第百八十九話 混沌の幕間は客を招く⑩
魔王城跡地、悪天候が続く危険な地であり、その山頂には魔王が滅びた今も余人が侵せぬ危険地帯のままであった。
現地の者達からは魔王山と呼ばれて久しいその山頂から滔々と流れる暴風雨による大量の雨水は麓の大地を潤し、豊富な水資源は何時しか荒れ地を雄大な湖へと変えて行った。
山頂の大惨事を只の風景と捉えられるならば、凡そ其処は楽園と呼んで相応しい立地であった。
遠雷が轟く、だが最早それに驚く者は近隣住民には殆どいない、それは勿論赤子を除いての話だ。
女子供や気弱な人間であったとしても、こう毎日毎日飽きるほど鳴り響けば雷など子守歌と大差なくなってしまう。
落雷に当たった者が出ても、そりゃ運が悪かったねぇと言われるだけで御終いだ、環境に適応した人間は図太いものである。
チャガ婆さんがのんびりと切盛りする茶屋の長椅子で若夫婦が子供をあやし乍ら、飴湯を美味しそうに飲んでいる。
麦芽糖を作って婆さんに飯代として納め、訝しがる婆さんを宥めすかして、飴湯の作り方を教えた訳だが、それもこういう飲み物があればここも、より茶屋っぽくなるだろうと思ったからだ。
俺は俺で昨夜の頭脳労働の反動で草臥れ切った脳味噌に活力をとばかりに、朝一で飴湯を二杯頂きながら婆さんに作り方を教えて良かったとしみじみと思う。
夏は飴湯をひやせばひやし飴として売れるとも教えてある競合する商売相手もいないので是非稼いでほしいものである。
水路の見回りに向かう為に茶屋を出たところでゴールディに声を掛けられた。
『世話をかけたようだね』
目のしたにくまを作ったゴールディを幻視する。
完全に寝不足なのだろう、興が乗った事は推測できるがハードウェアは俺なのだ、あまり消耗しない方向で頑張って欲しいものである。
「程々にしてくれよ。しかし、いいもんだな。血管から注入されるよりも、甘いものは経口で頂く方が有難みが万倍増すよ。」
点滴か静脈注射で摂取する鼻などの毛細血管で感じる甘みとは一味違う、いや別格である。
とても不憫な者を見るような目をしたゴールディを放置して水路を見て回る作業に没頭する。
割と晴れ晴れとした気分で日課を熟し、小屋に着くなり壁土を塗る作業に入ることにした。
魔王山の頂上にかかる暗雲が晴れ、ショッキングピンクの光で描かれた魔法陣が八十七層構築されていた。
数えたのはゴールディだが、まぁ…どうでもいい事だろう。
周囲のマナを暴力的に吸い上げて行く異様な光景が現出している。ねっとりした濃密なマナなのでハッキリと視覚化出来ているのがこれまた気持ちが悪い。
無風であった麓の空気まで吸い上げてゆく、そのうねりは地水火風の四元素を欲しているらしく魔王城周辺の残骸や瓦礫をも吸い上げてエネルギーに替え、疑似機構をブン回し始めていた。
破壊が力になり、構成されていく幾つもの術式構築物が屹立し、俺とゴールディはその機構に目を凝らす。
タービンらしき物や歯車、クランク、概念としてハチャメチャではあるがスチームパンクに程近い何かだった。
瓦礫も土も何もかもを炉にくべて行く暴虐の釜が沸々とマナを炊き、その力を余すところなく魔法陣の隅々まで行き渡らせていく。
『山頂で何が起こっているんだ』
「知らん。あそこが人外魔境なのは太古の昔からだと、婆さんも爺さんも大婆さんも言ってただろう。」
『う…うむ』
「気になるが山に近づけば大雪と悪天候で進めないし視界も悪くて何も見えんだろう、そして俺は天下御免の虚弱体質丸出しの死に掛けている病人だ、調べに行ったらどうなると思う。」
『確実に道中で死ぬ』
至極真っ当な評価を頂きながら、盥から鏝で壁土を板に乗せる。
「壁塗りを済ませないと隙間風がひどすぎて凍死が不可避な以上、どれだけ重大事が発生していても俺の身体が構う事をゆるしてくれないのさ。」
『魔法で作業のサポートしよう、半病人程度に回復する前に死なれても困るからな』
「其れもいいが、何か飛んできて当たれば間違いなく死ぬから、風除けか盾みたいな物の方が有難い。」
『任せておけ結界の類は得意分野だ』
完全に無風な空間のお陰で無駄な体力を遣う事無く作業が出来る。
これでゴールディに実体があれば作業を手伝って欲しいところではあるが、贅沢は言えない。
噴きっ晒しの野外で失う体力を丸ごと節約出来ただけでも、十分感謝に値する魔法行使だ。
普段、無駄口の多いゴールディが魔法に専念すると殊の外静かになる。
久しぶりの静寂に土壁を塗る音だけが聴こえる、耳に心地よい空間で割と有難い癒しの時間を過ごす事になったのは嬉しい誤算であった。
相も変わらず唐突な出向命令が下った。
この世界の監督権は何百年も前…いや数千年前に、彼に譲ったはずなのだが……。
綺麗に整地された、只々広い空間に緋色に輝く巨大な魔法陣が焼きついた光景が見えた、アレが着地点だ。
見渡す限り……と言っても視界は悪く、真実に転移が成功したのかどうかも今のところ判然としない。
「魔王城があった場所で間違いなさそうだが、設定した時間に到達出来ているかどうかまでは流石に判らないな。」
緑色の全身鎧と青いマントを纏った彼は迷いなく魔法陣の外へと歩き出す。
「精霊門のエネルギーに分解されて無くなっていなければ良いのだが……。」
そんな一言を呟きながら彼は濃霧の中を立ち止まる事なく歩き続けた。
聳え立つ一本の大樹が彼の前に立ちはだかるがどうやら此処が目的地であったようだ。
その大樹に一礼して幹の根元に置かれた石に手を触れる。
「墓石に施した術式が枯れている…精霊が絶滅したのか。」
腰から一振りの煌々と蒼白く目が覚めるような輝きを持つ剣を引き抜き、大樹に突き立てると、それは抵抗なく柄まで突き刺さる。
壊れた術式を補完し、喪われた精霊の力を補填する、そう云う力を貯め込ませた宝具であるようだ。
大樹を通して世界樹にリンクした彼は世界中を走査する。
力を殆ど失った大精霊が数体に、妖精の女王ティターニア、其れに従う少数の妖精と小精霊の存命を確認したものの、予想以上にこの世界は弱り切っている様だ。
精霊術の再構築を完了し、大樹の傍に幾らかの魔法を施して整地を済ませ、テントを設営し本格的に対話をする準備を始める。
鎧を脱ぎ、座禅の姿勢を取り術式を稼働させる。
周囲が隔絶した空間へと姿を変え邪魔者が近寄る事の出来ない環境が整えられる。
こうして、彼は情報収集に勤める事としたようだ。
精霊陣が大樹と繋がり、意志ある霊魂たちを引見して話を聞く場が構築された。それを目指して彼に情報を与えるついでに直訴しようとする魂たちが雪崩を打って押し寄せて来る。
傍目には、無念の情やら怨念渦巻く、危険な場所が爆誕した図にしか見えない。
程無くして想定していなかった情報が死者たちから齎され彼は期せず仰け反りそうになった。
「殺したはずのジオルナードが生きている?……エルフと勇者がカガクで蘇ら…何てことをしでかして…。」
初代勇者と便宜上呼ばれていた召喚者とエルフの狂った科学者がやらかした不始末がまずは露見した形だ。
そして彼が全ての情報を得て粗方理解した後片付けなくてはならない物事を系統立てて纏め上げた頃には、季節は麗らかな春を迎えていた。
世界に混沌が溢れかえるまでもう少しと言った時期であった。
「管理者権限を持った彼が行方をくらましてしまったせいで安全装置が働いたのは間違いない、そして生存は絶望的となれば管理者権限は自動的に前の所有者である僕に戻る…と。」
魔王山を平然と下山する彼ではあるがブリザードが暴風雨となり激しい雨が叩きつける辺りで八合目を示す木の杭を発見する。
これだけ天候が荒れたままの呪われた山であるのにまだ人の手が入っていて整備されている事に驚いた。
雨が止み光が射している荒れ野に辿り着きテントと寝袋を設営して倒れ込む様に彼は眠りに就いた。
下山開始から四日目、不眠不休の朝であった。
目覚める度にトイレをしたついでに薪を拾い、着替え、眠り。
川に入り身体と着衣を洗い、着替えて眠る。
空腹を保存食で満たし、眠って食べて眠って食べる。
完全に窮地を脱したテント生活三日目、彼が寝起きするテントに張った結界にイノシシの化物が突き刺さっていた。
結界の赤黒い網に捉えられ、四枚の鰭のような鋭い翼が三分割されて転がっている。
「こりゃ旨そうだ。」
こうしてゴールディの仇は討たれた。




