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放り出されたセカイの果てで  作者: 暇なる人
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第百五十六話 連鎖する未曽有の危機

 シルナ王国は、未曽有の危機に瀕していた。

 冬になるよりも以前からずっと未曽有の危機が延々と継続しているのだから恐れ入る。

 彼等は事態を知っても手を打たなかった、事態が悪化しても手を打たなかった。

 無能だけが支配者階級に蜷局(とぐろ)を巻いて居座っているなどとは酷い話であるし、俄には信じがたい。

 だが悲しい事に其れがシルナ王国の国柄であり、更に不幸な偶然の連鎖でそれは事実となって其処に鎮座し続けていた。

 多くの危機を吸収できる体力は、大きく広い領土や国力、先人が積み上げた財産の多寡である。

 シルナ王国は春を迎える今この時までもその程度の国難を無視できる程度には強さが残っていた。

 事実このまま疫病に蹂躙される程度だけであるならば、持ちこたえたかも知れなかった。



 中央都市チキンの下層市民が住む貧民窟は最初無事であった。人々の往来が激しい商家が犇めく区画が突如疫病の発信源と化すまで、ではあるが。

 貧民窟の住民が罹患しなかった理由は、身分の低い者達が罹患しても中央都市チキン中層部への避難や転居が出来ず、ある程度身分の高い者達だけが、罹患していても疫病の潜伏期間中に中央都市チキン中層部に転居と謂う形で潜り込んでしまった事にある。

 避難民としての入国であるのならば貧民窟と行かないまでも下層部で止め置かれた可能性が高かったが、身分のある者たちは縁故を頼って中層部ないし上層部へと入場を果たした。

 そして潜伏期間を越えた疫病が爆発的な勢いで猛威を振るうこととなった。



 中央都市チキンの周囲にある四方の都市で疫病が蔓延し壊滅的な被害が確認されるまで二ヶ月と言うタイムラグが発生した。

 これは人為的に仕組まれた情報封鎖が原因だ、勿論犯人はタケルである。

 彼は、シルナ王国の広い領土にある情報の要とされる要地に伝令を殺すための間者を大量に送り込んだのだ。



 だがタケルが予想だにしなかった誤算がこの数か月の間続発する。

 苦しむのは下等市民で無くてはならないと言う、腹の底から汚い理由で、「罹患者を貧民窟に捨てるべし」などと言う唾棄すべき勅命がシルナ王より下る。気が狂ったかのような所業により、貧民窟、下層部が立て続けに疫病の巷となり見事中央都市チキンが丸ごと罹患者塗れとなる憐れな事態へと発展、結果都市機能が麻痺する運びとなった。

 これは何処にも笑える要素が無い。



 感染力が強く、長く苦しむ事が特徴であった疫病が変質し、劇症を起こしたり、症状の悪化が見られるようになった頃、王都を囲む様に守護するはずの都市は既に疫病に敗北し、トリエール国境の長城内側の都市は壊滅。

 朽木が倒れる様に多くの国民が死に絶えて行ったのである。



 前年のトリエール王国との戦争により国交は断絶し、国境は完全封鎖され、商人であっても近寄る事すら出来ず、シルナ服を纏っているだけで捕縛の上隔離される有様であった。

 医療を理解できる者達であるならば、それは防疫の一環であり差別的な意味などは微塵も無いのだが、「一々説明する時間も惜しい」と癇癪を起した時の国境守備隊長が、面倒極まりない説明を省き、訪れた者達を次々と魔法で眠らせて消毒薬を振り撒き、防疫の為に新設された施設に運び込むと言う何とも表現に困る事件が発生し、半ばパニックになりかけたと言う笑えない話もあった。



 当然と言っては何だが、過労で正常な判断が出来なくなった者たちは取り押さえられ、温泉での静養を国王陛下より厳命され現在湯治による加療中である。伝え聞くところによると「経過は良好なれど要観察」とのことだ。


 斯くして国境は治療施設と臨時の交易所除き、ほぼ完全封鎖されるに至った訳である。

 国境に仮設テントで設けられた臨時の交易所では、縁日のような賑わいと亡命希望者が長蛇の列を作り、治療施設では改宗を済ませてからでなくては入れないと言われたシルナ王国国民が怒鳴り散らしたり、遺体を火葬する事を止めようと必死になる遺族たちがいた。

 疫病発生のメカニズムを知らない者達への説明が難しい事は予想されていたが、こちらは遺体や家族親族への想いも汲んでいては疫病の蔓延を防げない、よって改宗の際に書く誓約書に遺体の火葬を承認する旨を最初から明記して事にあたる事とした、そしてそれは予想通りに功を奏する事となる。

 改宗の際左胸に刻まれた信仰紋が淡く輝き、そんな彼等の発狂にも似た行動が静かに治まって行く。

 イグリット教の教主が折れるまで交渉が続けられたタケル謹製の信仰紋の発動である。

 その効果は反抗する心を沈静化する精神安定剤の様なものであった。

有体に言えば入信すれば一切逆らえないと言う事に他ならない。



「ミドウ教と名を変えても良いと、私は思うのですよ。」



 砦の外で繰り広げられる騒動を見下ろしながら、イグリット教教主がコーヒーカップを弄びつつ、タケルに祈りを捧げる。


「私の信仰対象は国王陛下ですので、それは謹んでお断りさせて頂きます。」


 王城の方角にタケルが祈りを捧げて教主のそれを受け流す。

 皮肉が全く通じない相手には何を言っても情緒的回答は得られないものであった。

 信仰紋とされたアレのベースは奴隷紋である。何が仕込まれているのか知れたものでは無い。

 だが、渋々と言えど呑んで仕舞ったからには責任を取らねばならない、全く以て仕方の無い現実である。



 シルナ王国の様子を探り、滅亡までの絵図面を、当の昔に描き上げて、その完成度を確認しているだけのタケルからすれば、下衆な事極まりない策謀の数々に多少なりとも抗ってみて欲しかったのだ。

 しかし予想の三倍速で自殺行為を繰り返すシルナ王国の様子を見ると、春の訪れと共にシルナ王国は切り取り勝手のホールケーキと化す懸念が沸々と湧いてくる。

 シルナ王国の国土は、トリエール王国による世界制覇の足掛かりとして不可欠のものであるから、要らぬ対抗馬が産まれる前に全てを迅速に併呑して置きたい処であった。



 相手の知能と精神性をグッと下方修正する必要に迫られたタケル達は、連日連夜の会議でシルナ王国側の対応の拙さを知る事となる。

 まずは、根拠のない民間療法で疫病を治療している気になっていた事、続いて疫病に罹患した患者であるのに遺体を焼かずに土葬を続けている事。

 上記二点は、ある程度仕方が無い側面があるのだが、極めつけは貴族社会の葬儀にあった。

 帷子を着せた貴族の遺体を長期に渡って祭壇に飾り、喪に服すとして疫病患者の遺体の前で飲み食いし、歌舞音曲を奏で、死出の魂の旅を彩る。そしてその様な会場で参列者が遺体から疫病に罹患し、還らぬ人となるのだ。

 罹患者の増加に歯止めが掛かっていないとの報告でタケルはパァンと膝を打つ。



「医療が存在しない国を相手にしていると前提に切り替えよう、より大きく下方修正だ。」



 生薬タイプの薬草や薬学等の医学の可能性を多少なりとも信じていた部分を、修正する決断に生じる迷いが発生した期間分、確実にタケルの計算は狂った。

 魔法があるのだから、その内に魔法医療へと移行するだろうと軽く考えていたのがそもそもの間違いであったとタケルはこの頃の手記に認めている。



『特権階級なら治癒魔法でなんとかするさ、それにな、雪が降れば粗方死滅してしまう、そういうものさ。』



 冬が始まる前にコンラッドに語って聞かせた言葉を思い出して赤面してしまう。

 まさかシルナ王国の王族が魔法の使用を退け続けるなど想定外だった。

 理由は聴けば分かるがそこまで嫌っても意味がない程度の話だ。

 シルナ王国の王は一人を除き、全員魔法による暗殺でその命を落としているからというものだった。

 国土をぐるりと一周長城で囲み、楽土を建設するに至ったが、その中で圧制を布き続けた結果が暗殺の連鎖に繋がった事は疑いない。

 ここまで手の施し様が無い状況が産まれた理由はやはり長城の存在なのだろうなと思い至った辺りでタケルの作戦は大規模な修正が入ったのである。





 弾体回収班が先行し長城の近くで陣を形成し本隊の到着を待ちわびる、今は雪解けの季節。

 八氏連合の旗を先頭にイグリット教旗が翻りトリエール王国軍の旗が続く。

 太陽の光が残雪に降り注ぎ、このまま一月も待てば春が訪れる事だろう。

 魔法兵団が練りに練り上げた魔法の粋である広域殲滅魔法は聖職者達の協力の下広域消毒魔法へと姿を変えた。疫病殺しのこの魔法はシルナ王国侵攻に欠かせない一手である。



「デモルグルの騎兵は出来る限り生かして捕らえよ、誰であろうと一人頭二枚金貨を賞金として与える、殺してしまえば賞金は無い。」


「それは何故ですかな?。」


「彼等の国は流浪の民となった陛下の祖先を暖かな食事と寝床で遇した、ならば我等もそれに応えるべきである。」


「なるほど、ではシルナ王国兵の扱いはどの様に?。」


「歯向かうものは皆殺しにせよ。」


 タケルの一言を聞き、静かに一礼すると士官は着席した。

 彼はシルナ王国兵をも助けよ等と言うのでは?と、心配になったのだろう。着席後の彼の顔は上機嫌であった。



 タケルは一抹の不安を抱かざるを得ない。

 未曽有の国難が訪れ、人心が乱れて権力者がその権力を喪いつつあるとき、その国には必ず高確率で救国の英雄が誕生するのだ。

 そうなる前に民衆を必要以上に篤く遇し、支配者層と兵士を根絶やしにする。

 尤も支配者層とされる者達は自分自身の手で自らの係累を根絶やしにし兼ねない勢いで罹患していると言う報告が時間差で届き続けている。

 マーの一族郎党が使用人も余さず罹患して死滅したあたりで疫病の猛威を恐れて王都を棄てて逃げ出す者が現れた、しかしその豪奢な獣車の車列は民衆に十重二十重に囲まれ財貨は全て奪われたと言う。

 トーの一族が中央都市チキンから命からがら逃れ東の都市に逃げ込んだが、そこは疫病が猛威を振るう巷であり、一族悉くが罹患し、明日をも知れぬ命であると言う。

 この報告の後で、狂い過ぎた計算をご破算に持ち込み、再計算に入るには早期侵攻が不可欠であるとタケルは思い立ち、側近を集めて作戦を見直し、王都からの援軍を待たずに出陣する運びとなった。



 民心を強く掌握した英雄が立ち上がる前に、その実像も虚像も判然とする前にシルナ王国を滅亡させなくてはならない。

 残雪がまだ残る街道を進み、予定通りの平野でドラゴンスレイヤーの砲列を並べ、号令一下、シルナ王国自慢の長城を吹き飛ばして更地にしていく。

 この砲撃をもってシルナ王国撃滅戦の幕は開いた。



 北部国境の都市は今は更地となり遺体は土魔法で造られた焼却炉で火葬され、慰霊碑建設予定地に順次、無名のまま葬られた。

 予め用意されていたイグリット教様式の墓標には改宗者の紋が記されておりシルナらしさは何処にも遺されていない。

 何十年もの間、手入れ一つされていない街道の拡幅工事を行いながら南進を開始する。

 人の少ない散居地域では支配者が替わった事とイグリット教への改宗を薦める座談会を開き、改宗に応じる者には篤く遇する事を約束、隔離されていた疫病の罹患者を見つけては改宗を対価に治療を施す、どうしようもない程にえげつない宗教活動が各所で繰り広げられていた。

 勿論改宗に応じない者には国外退去を命じ、南の都市へと強引に追いやる。



「しかし、タケル様の布教活動はなんとも厳しいものですな。」



 赤髭が目立つ騎士爵の男が唸る様に漏らした。

 その姿を横目にしみじみとタケルは語る。



「私の故郷では、飲食店にある壁際の四人掛けテーブルの奥に一人を押し込んで、改宗するまで三人掛かりで精神的に追い込み、逃げ場を全て無くして入信させる事がその宗教にとっての普通の宗教の勧誘方法だった、そして、その宗教には御利益等全く無く、精神以外は何一つ救われない偽物と言って差し支えないカラッポな宗教だった。その似非宗教のやり口に比べればこの程度の勧誘は物凄く甘い、何しろ現世での宗教的奇跡を先に提供してくれる、奇跡を与えてくれる、現実に命を救ってくれる、イグリット教は数万倍も良心的だからな。」



 なんとも恐ろしい故郷に御住みだったのですね、等とは口に出来ず、赤髭の騎士は目の前の甘い勧誘を見て何度吐いたか判らない溜息を吐いて部下達の作業に加わる。

 何処の宗教とも知れぬタケル様の知る宗教は、恐らく、神など欠片も存在しない宗教ではないかと思いながら。



 付近の疫病により全滅ないし壊滅した村落を巡って信者を増やし患者を癒す。

 新設したデモルグルと戦闘を行う予定の砦に改宗者を集めて民兵を組織する。

 北部地域の丁寧な併呑と支配の安定を計る上で自分の土地屋敷、そして家族を守ると言う基本的な部分を足枷にする事は大切な支配の要であった。

 元々誰も使っていなかった土地を分譲して戦後の所有権を認めると言うものであるがそこは既に水耕を行う為に整備された場所だ、目論見先行で結果は予想の外ではあるが、見事な穀倉地帯となるであろう幻覚程度は魅せられる、その威容だけは見た目に訴えかけてくる規模の農地であった。




「シェスカ、ハバド居るか?。」


「「はっ」」


「南西の村に英雄が立ったようだ、至急別々の道を駆けタケルさまに報告せよ。」



 一通づつ内容が全く同じ密書を渡された二人はそれを押しいただくと迅速に部屋から姿を消した。




「全て読み通りという訳ですか。」


「当たって欲しくは無いと仰っていた事だ、感心されてもあの苦虫を噛み潰したようなお顔を見ることになるから辞めておくとよい。」


「それは勿論…さて、治療法も無しにこの疫病をどの様に治めて見せるのか興味は尽きないところだが、南西に追いやりつつ逸れた者を改宗させ続けて滅亡させる基本戦略に今のところ修正の余地は無いと見るが、どうだ。」


「手を加えるとするなら魔法治療の存在を見せびらかしながら改宗を薦める立札を作り、街道沿いに建て捲って希望の灯で照らして行く形でなるべく兵士の損耗を抑えたいところだ。」



 銀髪の男がそう答えると、豪奢な金髪の男は腰の剣に手を乗せて微笑する。



「どうやらまだコイツの出番は無いと言う事か。」


「改宗を拒んで暴れる者を斬る程度の出番しかあるまい。」



 だが遠くない未来に彼等は英雄殺しの任が与えられる事を微塵も疑ってはいなかった。





 深く広く掘った穴……と言うよりも窪地に疫病で命を落とした遺体が並べられ埋められる時を待っている。

 中央都市チキンより西、西の都市よりも東、チキンからは遠いが西の都市からは近い程度の村落に難民と病人が集まり、疫病に抗し切れず亡くなったものを見送った者達は罹患する前に南へと逃れる支度をしている。

 聞けば中央都市チキンへとトリエール王国軍が日を追うごとに迫り風前の灯火であるという話だ、とても東へは逃げられないし戻る事も出来ない。



「何故だゲント、何故遺体を焼かねばならない!。」



 粗末な服を纏った男がゲントと呼んだ男に掴みかからんばかりの勢いで異を唱えている。

 シルナ王国の幾つかある宗教のうち大多数を占める宗教が、土葬でなくては次の輪廻で人にはなれないと教えている。

 死体の上に黒猫が乗ってはならない等色々とあるがそこらは割愛しておくとしよう。

 遺体の部位欠損も次の生での障りになると信じられており、遺族は欠損部位を探して戦後の遺体の山の中を駆けずり回ると言う事もある。

 遺体を焼く。つまり荼毘に伏す事を選んだ宗派とは非常に相克が深い。

 トリエール王国との戦いで得た捕虜を、生きたまま長く苦しめる残虐極まりない殺し方や、遺体までも辱めるシルナ王国のものの考え方や所業の背骨の部分がここにある。

 トリエール王国としては疫病の対策も然る事乍ら、火葬が一般的に行われる宗教である。

 丁寧に弔って碑石、碑文を記して整えた慰霊碑もシルナ王国から見れば焼かれて輪廻を断たれた遺体を良く判らない石を乗せて封印されたと受け取られる事となった。

 この誤解をどう解くかと自に問うたタケルの応えは面倒臭いの一言であったと云う。



「落ち着けカン、私の話よりもこちらの旅の魔導士殿の話を聞いた方が早い、まずは一杯水を飲んで其処に座れ。」


 肩で息をするカンと呼ばれた男を周囲の者達は労わる様に見つめている。

 やむを得ない状況に無理矢理搾り出した結論ではあるのだが周知は困難を極める。

 旅の魔導士は優しく疫病のメカニズムを説き、その原因が死体より発生し、それをただ埋めただけでは地下水が汚染され更にはそれを飲んだ者達がまた疫病を撒き散らして終わりのない日々が続く事を語る。

 旅の魔導士と言えど治療法までは知らず、予防法としての薬剤と魔法治療、そして火葬による無毒化を決死の目線で口にする。


「だが、それで輪廻の道が絶たれるのはっ。」


 死者の次の生を思えば火葬など御法度だ、カンだけの意見ではなく、それはここにある避難民や罹患者、そして死者からも異を唱えられるに値する行為に他ならなかった。


「死体から伝染する事を信じられないと言う者達七人が、家族の弔いに三日三晩の見送りを行ったのだが、結果は七人全員罹患した。」


 ゲントが重苦しい空気の中、カンの疑問への答えを口にする。

 周囲の者達からも溜息と呻きが聴こえ、一縷の望みが断たれた事を嘆く啜り泣きも其れに混ざっていた。

 打つ手なし。打てる手は、これ以上の伝染を防ぐ手段のみであった。


「だどもその魔導士がまだ嘘をっ。」


「止めい!、この魔導士殿も既に罹患しておる、皆の治療に専念しすぎたのだ。」


 口元に布を巻き、余人に伝染させぬように魔法障壁を薄く張り、背もたれに寄りかかって必死に座っていた。それに気づくとカンの怒気は急速に萎れていく。

 彼等の蟠る陣幕の中に立札を抱えた男が駆け込んでくると、更に事態は混迷の度を深めていく事になる。





 引き抜かれていく立札の本数に確かな手応えを感じつつも銀髪の男には一抹の不安が過る。

 有体に言えばイグリット教への改宗者の増加に繋がる筈の立札の効果の薄さに他ならない。

 英雄が陣取っている場所の監視は怠っていないのだが、離脱者の少なさが気に掛かるのだ。

 シルナ王国内の都市への避難を断られた集団が集まっている場所は七か所、都市部はその機能がマヒするまでに至っているというのに彼等にはあまり乱れが見受けられない。


「裏切者が出たか…。」


 しかし、これはまだ自身の心の裡に秘めて置くべきだろう、全く知らない何処かの学者辺りがそういう知恵を持たないとも限らないのだ。

 報告書を見て幾つかの確信を得てタケルへの伝令を呼ぶ。


「シェスカ、ハバド…ん、シェスカは不在か。」


「残念乍らシルナ王国軍に追われ密書を焼き自害して果てたと報告がございます。」


 銀髪の男は熱くなった目頭を抑えてハバドに密書を一通託した。


「任を果たせそうな者を一人ここへ。」


 銀髪の男の部下として長くあった同僚の死を悼んで語尾が乱れる上司を見て、シェスカは果報者であったとハバドは思う。

 互いに両親に捨てられてゴミを漁りながら生きて来た友の死を同じように悲しんでくれる、そういう存在を得られたことは望外の喜びであった。

 ハバドはシェスカが気に入って鍛えていた少年を一人伴い、銀髪の男へ推挙した。

 彼の名はトモキ、それ以外は覚えていなかったがこの世界その程度では何の不自由もない。


「必ずや師の名に恥じぬ働きをお見せ致します。」


 緊張で恐らく何を言ったかも覚えていないであろうと想いながらハバドは少年の肩を叩く。


「気負うな、お前は我が友の全てを受け継いでいるのだ。」


 間者の命は軽い、掃いて捨てる程度の軽さでしかない。

 路傍の草を食み、ゴミを漁って生きる事と比べればどちらが良いかなどと聞かれれば遥かにマシな生き方だ。

 シェスカの仇が何者なのかを知る事が出来ればと思いもするが、喩えればそれは軍隊そのものであろう。

 ならば、上司とその上に立つあのお方にそれを託す事こそが正しい報復の途だろう。





 轟々と燃え盛る炎から人脂の焼ける臭いが漂い、そこは異様な雰囲気に満たされていた。

 二人に支えられた魔導士が炎の魔法を用いて遺体を荼毘に伏す。

 燃料となる木を集めるならば相当な苦労が予想される作業を魔導士は文字通り命を削って行っている。

 シルナ王国民に魔法は普及していない。だからこその無謀極まりない行動なのだが、これが多少の意識改革になる事を願っての行動であることを、唯独りを除いて誰も理解していない。

 シルナ王国の者達にとって知識や文化は高等国民の為の物であり、下等国民の為の物では無いのだ。

 それが骨の髄まで染み込んでいる国での啓蒙活動など、血を吐く困難を越えても成し得ない事業であろう。

 事実この国は愚民化に成功しすぎた面が仇となっている。

 ゲントは魔法師の願いを理解しつつもシルナ人である以上それを周囲に告げる事の難しさを理解している。


「薪になるものを集めよ、動ける者たちを皆引き連れてな。」


 周囲に人がいない事を感じつつ中央都市チキンを遥かに望み乍ら溜息を一つ呑み込む。

 トリエール王国民となりイグリット教に改宗するならば疫病の根治を約束しよう、神の奇跡と共に我等はある。

 そのような夢物語が書かれた立札を思い起こす。

 神の奇跡を願った事など幾度あったであろうか、その度にこの国の民草は餓え、国王の勅により弄られ続けてきたのだ。

 ゴールディの著書を読んだあの日の衝撃は筆舌に尽くし難い。

 自国の輝かしい歴史が全て剥ぎ取られてみすぼらしいボロでさえも奪い去られる事実ばかり記されたあの本との出会いを。

 あの時に確信した、私を救ってくれる神など在りはしないのだと。


「神は在りますよ。」


 ゲントの隣に何時の間にか魔導士が侍っている。

 心を読んだかのような魔導士の言葉にゲントは心を揺さぶられる。


「神が在る…だと。」


「はい、その名は神帝ジオルナード様です。」


 聞き覚えの無い神の名前であった。

 虚構と虚飾と虚無と虚栄がシルナ王国の実体であった、ならば其処に在る神が虚偽ではないと言う保証などない。

 魔術師は指差す、中央都市チキンを。治める事を禁じられた地、治禁を。


「我等の至高の神はあの場所に眠って居られるのですよ。」






 シルナの王族は、遥か昔馬賊の血を引く者達であったとゴールディは語る。

 暗灰色の衣を纏った老婆から、治禁の地を根城にしていた馬賊は告げられる。


「ここに人を集め都を築けば栄光栄華は其方らの物となろう。」


 馬賊達は親族を集め、縁故のある者達を集め、途上を旅する者を襲い村落を築き、その内に軍隊規模の集団と化した。

 大攪拌が発生して人が雪崩を打つ様に集まり、山は城となり城下町となりスラムが産まれ都市となった。

 渦の中心の様に集結した人々は、富貴の差によって四方に流れて新たに都市を造った。


「都を四方の都市で繋ぎ、一つの陣と成す、立派なものぢゃ。」


 その老婆は事ある毎に現れ、王族に託宣を齎し、また何処かへ去る。

 疫病で満たされ、全ての城門を閉ざした今も暗灰色の衣を纏い、蛇の形を模した杖を突き、老婆は王城内をゆったりと歩く。


「満ちたわ、既に死は満ちた。」


 トリエール王国の小癪な小僧が建設した砦の方角を掌を合わせて擦りながら拝むと老婆はしわがれた声で静かに笑う。


 チキン城の廊下は燐光を放ち、正確に円を描いた構造は静かに鳴動を始める。


「起動するまでどのくらいか掛かるかは知れぬが、儂の命が尽きる前にあの御姿をもう一度拝見したいものぢゃのぅ。」


 満足気な横顔をフードで隠すと老婆はまた杖を突きながら歩み去る。

 その夜、中央都市チキンは瘴気を薄く吐き出す魔都への一歩を踏み出したのである。

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