第七十話 店長には内緒だよ
低級市民街アルディアス。人口四十二万人が居住する、まぁまぁ貧民街。偶にハジけるボーナスヒャッハー地域。滅多に身に付けない良い服を纏って四人家族がアルディアス食堂の暖簾を潜る。
「いらっしゃいませー、ご予約のアロンゾ様ご家族ですねー奥の座敷へどうぞー。」
「店長、コースの支度に入るので少し表頼みます。」
カラコロと下駄を鳴らして厨房奥の冷蔵室に樋口さんが姿を消す。前もって用意して置いたコースメニューの準備というわけだ。
「あいよ、板長アロンゾ様だ。」
「わかった。」
四人前の鰻が新設された焼き台の上に乗せられる、ご予約客の、アロンゾ様ご家族ご注文の品である。
その横で鉄製のフライパンが油を満たされて弱火で温められている。油をなじませる時間が足りなかったのだろう。しかもどうやら特注品のようである。そしてその横にも二回り大きなフライパンがある。これも油で満たされている。
ニンジンと玉ねぎとイノシシベーコンを刻み大きいフライパンの油を油壺に落して炒め始める。カウンター客が見慣れない料理を作り始めた板長を見て息を飲む。炒め終わった具材を大皿に乗せて冷まし、鰻を裏返す。
鰻から零れ落ちた油が備長炭の上で弾けて薫る。
常連客の顔に戦慄が走り、板長の顔には自信が漲る。紛れも無くこれは逸品、常連客の目が新設された焼き台の何が違うのかを探る熱視線が交差する。
茹でたトマトの皮を剥き裏漉ししてトマトピューレを作り塩コショウで味を調える。これも深皿に入れて冷まし、フライパンを洗い、また油で満たして時を待つ。
先ず家族の元に届けられたのは、温かいお茶と茶碗蒸しである。茶碗蒸しの材料とは出汁とキノコと卵である。アロンゾ様には内緒のこの店最強クラスの高級メニューである。一つ単価二万七千円など誰も払えないし取る気も無い。
タレを付けて焼く…もう一度タレを付けて…焼く!
真剣勝負のその横で店長はお重にご飯を敷き鰻を待つ。笊の上に串を抜いた鰻が四人前乗せて渡され、店長が一枚一枚包丁で切り分けて敷き詰めていく。
仕上げにタレを掛けて蓋を閉じ、一つ一つ御盆にのせて並べ、西田さんと二人でアロンゾ様のテーブルへ運ぶ。
暫くの間通常のお客様の料理を作り、店を回す、何時もの事だ。
常連客の前で備長炭が赤々と輝き、滴り落ちる鰻の油を浴びて店内に得も言われぬ薫りを撒き散らす。遠赤外線の効果が素晴らしく身もふっくら焼き上がる特上鰻用の炭である。
しまった包丁入れてるの店長だから多分バレる。
「いいぞ、そろそろ食べ終わる。」
小さめのフライパンから油が油壺に落され、炭だけで火を入れる竈の五徳にフライパンが滑る様に乗せられる。
六個の卵がボウルに割られ、踊る様に卵黄と白身たちが飛び出る。塩と胡椒をサッと振ったあと菜箸で軽快な音を立てて掻き混ぜられる。
フライパンに黄色の戦慄が走り、具材が投じられ手早く混ぜられる。フライパンを横に回して手首のスナップで端が持ち上がる。油を浸した布を端で摘まんでフライパンの隙間に塗る。
フライパンの持ち手をトントンと叩き卵が楕円形に焼かれていく。最後は皿の上にポンと投げ込まれ、最後にトマトケチャップを一匙乗せて出来上がりだ。
「オムレツ上がり、店長よろしく。」
オムレツ五万四千円也、ボッタクリバーでも早々こんな値段は付けない。勿論食堂なので取らない。
アロンゾ夫妻は、十年目の結婚記念日と、双子の子供達の誕生祝いであるという相談を店長に持ちかけた。
家族全員ウナギというモノを食べた事が無い。当然ながら卵も食べた事が無いと言う話であった。
「板長、コースメニュー行けるか。」
「当然だ、店長の財布の限り戦おう。」
「あ、あ、応、引き受けた以上俺も男だ、判った、飯代くらい残して欲しいが仕方ない。」
樋口さんが肩を竦めて笑い、西田さんが頑張れ店長と囃し立てる。
斯くして我々は初めての予約客と予約席、そしてコースメニューを考える事となった。
この店の集大成のようなものが出来上がったと言えばいいだろうか?。
村で教わった山菜や木の実の小鉢料理に鶏肉とキノコの茶碗蒸しと、特上鰻重、そしてオムレツ、最後は店長と西田さんの愛と胃痛の果てに完成したサクサククッキーと付け合わせのバタークリームだ。
グレイトフルバッファローのミルクは力強いものであった、これはもうスイーツのためにあるような。
そしてクッキー作りで余った卵黄とミルクに砂糖を混ぜ合わせ、そして山を駆け回って見つけたバニラビーンズで作ったバニラエッセンスを数滴落したミルクセーキである。
店長と西田さんがアロンゾ様ご家族をお見送りに出ている間、常連の長老から注文された特上鰻に串を刺し白焼きに挑む真剣勝負を繰り広げていた。この倉橋達也容赦せん!。
客席対応は樋口さん一人でやっているが閉店時間まであとわずかだけあって其れほど忙しいと言う訳ではない。かといって誰もいない状況を作る事は難しいのでフロアを放置してのお見送りは出来なかった。
本日最後の鰻の焼ける音と臭いが店内に広がる。
白焼きを味わう常連客は良く冷えたエールを片手に完全に脱力している。
最後の鰻は私達の晩御飯なのでお客さん用では無い、それでも気合いの入り方は変わらない。
お見送りを終えた店長と西田さんが店内に戻り、鰻がくるりと半回転して余分な脂が備長炭の上で弾けて薫る。
タレの壺の中に鰻が漬かり、網の上で広げられ、香ばしい薫りが暴力的に胃袋をノックする。
裏返す前にまたタレの壺のなかにトプンとダイビングしてフライ・ア・ウェイ、灼熱の焼き台にタッチ・ダウン、今日もゴキゲンなサウンドにメロメロだ。
「倉橋、念願の炭の完成で浮かれるのは判るが無駄遣いはするなよ。」
カランコロンと下駄を鳴らして、店の奥の流し台で洗い物をするために下がって行った店長の最後の一言で倉橋君は硬直していた。
「何故バレた。」
いや、バレバレですよー。