第百五十五話 冬の終わりに
もう何度目だろう、これまで辿り尽くしたものを顧みて溜息を吐く。
何回見殺しにしたのかわからない、何度間違えたのかも覚えきれない。
この日、この朝を何度迎えたのかすらも朧気だ。
随分と皺だらけになった顔に触れて自嘲する。何も成し遂げていない、唯々年を食っただけの手を見て嫌気がさす。
纏わりついてきた何かを振り払うように、寝起きの気怠さを布団の中で噛み締める。
友が居た、友達がいた。
いつもの朝とおはようの声で互いを出迎えた。
誰よりも早く起きる眠りの浅い俺は、出迎える事が多かった。
教室でも廊下でも、本当に何処でも出迎える形になっていたように思う。
今は唯独り、広い家に唯独り。
バラバラに散らばった記憶の積み木を並べるような朝に、歯磨きを終えた俺の顔が映る鏡を見るのは憂鬱過ぎる。
届けられた朝刊を開きながら日付と曜日感覚を取り戻す。
朝焼けの眩い光で室内が明るくなり、一日の始まりを実感する。
急騰ポットの光が沸騰を示したあたりでコーヒーカップとインスタントコーヒーの瓶を手にする。
卓上のモーニングコーヒーの為のセットを手前に引き寄せて保温へと切り替わる時を新聞を読みながら待つ。
平凡な朝、何時もの朝、そしてアイツが全てを見限る朝だった。
残雪が残る窓の外には、鬱蒼とした常緑樹と葉を散らした枯れ木がちらほらとそして、疎らに生えている。
両親が生きて居た頃、俺達兄弟にとってここは実家と呼ばれる場所であった。
今は山奥の廃屋寸前のあばら屋だ。塗炭板の壁に隙間埋めに編んだ筵や雪除けの板が打ち付けられている。
大雪が降る予報がなくても家屋の保護に不可欠な作業は怠っていない。
同じ村落に住む住人達への生存アピールに欠かせない…とでも言った方が判り易いだろう。
滅多に人が訪れない山の、冬という季節は猟期でもある。
罠猟と猟銃を用いた猟の何れかが主体となるが、民家が近いところでは罠猟、山の奥の方であれば概ね猟銃を用いた狩猟となる。
近年はルールを守らない猟師が空薬莢の片付けもせずに禁漁区で発砲していたりするので足元にカラフルな薬莢が落ちていたら即刻通報して頂けると有難い。
役人を動かすには証拠が大切なので写メや動画があれば尚良いだろう。
直接猟師に言うのは避けた方がいい、大体が俺を含めて偏屈者だし、濡れ衣であれば危険極まりない事になる。かもしれない。
主に鹿猟を中心にやっている俺に猟銃は只の護身武器の一つに過ぎない。
罠を仕掛け、掛かった得物をナイフを縛り付けた棒か棍棒で仕留める形が殆どだ。熊や猪等は早々お目に掛かる事は無い。
ハクビシン、貂、穴熊、狸が稀であるが掛かる事がある。近年は掛かっても困るアライグマや見た事の無い海外の動物等、情報の無い動物には辟易とする。
外来種は駆除対象なので問答無用で〆る事になるが、イヌ科は臭くて喰えたものでは無く御免蒙りたい。食べるために色々と下拵えが必要になるので獲れても嬉しくは無いのだ、勿論、罠により再起不能な怪我をしたものや落命させてしまったものは命として有難く食べる事になるのだが、食後に胃からせりあがって来る獣臭には未だに慣れるような気がしてこない。
穴熊はかなり美味しいが、冬眠前の穴熊は脂の塊なので苦手な人にはお勧め出来ない。脂は飲み物と豪語できる諸兄には自信を持ってお勧めしよう。
新聞を読み終えて朝のニュースをテレビから垂れ流しながら、朝の見回りの為の身支度を整える。
猟友会に所属しているし、村落の若い衆として期待されている上、害獣退治は村長から直々の依頼でもある。
鹿は昨今増えすぎている。鹿を餌にしていた狼が絶えてしまい、捕食者が居ないのだ。
野生動物が増えすぎるとどうなるのかと言うと、山の実りを喰い荒らしても未だ足りない腹ペコ動物が街の中のゴミを漁りに、庭先の果実を喰いに、畑を荒らしに麓へと降りて行くのである。
そうなると彼等は人にとっての害となる。勝手な話だがそうなってしまう前に、山の恵みだけで暮らしていける様に個体数を減らしてバランスを取る必要が出て来るのだ。
そして、それは鹿だけに限った話ではない。
最後に熊の皮で誂えたチョッキを身に纏い、錫杖のような加工を施した棒を片手に山道を歩く。
何時も通りのルーチンワークであり、括り罠を見回りに行く仕事である。
腰に下げた鉈とナイフ、背負子と菅笠にレミントンを一丁、ド派手なカラーの猟友会ベストと帽子である。
一発だけなら誤射かもしれない等と言う戯言で殺されたら洒落にならない。新聞社に居ると殺される寸前まで平和を語っていられそうで羨ましい。
心を鈍磨させたまま呑気に殺されるなんて選択肢を選んでいる彼等は聖人君子か何かなのだろう、とても俺には真似出来ない。
真似できないからこそ、俺はここに居るぞと云う証の蛍光カラーで身を包む。
何も珍しい事など起こる訳も無く、淡々と未発動の罠を仕掛けたポイントを確認しながら山道を歩く。
憐れにも一頭かかっていた鹿を殴打の一撃で気絶させ、心臓にナイフを突き立てて安らかに眠って頂く。
両足首の血管を切り両足をロープで縛り木の枝に通して吊り下げて、頸動脈を切って血抜きを始める、そのまま腹を開けて腹膜を破らないように丁寧に内臓を取り出し、役所で換金するための内臓を抜き取りジップロックに入れてウエストポーチに仕舞う。
折り畳みスコップで地面を深く掘って内臓を埋めて残りの罠を確認しに歩き出す。
鹿の遺骸に熊などが目を付けるかもしれないが、そう離れていない近場にのみ罠を仕掛けていたためにそちらを先に片付ける事にした。
他の罠に何も掛かっていない事を確認し、戻ってみれば、鹿は変わらず吊るされたままの姿勢で血抜きが進んでおり、当初よりも軽く運びやすくなっていた。
背負子に縛って担ぎ上げるまで二十分少々、人気のない山をサクサクと雪を踏みながら帰路に就く。
得物が獲れた時の当たり前の行動、ありふれた日常である。
そろそろお昼と言う頃に無事に家まで辿り着き、庭先の水場と解体小屋の間に背負子を下ろす。
ガラガラと横開きの扉を開けて背負子を引き摺り、鹿を縛っていた縄を解き柱のフックに輪になる様に巻きつけていく。
一つ気合を入れてステンレスのテーブルに鹿をドンと乗せて一息吐く。
ラジオをつけてコンロに薬缶をかけてお湯を沸かす。
鼻歌交じりにバットに日本手拭いを敷いてナイフや包丁等の刃物と器具類を並べて金属製のボウルを雑巾の上に置いてお湯を注ぐ。
肋骨と皮の境目に小刀を入れて皮剥ぎを始める。
鹿の皮はセーム皮と呼ばれている、これは、車を丁寧に洗うタイプの人ならば高いなと想いつつも一枚は持っている程の洗車アイテムだ。
まぁ、用途はそれだけに限ったものでは無いが貴重な収入源である、であるからには丁寧に肉と脂をこそぎ落として皮にする。その前段階であるこの作業でできるだけ無駄な肉を残さないように皮を剥ぐ事は腕の見せ所であると言えよう。
そうして没頭すること一時間、ここでエアガンでもあれば空気の力を使って剥す時間が短縮できるのだが全て手作業である以上、流石に時間がかかる。
解体を生業にしている人が皮剥ぎを行えば十分掛からないとも聞くが、俺はまだまだ未熟者と言う事だろう。
立派な角を持った牡鹿であれば頭部も剥製にして売り物になるのだが、残念な事に今日獲れた鹿は女鹿であった。だが肉はこちらの方が柔らかく美味である。
あとは迅速に肉の解体である。
大型冷蔵庫と冷凍庫が唸る小屋の中で部位ごとに区分けして仕舞うジップロックを箱ごと取り出して部位名をマジックで書いていく。
自分で食べるもの以外は道の駅行きになるので人気のある部位を間違えて売る訳には行かない。
手慣れた手つきで出刃包丁を揮って肋骨を背骨から切り取ってトレーに並べていく。
背骨は後でスープとして頂くので売り物ではないが、美味である、見た目が誠にアレな感じなので店頭に並ぶ事は無い。
同じ理由で頭蓋骨や脳も売り物にはならない。
ヒレ肉は人気の食材だ、少なくとも自分の口には中々入らない一番人気の肉である。
骨際の屑肉などが主に食べられる部位である、最早何肉と尋ねられても答えようがない鹿肉である。
もも肉は一番過食部位が大きい肉の塊だ、骨から綺麗に外してトレーに並べる。
纏めて数頭獲れた時に食べられるしっかりとした歯ごたえのある肉だ。自分の為に備蓄しておきたい残量であるなら売らずに取って置く部位でもある。
鮮度を損ねる前にパックを済ませて大きなシンクの中に投じて水を掛ける。
熱を冷ます意味合いもあるのだが冷凍庫との温度差は出来る限り少なくしてから保存したいところだ。
皮に残った肉をゾリゾリとこそぎ落としながら、ナイフを三本お湯の入ったボウルに入れて切れ味が悪くなったら取り替えて作業を続ける。
脂に塗れた刃物は切れ味が途端に悪くなる、だからお湯の中に入れて脂を取り除いて切れ味を蘇らせるのだ。
地味で根気の要る作業だが、どんな仕事も苦労は付きもの、黙々とやり続ければ、終わりが訪れるのも早いものである。
昼食のカップうどんを啜りながら小屋の外を見れば昼などとうに過ぎている。
熱中し過ぎたかなと想いながら大詰めを迎えた作業の段取りを頭の中で付けておく。
神経質とまで言われるレベルであるかは知らないが、皮から肉と脂をこそぎ落として、無事なめし液に沈めた皮を見下ろして一息つく。
数日経ったら混ぜて見たり、裏返して様子を見ながら行う仕事なので、今日はこれで御終いだ。
勝手口から母屋に入り風呂場へと一直線で向かう。
寒い小屋から戻る廊下に野外活動用の作業着を脱いではハンガーに掛けながら風呂へと進む。
最後に洗濯機の前で全裸になり風呂場へと突入する。
湯船は壊れていて使えず、シャワーだけ生きているという有様なので沸かすと言う作業は行う必要が無い。
しかし、そうであるが故に湯上りは過酷なまでに寒い。
春になるまで業者は来てくれない、徒歩で風呂桶や給湯器を担いで来てくれるような奇特な業者があるなら是非紹介して欲しい、そう切に願いながら頭を洗う。
夕暮れ。二階のテラスから街を見下ろす。
冬もそろそろ終わる、あと十日で四十路も終わる。
ふと庭に浮かぶ異物に気付く、若い頃に森の中で見た事がある。
見なかった事に出来るだろうか?。
ブレる視界に揺れる身体を、手摺りを両手で掴んで支える。
ダメだ、あんなものを野放しにしてはいけない。
鉈と槍を携えて階下に降り身支度を整える。
長く暮らした家の中の調度品を見渡し、自身が何故帰って来たのかと云う、嘗て煩悶の限りを尽くした答えを知る。
登山靴の靴紐をゆっくりとしっかりと結び、庭へと歩を進める。
大地から少しだけ浮いた場所にある扉が静かに開く。
奥歯を噛みしめて其れを待つ。
街の中で暴れ回り、人を殺し捕食して回る魔獣の姿が歪み、ブレた映像を曳きながら俺の前に顕われた。
俺は槍を回し、穂先を魔獣へと構えその進路に立ちはだかる。
この魔獣は魔法を使う。ならばこの槍を持って此処に還る事が出来たのは運命以外の何者でも無い。
魔獣の尾は蛇であった。
毒液で周囲を焼きながら隙あらば俺の身体に噛みつこうとのたうつ。
山羊の頭が嘶き、眼球目まぐるしく動き、虚空に魔法陣を刻み、黒く染まった雷撃を俺へと放つ。
躱す、躱す、飛んで躱す。時折雷撃を突き散らし、獅子の顔を穿たんと試み、俊敏に躱される。
ジリ貧だが此れで良い。狙うは討伐であるし時間稼ぎだけで終わるつもりは毛頭ない。
だが、我が身は可愛い。
だから…。
「日和る俺を笑ってくれて構わん。」
槍に纏わせた魔力で魔獣の手の先を刻み前進を戸惑わせる。
鼻面先を擦る様に斬り、鼻から血を飛沫かせる。
どれもこれもどれもこれも命を惜しんだ末に晒した無様極まる振舞いの結果だ、踏み込みが足らず、委縮した攻撃など魔獣に通用するわけがない、そんな化物を相手にしているというのに、二十年以上錆尽かせた心は未だ軋む音すら立たせてはいない。
錆び付いた心と体と魂を覚悟だけで揺り動かす作業が続く。
思い切れば倒せたかもしれない、情けない掛け声で突いても届きうる筈がない、判っては居る、解っては居る、分っているから嗤わないでくれ友よ。
「殺す殺す殺す。」
呪文のように唱える、目の前の魔獣を混ぜ合わせたような異形と殺し合いを演じている。
演目にどんなタイトルが付いているのかを知りたい。
蛇を斬り、飛来する毒液を槍で弾き、蛇の頭を突き刺して魔獣の鼻面先で踊らせる。
萎えた身体に走る疲労からの痛みと、年齢を重ねた事による加齢からの痛みが容赦なく俺の心を殴りつけて来る。
息が上がるのももどかしい、疲労を訴える筋肉も恨めしい。
長引けば負ける、逸れば負ける。何れにしても負けるならば開き直れと俺が言う。
久しぶりに唱える身体強化魔法が体中を駆け巡り、衰えた身体を鞭打つ様に立ち直らせる。
「増速魔法発動。」
全身の筋肉から悲鳴が轟くが、最早全てが終わっている、だから気にする事は無い。
爆ぜる轟音と共に魔獣の爪と俺の槍が火花を散らす。
闇に浸食され始めた我が家の庭が激突の度に照らされる。
兄と遊んだ庭が、母に叱られた庭が、父に折檻された庭が滅茶苦茶になって行く。
陰る思い出の残滓を蹴散らして、古いブランコが宙に舞う。
知るか!知るか!そんな事!。
目の端から零れ落ちる其れが視野を潰しては堪らないと、振り切るように指で払い、魔獣の心臓を抉る事に専心する。
擦れる記憶と思い出を押しやり、母が大事にしていた樹を踏み台にして魔獣へと飛び掛かる。
天を取り、山羊の魔法を槍で砕き頭蓋へと槍を突き入れる。
絶叫。山羊の断末魔と共に強力な魔法陣が宙に描かれる。
ゴロゴロと地面を転がっている己の身体を槍で無理矢理地面に縫い留めて制止させて弾かれる様に魔法陣へと槍を叩きつける。
自爆魔法に近い其れを自爆そのものの技で抑え込む。
染まるものを省みず、獅子の顔を蹴り距離を取る。
爪で足の肉が幾らか抉られたが立つ事に不自由はない。
互いに死を覚悟し、互いに殺意を漲らせる。命を乗せた皿を奪い合う俺達を誰かが見ていても、この異常事態に口を挟める勇者は居ない。
思い当たる人物は此処にはいない、全て遠い過去に在る。
俺にはもう過去しかない、だから此処から過去に全てを乗せて行くしかない。
魔獣の背から黒い血が噴出し、歪な羽根が飛び出る。
何という不意打ちであるか。
「逃がすかぁぁぁぁぁぁぁ!!!!。」
思わず口をついて怒号が飛び出る。
羽搏く魔獣へと、槍に掛けた封印を解いて、全身に掛けた魔法を爆裂させて急速に飛翔し、魔獣の背中に跨り槍を突き立てる。
「吸い尽くせ!ユグドラシル!!!。」
真名を解放された槍が緑白色に輝き、魔獣が纏う闇と魔力と命を吸い上げる。
行きつく先は俺自身、枯れて弱り果てた俺に、致命的なその力は染み込んで行き渡る。
絶叫を上げて逃れようと暴れる魔獣を脚力で押さえつけ、ユグドラシルをより深く突き刺す為に腕に力を込め続ける。
景色はブレて居ない、目の前の魔獣にも最早選択肢は無い。
体中に出来た傷口から溢れる黒い血を見つめながら、絶命した魔獣と共に扉へと吸い込まれていく。
腰に下げていた鉈を庭に投げた。
血染めの鉈があれば、俺の最後の友ならば俺の死を察してくれるだろう。
そんな期待をしながら閉じていく扉を見つめながら、俺は死んだ。
俺は兄の息子だった。
生まれて直ぐに行方不明になり、兄の父に拾われて、兄の弟になった。
平行世界とか異世界とか言われる場所に幾つか種の様に振り蒔かれた、それが俺だ。
俺が何なのかを知る事は出来ない。その術が俺には無い。
俺は幾つかの選択肢が与えられると、正答を得るまで進むことが許されなかった。
この能力はループか何かであるのだろう、呪いかもしれない。
大学の卒業を控えた春、高等部時代に隣国からミサイルが飛来して渡航制限が掛かり、已む無く中止になっていた修学旅行を兼ねた卒業旅行が企画され、学校行事として強制参加させられる事となった。
人質が単位である、行くしかない。
そういう複雑な事情で行った旅行、その帰り道で俺達は異世界へと飛ばされた。
俺は、その異世界から理由があって元の世界へと還らされた。
恐らくではあるが重要な選択肢を間違えたのだろう。そう思っていた。
還ってきた此処で送られた魔獣を討つ、そのためだけ存在として二十三年止め置かれたと知った。
虚しいが元の世界を管理する者から見れば魔力を持たない者にアレは倒せない。
鍵となる武器は魔法と魔力を吸い尽くせるユグドラシル、魔獣の天敵と言う理由だ。
そして今、俺諸共扉に無事に回収された辺り、全くもって抜かりが無い。
全て理解して納得した今、改めて性悪な世界の管理者に一発お見舞いしてやりたい。
時空が歪んで揺れて、虹色に輝く。
俺は何度も頬を平手で張られているようだ、微妙に痛くて堪らない。
着物を着た女性が居る。
随分と年を取った女性が一向に目覚めない俺の頬を叩いていたようだ。
「目覚めましたか?。」
枯山水の真ん中で槍を抱いて寝ていた俺と、病床にある老婆、そしてその傍で看護する尼僧、そして俺の顔を叩いていたこれまた尼僧である。
幾らか話を聞かれ、状況を尋ねた結果、灯篭の前に扉が顕われて枯山水にダイブしたらしかった。
死んだ筈なのに、俺はなぜ生きているのだろう?。
否、怪我と傷は全く残ったままで、放って置けば死ぬであろう事は疑いなかった。
老婆の命令で治療が施されたのは、そう、二月程前になる。
気絶した俺が治療後に目覚め、老婆へお礼言上に参上し、度々呼び出しに応じていた。
時代がかった雰囲気の中でも、既に余命幾ばくも無い身体の俺に庶民的な緊張感など無く、寺院の僧や雲水には拝んで礼を述べて静かに生きていた。
「──院様が顔を見せるよう仰せです。」
命の恩人である老婆の名である、断れよう筈も無い。
雲水二人に礼を言いながら運ばれ、ふら付く足に力を込めて廊下を歩き、玄関で待ち構えていた輿に乗せられて尼寺へと運ばれる。
予感が正しければ俺の命はそろそろ終わるだろう。一度外しているから全くアテにはならないが。
久しぶりに気分が良いと云う老婆とその隣に控えた尼僧、俺の傍には、俺の槍と老婆の薙刀を携えて縁側の端にもう一人尼僧が居た。
「貴方を他人とは思えませぬ。」
共に死期の近い者同士の気安さで草花を愛で、益体も無い話で花を咲かせる。
鵺との戦いを語って聞かせ、山野を駆け巡った話を互いに語る。
縁側でお茶を頂きながら、嫌な風が一陣吹くのを感じる。
さて、扉のお出迎えだ。
「これはあの時の。」
尼僧が声をあげる。
「お迎えですな。」
槍を杖にして扉へと俺は歩み寄る。
「それはあの世への門でしょうか?。」
老婆が目を見張り、薙刀を携えた尼僧を差し招き立ち上がろうとしていた。
「あの世…かどうかは判りませぬが、貴女を見守るその子達の故郷に続く扉で御座います。」
老婆の傍でチラチラと動く大精霊が二人、驚いたようにこちらを見る。
「貴方にも見えていたのですね。」
クスクスと笑う老婆は殊の外嬉しそうであったが、尼僧たちの顔には困惑の色しか浮かんではいない。
扉に近付くと勝手にそれは開き、歩みの遅い俺を引っ張る様に瘴気が伸びて来る。
「短い間で御座いましたが、御恩は決して忘れませぬ。」
最後の挨拶、別れの挨拶としては無難であるだろうか?、自信など無い。
俺の足元に大精霊が迷いなく歩いてくる。
多分、此の為に俺は此処へと遣わされたのだろう。最後まで人使いが荒い何時までも人使いが荒い。
扉を潜る段になり、背後にもう一人ついてくる気配がある。
「なっ───。」
音も無く扉が閉じていく。
悪戯好きな童女であった頃の話を楽し気に語っていた老婆を思い出し、何やら楽し気な声で俺に一言言った。
その顔は、結局、人間はどのように年を重ねようとも基本的な部分は変わらないのだと教えてくれたようなものであった。
「冥土に逝くのならば、今日も明日も大差無いでしょう。」
お互い死期は目睫に控えたものであったし、それは成る程と頷ける。
「では、不肖ながら、お供仕りましょうぞ。」
片手に互いが得意とする得物を携えた二人が行きつく先を、俺は知っていた。
「我が武器を託せる若者に渡してからでも遅くはありますまい。」
あの日、あの時、あの場所の俺に、思いを託す。
最早何も成し得ない俺に、倉橋達也に何も言わずに何処まで伝わるか?。
不安に思う俺に、知らない俺が自身を持って答えてくれる。
信じろ、と。
全身全霊の技で試してみよう、そのくらいは許されるはずだ、衰え切った五十路のオッサンの技など通じはすまいが、せめて弟子の成長は────甥の成長は見て見たい。
だが、一つだけ不安があるとすれば、後ろにいる老婆の強さは俺など比較にもならない強さだと言う事。
愛弟子のお手並み拝見と言ったところだ。
「私に勝てた者など数えるほどしか居りませぬ。」
それは当然だろう。
貴女に勝てるならば歴史に名が残る。
勿論、貴女に負けた者は、しっかりと歴史に名が残っている。
さぁ、別の世界の俺よ、昔の俺のように倒して見せてくれ。
字抜け修正




