第百七十八話 西方都市イースの夜
一人、単独行動。
観光と洒落込む訳では無いが屋根の上から街を眺める。
現実問題として軍事行動が行われた割りに城下町の混乱は薄いものに見える。
崩壊した建物の数と破壊規模は怪獣でも暴れたかのような痕跡が覆い様も無い現実としてそこらじゅうに瓦礫と成り果てて転がっている。
地震で倒壊したレンガ造りの建物等よりも修復の見込みが立たない破壊振りに冷や汗を禁じ得ない。
惨状の度合いで言えばアルディアス区画全域よりも深刻な被害が出ていると断言できる有様だ。
今宵宿泊が決まっている宿、その屋根の上から見渡す限りの景色から、縦に境界線を引いて左側のほぼ全域が再建に十年は掛かりそうな程の破壊の痕跡を認める事が出来た。
屋根の上を歩いていて判る事がある、屋根には瓦が葺いてあるのだがかなり出来が悪い。
文明レベル、職工の程度がこういう部分からも読み取れる。
ユグドラシルの持つ付与の一つが直感を高めるものであり、その効果というか加護の力で踏めば割れる事が判ってしまう、故に幾度か踏みどころを失って立往生する破目に陥る。
追跡者には迷惑な停止であるだろう、ま、御愛嬌というヤツである。
三階建ての建物から壁にユグドラシルを落下しながら三度ほど刺して速度を殺し、音も無く着地してから気配遮断を容易にする隠形…これも加護の力だが…を発動する。
追跡や監視を旨とする彼等に対するちょっとした小手調べのようなものだ、尤もギルドマスターから依頼された噂の調査の一環ではあるが成否を問われてはいない。
良い暇潰しになるだろう。
その時はそう思っていた。
ましらの如き身軽さと、軟体動物さながらの動きで窓から出て行ったタツヤを見送った俺は、喫茶室の隣にある図書室で適当な本を見繕い、漫然とした態で喫茶室へと足を運んだ。
給仕の少女が淹れてくれたコーヒーが、すっかり冷えて不味くなった頃、手にしていた生活魔法の書から役立ちそうなものを幾つか書き出して纏めていたメモを読み返す。
まずまず有意義に時間潰しが出来ていたと思うが、どうだろう旨い紅茶をとオーダーしてもう一冊卓上に確保しておいた本を手に取る。
本来は新聞でも読みたいところだが、出掛けに買って来た新聞の方がより新しい情報だと知って異世界の文明レベルを実感する、いや肌で感じたと言うか、スマホのように逐次速報が届けられて情報を得られる事の方が尋常ではないのだと今更ながらに思う。
かろかろとティーワゴンが本を読み耽る俺の傍に到着し、執事然とした男が優雅な一礼を施し紅茶を淹れ始める。
流れるような優雅な所作とモノクル眼鏡の似合う鼻の高い若者だった。
年齢からして本来到達できるか怪しい程の完成度でこの若者は執事であった。
良いティーセットである事が嫌でも判る白磁の白さに暫し時を忘れる。
馥郁たるその紅茶の香りに魅せられ、静かにその味と香りが織り成す見事な時間を堪能した。
本物を本物が淹れるだけで、万倍も美味くなるとはこの事かと納得させて頂く。
タツヤが鰻を焼く事に、味を探求することに妥協を許さない、その姿勢はこの若者からも感じ取れる。
満足の境地に至らせて貰った礼を述べて御代わりを頂戴する。
ティーポットのお陰であと二杯はこの至福を楽しめる事だろう。
子連れの小母さんが背負っていた、その息子らしき嬰児を、おもむろに掴んだ小母さんが間髪を入れずに私に投げつけて来た。
言葉で説明するとその異常性は薄れるものではあるけれど、如何考えても嬰児は投げ付ける道具や対象からは程遠い。
手を添えて円を描くように嬰児を受け流しながら後退し、出来得る限りの体捌きで嬰児を受け止める。
乱雑に投げ付けられたものを壊さないように受け取るのは難易度が高すぎる。
幾らある程度は出来るのだとしても限界を越えるような速度は流石に対処しきれない。
だが、幾ばくかの掠り傷と転倒だけで済めばそれは御の字と言うものだった。
五本の爪が私に降り下ろされ、血に酔った眼をした小母さんの姿がメリメリと音を立てて変貌する。
「あ、これやばいやつだ。」
不意に出た己の素っ頓狂なセリフはさて置いてこのピンチを乗り切る手段を講じなくてはならない。
七色のラメを散りばめたユリお手製の装飾が目に厳しい鰻皮のバッグから薙刀を射出する。
中に居るホムンクルスに命じればこの程度は造作もない。
金属と金属が激突する激しい打撃音が薙刀と爪の間で発生する。
有り得ない音にたじろぐが嬰児を抱いて距離を取る為に転がる時間は稼げた、薙刀の回収と射出をある程度繰り返してからキャンプバスケットを取り出して嬰児を静かに安置して更に距離を取るために走る。
轟音と共に異形の姿となった小母さんが私を追う為に吹っ飛んできた。
爆裂魔法の推進力を利用して一気に吹き飛ばされて来たと言ってもいい。
薙刀の石突を中心に半円を描くように薙刀をコンパスの様に突き立てたまま、突っ込んで来る小母さんの推進力を殺さないように足を添えてあらぬ方向へと受け流す。
相手の気に合わせて力の流れをただ利用しただけの事だ。
「あたしを怪物扱いした連中は、なーんも判っちゃいなかったケドね。」
並み居る力自慢の男どもを投げ飛ばしたり、鎧武者も相手取れる膂力が早々、女の細腕に宿る訳も無い。
数度ばかり小母さんの攻撃を受けて、流して利用して反撃して見たが、それは粗削りで単調な獣の戦いに酷似していた。
侮れる様なものでは無いが、洗練されていないだけあって色々と隙や荒が目立つ。
師匠の薙刀捌きを思い起こして目の前の野獣と化した小母様の最後を看取る事にしようと心に決める。
覚悟を決めずに戦えばそれは相手にも己にも、技を伝えてくれた先達にも失礼千万である。
先ずは、変形し見る影もなくなった歪なその身体を支える脚を無力化する、それだけでバスケットの中の嬰児の生存率が飛躍的に上昇する。
力任せに振るわれる爪を激しい金属音を鳴り響かせながら撥ね退けて関節や筋、特に腱を狙って薙刀を振るう。
肩と繋がる大胸筋の繋ぎ目に薙刀の切っ先を突き入れその攻撃を防ぐと、脚での攻撃と魔法が主体に変わる。
戦いの見た目が派手になれば当然の事ながら人目を引きつける。
アイコンタクトを受けた俺は彼女の手に在ったバスケットを摺り抜きざまに受け取り、即座に戦線を離脱、宿屋の中で最も安全そうな場所へと急いで運ばせていただく。
勿論迅速に彼女の下へ引き返さなくてはならない、緊急事態である。
ここぞというときに居て欲しい人間が周囲に居ると言うのは幸福な事なのだ。
片手で振るっていた先程までの劣勢から一転、私の不利はこの時を於いて有利へと覆る。
点火。
久しく眠らせていた老描がそのしなやかな足取りで縁側を離れる。
飛び掛かって来た異形の化物の両足から伸びた爪と蹴りの二連撃を最短距離と必要最低限の力でもって閃かせた薙刀で迎撃する。
左手を支点にして右手で薙刀を梃子の原理で自在に振り回す。
ガシガシと異形の身体を抉って裂いて侵攻を押し留める。
再生能力という卑怯な力で眼前の異形の化物の両腕が回復の兆しを見せる。
「うっとおしい!!。」
大人しく待てない客をあしらう様に両手首を鉈で叩き落す。
普段は角お盆でセクハラ客の手を強かに打ち据えるお灸の様な技だが、刃物でそれを行えば簡単にその手首を落とせる。
「倒し方くらい勉強しておかないと、やっぱりダメだったわ。」
薙刀を構えなおして一歩踏み込み化物の顎を割る。
距離感の修正は今一つであったが懐に飛び込まれれば厄介だ。
そう思いつつも私は間合いを詰めて行く。
消極的戦法ではこの化物との戦いで時間を稼げるとは到底思えなかったからだ。




