第二百二十七話 白く透明なアカシア
其処は白い場所であった。
それ以外に形容出来そうな物が其処には無かった。
床である感触が掌に返って来るが、どこか頼りないものに思えてならない。
俺はどうなったのだろうかと記憶を呼び戻す、もう何度も繰り返し行って来た反省会のようなものだ、死の淵にどんな形で追い込まれても次回へと持ち越す為にしっかりと憶えておく癖が身に付いている。
哀しくも悍ましい練磨の結果だが、さて、やはり俺は黒エルフの魔の手から逃げる事が出来なかったようだった。
頭蓋を割られてからの即死。
股座を潜り抜ける事が出来た筈だが、潜らさせられただけである、と判るとその"痛恨のミス"の度合いがあからさまになり、己の判断ミスを後悔する羽目になる。
捩じった胴が、足が、鞭のようにしなり、俊敏且つ獰猛な黒エルフの膝が俺の後頭部を強襲していた。
死に掛けている俺に跨った黒エルフはユグドラシルへの警戒を忘れ、俺を貪ろうと上着を引き裂いたところで心臓から穂先を生やしていた。
その後、俺は黒エルフの亡骸とともにユグドラシルに呑み込まれたようだ。
全身穴だらけの俺の体の中でユグドラシルの根が蛇のように這い回っている、この感触は慣れないまでも一度や二度の経験ではないので耐えられないほどでは無い。
何もない白い空間、此処での時間は安らぎと優しさに満ちている。
何もかも手放して、忘れてしまえば何も無いこの場所も何れ楽園になるのだろう。
白い世界に俺の血が滴り、紅い染みを創って行く、その水滴が落ちる音が周囲を満たすように零れては広がる。
死の訪れとは呆気ないものだ、ループ能力を失った今は、もう此処から出る事は適わないのだろう。
そう思うとふっと力が抜けて俺は座り込み、今までの刻を振り返り見て見る事にした。
どうせ何もする事が無い、溜息と共に思い出した事柄を眺め見ると、どうにも俺の人生と言うやつは悔いの多い人生だった様に思える。
地震により拠点を失った、あそこは"再現"の根拠地であり、あそこ以外では"再現"は不可能なのだ、西の果てにも確かにアレは棲息しているが、魔物が溢れ出すアビスゲートが開いた場所は元の世界で言えばイギリス辺りで、とても人間如きが近寄れる魔物の密度ではなかった。
大物狙いで訪れた彼の地で暴れ回る龍と竜の戦いは圧巻を通り越して災害だったのだ。
勿論俺はスゴスゴと逃げ帰った、あんなもんマトモに相手をしようとはとても思えない。
脱線した話を戻そう。
幾度も繰り返したループでもこの地震は稀に発生するものではあった、だが、今回の規模は予想以上にかなり大きい、首都カラコルムはかなり内陸に位置していて、本来はあんなに揺れる事は無い。
明らかに作為を感じる揺れだが、そんな陰謀論はどうでもいい。
地下に居ると信じられている鯰の機嫌でも損ねた輩が居るのだろう。
アルディアス食堂を再建する事は前提条件だが、それよりもイレギュラーが多すぎる事だけが不安材料だ。
本来はシルナ王国が滅亡した後に魔人が再臨する筈だった。
スピーカーの作成を急ぎ、取る物も取り敢えず全員引き連れて出て来た事にも訳がある。
初期対応が遅れるとタケルが死ぬからだ。
この国に領土的野心は殆ど無く、タケルが居なくなれば版図を広げる意思も無くなる。
そんな事では早晩国が滅ぶ、それだけはノーセンキューだ。
魔人は弱くない、恐ろしく劣悪な環境でも生存し文明を築く事が出来る生命体だ。
比較的討伐されやすい幼生体の時期を乗り切る能力として寄生と擬態ですらも行える生物として生み出された完全生命体だ。
ほんの数千年前に、その役目を終えた彼等は封印世界に閉じ込められ各界への路を閉ざされ滅びを待つだけの存在となった。
七界の掃除と整理整頓、汚染の吸収除去、新生命体の為に強い魔物の間引き等、彼等は過酷な任務の全てを熟した。
与えられた褒美はお払い箱というやつであり、多種族との共存が不可能な生き物として処分される事となったのだ。
所謂プレ・ヒューマノイドと言う扱いなのだろう。
自治と未来と何よりも棲み処を求めて彼等は神に直訴せんと立ち上がる。
魔人により穿たれた界と界を繋ぐ穴はゲートと呼ばれそれらを繋ぐ路をロードと呼ぶ。
天界は押し寄せる魔人達に蹂躙され、何柱もの神の屍が大地に転がった。
蛻の殻となった封印世界は退路を省みない魔人達のミスにより抹消される隙を与えたという。
だが、それもそのはずであった、マナの供給がストップした滅びゆくセカイへの退路など最初から
考慮に入れていなかったのである。
斯くして生き延びた神々は挙って人々を贄として異世界の扉を開き、天界を放棄して逃げ出した。
「そんなに安住の地が欲しいと言うのならば此処をくれてやる。」
置き去りにされた民たちは数億匹。
餓えた魔人達の長い抑留生活を支えてくれることは疑いなかった。
白い空間に時折浮かぶ阿鼻叫喚の地獄絵図。
過去が乱雑に開陳されていく、そこに輝かしい未来はあるのだろうかと益体も無い事を考える。
ここで閲覧できるものは確定した過去ばかりで宿命論や決定論に根差したものは見当たらない。
可能性の未来があるものは予知や予言にあたるのだろう。
葉脈だけがハッキリ見える透明な葉がヒラヒラと俺に舞い降りる。
「こいつが偽物だったら蜜が採れるんだけどな。」
そしてその蜜は大層美味しい。
今は滅んでしまった、このセカイの日本にあたる場所で自生している筈だ。
落ち着いたら探しに行くのも悪くない。
「このみようちえんちゅーりっぷぐみ、くらはし──。」
掌の中の名札を読み上げる。
俺の家族が崩壊した、根本に巣食う原因たる事件。
ここは何処なんだ、何故これがこんなところにあるんだ。
安っぽいビニール製の名札に多くの人は意味など感じないだろう、ましてや幼稚園の年長組に上がりたての女の子が身に着けていた筈の名札などに……。
父が寡黙になり、時折暴力を振るう様になったのは、母が酒と男とギャンブルに縋る様に生きるきっかけになったのは……。
チクリと安全ピンが指先に刺さる。
「もしそうだとしたら、このセカイを破壊しつくしても足りない。」
今目の前で繰り広げられる殺戮と戦争の歴史、剣と魔法と魔物が犇めき合う、悍ましく酷薄な惨状。
誰の視点で物語が綴られているのかわからない、だが彼女はこのセカイを守ろうとして戦っている。
心の中で目を逸らすなと言い続けていなければ、最後まで見届ける事は出来なかっただろう。
"始まりの一人"が血染めの剣を振るい、瓦礫と化した東王都の只中を歩く。
「ラゼル・タリュート、神の使い。私は言った筈よ、悪友でも友達を殺そうとするなら許さないって。」
「悪友と解かっているのならば、せめて友であるお前の手で引導を渡してやれば苦しまずに済むぞ、私がとりなしてやっても構わんが。」
「罪に罰は寄り添うものよ、友が得た権利を奪うなんて非道な真似は出来ない。」
「では、殺して押し通ろう、多少の友誼もあるから、楽に……な。」
緑に輝く剣士と赤く輝く剣士が激突する。
白熱する斬撃にマナの輝きが彗星のように尾を曳いて互いの障壁魔法を一撃で粉砕していた。
相打ちであったがラゼルには傷一つ無い、再生したのだ。
「やっぱりその体質は卑怯だ。」
彼女は血を吐いて崩れ落ちる。
止めをとばかりに振り下ろしたラゼルの剣を掻い潜り、一人のエルフが彼女を受け止めて肩に担いで走り去る。
「アンタ如きにこの子を殺させてやる訳には、いかないのだよ。」




