第一話 盾持ちて歩け
───きっと、夢があったのだろう。
強く吹き付けてくる風を感じながら、漠然とそう思った。
───白い天井、白い壁そして白い人達。
そんな記憶もあった、───そして暗転。
黒い天井と黒い壁とに別れを告げ、重い盾を両手で支えながら僕らは歩く。
鳥が羽搏くような密度の高い風切り音が耳を掠めて満たし、何かが飛来している事を告げる。
それでも僕たちは、何も気にならなくなるくらいに消耗し、憔悴していた。
重い盾を携えてノロノロと歩き、号令と共に立ち止まる。
───が死んだ。
───が倒れた。
───が痛みに呻く。
───が───に踏まれ、躓いて死ぬ。
脛骨も肋骨も踏まれていく、それでも盾を構えて前進する事だけが僕たちの役目。
異世界に流れ着いた僕たち男子生徒の殆どは奴隷に落ち、肉の壁としての活躍を命じられた。
──────ただそれだけ。
騎馬隊の突撃、槍兵の防衛、歩兵の追撃、事あるごとに浪費される肉壁。
クラスメイトの死体を踏み締めて、同学年の男子生徒達を盾にして命を拾う。
うめき声と絶命の吐血を浴びても、気力が殆ど無い僕たちは絶叫すら上げられない。
何かの束縛から解き放たれたかのように逃げ出した者たちは、督戦隊の弓矢で射殺される。
せめてそこで障害物になれとばかりに、躊躇いも無く射殺される。
最初僕たちと彼らは国境で出会い、遭遇戦で教師達が問答無用で殺され、女子達は、ほぼ全員娼館へ売られ、僕たちは奴隷として捕縛された。
逃げた者たちも居たが生きているとは思えない、一人くらい生きててくれればいいと思う。
看守達の言葉を統合すれば、僕たちが流れ着いた森は魔物達の楽園と呼ばれる危険地帯だったそうだ。
ジェスチャーと理解できる単語が本当に正しければの話だが…。
生存を期待できるかと問われれば返答に窮することは疑いない。
盾にまた何かが刺さり、近くの男子生徒が射貫かれている、それでも僕たちはノロノロと歩む。
近くで何かが起きない限り考えるのも億劫だった、何よりも空腹が辛くて仕方が無い。
しな垂れかかってきたクラスメイトの死体に身体を押され、反射的に押し退けようとして無様に転倒する。
驟雨さながらの矢の雨が降り注ぎクラスメイトの死体越しに鈍い音が聞こえて来る。
遠くから象の鳴き声が轟き渡る。
僕たちの飼い主たる盟主ピーシャーブディ2世の戦象部隊が出陣したのだろう。
肉壁であり囮である僕たちは、彼らが通る道に落とし穴や伏兵が存在しないかを確認する役割が主な仕事だ。
そして最終的に彼らに踏み殺されたとしても、それすらも織り込み済みの捨て駒だ。
最初から命としてカウントされてなどいない。
戦象部隊を側面から狙おうとする騎兵に対する盾の役割として、変わらず肉壁としてノロノロと前進を再開する。
そして僕は、クラスメイトだった男子生徒の遺体の下で気を失っていた。
ドリンダ歴三年 春 ルスティバードの平原の戦い
それが僕が参戦した戦いであった。
キリキリと引き絞られる弓弦の音で目が覚める。
僕は敵兵に捕虜として拾われた。
手枷と足枷を填められて地下室に放り込まれたが、朝夕の二度の食事を出されて僕は感涙に咽び泣いた。
塩味がある!温かい!何より普通に人間が食うものの形であり体裁を保っていた。
活力が戻ると言うのは凄く嬉しい事なのだと実感しながらも、気付き、焦る。
感謝の言葉一つ伝えられない事がもどかしい。
言葉が通じないと言う事実はそれから暫く拾い主との間に良好な関係を築く上で障害になり続けたが、拾い主が使用人の子供を指差し、何事か告げながら差し出してきた子供用の言語の教科書を与えられてから、状況が少しづつ好転することになる。
手枷が長めの手錠になり部屋が明るい地上一階の物置小屋に変わった。
文字と言葉を困難ながらも教えられ必死になって学ぶ。
昼間は明るい裏庭の地面に文字を書き、教科書を広げ発音を使用人の子供に教わる。
拾い主の度量の大きさも然る事乍ら、使用人の教育レベルの高さにも感心する。
初等教育すら発展途上国では受ける事すら出来ない高度なものなのだから…。
片言のロンダ語を使える様になるのに二ヶ月を要した。
文法を身に着けるのに三か月と少々。
筆談のような単語塗れの手紙で拾い主に感謝を伝えられるようになるまで都合半年掛かったのは痛恨の極みだった。
ある日、目覚めと共に屋敷中の鎧戸を開けて埃払いを済ませ、朝の水汲みと掃除用の水桶の準備、雑巾と水桶を片手に窓拭きに回り、箒と塵取りを持って掃き掃除、それが終わればモップと桶を持って床掃除。
朝食を使用人小屋で済ませた後、庭の草むしりから枯れ葉や枯れ枝集めを行う(燃料になるのでゴミではない)執事とメイド長に命じられる細かな仕事を終えたら勉強の時間である。
そんな生活を大凡半年程続けている間に手錠も足枷も外された。
無論こんなに良い生活が奴隷には望んでも与えられないであろうことは理解できた、なので逃げる事など一切考慮に入れず何時ものように夜警の人間が様子見に訪れても普段通り雑談して眠りに就いた。
翌日、使用人の息子であるディルが
「これからもよろしくな」
と手を握ってきた時に、屋敷の者達は僕が逃げるかどうか見届けたのだと理解した。
ハッキリ言おう、腰巻一丁の奴隷生活に戻りたい馬鹿がいるなら是非ともお目に掛かりたいと思う。
拙いロンダ語でありがとうと答えた瞬間涙が出た。
ぬくもりに飢えている事を実感するよりも先に身体が反応したようだ。
秋の収穫も終わると、館も町も喧騒に包まれていた。
ピーシャーブディ2世の愛象であったナウディの象牙が飾られた謁見の間で、王が国民に出陣の下知を出したのだと云う。
地下室で顔を見て数日後、教科書を与えてくれた御館様と数えて三度目の邂逅を果たした僕はそんな話を聞かされていた。
必死にロンダ語で答える僕を、眺めやる御館様と奥様は、僕が何者で何故奴隷にされていたのか、どんな罪を犯したのかと問う詰問から始まり、奴隷に落ちるほどの罪がまるで無いと知ると、僕が今どのような立場であるかの詳しい説明がなされた。
捕虜の身分であったが今は先の戦の褒賞の一つとして国王から与えられた奴隷階級の人間である事。
今はそれを解放し使用人兼兵士として働かないかと尋ねられ、快くそれを了承した。
晴れて正式に使用人として部屋を与えられることになり、一番大人しく頭が良いとされる軍馬を貸し与えられる事となった。
「また、隣国のタキトゥス公国が攻め寄せて来るとの事だ、お前が盾一枚で従軍した国だが覚えておるか?。」
「国の名前を、今、初めて知った。その程度です。」
「ふむ、最前線に出る上に命の保障など無いが、武勲を立てれば良い暮らしが出来る、タキトゥス公国との大きな違いはここだ、励めよ。」
「完全な素人ですが、努力致します。」
「詳細はジュノーに聞くと良いだろう、男児は十五歳を超えれば立派な成人、武勲を得れば自由人、市民権を得るのも難しくはない。」
御館様はそこで言葉を区切りジッと僕の目を見据えた。目を逸らしてはいけない、必死で視線を受け止めるしかない。
「お前にも武装させて参軍させよとは、────からのお達しでもある。」
微かに、聞き取りづらい言葉が混ざる。
聞き取れなかった事を速やかに詫びつつ執事のジュノー氏にも頭を下げる。
泥濘をのたうつ様な初陣から一年、僕はまたあの戦場に舞い戻ることになったのだった。