第百二十八話 酷薄なる正義
環境は洗脳に適した環境、ザン・イグリット教で喩えれば教化と言う名の狂化であろうか。
錯乱はしていない、混乱もしていない。狂奔していると云って差し支えない。
もの言わぬ氷の兵士を陶然とした表情で砕き、突き崩す天使達の仕事はただの足止めである。
タクマのやっている事は敵の指揮系統の攪乱でしかない。それらの隙間から零れ落ちる僅かな者達を屠れば、彼等が何を目指して居るのかが判る。
ユリである。
擂鉢状に落ちくぼんだ沼地であった場所の底に迷宮への入り口がある。
急造とは言え蟻地獄のように彼等を引き摺り込んだ実績は褒め讃えても構わない。
タクマが駆ける平地は、それ程の広さは無いもののまったきの平坦な更地であった。
幾らかの凹凸は魔道具の爆発跡と馬と牛と兵士の足跡のみである。
密集している二千二百程の氷の兵士と騎兵は未だ意気軒高であった、そもそも疲れる事の無い兵士の調子など窺ってみても知れたことではあるのだが。
中心から輝く煙が一筋上がる。準備が整ったと言う合図のようなものだ。
タクマが愛馬ならぬ愛牛を駆り、逸れ掛ける氷の騎兵の大外を廻り、蟻地獄に騎兵を押し戻す。
そろそろ流れが生まれて来た事を察知するやエセルちゃんが魔法弾を打ち上げ全熾天使と約一名に合図を送る。
ガポン!と内容物が揺れる音が聞こえるような白一色の穴が開く。
内容物は穢れを知らぬ程に純白の死骸と化している。大地がボロボロと砕けて崩れ落ちて内容物の水面を揺らす。逃げ遅れた氷の騎兵と氷の兵士がドボドボと滑り落ち、もんどりうって倒れて落ちる。
足場が崩れて落ちる者もあれば、天使の法力で吹き飛ばされて落ちる者もいる。
広域殲滅魔法炉”魔女の釜”である。
狂気と狂奔と狂乱を正義で染め上げた勧善懲悪の願望器の浄化の御業の一つ、中に落ちたものは正義以外の何者でも無くなる、美しすぎて吐き気の出る、正しすぎて頭痛がする、聖なる正義である。これが息苦しい事は普通の人間なら感じ取れる、偽善だと吠えたくなる気持ちも理解の範疇であるだろう。
毛一筋の悪も無い世界を実現できるものが此処に顕現していた。誰もが幼き日に夢見た「悪の無い世界」である。大人になれば成る程そんなものは無いと胸を張って否定できる、そんな、か弱い世界を実現出来てしまうものなど大量破壊兵器とどんな違いがあるのだろうか?、眼前で繰り広げられるそんな悍ましい正義を否定する勇気すら湧かないのは、さてどういう事だろう。
祭りはまだ始まったばかり、宴はこれからである。
皆で力を合わせて氷の兵士と騎士を叩き込む作業が続く。圧倒的劣勢ではあるが、真面に戦わなくとも背水が向こうから押し寄せて来るのだから少し耐えればそれだけで話は済む。落ちたところで正義の味方になるだけだ、いや、冗談じゃない。
恐怖と言う感情など無く、馬鹿正直に迎え撃つだけの憐れな精霊に此れから与えられるものは”自我”だ。
清きものに一番与えてはならない知恵の林檎を無理矢理喰わせるが如き所業。
ただ善に染まり、自我も無く何も思案せず何も煩悶せず、一切の苦悩なく悪を裁く機械であるのならば悲劇など生まれる事は無い。逆もまた同じである。
彼女は魔女は、彼等に普通の人間のような自我と生活と善悪の区別と知恵を授ける事にした。
何も考えずに生きる事が出来た精霊達は、今日から何もかもを考えて生きなくてはならない。
哺乳瓶を行き成り奪われた赤子のように彼等は泣くだろう。その姿を見る事で等価交換と為す。
タクマを行き成り奪われたユリのように彼等は泣くだろう。これはただの等価交換でしかない。
全ての騎兵と兵士を飲み込んだ大釜は小さな釜となって中央に残り、ただの舞台装置のように鎮座している。中からは啜り泣く数千を超える魂の嗚咽が聴こえ、周囲の空気を震わせていた。
これが何時絶叫に替わるのかなど知れた事、今は未だ平和なのだ、少しく待てば幾らでも泣ける事だろう、ごっこ遊びで済んでいる内が華なのだ。
静謐な場からは程遠く、近しと云えば託児所か?さりとてどの様な託児所で在っても此処までの合唱は聞けるものではない。ゆっくりと空から釜の蓋が飛来し、ゆらりゆらりと降りて来る。
はにかむ様な笑顔でユリがその指を鳴らすと魔女の釜から聴こえていた泣き声がピタリと止む。
もう聞き飽きたのだろう、優しい事だ。
周囲に物音一つ無くなり、辺りが静寂に包まれる。
ぽっかり開いたその穴は、さて?なんであっただろう?。
ガチャガチャと何かが当たる音がする。足音がゆっくりと競り上がるようにそこから聴こえてくる。
声は無いが彼は笑ってゐる、音も立てず笑ってゐる。
黄金の磔台を担いだ氷の兵士が三人迷宮の入口だった穴から登場し、その場に磔柱を設営する。
一言だけ云わせてくれ、何処から持って来やがった。
一メートル近い長い兜を被った兵士が揃いの長槍を携え、腰には一人で抜けそうも無い大大太刀 と長脇差を佩いた、ド派手な兵士がゾロゾロと二十人ほど勢揃い。
騎兵が一騎静かに進み出でる、黒一色の鎧に陣羽織、大太刀佩いて御座候。三日月の前立てに竜の刺繍を施した眼帯姿の偉丈夫が槍持ち弓持ちを従えて颯爽と登場する。
相対するは只一人、征牛孤影の逞しき、荒くれ、益荒男と人の云う。黒衣黒牛の勇者が携えるは、燻しミスリル銀の大剣一振り。
黄金に輝く雄牛の角は、正対する偉丈夫の前立ての三日月に勝るとも劣らない。
精霊として再臨した彼等には、語る機能は備わって居らず、無言のまま時が流れる。恐らく家臣は手出し無用であるのだろうか?……そこまでは解らない、だが、一騎討ちをしものうち(暗殺)にするような無作法者がもののふ(武士)を名乗ろうと謂うならば、俺が相手をするまでだ。
両者が前に出ると家臣団たちと熾天使たちが車座で彼等二人を取り囲み、一人の男が一枚の聖片を懐から取り出して聞き取れない言葉で何かを宣誓した。恐らくは、彼の役目と言うものがコレなのだろう。
天よ照覧あれ。
つまるところ、この戦いが勇者の試練の一つとなった事を理解せざるを得ないと言う事だった。
訂正失敗部分の再訂正。




