第九十八話 人魚姫と悪夢
下り坂が終わり漁村へ続く曲がりくねった道に入った辺りで私の意識は飛んだ。
否、意識どころではなく身体が空を飛んでいた。飛びたいと願った?魔法を願った?答えは否である。
異形の何かに先回りされて勢い良く蹴り上げられたのだ。
世界の広さと島の輪郭を実感した、墜落死でもいいんじゃないかと思う。コマ送りで過去が思い出され、私は私の短い生涯を振り返る事になる、走馬灯なんて知らないけれど、こういうものなのだろう。
楽しい思い出には何時も家族の姿があった、私が無意識に死を拒絶する理由は多分帰りたいからだ、また家族に会いたいからだ。
私は何か悪い事をしてこんなところに飛ばされたのだろうか?悪い事と云えば断った事かな…。
私の身体は地面に激突せずに海へと墜落した。岩と岩の隙間へと、深い深い水底へと、勢いよく沈んでいく。
私が断った時にあの人はなんて呟いたのか思い出した。
「また助けられないか。」
何故そんな生気のない目で辛そうにしているのか、その理由が断られた事以外にある様な気がして仕方が無かった。あの目は…そう奴隷市場で私達を見ていた普通の市民の目だ、憐れむような悲しみに満たされた目だ。
そんなどうでもいい事を思い出しながら明るい海に私は沈む
着底した私は水底から空を見上げた。
何処までも蒼い青い海と空で境界線などは存在しないように見える。あの化け物は海には入れないようだった。水の中で呼吸が出来ればいいのに、私は、人間に絶望した人魚姫であれば良かったのに。
呼吸が続かず海水を飲む。そして吐いてまた飲む。
どうして呼吸が出来るのだろう。
水底で手足を伸ばして寛ぎ始めて何時間過ぎたのだろう?
ゆらゆらと漂い少なからぬ時間私は眠っていた、元居た場所は何処だろう?、流れに身を任せたまま眠って鮫に生きたまま食べられるのはやはり嫌だ。どんな魚でも寝床は確保している、私は海の中で呼吸が出来るようになってしまったのだから海の中に家を確保するべきなのだろう。
理由とかどうでもいいけど、この世界の人間に係わりたくなくなっていた私は、手ごろな穴を探してそこに住みつこうと決めた。
島の周りには大小さまざまな海溝や岩礁、岩の裂け目がある。立った姿勢のまま眠るのは流石に業腹であるので、私は横になって眠れる空間を求めて彷徨い歩いた。
私を海に蹴り込んでくれやがったナニカはまだ海面を飛び回っているようだが、正直もうそちらの世界には興味が無い。
何処かに無いかな?私のベストプレイス。あ、うん、何だか楽しいや。
良さげな穴はあった、狭い入口に大きな空洞、ここまではいいのだ、くりっとした大きな目と愛嬌のある顔、ズラリと並んだ鋭利な歯と物凄く大きな口、テラテラ輝く真夏のサンオイル塗れのお兄さんのような肌と長い長い胴体。
「アナゴだ、これ。」
手元に武器は無い。目の前には長さ二十メートルはあろうかというアナゴ。可愛いおめめとマヌケそうなお顔と凄い牙と獰猛な性格。ベビーフェイスな殺人鬼と言えばいいのかと自棄になり乍らアナゴを分析する。
調理法は鰻と殆ど同じだっけ?、私の少ない知識では味くらいしか想像できない。ヘルプ・ミー職人さん。
結論としてアナゴさんは別に攻撃を仕掛けてくるわけでもなく、一定の距離以上は出て来る気配が無い。
縄張りの外であるなら構う気はないらしい。
岩の割れ目の奥には多少手狭ではあるものの、眠るのに適した小部屋のような穴があった、天頂方向に穴があり陽光がキラキラと降り注いでくる。ご近所さんはアナゴさんなので些か恐怖はあるものの大型の肉食魚の警備員だと思えば絶好の立地ではなかろうか?
寝床に欲しいものを頭に思い浮かべてみるが、なんだかどうにも人間であった頃のものは耐水性に難があるものばかりだ、本にせよ、家電にせよ、電気を通したまま海に投げ込めば。
近くで爆発音がする。今回の家電も駄目だったよ。
想像で呼び出したアイテムは壊れれば消える。便利そうで便利じゃない。一定の時間が経過すると消える。
原理は何にも判らない。
海の中にいると吐き気が起こらない、凄く快適だった。そうなるとお腹が減る、でも食べ物は作り出せない。
つまり狩りをしなくてはならない。私はある人物を思い出す、クラスメイトに居た変な奴を。
彼は授業中であろうとお構いなしに釣りの仕掛けを作って居たり、休憩時間に何か刃物らしきものを研いでいたりと、掛け値なしの変人であった。
冬から春に掛けて学校には気が向いたら来ると言う訳の分からない生活を送っていた彼だが、月曜日だけは学校に居た。
「今日は狩猟しないの?。」
気まぐれに聞いて見たが彼は苦しそうな顔で、なんとか体面を保つように答えた。
「唯一、家に帰れる日なんだ、でもこれで最後だから楽しい一日にしないとね。」
ハッキリ言って何を言っているのかその時は判らなかった。
次の週、親たちの会話で彼の母親が若い男と駆け落ちした事を知ることになる。
月曜以外は通い詰めだった?、つまりはそういうことだったのだろうか?。私は興味本位で彼の家庭環境を知りたくなった。野次馬根性と言うやつである。
「父が家にいる間、俺の部屋はその人が隠れるのに使ってたんだ、母は最後まで、俺が全部気付いていた事を知らなかった、色ボケした人間はやっぱりどうしようもない。」
相談に乗っているように色々と聞き出そうとするが、唐突に彼はこう言って話を打ち切った。
「好奇心は満たせたかな?、多少の暇潰しになっていれば幸いだけど。」
看破されていた。
「此処とは違う別の場所で出会えたなら、君がどう生きるのかを見て見たい。興味本位で人の不幸を暴いて見たいその快楽は理解出来ないけど、其れはきっと君の本質なんだろう。」
完全に看破されている。今この場から走って逃げ出したい。
「そういうドライな人間は嫌いじゃない。君さえよければ付き合ってくれるかな?。」
史上稀に見る交際理由を引っ提げて目の前の変人は、私に交際を申し込んできた。
私の壊れている部分に価値を見出すなんて予想外で面食らってしまう。
「お断りするわ、一番見て欲しくないところを見たがる私の一番見て欲しくないところを愛するなんてただの狂気じゃない。」
「また助けられないか…仕方ない、これも運命だろう。過酷だけど生き延びてくれ。」
制服に付いた芝生を払って彼は立ち上がり河原沿いを山に向かって歩いていく。
私は微妙な気持ちで彼の背中を見送っていた。
目覚めて顔を両手で覆う。
「過酷だけど生き延びてくれ。」
ちょっと、どういう意味よ!。




