第八十五話 トリエラ・ライモール
それは私の記憶に合致する英雄たちが魔人に殺され続けた多くの英雄伝説の結末が記された経典と言うよりも聖書であった。
魔人の精強さとその出現地点、此処から一番遠い悪魔の洞窟、此処から一番近い青き石の洞窟など幾つかの目撃例などが教訓として遺された正しき教えの書。ザン・イグリット教の経典からは削除されていた、恐らくは教団の本質を顕す答えの全てが改竄されていない状態で残っている。
司教から手渡されたこれは、考えるまでも無くザン・イグリットにとって不都合極まりない本、あの人は一体何者?、疑問ばかりが募る。
読み終えるまでどの位掛かるのだろうか。明日から先行してトゥレラロウ島を襲撃するのだというのに。
私にあの善良な村人たちが殺せるのだろうか?、今は左肩に刻印されたこの呪いが恨めしい。
こんな呪い、ただの奴隷を更に縛るものではないか…と思った所で気付く。
この魔法が世界で悪用されたらどんな事になるのだろうかと、思わず慌てて肩にショールを掛けて隠す。
人前に見せていいものでは無い、どうして気付かなかったのだろうか、私は既に奴隷であったのだと。
何事も無く船旅は続く、波も高くないが風は弱い。船倉の最下層では奴隷たちが舟を漕ぐ。
香水を吹き付けながらイグリットの経典を読み進める。シェナハは明日の到着に備えて何やら相談している様だ…とても憂鬱だが仕方が無い。
港に停泊し馬車を降ろし騎兵と歩兵に囲まれて島を北上する。
それほど苦労も無く到着する程度の距離しかないが、港町では既に女子供も含めて八人を殺害した。一人も逃がしていない。
指先が震える。
弓を持ちたくない、それでもシェナハの命令に抗えない。
本当に只の奴隷と何が違うのか?主従契約なのに何故呪いと呼ばれるのか、先人がどうしてそう呼んだのか判った気がする。
後世でこの魔法はきっとあからさまに奴隷契約の魔法として使われるだろう、ならば私一人で最後にしたい。
シェナハに教えてしまった事を心の底から後悔する。薄々この呪いの利便性に気付いているならば、最早手遅れかもしれない。
村の市場に到着した、とても懐かしい、この地の代官に用があると見せかけて市場を素通りする。
その手筈であったが何人かが返り血を見咎められてしまい足止めを食う事になる。
多くの人間を取り逃がす事になったがそれでも二十人は殺した。慌てて村長の家側に騎馬隊と馬車が向かう事となり、歩兵隊は代官屋敷の接収と逃げ出した村民の抹殺に島内を駆けずり回る事となる。
持病の腰痛の為にゆっくりとではあるが毎日の散歩を欠かさないお婆さんを兵士が斬った。
あんなお年寄りに何ができると言うのだろう。
村長宅に乗り込み聖域の扉を開けて中を案内しろと武器を持って交渉し村長と孫娘を縛って馬車に放り込み、聖域へと向かう。
騎兵達は村長の屋敷の中に押し入ったのだろう、離れ行く屋敷から悲鳴と絶叫が聴こえる。
誰かが何かを言っているが、何も聴こえない。孫娘のトリエラちゃんに取り縋られながら馬車に揺られて聖域へ。
久しぶりに訪れたタリュート邸からは肉を焼く臭いが漂う。今夜は香草焼きか何かかな…ラゼル君とルレアちゃん…ここに、居ないといいなぁ。
まるで人形の様にタリュート邸の開いたドアから投げ込まれる村長に屋敷の主は慌てて手を伸ばす。
その隙にシェナハは主の顔を叩き割るように斬り伏せる。村長はどうやら無事、只の復讐の道具だったようね。やっぱり三年もかけてそんな事がしたかったの?、子供はずっと子供のままだったのかしらと私は独りごちる。
シェナハは主の後ろに居た奥方様にも斬りかかり、もの言わぬ死体に蹴りを入れる。
奥の部屋も順に回り、ラゼル君の部屋のドアを蹴破ると、其処にはルレアちゃんが巻き込まれてドアの下敷きになっている。
シェナハはそれを勢いよく踏んだ。このまま苦しめてしまうくらいならと私は魔法を放つ。
綺麗に命を奪えたのかはわからない、でも其の後三度踏み締めたシェナハの蛮行を見た私は、少なくとも頭が潰されるまでの苦しみだけは、与えずに済んだ事を確信できた。
ごめんね、ルレアちゃん。
でもそれでストレスが溜まったのか、シェナハが腹立たしそうに兵士に命じると、屋敷には火が放たれた。
タリュート邸の裏には参道があり、長い階段が山に向かって続いている。この上に社殿があり、其処には神官と巫女が聖域を守っている。
重装備の鎧で登れるような山ではない。軍事的なフル装備で登れるほどにはシェナハは鍛えていなかった。
必然として鎧は軽装となり腰に剣を佩くだけで登る事となった。半数は馬と馬車と装備を護る為残る事となり、私はトリエラちゃんを抱えて、村長は小突かれながら階段を登る事となる。
長い長い上り坂に石で整備されたとはいえ延々と続く階段を登る。
小さな頃はシェナハとラゼルが村の子達と一緒になって駆け足で登った階段なのに、シェナハにあの頃の面影は無い。義理であっても父と母と妹を躊躇なく殺せるこの人を私は知らない、誰なのかな…この人。
漸く辿り着いた山門の鳥居を潜り社殿へと向かう。
此処には妖精と精霊が住む世界へと繋がる扉が存在する。私はそこの出身だ、疑うべくも無い事実だ。
世界の界層を繋ぐ扉、それはそう言うものだから説明のしようが無い、他には門と路があるが基本は同じものだと思って貰って構わない。
扉の起動方法を聞いているシェナハと、軽く刺されて流血している神官の会話は噛み合わない。
当然だ、ここの扉は”有資格者”以外開いても通れないものだ、私はそれをシェナハに何度となく教えてきた。神官からも同じ事を言われて経典を懐から取り出す。
「ならば間違って居るというのか…。」
「魔人との戦いが激化して向こうから鍵を掛けたのよ。」
私は真実を語っているが、シェナハにとっての真実は経典であることは解かりきっていた。
多分何を言っても聞く耳は持たないだろう。
そして腹立ちまぎれに神官と巫女を斬り、村長の首を刎ねて扉に投げつけた。
「火を放て。」
社殿が燃えて行くにつれ、焔の中で扉が光を放ち始める。だが、燃え盛る炎の中に飛び込んで扉に入るような馬鹿な真似はシェナハですら出来ない。
そして、彼は冷気魔法で消化を試みようとマナを集め始めた。
一軍を超える破壊力を持つ、彼の魔法ならば火は消えるだろう、私はそっとシェナハに見つからないようにトリエラちゃんに強い睡眠魔法を掛けて小社の中に放り込んで魔法から身を隠した。
訂正。




