第百十九話 除夜の・・・
この世界に寺社仏閣はない。除夜の鐘の風習は存在していないのだが、無ければ無いで物悲しい。
八氏族領で細々と育てられていた蕎麦の実を秋に購入して取り置きしていたタツヤは、ラボの水車動力で製粉作業に勤しんでいた。年越し蕎麦無くして日本人を名乗るのは蕎麦アレルギーで無い限り難しい話だ。
時刻は正午、タツヤは朝からずっと働きづめであるが石臼の前で蕎麦の実を少しづつ石臼の穴に落としていく作業を、大精霊がぼんやりと見つめている。
「十割蕎麦で行く、今年は良くない事が最後にあったからバッサリと悪縁を斬らなきゃならん。」
定年退職したサラリーマンが老後に退職金を投じるもので割と多い起業がそば屋である。
自分で蕎麦畑を耕して自分で打つ。徹頭徹尾自己完結出来る起業の一つだと言えよう。
蕎麦に付け合わせるものは畑や山で採れる事から山奥の村で開業することも多い。
二八蕎麦とは小麦粉を繋ぎにして麺の形状を保つ製造法の割合が二対八なので二八蕎麦、反対に繋ぎを使わない蕎麦を十割蕎麦と呼ぶ。
繋ぎを使わずに蕎麦を打つには蕎麦本来が持つ力のみで結合力を引き出さなくてはならない。
只管捏ねて蕎麦玉を作る、悪縁を斬り捨てるために当事者が蕎麦を打つことになる。
「十割蕎麦は兎角切れやすい。ゆえにあの腹の立つ召喚者共と縁を切ることが肝要と考えると正に打って付けの縁起担ぎだ。」
縁起担ぎの最たるものであるが、現代に残る風習と言うものは担いで悪いものでは無いものばかりだ。
「金箔職人が零した金粉を集めるのに使ったというエピソードもあるがそっちは何か汚い作業台でやらかした奴がいた話に聞こえるので不採用だ。」
なんだかんだ言い合いながら年越しそばを食べて寺院前の縁日を皆で巡り、ハナコの安産祈願をタロウを伴ってお願いして、お祓いを受けて祈願のアミュレットを頂き、寺院前の広間で奉納と称して牛対人の相撲を取る。
参拝客も大盛り上がりとなり、御捻りは寺院へと誘導し飛び入り参加を何名か受け入れた。
タロウを牛車に繋ぎ大歓声の中寺院を後にする。
今年最後の大仕事、安産祈願のアミュレットをハナコに届けなくてはならない。
ラボに到着してハナコの傍の柱に安産祈願のアミュレットを貼り、タロウを同じ牛房に入れて暖房を心持強めに入れて明かりを弱くする。
ラボへと戻るとタツヤが臼と杵の近くの竈に鍋と蒸篭を用意して、蒸しあがったもち米を臼に投じているところであった。
「いいタイミングの御帰還だな、ユリにマジックハンドで餅を返す方法を教えてある。存分に搗くがいい、他の作業は俺達が引き受ける。」
そう言いつつ大半はタツヤがやるのだが、トモエとエセルちゃんが餅の整形担当の様で此方を見て搗き上がりを今か今かと待ち構えていた。
全身浄化魔法を掛けられて杵を携えて臼の中のもち米をグニグニと押し潰す。
町内会の餅搗き大会以来だなと思いながら細かな作業を幾つか頭の中で纏めて一つづつ消化していく。
多少粘り気が出てきたあたりで打ち水と餅全体を水分でぐるっと包んで玉にする作業をユリが魔法の手で行う。
この魔法は精密な作業をするのには全然向いて居らず難易度は極めて高い。ただのマナに手のイメージを与えて微に入り細に入り指先の感覚や手の動きをキッチリ意識して動かしてやらないと大雑把な動きしかできないアバウトな魔法なのだ。
「目線を六方向から入れて立体的に手を支配するんだ!。」
時折無茶な指導が入っているが聞き流して置く。ロボットアームのセンサー制御を人力でやらせるヤツとそれを曲がりなりにもやってのけようとするユリの双方がハッキリ言って化け物だ。
俺の頭脳ではそんなもの処理しきれん。
音は軽快にぺったんと響くようになっていき、よいしょーと周囲の声に合わせて餅を搗く。
餅が搗き上がると餅の塊を杵に付けたまま作業台の上へと運びトモエに剥して貰う。
空いた臼には新しく湯気がもうもうと上がったもち米が杵を待っていた。
「最終的にどれだけ搗くんだ?。」
「五升だ、マジックバッグの時間停止のお陰で搗き立ても維持出来るから一年通して楽しめる。」
「足りんと思うがそこはどうなんだ?。」
「どんだけ食う気だ?。」
餅は大好きだ、あるだけ搗いておいても損は無い。目力で訴えると新しいもち米を取り出して研ぎ始めるタツヤが其処に居た。では仕事に戻ろう。
一人一基の七輪が与えられて各々の手元で餅が焼かれていく。
寒い中で食べる餅は格別の言葉に尽きる。砂糖醤油や黄粉で頂ける準備はしてあるし俺の様に醤油を塗って焼くスタイルにも対応済みだ。
「グレイトフルバッファローの刷毛で醤油を塗る事になろうとは。」
とても火に強い毛と言うか、魔法抵抗が高めな毛なので用途は広い。草原に転がる死体の皮ですら一財産だ。
炬燵でのんべんだらりと語らい、年明けの大砲の音と共に酒を酌み交わす。
酒に弱い二人が暴走する前に一杯軽く飲ませて寝かしつける事となる。新年早々に、大魔法で大混乱な事態は流石に後始末に困る。
そしていい感じにウトウトとし出したタクマが忽然と消えた。
酩酊状態のタツヤとトモエが強引に覚醒する。
「ちょっと待てぃ、どういう事だ!。」
俺とトモエはラボの壁に掛けてあった槍とコートをひっ掴むと牛舎へと駆け出す。
「多分間違いなく迷宮だろうが、一体全体どうなってやがる。」
「知らないわよ、でもこれで間違いなく厄介ごとが年を跨いだわ。」
「蕎麦の御利益は無かったって訳か…チッ、スマンタロウ、ハナコ俺ら騒々しいよな。」
夫婦の寝室に深夜に押し込みを掛けるような有様に申し訳なさが募る。
煌々と輝く魔法陣に飛び乗りマナを流して突入し、トモエの手を取り高速移動を開始する。
「天地が狂って酔うかも知れんが着地は任せろ。」
歪んだ空間に創り上げられた湾曲を繰り返す虫食い穴の中を右往左往しながら駆け抜けながら落ちる。
重力の支配があったり無かったりを繰り返して三半規管が振り回されたあと薄暗い室内で酔い潰れたタクマと再会した。
取り敢えずベッドにタクマを運び毛布と布団を掛けて寝かしつけると余りにも寒い室内に腹が立ち暖房の魔道具を据えて魔石を放り込む。




