第二百二十二話 黒い咆哮
「キサマァ!我が同胞達を何処へやったぁ゛ぁ゛ぁ゛。」
半狂乱になった耳の長い実験動物による刺突は、古木の小手で受け止めたが、恐らく二度目は受け切れ無いだろう。
その気迫の乗った槍での攻撃に賞賛の思いはあったが、嫌悪と憎悪がそれを上回る。
位置にして脇の下から空間を割いてユグドラシルが耳の長い実験動物に襲い掛かる。
寸でのところで一合打ち合うが、ユグドラシルから与えられた衝撃を受け止め切れず、いや、受け流せずにその手の槍を取り落として地面に転げて落ちる。
タツヤは添えた右の手元から二閃、耳の長い実験動物の胴へと刺突を見舞う。
肉の手応えを感じた刹那、空気を入れるように捩じって抉る。
ひゅう、と空気が入る音がしたと同時に耳の長い実験動物の表情が俄かに曇る。
森の住人、否、その化身たるエルダーエルフが崩れ落ちる。
その低い姿勢からタツヤの足にタックルを仕掛け、諸手刈りの要領で押し倒しにかかる。
「今だ、俺ごとやれぇぇ!!。」
不意打ちそのものなタックルに対応が遅れたタツヤに二本の槍が突き出される。
それは槍に全体重を乗せた必殺の一撃、恐らくこの足止め役の耳の長い実験動物は死ぬであろう、だが、タツヤは……。
為す術無く、ご都合主義の欠片も無く突き刺された。
「ごふっ。」
血反吐を一つ吐いてタツヤはしがみ付いてる耳の長い実験動物にマナを流し込み魔法を顕現させる。
「融解。」
人間の九十パーセントは水で出来ていると言う。
バシャリと言う水音と共にエルダーエルフは崩れるように大地に溶けて流れ落ちた。
刺さった槍から送られる痛みに顔を顰め乍ら残る二人のエルダーエルフと睨み合う。
耳の長い実験動物に"エルフ"等と言う呼び名は似つかわしくない。
槍を刺し、押さえたままエルダーエルフの二人は有らん限りの暴言と踵蹴りの雨をタツヤに降らせにかかる。
突然、あまりにも突然に襲い掛かられ、頭の中を駆け巡る走馬灯。
忘れていた訳でもなく元より知らない記憶までもが黄泉還る。
これは記憶、果てしない過去の記憶。
知るか、こんなものと思いながらユグドラシルが鳴動する事が全く忌々しかった。
思えば、始まりの一人を連れ帰ると云う、最初の目的を失敗してから、英雄ごっこは終わりを告げたのだ。
管理者との闘いは熾烈と苛烈の双方を極めた。
その長い戦いの末に初めての敗北と死、その際に有り得ない偶然の末に得た力、それは槍の潜在能力であるループ能力の解放で、所謂チート能力の獲得であった。
どう考えてもヤバ過ぎる能力を獲得したが、使えば使うほど不便で不安定な力である事に苛立ちを覚える。
記憶の混濁が激しすぎて折り畳まれた記憶を読み直すのに苦労をし続ける事になる。
それでも労苦は報われる事無く、褐色の肌を持つエルフに"始まりの一人"は奪われ、ループの基点も奪われた後のものであった。
手詰まりと言うやつだ。
幻視しているタツヤの目から見ても完全な失敗であると太鼓判が打てる。
始まりの一人は眠りに就いたと告げられ、捜索の糸口の全てを取り上げられた。
与えられたモノは"絶望"、永き捜索とループの繰り返しで重ねた徒労と足掻きは彼を完膚なきまで追い詰めた。
ループの基点は過去へとは動かし様が無く、もはや全てを取り戻すには能わない。
この記憶も自身も持ち越せはしないが、槍とループ能力だけは誰かに託さねばならなくなった、肉体の限界と魂の帰還が近づいたからだ。
宿命と使命を果たせなかった、宿痾の放浪者は、セカイの楔にも為れず救世主にも成れなかった己を呪う。
楔の一族として生を受けた筈の彼は、一族の血に目覚める事無く成人を迎え、周囲の期待に応えられずこの場で野垂れ死ぬ事が確定したのだ。
強く握ったユグドラシルが震える。
世界樹と契約の末に勝ち取った根の槍。
栄養としての我が身を吸い尽くしたこの槍を託すべき何者かに、継承しなくてはならない。
─────ご苦労。
ユグドラシルから溢れ出る根の津波が男を飲み込み、貫き、吸い尽くして加速度的に生長する。
それは末路。
聖なる樹の槍の遣い手の末路とも云うべき最後の情景。
ボンヤリと見ていたタツヤの脳裏に「冗談じゃない!」と怒号が響く、いやいや無意識に叫んだのかも知れない。
タツヤを中心にしてユグドラシルが円を描きエルダーエルフ二人の身体を横薙ぎに切り裂く。
穿たれた心臓に応急処置を施し、マナを濃縮して治癒を急ぐ、恐らくは肝臓に達したもう一つの傷も槍を引き抜くと同時に治癒魔法を重ね掛けする。
隙だらけのタツヤではあるが内臓を大地にドロリと撒き散らして倒れる二人のエルダーエルフよりはまだ即応できる方だろう。
眼前にチラつく死を予感して木の陰に飛び込むと黒いエルフが飛び蹴りをかましてくる。
辛うじて避けたが、割と太目な木が縦に割れている、化物かサオリか知らないが相手をしたくない。
「なぜ躱せた?。」
褐色よりもさらに深い黒い肌のエルフが、ピアスだらけの耳とラメ入りのシュガーリップを輝かせて武人のような言葉で語り掛けて来る。
アンバランスな事この上ない。
「死の予感がしたから、では答えにならないか。」
治癒魔法の輝きで森の暗さが半減する。
対峙した黒エルフから漂う最強の臭いが、俺の背筋に冷たい汗を走らせる。
二体の実験動物とは比べ物にならない、実験の成果が眼前に屹立していた。
ただの霊長類に、この黒いエルフの持つ洗練された最強のオーラは出せまい。
融解して存在を消し去ったあのエルダーエルフが行ったタックルは、恐らくこの黒エルフから教わった技なのだろう、つまり製造過程であの最強をイメージして造られた黒エルフである事は間違い無いだろう。
予備動作が全く無い無拍子の低空タックルが俺を襲う。
縦に構えたユグドラシルが無ければ間違いなく刈られていただろう。
肉食獣よりも肉食獣らしいそのタックルは、ユグドラシルの柄の柔軟性の限界を超えかねない壮絶さを孕んだ魔技のような一撃であった。
狩られる者としての予感が全力で俺に警報を鳴らす。
ただの身体能力だけで、何の強化も施していない"素の力"だけでユグドラシルを凌駕しかけたのだ。
これは狩られる。
狩人として感じてはならない狩られる側の恐怖。
暗闇に輝く黒エルフの目元の白いメイクと青緑色の瞳、長い睫毛が、引き上げられた口角と共にその貌を笑顔に変えた。
獲物を前にした獣の興奮が、その距離七十センチメートルでチロチロと焔を揺らしていた。
脱兎。
ウサギのような心が俺を逃走に奔らせる。
奔走。
逃げなければやられる、殺される?、いやいやそんなモノでは無い、アレは雌だ、あの雌は力づくで雄を捕食せんとする"そういうものだ"。
逃げろ!!逃げろ!!逃げろ!!!!!!!!。
「逃がさないわよぅ。」
低い姿勢からの爆発的な脚力を使った飛翔が、走ると言う事の本質であるならば、タツヤの逃走は三歳児のヨチヨチ歩きに相当する。
黒エルフの咆哮が漆黒の闇に染まった森に木霊する。
風が起こした枝葉のさざめき、小動物が立てた僅かな物音もタツヤを恐怖させるには十分すぎる騒音であった。
闇夜の森に轟く黒エルフの咆哮、装いはギャル。
タックルを受け切った事で気に入られてしまったのか、最初から"ソレ"が目的だったのかは定かではない。
今は、もう本能に理性が噛み砕かれた後なのは疑い様が無い客観的事実であった。
野獣と化した黒エルフが、黒ギャルとして完成された姿で筋肉質なその肌を隆起させて笑顔で襲ってくる。
凌ぐ度にタツヤの精神は削られていく。
「皆、俺……無事に帰れないかも知れない……。」
樹上のタツヤを見つけ、涎を垂らして登って来る黒エルフを見下ろしながら、絶望のあまりタツヤはそんな言葉を漏らしていた。




