第百五十八話 粗忽者の鎖、慌て者の坩堝
渡河の用意などしている筈もないデモルグルの騎兵一万二千余騎、後背の小高い丘に輜重隊…いや非戦闘員に近い少年兵と老人たちが本陣を形成している。その数は数百、食料に幾らか家畜も引き連れているあたりに長期戦に備える覚悟も見え隠れしていた。
シルナ王国の西と北西に陣取っていた軍閥の指揮下にある軍隊と守備兵に民兵を加えた混成軍のようなもの…軍と言うのも勿体ない気分が拭えない雑兵が急拵えの軍船と元は漁船と思しき小舟で名も無き津に陣取り、デモルグルとの中間地点には数だけはなんとか揃えた騎馬隊がデモルグル騎馬隊と合流を果たさんとして侵攻を開始していた。
残雪が草原を覆っているが、所々陽光に溶かされ、進軍に大きな影響は無かった。
農地化の為に造成されている用水路が所々工事中のまま放置されているが今回の戦争に影響は無い様に見える。
新規造成されたトリエール王国の砦からは昼食に備えた炊煙が昇り、城壁の各所からは飲み物を片手に歓談しながら戦況を眺める貴婦人たちとその夫、そして子供たちまでが望遠鏡を片手に楽しそうに微笑んでいた。
槍兵が穂先に隊伍の呼称を示す旗を靡かせて前進を開始すると砦の中からは行進曲が奏でられる。
フルオーケストラと共に歩兵が続きイスレム隊長の周囲の近衛隊が華美な衣装で無骨なイスレムを逆に目立たせる。
不機嫌ではあるがパトロンとも言える貴族達の歓声に応えるように右手を挙げて馬を進ませる。
本隊は斯様な状況であったが、これはセレモニーでしかない。
王命であり主命である今回の大遠征の先駆けとしてダン・シヴァが下知を受けて、イスレムが総大将として出陣と言う運びだ。
本当の先駆けは八氏連合を率いて既にシルナ王国の西の都へと進軍しているが、後詰としてノットがタケルに呼び出されて第二軍を率いて出撃してしまったものだからたまらない。
イスレムは唯独りでダン・シヴァの名代としての役割を熟さなくてはならなくなった。
だが、戦う相手は遥か昔より境を隔てて戦い続けたデモルグル軍の騎馬隊である。
「相手にとって不足無し、だがこの貸しは高く付くぞ若造共。」
普段からイスレムの傍で長く仕えている二人の騎士は何時になく闘気が漲る我が主に、十全の戦いをと決意を新たにするのであった。
まるでお祭り騒ぎの様相を呈していた砦の様子を見遥してテムは深い溜息を吐く。
温泉を満喫し、王都の繁栄ぶりを実感し、生まれて初めてうなぎなるものを食った。
その活況ぶりと美味なる食べ者たちを思い出すだけでこんな戦争思い留まり、素直に草原に引っ込んでシルナの王国の滅亡を待ってから領地の安堵ないし割譲に応じてしまえば良いと思う。
軍門に下って戦地を駆けるのも悪くない。
老人の意を汲んで前者、未来の飛躍を自ら勝ち取りたい若者の意を汲んで後者と言う結論だ。
「お前はシルナ王国が勝つとは思わないのか?。」
モノを知らない爺さん達を説得するのは難しいものがあった、そしてシルナ王国へ放った間者が疫病で次々と命を落とし、士気も練度も低下の一途を辿っていると言う報告を得て今この時を迎えた。
温まった馬乳酒を飲みながら長の問いに情けない表情で答える嵌めになる。
「国民の凡そ七割が疫病に犯され、その更に八割が死に絶えていく有様のシルナ王国がもし勝てるとすれば、神の力か悪魔の力、もしくはトリエール王国が気変わりする以外の何れかが必要です。」
ほろ苦い気分で残りの馬乳酒を咽喉に流し込み額に手を押し当てて溜息を吐きどうしようもない事態である事を補強するために口に乗せる事も憚られる一言をも添える。
「天の時、地の利、人の運このどれもが我々には御座いません。打開策があるとすればランディリーデンの封印兵器でも一つ発掘してブチ当てて見る事くらいですよ。」
長の長男の嫁であるシヨからもう一杯馬乳酒を頂き静かに啜る。
絶句とでも言わんばかりに長と年老いた部族の頭脳たちが幾らか議論を交わし始める。
「トリエール王国の富は俺達程度であれば百年養っても小動もしない事だろう。タケルとかいうヤツについても調べたがタキトゥスの元奴隷、其の後捕虜として捕縛され戦場に駆り出され、最近騎士爵まで得た出世頭だ、若造の戯言だと聞き流して頂いて構わないが、時代の流れが到来したと見たトリエール国民は少なくない、それよりもだ。」
居並ぶ老人たちを見渡してテムは優しい目で言葉を続ける。
「爺さん達を皆あの温泉に入れてやりたいってのが恭順の理由だよ。」
途轍もなく馬鹿馬鹿しい理由で答申を締めてテムは会議場となった包を退室する。
あの夜の会議がその後どうなったのかは知らない。
高揚する若い猛りを妻に受け止めて貰っても彼はその日全く寝付けずに朝を迎えてしまった。
今ここに至って愛馬を駆る段になっても正直戦意が余り湧いてこない。
なんとなく気付いてはいるのだ、自分のいる陣営がおかしいのだと、シルナ王国とのしがらみが絡みついて来て不快なのだと。
「疫病が近付いてきた、逃げるぞチャガ。」
まずはシルナ王国の騎馬隊とは絶対合流しない旨を記した手紙を竿立ててその場に遺して前進を開始する。
敵よりも恐ろしい疫病媒介者が混ざっていたら目も当てられない。
こうして戦う前から連携など全く無い状況から生還する難しさに頭を悩ませる事となる。
一人でも多く生きて帰らせると言う決意でしか報いる事の出来ない、シルナ王国への最後の義理を果たす為の戦いが今始まろうとしていた。
シルナ王国の船に乗った兵隊たちが川の流れに任せて峡谷沿いに進軍を開始した。
砦に近い開けた平野に出るまではハッキリ言って流れる以外何もできる状況ではない。
春の雪解け水で増水している川で幾ら竿を差しても止まる事は出来ない。
そこで話は変わるが、皆は鎖の作り方を知っているだろうか?。
熱い鉄の棒を曲げて輪を作りながら繋げて行く頑強な鉄鎖の事である。
そして次は船の構造である。
船には舵と云うものがある、大きな船であるならば当然人力のみでは困難なモノを転舵する事で進行方向を左右に切り替える事が可能になる。小舟でも手漕ぎボートのような喫水の浅い舟にはそんなものは付いてはいない、兵員を乗せて川を下るような船であるならば当然櫂や舵が付いている
。
平野に至るその道程にその鎖が張り巡らされているとすれば、さてどうなるであろうか?。
舵が整備不良で腐りかけ等と云う幸運が新造船には無く、船尾に鎖が引っ掛かり船首が上を向き転覆。
歩兵の大多数を運んでいた船舶には運の良かったものもあり、方向転換が出来なくなるだけで済んだ船が渓谷を越える事に成功した。
係留予定の津を越えて船は加速度を増して流れて行く。
緩やかな曲線を描いていた筈の河はタケルによって切られた場所からかなりの段差のある滝になっている。
昨年の戦の際に新造された水路造りの一環で造られた新しい滝なので滝壺は壺などと呼べるほど深さは無い。
それにより船はあっさりと水底に激突し再起不能な壊れ方をする。
壊れた船から投げ出されて運良く即死出来たならば幸せな方である。
また話は変わるが春の雪解け水の温度をご存じだろうか?、逃げ道のある滝行などでも数年に一人は死人が出る温度である。
増水した冷たい水の流れる河、それが大河特有の泥水が流れる河で鎧を着たまま流されるとなれば生存率は恐ろしい程低くなる。
そして陸に上がろうと試みる兵士達は土魔法で造られた指を掛ける隙間もない垂直な壁に取りつこうとして指の爪を失う悲劇に見舞われる。
ツルツルのコンクリート壁が続く運河の出口には水門が設けられており、水不足に対応出来る貯水ダムのような役割を想定して造られている。
ダムの中をグルグルと船の残骸とシルナ王国水兵だったものが回り始めるころ、シルナ王国の雑兵…ではなく、シルナ王国の歩兵部隊に向けて長城破砕軍二万とイノが率いる騎兵二千が襲い掛かる。
「天の法術空の目のお陰で伏兵も丸見えだな。」
タケルから伝授された法外な秘匿魔法で敵の位置と指揮官の位置を確認して突撃を開始する。
長城破砕軍は基本的に後始末としての役割に徹している。
それもそのはず、白昼堂々人目のある中でドラゴンスレイヤーを放つなど言語道断であるからだ。
よって特殊兵科で在りながらやる事はただの歩兵であり、魔法兵の戦い方である。
騎兵の突入前と突入後に広域殲滅魔法を打ち込む簡単なお仕事である。
ドラゴンスレイヤーが高度化するに従って、基礎的な魔法の鍛錬を怠る事が出来なくなり魔法兵の練度は飛躍的に上昇した。
障壁魔法が本当の基礎魔法なのでそれだけやり続けていてもそれなりに魔法の威力や障壁の強度は高まって行く。ある時魔法兵の一人が気付く、魔法の威力が満遍なく高まって行くのであれば苦手な属性を鍛錬すればより成果が上がるのではないか?と。
彼は実践した、勿論自らの成果の記録を取りながら、そして彼の考えを支持した友人たちの協力とそれに伴う実験結果によりこの鍛錬法は有用であるとされ、魔法兵の教本にデーター付きで紹介される。
以降、彼はその命が尽きるまで魔法を使う者達の能力を伸ばす研究と実践に生涯を費やした。
彼の名はビリー、後の魔法教官ビリーである。
この戦争では多くの才ある若者たちが何らかの武功なり勲功なり成果を挙げたとされる。
シルナ王国は北部戦力の致命的壊滅を史書に刻み、トリエール王国は歴史的勝利をシルナ王国から納めたのである。
長城破砕軍の指揮官ラディはシルナ王国歩兵の死体を河に投げ捨てる指令を発し、魔法兵に疫病の予防と罹患者の治療を委ねた。
イノのサポートに三千の歩兵を送り、替え馬や武器の交換が何時でも行える体勢を整える。
出陣前から運び続けていたお荷物がドンドン消費されていくのであるが労苦が報われた喜び半分、飛んでいく軍事費の恐ろしさに恐怖半分であった。
「よし、脱走兵はあと八人だ、あの程度なら忍びに任せて俺達は死体処理に向かうぞ、放って置いたら大変な事になる。」
イノの指示で整然と騎兵二千と歩兵三千が戦場の後始末へと動き出す。
デモルグル軍に取っては知る事の出来ないシルナ王国軍の不甲斐無い敗退であり、シルナ騎兵隊にとっては早く知り得ていたなら地の果てまでも逃げただろうと述懐するに足る重大な損失であった。
天の法術空の目を使いデモルグル軍の急襲を知ったイスレムは予定通り悪質な罠が仕込まれた地点を挟んでデモルグル軍の突撃を受け止める形になる。
相手がタケルでなければ、精強なるデモルグル軍はトリエール軍を突き破り大いに暴れ回れた事だろう。
騎兵の進行方向には人工的に造られた水田予定地があり、その泥濘の深さは馬の機動力をもってしても走破不能であった。
騎竜に乗っていたデモルグル騎兵だけがその悪辣な沼地を走破、左右から槍兵に包囲されて騎竜を突き殺されて捕縛される事となる。
一人金貨二枚の賞与が賭かっている、トリエール金貨は世界の平均的な金貨よりも純度が高く日本の貨幣価値で換算して凡そ三十万円相当の貨幣価値がある、なので兵士たちは挙って生け捕りに精を出す事となる。
自害を防ぐ為に拘束も念入りに行われ、代官たちはその判定に大わらわであった。
何とか沼地を脱したデモルグル騎兵は再集結を果たし、その損害が軽微であった事を喜び、騎馬や騎竜を失った者達を自陣へと徒歩での撤退を命じた。
本陣への帰還が叶えばまだ馬も竜も在る。そう思い森へと向かわせる。
今の無様な有様を見ていたならば馬や竜を駆って子供達が丘から森を駆けて届けてくれる事も在り得るだろう。そして、それは事実そのように取り計らわれていた。
イスレムは、天の法術空の目に記されたタケルが書き記した道の通りに軍を進めて行く、勿論踏み外せば沼地なので皆必死であったが、大きな混乱もなく沼地の中の確かな道を進む。
テムから見ればそれは危険極まりない進軍であり、横撃の一つでも喰らわせなくては本陣が突かれて戦いどころでも交渉どころでもなくなる事態が発生する。
どんなに鈍い者でもその程度の事は気が付くであろう。
騎竜に乗った部隊に沼地の在処を探らせていると電撃を伴った広域殲滅魔法がトリエール軍から降り注いでくる。
魔法兵が増員されているのは王都でも帰り道の砦を通過する際に嫌と言うほど確認していた。
計算され尽くした沼地の幅に舌を巻く、デモルグル騎兵の持つ短弓では届かない距離に道があるのだ。




