二十年後の二十九日午後3
俺たちは、自宅マンションから少し離れた所にある電停へ歩いて向かった。そして、半ば崩れかかった電停で市電を待った。
ふと、辺りを見回す。そこには、再開発から取り残された、陰惨な光景が広がっていた。恐らくこの地区で住人がいるのは、俺たちの住んでいるマンションだけだろう。戦争前は旧市街近くの住宅地として栄えたらしいが、今ではその面影は無い。そりゃそうだ、すでに日本の人口は二千万人を切っている。つまり、日本は空き地で一杯なのだ。
優恵と二人でボーッと待っていると、遥か遠くから市電が鋼鉄製の重い身体を引きずりながらやってきた。まるで喘いでいるように車体を揺らす。俺たちはその市電に乗り、郊外電車への乗り換えのため中央駅へと向かう。この中央駅の側にデパートがあるのだ。俺たちの乗った市電は、大きな音を立てながら中央駅のターミナルへと入って行く。
「優恵、時間があまりないから後でいいか、デパートに寄るの」
「あ、はい、いいですよー。デパートは夜の八時までやってますっ」優恵は嬉しそうに車窓を流れるデパートの建物を見つめた。
中央駅から郊外電車に乗り換え二十分。指定された住所に最も近い駅に着く。この辺りは新しい住宅街があるらしく、そこそこ人通りがある。指定された住所まで、歩いて数分で着いた。
古い一軒家がある。ちゃんと手入れはされているようだが、どことなく生活感と言うものが無いように見える。メモにある住所はここを指しているが…。俺はチャイムを押す。優恵が、小さく何度もジャンプし、中を伺う。すると、いきなり扉が開いた。優恵は、ひゃう、と言って尻餅をつきそうになるが、尻尾の力で体勢を立て直す。
「ようこそいらっしゃいました。どうぞ、どうそ入って下さい」家の中から出てきたのは、古賀だった。
中に通され、俺は先ほど覚えた違和感を鮮明にした。確かに綺麗に手入れをされている家だ。だが、人の気配がしない。まるで、ついさっきまで無人だったかのような、独特な空気が立ちこめている。優恵も何かを感じ取ったのか、しきりに鼻を動かす。優恵の嗅覚は俺たちの数百倍は良い。
「優恵、どうした?」俺は小声で訊ねる。
「んー、えっと、何だか消毒薬の匂いがしますね。あと殺虫剤。たぶん、ここ数日以内に大掃除をしたような感じです。それも業者が入って。あと、古賀さん以外に多くの人たちが掃除の後に出入りしているみたいです。数十人ぐらいが」
ふむん。俺にはよくわからないが、優恵がそう言うならそうなのだろう。客の多い家なのだろうか。
「古賀さん、素敵なお宅ですね」俺は古賀に話しかける。
「え? あ、はい。ありがとうございます。実はここ、私の生家なんですよ。ずっと使っていなかったんですけど、五日前に掃除をして、また住むことになったんです」古賀はそう言いながら遠い目をする。
まあ、人には色々事情があるからな。きっと仕事が変わったりで、地元に帰って来ることになったのだろう。
俺たちは居間に通され、ふかふかのソファに座った。優恵は出されたカステラをぱくついている。もちろん、俺の分も。俺は少しだけ恨みがましい目を優恵に向けてから、復元したハガキと元のハガキを古賀に渡した。
「こちらが復元したものです。かなり欠損している部分がありましたので、そのような場所は手作業で繋げています。これで文面は読めるはずです」
古賀は俺の話を半ば聞き流しながら、じっと文面に目を落とす。そして、震える声で呟く。
「なんだよ…、何で今ごろになって…。ああ、そうか、母さんにとっては…」
ふむん…。どうやら、この手紙は古賀の母親が彼にあてたものらしい。では、フジミヤとは誰なんだ。俺はてっきり、この手紙は時間飛行士によるものかと思い込んでいたが…
「お母様からのお手紙だったんですか?」俺はそう古賀に訊ねながら、優恵が早くカステラを食べ終わらないかと彼女を見つめた。ハガキを渡したのだから、早くここを出てデパートへ向かいたい。だが、そう思うと同時に、俺はこのハガキについてさらに好奇心を持ってしまっている。
優恵は、相変わらずはむはむとカステラと格闘している。
「ええ、そうです。いや、お恥ずかしいことなんですが、これをもらったとき、ちょっと母と喧嘩をしていましてね。破っちゃったんですよ、こんな具合に」古賀が寂しげに笑いながら、テープで補修されたオリジナルのハガキを手に取る。そして、補修の後を愛おしそうに撫でた。
「そうなんですか…」俺は少しだけ重くなった空気を感じながら、カステラと一緒に出された紅茶を口に含む。うん、まずい。合成紅茶だ。うちでは優恵が合成ものを嫌がるので、食費を圧迫するにもかかわらず本物の紅茶とコーヒーを買っている。優恵の自宅にはそう言ったものが無いので、いつも俺の家に来ては飲んでいたりするが…
「あれ…?」優恵がフォークを置くと、耳を何度も動かした。そして、その直後に玄関のチャイムが鳴る。
「あ、すみません」古賀は神妙な面持ちで立ち上がり、玄関へと向かった。何だか様子が変だ。
「誰でしょうね? でも、なんだか…」優恵はカステラの最後の一欠片を食べると、玄関の方へ目をやる。
「まあ、俺たちには関係のないことだ。あまり邪魔しちゃ悪い、そろそろ帰ろう」俺はハガキのことが気になりつつも、帰宅の準備をする。そして、訪問客と入れ違いで帰ろうと古賀に挨拶をしに向かった、のだが…
古賀と若い女性が無言で対峙している。若い女性、古賀と同じぐらいかもう少し歳は下かも知れない。古賀の恋人か友人だろう。こりゃ、ますます邪魔をしてはいけないな。でも、なんだか変な雰囲気だ。
「おい、優恵。準備はできたか?」俺がそう言いながら優恵の方に振り向く。そのとき、奇妙なことが起きた。
「母さん…」
古賀はその若い女性に向かって、そう言ったのだ。
*
俺と優恵は再び奥の部屋へと戻り、どことなく何かに怯えおどおどしている女性、古賀が母さんと呼んだその女性を見つめた。その女性は若く、やはりどう見ても古賀の恋人か友人にしか見えない。やや背が低く丸顔なので、余計に若く見えるのかも知れない。どことなく緊張しているが、人懐っこそうな感じのする愛嬌のある顔。それに、非常に知的な眼差しをしている。頭が良さそうな感じなのに、それでも人当たりが良さそうにも見えるのだ。
「私は、古賀敏の母親です。藤宮美咲と言います。」
その言葉で、俺の頭の中でバラバラに散らばっていた様々な情報の欠片が有機的に繋がって行った。俺は藤宮の次の言葉を待ったが、彼女はそれっきり口をつぐんでしまう。そして古賀も押し黙っている。
「どうも、はじめまして。私は如月拓人と言います。古賀さんに仕事を依頼され、その件でお邪魔しています」俺は敢てハガキの件には触れなかった。あのハガキは、今、目の前にいる藤宮が書いたものだろう。おそらく二十年前に。でも、そのことをこちらから触れるのは良くない。
「優恵」俺は優恵にも自己紹介をするよう促す。
「あ、えっと。はじめまして! 神無月優恵って言います。今日は拓人さんに付き添ってきました」優恵は満面の笑みを浮かべると、耳と尻尾を大きく動かす。機嫌の良い証拠だ。いや、相手に敵意が無いことを示しているのかも知れないな。
「え…?」藤宮は不思議そうな、そしてどこか怪訝そうな表情を優恵に向ける。獣人に対する戸惑いと偏見が現われた表情だろう。少し前まで、よく町中で見かけられたが、さすがに今では見る機会も無くなってきたのだが。優恵は藤宮の様子に気付き、ばつが悪そうに笑う。
「ところで古賀さん。ずいぶんお若いお母様ですね」
苛立ちと腹立たしさを覚えた俺は、ついつい古賀に聞いてしまう。恐らく藤宮は、あの時間飛行士だ。そのことに気付いているにもかかわらず、あえて気付いていない振りをしてそんな質問をする。俺は僅かな嫌悪感を自分に抱き、目をそらしてしまう。そんな俺を心配して、優恵が俺の手をそっと握る。
「あ、ええ…。そうですね…」古賀はどうしたものかと、藤宮に視線を向ける。
「その点については、良かったら私からお話ししましょう。もし、敏が良ければ」藤宮が生気のない瞳をこちらに向けた。
「母さんがいいなら…」古賀が戸惑いながら返事をする。
その言葉を聞いた藤宮は、ようやく僅かな微笑みをたたえる。
「では、ご一緒に夕食でもどうですか? お時間はありますか?」
俺は優恵との約束(そうだ、デパートへ行くのだ)を思い出し、優恵に相談する。すると優恵は「デパートは明日でも良いのです」と嬉しそうに言うので、夕飯をごちそうになることにした。そうか、明日は日曜だったな。
「じゃあ、ごちそうになります。でも、本当に良いんですか」俺は、家族水入らずの夕食に部外者が参加しても良いものかと悩む。が、それと同時に時間飛行士である藤宮の話を聞きたいとも思っている。
「食事は大勢の方が楽しいですから。昔も、敏が良くお友達を連れてきましてね…。では、準備をしますから、居間でお待ちになっていて下さい」藤宮はそう言うとキッチンへと消えた。
「古賀さん、お母様って、あの時間飛行士の…」俺は悩みながらも、古賀に訊ねる。だが、古賀は黙り込んだままだ。そうだよな、言いづらいことだと思う。時間飛行士は帰還時に事故を起こすのだから。無事に帰還できなかったのだから。
「あ、いえ、お気に触ったようでしたら…」俺が頭を下げようとすると、古賀はそれを遮った。
「いえ、私もあなたには話そうと思っていたのですよ。お世話になりましたしね。それに、隠しておくことでもない」古賀はそう言うと、泣き出しそうな表情になりながらも懸命に笑おうとする。
「はい、私の母は時間飛行士です。苗字が違うのは、私が親戚に引き取られたからです。私には父がいません。幼いときに事故で亡くなりました。そして母は…。世界初の時間飛行士で二十年前に、二十年後の世界、ちょうど現在ですね、この時代へ時間跳躍をしました」
優恵は更にしっかりと俺の手を握りしめ、不安そうに古賀を見つめる。瞳の中の小さな青い光が、それこそ不安を示すかのように揺れる。
「時間跳躍は成功しました、が、如月さんや神無月さんもご存知だと思いますが、帰還時に事故が起き…。現在まで未帰還の状態です。母が法的に死亡扱いになり、私は親戚に引き取られたのです」
「…、そうでしたか。でも、そんな大切な再会のときに、私たちがいても良いんですか?」俺のそんな問いかけに、優恵も何度か頷く。
「いえ、逆にいてもらった方が助かります。私一人で母と向き合っていたら…。きっと何も話せないし、それに、それに私の気持ちの…」古賀はそう言うと、涙をひとすじ流す。それを袖で拭うと、何とか声を振り絞り…
「最後のときぐらい笑っていたい。一人ではその自信がありません。本当にお二人には申し訳ないのですが…」
「いえ、構いませんよ」俺はそう言うと、大きく息を吐き出す。
「うんうん。ぜんぜん構いません。わー、どんなお夕飯なんだろう。楽しみ」と優恵は朗らかに笑う。そんな優恵の姿を見て、古賀は「ありがとう」と言うだけで精一杯だった。