、お久しぶりです!」そう呼びかけてくるのはアルトサックスの佐々木さんだ。歩み寄る首から下げたサックスを一目見て、俺は驚いた。
「佐々木さん、そのマウスピース…」彼女のマウスピースが、いつの間にか俺と同じビーチラーのメタルに変わっていた。
「はい、先輩の真似して、思い切ってメタルにしてみました。わたしの中では篠崎サウンドがひとつの指標になってますんで」と笑う。面と向かって言われると、照れるもんだ。
「でもほんと、まだ音を出すのがやっとで苦労してます。先輩のよりはマイルドなチューンのはずなんですけど、それでもとんでもないジャジャ馬っぷりです。そんな訳で今は何とか仲良くなろうと格闘中です」佐々木さんの目が真っ直ぐに俺を見た。
「俺にもそういう時期あったよ。でも、今は辛抱。その先には自分でもびっくりするほど面白い音の世界があるからな」
「はい、頑張ります。ところで、このマッピのセッティングなんですけど、リード選びを間違えてないかどうか見てもらえますか?」佐々木さんの頼みに「もちろん」と俺は答えた。
ふたりとも楽器もないので、みんなに挨拶して俺たちはスタジオから離れた。そうして、何度となく一緒に帰った駅までのルートを辿る。欅並木はまだ寒々としていた。
「なあ桜子」と俺は呼びかける。
「ん、どうしたの?」と彼女。
「あのさ…桜子の写真、欅並木と一緒に撮ってもいいか?」俺の問いに、彼女は黙った。
「…わかった」少し間を置いた”OK”の内側にある真意を、俺は測りかねていた。
延々と続く煉瓦のインターロッキングの道路、その両脇に等間隔でずっと遠くまで植えられた葉が枯れ落ちて枝だけになった立派な欅並木。俺は二歩ほど彼女から離れて、ファインダーを覗いた。
ファインダー越しの彼女はともすると警戒に近い無表情でこちらを見つめている。俺は欲しい画がうまく収まるようにアングルと立ち位置を微調整する。よし、これで大丈夫だ。
「それじゃあ、撮ります。はい、ちーず!」と俺はシャッターを押した。
「これでいい? わたし写真ってどうにも苦手なんだよね~」と彼女の表情から緊張感が抜け落ちて崩れる。俺は同じ場所に立ったまま、「知ってるよ」とだけ言う。
「このドSが!」と少し彼女はむくれる。それでいいのだ、それで。俺はカメラのシャッターボタンをまだ離していない。連写モードだ。ビバ隠し撮り。こんな風になったのは、きっと桜子のおかげだ。彼女といる一瞬一瞬を大切にしたくて、記録し記憶したくて、逢えない時もそばに感じていたい。俺はようやく自分がカメラを買った理由を理解した。
きっかけはひと学年上の彼女の大学卒業だった。
同じ部活で同じような日々を過ごし、毎日のように顔を合わせていたものが、彼女は先に卒業して部活やスタジオから去った。残された俺は俺でF年になり、自分の就職活動で手一杯。何とか落ち着いた頃に、そこはかとない寂しさを感じたのだ。
そうして俺は彼女に提案した。「今すぐでなくていいから、一緒に暮らさないか?」と。一足先に社会人になっていた彼女は、少し考えたような間を置いて言った。
「…ゆうの望みなら、叶えたいなぁ」と。パンツスーツの似合う彼女を、勇気を出して仕事帰りに無理して捕まえた甲斐があったというものだ。
俺は、いつでも桜子といたい。逢えない時を乗り切るために、いつか笑い話に出来るはずの俺たちふたりのために、記録をしたいと思った。それがカメラを買った理由だと今さらながら気づいたと同時に、腑に落ちた。
「別に俺はSじゃないぞ。桜子がかわいいから撮っただけなんだが」
カメラを買った理由がはっきりした今、俺は臆面もなく言う。
「ふーん。そういう事、すらすら言えるのはさすがだわ」と彼女。まだその表情はやや不機嫌なままだ。そういうところも、今となればまた彼女らしいと言えばらしいし、過去には彼女らしからぬ発言だった。
「ありがとう。でも、こういうこと言えるのは桜子だけなんだよな。困ったことに」
俺は両の掌を空に向けて、降参のポーズをした。
彼女はちょっと笑うと、「気にし過ぎた。ゆうはそんなに器用なタチでもないかぁ」と俺の瞳をまっすぐ見て、優しい声で言う。もう、充分だ。
「桜子こそ、職場や取引先の男に惹かれるんじゃないぞ。俺はそれだけ心配だ」
「大丈夫。言い寄られる事は多々あるけど、全部シャットアウトしてる。我ながら言うのも変だけど、わたしの彼氏はゆうにしか務まらないよ」
やっぱりな、不安的中だよ。
だが、彼女が力強くそう言うのなら、俺はそれを信じるしかない。信じさせて欲しい。
「やっぱモテてんな、桜子」
「そういうゆうはどうなのよ!? 変なの寄って来てないでしょうね?」ああ、返す刀とはこの事かと俺は苦笑いして、こう返した。
「残念ながら、桜子にはモテるけど、それ以外はさっぱりなんだ」
彼女が残念そうな顔をして、しょぼくれた。どうしたと言うのだ。
「…ゆうも大変だな。だったら、せいぜいわたしのことだけ考えていてね」
俺は思わず声に出して笑った。
「あー、大丈夫。言われなくてもそうするからな! せいぜい付き合ってくれよ」
ふたりで久しぶりに歩く欅並木は、その葉の賑やかさもないし、時折寒い風も吹く。だけど、彼女と繋いだこの手と心は温かくて、そんな事を忘れさせた。また欅の新緑が生い茂る5月あたりに一緒に来たいな、と俺は思った。
「ところでさ…夕飯、何食べたい?」と聞く俺。
「そんなのいいよ。一緒にスーパー行って、今日の品揃え見てから考えようよ、いつもみたく?」
「ありがとな。じゃ、お言葉に甘えるよ。さ、うちへ帰ろうか」
「うん。あー、でも明日は実家帰るよ。スローテンポだけどゆうの家への移住計画は着実に進んでるんだなこれが」
彼女が向ける今日一番の、とびっきりの笑顔。
残念ながらカメラには収められなかったが、俺の記憶のファインダーが彼女を捉えて離さなかった。
やっぱり、彼女と紡ぐ恋愛は素敵だな。
改めてそう思いながら、家路についた。
お読みいただきありがとうございました。本編だけでも完結するのですが、拙著で『~ジャズ研 恋物語~』というシリーズ(全部短編です)があります。タイトルはJAZZの名曲から借りたものが多いのですが、そちらも合わせて読んでいただけると、よりニヤニヤできるかと思います(笑)
合わせてご笑覧いただければ嬉しい限りです♪