稽古の日
散々罵られながら奮闘した闇魔法の訓練だったが、まあぼちぼち頑張ればいいかと投げやりな気分になって寝落ちた。
どこかに普通の、人間の使い手がいれば早いのだろうが……誰より優秀なはずの見本が顔を覆うほど教えるのに不向きなのが最大の問題だ。どんなに高度な感応でやり方を共有しても一人で出来なければ意味がない。
彼女は彼女でひたすら人の訓練を無表情に眺めては満足したのか分からないまま消えていった。最近はあれをただマイペースなだけだろうと理解してきている。
さて、ついにこの日がやってきた。
望んでいたのではないが約束は約束、確かに肉体的な強化も疎かにしてはいけないと思えば、有難い話、なのだろうか。
ウェス氏の店で揃えた武器を一本ずつ丁寧に磨いてから仕舞い込む。やはり防具は間に合わなかったが、仕方ない。今着ているこれだってランク的には身に余るものだ。
せめて多少のことでは怪我を負わないほど躱し身が上手くなってから新調していきたい。そう考えながら左右のベルトに一本、各太腿に一本、懐に一本、ブーツの内側に各一本、腰には愛用しているいつものを差し込む。
身体がずっしりと重くなってしまったが、負荷的には丁度いいくらいだ。あまり軽くても吹っ飛ばされてしまうし、武具にも振り回される。
目指せ筋肉。いや淑女としては派手な筋肉は悪印象か。インナーマッスルを鍛えるしかないのか。となると、ある程度太ってから運動して筋肉を作るという方法もやめた方がいい気がする。ううむ。
約束の時間は日暮れ前なので、それまではいつものようにスーシュへ行って薬草を集め、調合してすぐ出せるものだけ売りに行った。
そのあと、今日は資料室で食べられる魔物図鑑を読ませてもらった。魔物の種類は会ったことのないものが殆どでいまいちだが、端に書かれている豆知識が興味深い。
普通の強度の包丁だと刃が駄目になってしまうのか。それ専用の頑丈な調理器具を売る店もわりとあるらしいので、探してみるのも面白いかもしれない。いや、リムロウに聞いたほうが早いだろう。旅の間にずっと使っていたし。
「料理をするのかしら」
「多少は。死活問題ですし」
「そうよね。いつ見てもどこの子息かと疑うから、ピンとこないけれど。そうよね」
リナがしげしげと眺めながら何度も頷いている。眼つきが鋭いので目を細めると睨んでいるように見えてしまうのが勿体ない。睨んでいるのか?
時間を潰してエアリスに戻った。本当に冒険者としてここで活動していないなと我ながら呆れる。この街のギルドで見かけた冒険者達は一体どうやって生計を立てているのだろうか。少なくとも、見目はスーシュの彼らより立派だった記憶があるのだが。
門から続く大通りを外れて少し歩けば養成所はすぐ側にある。不愛想な建物を視界に収め、本日も人気のない庭を通る。
「やあ、よく来たね」
この間と同じテーブルで本を開いていた彼が顔を上げた。にこり、と愛想笑いにぺこりとお辞儀を返す。彼はすぐに本を閉じて立ち上がった。
特に言葉もなく彼の後ろをついていく。生徒たちが帰ったあとの建物はいやに静かだ。彼は残業手当を貰えるのだろうか、そんなどうでもいいことを考えてしまう。
やってきたのは先日と同じ訓練棟だ。
ただし今回は中に入っても誰もいない。がらんどうとした空間は歩く音もすべて響かせる。
こちらを振り返った彼が壁際の棚を指差す。
「今日も使うかい? 手入れはできているよ」
「いえ、大丈夫です」
軽く手を振って必要ないと伝えた。最初からナイフを身体中に取り付けてやってきたのだ、彼も軽く頷いたが繰り返し問いかけはしなかった。
だが、代わりにひとつ苦笑を零した。
「ここに来る前から身体強化を使っているのは流石に用心し過ぎだろう」
そう言われてこちらも肩を竦めた。
「念の為というか、習慣で」
つい使ってしまう習慣が。
筋力強化、視力強化、聴力強化の基本強化を大抵は段階的に上げていくのだが、今はそのごく初期段階だ。「不意打ちを避ける」程度の反射神経といった感じか。
「どこの習慣だい、それは。あまりに自然すぎて気付かなかったけど、前に来た時も最初からその状態だった?」
無言で肯定を示す。
あの時彼が言っていた、気の流れが一定で滑らかというのも恐らくそのせいだろう。
無意識に発動するのです、と言われ、発動を意識したら無意識になりません、と教師に抗議したあの頃を思い出す。泣くことはなかったが、しんどかった。お陰で寝起き以外は基本的にかけ続けることができるようになったのだから、あの身体強化専門の使用人には足を向けて寝られん。
彼は呆れたような息を漏らした。
「完璧だからケチをつけることはできないけど、それにしてもやり過ぎかな。加減を勘違いして仕留めてしまったらどうしようか……」
後半、ぼそっと呟いていたが聞こえている。気にするところはそこか。
本人は真剣に悩んでいる様子だが聞いた私も動揺するから止めてほしい。それはつまり初心者用手加減を忘れてうっかり殺しかねないということだろうか。降りていいですか。
「降りていいですか」
つい言葉に上ってしまった。
「大丈夫、真剣使わないから」
剣聖って木剣でどれぐらい威力が落ちるものなんですか、と聞きたい。
西陽が傾き暮れていく。
それに比例してだだっ広い空間も薄暗くなっていく。と思ったら壁際に掛かっている蝋燭に火を移して回ってくれた。
その間に急いで準備運動だ。よく膝を解し、背中を伸ばす。呼吸を整えて体調を細かく測っていく。今朝から食事量も制限しており、睡眠も万全。持ってきた装備は全て装着しているし、新しくした武器も収まっている。
絶対に容赦しないんだろうなあという予感……いや悪寒がするのだが、痛みで動けなくなるのは怖い。
体内の魔力の流れが速くなる。身体が暖かくなり、鼓動も早くなっていく。
うっかり興奮しそうになる呼気を均一に保つのが大切だ。身体強化、二段階目、完了。
油断していたわけではない。
「取り敢えず瀕死まで追い込もうか」
何と?
一瞬で距離を詰めてきた。
顔が目の前に迫る。
今の今まで、蝋燭を灯し終え、無造作に壁に掛けてあった剣を手に馴染ませていたところだろう? 二十メートルは開いていただろう? というか開始の合図もなしですか?
かろうじて、構えを取って避ける動作までは持って行けたが、そのあとの浮遊感で平衡感覚を失った。
背中に強い衝撃が走り、肺から空気の塊を吐き出す。遠い天井が見える。痛みを堪えてすぐに起き上がろうとし、喉元に木剣が当てられた。
「すごいなあ。その反射神経、よくその歳で身についたね」
本当に驚いている声だったのが、返って驚きだ。いや、不気味だ。
いま自分が受けた技を思い出せない。目で追うことができなかった証拠だ。それで褒めるということは、構えができただけでも優秀だ、ということか。そちらこそどういう反射神経をしているんだ。
ふうん、なるほど、と小さく聞こえてくる。そこに浮かぶ微笑は教師らしく穏やかで、何となく無邪気で、そしてどうしてかぞくりと背筋に冷気が伝わってきた。
鳩尾に重い衝撃が走り、ぐわんと視界がブレる。
「かはっ」
前後が分からないまま背中を強かに打ちつけ、息が口から漏れた。
ざり、と耳元で足音がし、彼が見下ろしてくる。
「さあ立って。時間が勿体ない」
鬼だ。
「受け身を取ったようだからそれほど痛みはないだろう? まあ出来るとは思っていたけど、君は思い切りが良いね。そのお陰で怪我も少なく済む」
両手を広げて倒れている子供に、鬼が容赦してくれない。受け身を取らなかったら骨折どころか内臓が破裂していると思われる。
休みも与えず打ち込んでくるのを防ぎ、躱し、躱しきれずに吹っ飛ばされるのを繰り返す。
日が暮れてからどれくらい時間が過ぎただろう。
「今日はここまでにしよう。しっかり回復をかけておくんだよ」
ことりと耳元に何かを置いた音がした。
喉が張り付いて息切れしか聞こえない。全身ぐっしょりと汗だくで、肩を上下させて、地面と一体化している。
返事も出来ずにいると彼はさっさと帰ってしまった。放置か。そうか。
その場で気絶したらしく、はっと目が覚めて起き上がったら腹と背中から悲鳴が上がって再び撃沈した。
そして、奥歯を噛み締めながら手に触れたものを見下ろすと、青い液体の入った小瓶が置かれていた。宿の人に聞いたところ、これが回復薬らしい。遠慮はしない。有難く使わせてもらった。
しかし、治ったのは擦り傷や切り傷くらいだったのは拍子抜けだ。薬効成分が薄いのか、こんなものだろうか。
あとで服を脱いだら打撲痕が全身に散らばっていた。スパルタではないのか? あれが平均的な指導水準なのか?
《やらないの?》
「申し訳ありません。本日はお休みを……」
ここの所毎日やっていたこちらの訓練をやめた。不思議そうにしていた彼女だが、しばらく観察して消えていった。そういえばいつの間にか呼ばなくても出てくるようになったなとぼんやり考え、枕に顔を伏せる。
三秒後の記憶がない。




