日暮れの風
忍び足で部屋を出る風太郎、しかしそれは無駄だった。裏口には彼の行動を予期していた母が正座をして待っていたからだ。
旅は終わり、それなりの時間が経った。風太郎は今夜、何としてでも家を出なければならなかった。下手をすれば、彼の人生最大の難関が待っているのだから。
流太郎の傷が塞がり始めた今日この日、母は言いたい事があった。幕府の仕事で疲れただろうと気遣う時間は終りを告げ、山のように積もった小言が今まさに吐き出されようとしていたのだ。
「風太郎、少しいいですか」
「げ」
冷たい母の声を聞き、風太郎が思わず声を漏らす。しかし遅い、母の口を塞いでいた堰はもう切られてしまったのだ。
「江戸に帰ったと思えば遊び呆けて……いつになったらまともな仕事に就くんですか?」
耳が痛い、それでも彼は行かねばならぬ。
「きょ、今日は近所の神社のお祭ですし……少しぐらい羽目を外しても、ね?」
「その羽目がしっかり嵌っている所を、私は見た事がありませんよ? ……仕事に関してはそのうち流太郎に紹介してもらうとして、あなた、早く結婚しなさい。慎ましい女性を妻とし、健やかなる子を育て、この日暮の名が末代まで残るような生き方を……」
という訳で、風太郎は逃げ出した。
過ぎ去った短い日々の出来事は、それなりに多くあった。一命を取り留めた流太郎は暫く村で治療に専念し、その後は休暇も兼ねて自宅療養。本人はルナに会いたいが為にいつでも仕事に復帰できるとぼやいていたが、家で何もしない兄の姿がそれなりに珍しかったので風太郎は適当に諌めていた。
飛鳥はその功績が認められ、婿入り先の彩音の家をそれなりに建て直す事が出来た。風太郎に薦められていた護衛の職についたらしく、これで彼が真っ当な職を得る機会はしばらく失われてしまった。最も当の本人はそんなことなど気にしていないが。
鍛冶師の東海林郎が仕事と観光と観光を兼ねて遊びに来たのだが、その際に風太郎の家を立ち寄った。どうやら風太郎の刀に銘をつけるのを忘れていたらしい。ああだこうだと酒を交えて様々な候補が二人の間に飛び交い、結局残った名前を使うことにした。
天乃叢雲乃代。
皮肉めいたその名前を風太郎は笑ったが、それでも彼に似合う銘ではあった。
結局のところ、風太郎自身はこれといって目ぼしい物を受け取らなかった。職は飛鳥に譲り渡し、身の丈以上の金銭も断った。そのおかげと言えばおこがましいが、橘神社に屋根が戻る日は予定よりも早く訪れた。
そして今日は、待ちに待った祭りの日だ。どこかの将軍の発案で花火まで上げるらしいが、別に彼が花火が見たい訳ではない。もっとも彼が望む花の名を、口にする日は来ないだろうが。
永世江戸から、人が消える日は無いだろう。それほどまでにこの街は、活気と逞しさに溢れているのだ。ただ、それにしても今日は違う。祭りというのは、それだけで彼らの心を震わせた。
風太郎自身、こういう雰囲気は嫌いではない。いつもならそこら辺で酒を引っ掛けながら縁日を冷やかすのだが、神をまともに信じぬ彼は橘神社の社務所へと真っ直ぐ歩いていた。誰のせいで信仰心がすり減ったのだと、久しぶりに会う彼女に文句の一つを言おうと思った。
ただ非常に残念な事に、そこにいた巫女は偽物だった。なぜそれが偽物だと見破れたかと言えば、知り合いの忍者だったからだ。
「お前、こんな所で何をやっているんだ?」
「手伝いです!」
元気な声で小春は言う。おみくじやお守り、ついでに絵馬が並べられているがあまり減っていない所を見るとそれほど売れてはいないのだろう。
「お前は巫女じゃないだろう……それにそのお守り、ご利益なんてあるのか?」
風太郎の質問に、小春は苦笑いを浮かべる。絶対無い、風太郎はそう思った。
「ご利益はあるか分かりませんが、製造費がかかると立花さんが言ってましたよ?」
「そう、それ」
思い出したように、風太郎が小春の顔を指さす。
「どれにします?」
「……あいつはどこにいるんだ?」
そう言えばと、小春は笑った。わざとらしくとって付けたその台詞が、風太郎の態度と真逆で可笑しかったのだ。彼が立花を探していることなど、誰が見ても明らかなのだ。
「何でも、もっと儲かる仕事を見つけたらしいですよ? 縁日の方を覗いて見ましたか?」
「わかった、そうしてみるよ」
何の未練もなく、彼は振り返る。考えた事といえば、小春は給料がまともに払われるだろうかと下世話な事ぐらいだろうか。
「風太郎さん!」
その背中を、彼女は呼び止める。
「何だよ」
振り返れば、小春が笑顔で手を振った。その意味を気付かなかった事にして、風太郎はやかましい群衆の中へと戻っていった。
捜し物をする時は、まず遠くから手をつけるのが彼のやり方だった。近くにあるものなど、その気になればすぐ見つかるから。そんな道理に従って、彼は人で賑わう神社の境内を後にした。何も出店をやっているのはそこだけではない、そこら中の道が食い物やら玩具などを平日の倍以上の価格で売っているのだから。
しかし結局、彼はそこから出なかった。出ようとしたら、見知った顔を見つけたからだ。それも二つ、同時に。
「やめろ、引っ張るな」
背の高いその男は、遠くからでも目立つだろう。ただ今は、その袖を引張る女の方が目立っただろう。その表情は、見る者を少しだけ幸せにするくらい素敵な笑顔だったから。
「何を言いますか……お祝いの日に楽しまなければいつ楽しむと言うんですか?」
訳の分からない理屈を話す彩音に、それに納得する飛鳥。知り合いといえば知り合いで、友人と呼べるかは怪しいところだ。
「随分とまあ、仲の良い事で」
それでも彼は茶化してみた。独り身の男の性分なのだから、仕方がない。
「あら、奇遇ですね日暮さん」
「やけに楽しそうだが、良い事でもあったのか?」
声をかけてきた彩音に、風太郎は半笑いで受け答える。笑えるぐらい、二人は幸せそうなのだ。
「ああ、少しだけ富と名声を得られた」
「これで家も安泰って訳だ」
飛鳥が本当に望んだものは、手に入らなかったのかもしれない。それでも全てを捨てずにいられる程に、必要なものを得たのだろう。不器用に笑う飛鳥を、今誰が鬼と呼ぼうか。
「そうだ二人とも、立花を見なかったか? 社務所に行ったが、違う奴がいた」
「……まだ会っていませんね」
本題を尋ねた風太郎だったが、彩音は曖昧な返事をするだけだった。それでも、彼にとって収穫はあったのだが。
「という事は、そっちにはいないんだな……ありがとう、おかげで手間が減った」
「風太郎」
踵を返そうとした彼を、飛鳥の声が呼び止める。妹にどうのこうのとお節介な釘でも刺しに来たのかと思ったが、そうはならなかった。
「どうした?」
「……礼は言わんぞ」
それは礼を言っているのと何一つ違いないだろうが、それでも風太郎は何も言わなかった。ただ黙って聞き流し、鳥居の下を歩いて行く。
階段を上りすぐ気付いたのは、また見知った顔だった。しかも、三人。その内の一人は、つい最近まで床で伏せていた身内だった。
「ここを……こうして……こうじゃあっ!」
「おお、ルナ様お上手です」
「チョット流太郎、全然金魚取れないヨ? 網は無いノ? もうそれで掬っちゃおうヨ」
「駄目です、それはもう遊びではなく漁です」
最初は、そのまま放って置こうと思った。しかし立花と話している所に横槍を入れられても困るし、それに今なら彼女がどこにいるのか解るかも知れない。
「なんだ、兄上らも来てたのか」
そういう訳で、彼はわざとらしく流太郎達にそう言った。
「駄々をこねられてな、仕方なくだ」
「ルナがか?」
「違う、上様だ」
子供よりもはしゃぐ大きな子供を見て、風太郎は妙に納得してしまった。
「それで一つ聞きたいんだが……立花を見なかったか?」
「彼女なら、向こうで変わった射的をやっていたよ」
「なるほど、確かにお守りよりも儲かりそうだ」
用事も済んだ彼は、一行に背を向けて歩き始める。もっとも例のごとく、彼らに呼び止められたのだが。
「あれ、風太郎もういくのか?」
「一緒に遊ぼウ? 楽しいヨ?」
確かにそれも悪くはない、それでも彼は振り返らず。
「それはまた、別の機会で」
きっとすぐに来るだろう未来の約束を交わしてから、人ごみの中へと戻っていく。今は、見たい顔があったから。
兄の指差す先を行けば、そこには暇そうに立っている立花がいた。緩んだ頬を手で直して、いつかのように声をかける。
「よう、儲かるか?」
風太郎に気付いた立花は、素直に笑顔を浮かべていた。そのせいで結局風太郎も笑ったのだが、誰も見ていなかったのが何よりの救いだただろう。
「最初は良かったんですが、今はあんまりですね。ばれたんでしょうか」
「何が?」
聞き返すも、立花は黙って答えない。代わりに値札を指さして、それを払えと促した。
「変わってるな、弓じゃなくて鉄砲の玩具か」
よく作られたそれを眺めて、風太郎は構えてみた。小さな軽い木の玉を出す不思議な玩具で、かけそば一杯の値段で玉が三発も打てるらしい。
「倒れた景品を差し上げますよ」
基本的な事は、いつもの射的と変わらぬらしい。急ごしらえの棚に置かれる景品は、どれもが殆どが子どもが喜びそうな玩具ばかりだったが、金を払って何も貰えぬのは癪だった。
「それなら、遠慮無く」
弾を込め、引き金を絞る。本物のように派手な音はしないが、弾は真っ直ぐと飛び目当ての羽子板の入った箱に当たってくれた。
「……倒れないな」
威力が弱かったのか、もう一発当ててみる。当然倒れない。
「やっぱり」
何かがおかしい。そう思い立花の顔を眺めれば、楽しそうに声を漏らし笑っていた。
「実を言うと、糊付けして倒れないようにしているんです。もしかしてそれがばれたのかも……」
「なるほど、確かにそいつは儲かるな」
立花の事だから、ここに並ぶ全てにしっかりと糊が付いてるのだろう。その念入りさに呆れながらも、玩具の鉄砲で何を撃つかを選んでいた。
「さあ、あと一つですよ。風太郎さんは何が欲しいですか?」
「糊が付いてない奴」
「残念、ありません」
違った、あった。それを見逃してしまうほど、とれじゃーはんたーは甘くない。色は三色、紅白に黒。良くない所が目立つだろうが、それでも彼は欲しかった。
放たれた弾はゆるやかな軌道を描き、立花の頬に命中した。
それでも、もちろん、彼女は倒れない。
「おかしいな、糊が無いのに倒れやしない」
彼女は笑う。嬉しかった。
「あら、悪い事をしましたね」
ここで倒れてしまえたら、どれほど楽かと彼女は想う。けれどそれは望まれぬ、ここで意地を張らぬならどこで張るのかと意気込んだ。一世一代、気合を入れた彼女の表情はやはりいつもの笑顔だった。言葉はもちろん、皮肉のままだ。
「倒れたほうが、良かったですか?」
知っていた、それぐらいの皮肉が返って来ることは彼だって知っていた。だから、撃ったのだ。側にいて欲しいと、願ったのだ。
「いや……これで良かったさ」
彼女は倒れず、そこにいる。凛々しく咲いた花のように、今日も真っ直ぐにそこにいる。だから良い、こんな事で倒れる女はこちらから願い下げだと彼は思う。思っただけで、彼は言わぬ。言ってしまえば自分が倒れてしまいそうだ。
風太郎の行動の意味を理解できぬほど、立花は馬鹿ではない。それでも立つ、それを彼が望んでいると、知っていたから。
だからせめて、彼女は想う。いつか倒れるその日の事を。
「そうだ風太郎さん、花火が上がるそうですよ」
思い出したように彼女は言う。
「生憎、すぐ消える花は嫌いなんだ」
用意していたよう彼は答える。
「なら、いつまで咲けばいいんですか?」
風太郎はそれに答えず、ただ黙って手を振った。言えるわけがない恥ずかしい言葉を、今はまだ胸の奥に。
歩き始めた彼の背に、花火の音が鳴り響く。
それでも尚、彼は振り返らないだろう。
こんなふうに笑う自分を、彼女に見られるくらいなら死んだほうが余程いい。
そう思い、彼は行く。
その行き先を知りたいならば。
日暮れの風に、訊くと良い。




