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馬鹿




 目の前に広がるのは森と大地と木漏れ日か。天然の照明が鮮やかに景色を染め上げ、見る者全ての目を奪う。遠方に響く鳥の声は葉に揺られる度澱みを無くし耳の奥で鳴り続ける。どこからか吹いた風は水と草と土の匂いを鼻孔に届け、吸い込めば何にも勝るその甘さを喜ばずにはいられない。


 常人ならば、そうなるだろう。


「立花……一つ聞きたい、ことが……ある!」


 息を切らし、寝ている少女を担ぎながら、山を進む一人の男と。


「なん……ですか」


 笑い始めた膝を押さえ、即席の杖を突きその後に続く女は断じて普通などではなかった。


 美しいはずの景色から肥溜めの如く目を逸らし、鳥は五月蝿い、匂いは臭い。二日目となった山越えは過酷を極め、磨り減った精神がそこにある全てを憎んでいる。立花は世辞にも体力があるとは言えない方で、風太郎に至っては昨日までの疲れが残っているのか未だ目を覚まさないルナを抱えて苦行のように汗を流している。


「天の叢雲は……西に……あるんだったよな」


 彼らが目指すは、永世江戸の北に位置する上野の国。一度武蔵を超えた彼らであったが、今まさに武蔵の山中を闊歩している最中である。


 さてはて天の悪戯か、何故そのようになったのか。その理由を彼はまだ知らない。


「だか、らあっ! 一昨日……言ったじゃ……ない……です、か!」


 荒れる呼吸に滑る足場、山でも目立つ巫女服の裾は泥と苔で汚れている。そろそろ、彼女の体力は底を尽きても不思議では無かった。


「……少し、休みませんか……」

「駄目だ、それだけは……許さん!」


 魅力的な立花の提案に、一瞬風太郎は頷きそうになるが、それでも気力を振り絞り一歩づつ山を登り始める。踏みしめる枯れた小枝の断末魔、彼らに届く術はない。


「どうして、です……かっ!」


 精一杯の力を振り絞り、岩を乗り越える彼女。少しだけ高くなった目線が捉えたそれが、風太郎の言わんとしている事を理解させた。


「……あんな風には、なりたくないだろう」


 彼が指差すその先には、まだ蛆が湧いていない真新しい女の死体が横たわっていた。






 意気揚々と富士山を後にした風太郎一行だったが、西へと向かわぬ自分の足に疑問を感じた風太郎はその理由を直接立花に尋ねてみた。帰って来た答えはひどく意外な物で、彼は思わず聞き返してしまった。


「移動している?」

「ええ、そうとしか考えられません」


 素っ気ない彼女の説明に、風太郎は未だに納得できない。頭の中で適当な理由をでっち上げたが、そのどれもが妙なものばかりだ。


「足でも生えて歩いてるってか」


 結局口をついた言葉も、ひどく滑稽なものでしかなかった。


「馬鹿だな風太郎、そんな訳ないだろう」

「……お前に言われると何か腹立つな」


 精一杯の嫌味を言っても、ルナはけらけらと声を上げて笑うだけだった。


「誰かが運んでいる? いえ、でも場所が場所ですし……」


 一方立花はなにやら呟いているが、それも単純に風太郎を苛立たせる。今彼に必要なのは真っ当な理由ではなく目的地の場所だった。もっとも、彼は考えるよりも体を動かす時間が欲しかっただけなのだが。


「わかった、わかったから場所を教えてくれ。出来るだけ早く見つけたいんだ」


 彼のその問いに、彼女は少しだけ悩んでから彼の目を見据えてみた。人の心配などするはずもない、ただそうしたいと願っている。馬鹿な子供の目があった。


「わかりました。でも絶対に……後悔しますから」


 もし時間を巻き戻せるのなら、彼女は言葉を続けず彼は聞く耳を持たなかっただろう。なにせ今、彼らは険しい山道で存分に後悔しているのだから。






「一応、祝詞でも上げましょうか」


 木の棒で死体をつつきながら、立花が一応聖職者らしい事を呟く。しかし風太郎は死んだ人間よりも自分の体力の方が大切だったので、わざとらしくも死体から目を逸した。


「ほっとけ、素人が迷い込んだんだろ」

「ばちが当たりますよ? そんな事言っていると」


 風太郎の言う事などもちろん聞かず、彼女は適当な切り株に腰をかける。彼女も彼と同じよう、自分の体力が大切だった。ただ二人の間に相違点と呼べるものがあるとすれば、それは大義名分という難儀で便利な物だろう。


「そうかいそうかい、俺には死人にかこつけて座ろうとするお前の方にばちが当たると思うがなあ」

「きっと大目に見てくれますよ。神様って、結構適当な所がありますから」

「どれぐらいだ?」

「風太郎さんみたいなお馬鹿さんをあの世に連れていかないぐらいには」


 反論しようと思った風太郎だったが、彼女がそそくさと祝詞を上げ始めてしまった為、彼は一気に手持ち無沙汰になってしまった。仕方無しに風太郎も腰をかけ、空いた手で脹脛をほぐし始めた。


 どれほど経っただろうか、そろそろ筋肉のこりが十分すぎるほど解れた彼は暇になって立花と死体を眺めた。聞き取れない言葉を繰り返す立花は別段面白味が無かったので、死体の方を見つめる事にした。


 性別は女、身長は立花よりは高いだろうが彼よりは低いだろう。傍目でわかる特徴といえば、長く伸びた黒い髪を邪魔にならないよう編んでいる所だろうか。服装はこの季節にはまだ早いだろう黒い長袖の上下を着ており、簡素ながらも趣向の凝らしたそれの名前を彼は知らずにいた。


 しかし髪も服も、知的好奇心を満たせはするものの両の目を楽しませるには至らない。愉しむといえば下世話だろうが、それでも目がいく彼女の胸は、仰向けのせいで余計に目立つ。立花とは比べものにならない大きな胸は、やはり男として目で追わない訳にはいかない。もちろん彼女が死体だというのはわかっているが、それは男の性である。


 神と死者に対して多少の申し訳なさを感じながらも、風太郎は上下するその胸を名一杯眺めた。




 上下する、その胸を。




「おい、今動いて」


 彼の言葉を遮ったのは、立花の声ではなかった。地鳴りのような低い音は、決して地震などではない。それは、いびき。三つ編みの女の鼻から漏れる轟音は有り難い祝詞を掻き消させるには十分だった。そもそも、寝ているだけの人間に祝詞は必要ないのだ。


「……さ、少し休んだし行きましょうか」


 誰を責めるでもなく、立花は涼しい顔で立ち上がろうとした。が、無理だった。

 涼しい顔をしようとしたはずなのに、彼女は驚き目を見開いている。立ち上がろうとしたはずなのに、間抜けにも尻餅をついてしまった。


「うわあっ!?」


 それから、変な反応も忘れずに。

 立花の足をしっかりと掴んだ元死体は、寝ぼけ眼を擦りながらも立花の顔を認識した。


「あ、おはようございます」


 遅れて口から出てきた言葉は、何とも定番な朝の挨拶だった。


「え、ええ……」


 流石の立花も、これには曖昧な苦笑いを浮かべるしかない。傍で見ていた風太郎は自分がばち当たりではなかったのだと内心喜んだ。


「なんだお前、新手の死にたがりか?」


 そういう訳で、彼は挨拶代わりに失礼な言葉を投げかけた。当然そんな言葉を寝起きに言われて喜ぶはずもなく、彼女は不機嫌そうに口を曲げた。


「死にたがりってなんですか、こう見えても立派に仕事はしてますよ」


 目にかかった前髪を指先で払いながら、女が最低限の弁明をする。


「へぇ、死体の真似で金が貰えるのか。良い仕事だな紹介してくれよ」


 もっともひねくれ者の風太郎がその言葉を素直に受け取るはずなどなかったのだが。

 風太郎を見限った彼女は、諦めて立花へと話しかけた。二枚も三枚も彼女が上手であるなど、寝ていた彼女が知る由もなく。


「ちょっと巫女さん? 連れの人、性格悪いですよ」

「羨ましいですね。寝てるだけでお金が貰えるなら、私は今頃億万長者ですよ」


 脅かされた仕返しと言わんばかりの皮肉を女にぶつける立花。彼女はどこか満足そうな笑顔を浮かべていた。彼女の感じた小さな恥は、これで帳消しという訳だ。


「うわー……こっちも悪そうだ」


 俯き項垂れる元死体を見て、風太郎は一つの疑問を思い出した。素朴で当然なそれをなぜ今まで忘れていたのか彼自身も不思議と思うほどである。


「それで、お前ここで何してたんだ?」

「あ、そうだ! お殿様とはぐれちゃって……探してたら……天気が良くてつい」


 昼寝に興じてしまったらしい。大の大人のやる事では無いと風太郎は思い、何の気なしに立花の顔色を伺った。彼が捉えた彼女の瞳が、言葉以上の同意をくれた。

 言葉にせずともわかっていた。二人の目の前で寝そべるこの女は、馬鹿だった。


「……山を越えようなんて随分元気な殿様だな」


 ただそれを本人に直接言うのはどこか申し訳ない気持ちに、特にそれが証明する必要のないほど馬鹿だというのだから、風太郎は話を逸らすことにした。それが彼にできる精一杯の優しさだった。


「違いますよ、近くの村ではぐれただけで……」


 村。それだけで慣れない野宿をしてしまった立花の目はいつも以上の輝きを得る。


「近くに村があるんですか? 何処ですか、布団とお風呂は!?」


 ついでに行動力を取り戻した彼女は目一杯女に顔を近づけ問い詰める。


「あ、安心してください……ちゃんと木に目印を置いてきましたから」

「よし、どっちの方角だ」


 そろそろ腹の虫が暴れそうな風太郎にとっても、村という響きは十分に魅力的だった。


「えっとですね、木の根本に綺麗な葉っぱが置いてあるからそれを頼りにすれば」


 そういう訳で、彼らはまた深い山奥を当てもなくさまよう羽目になる。先ほどと何が違うかと問われれば、馬鹿が増えたと答えるだろう。






 こっちかと問えば彼女は首を振り、東と聞けば西と答える。山に詳しいのは彼女の方だと立花の意見に同意してみれば、先程と何一つ違わぬ景色がそこにある。我が足に村の行方を尋ねれば、見たことのある景色がそこに。


 迷いの果て、無限とも思えた徘徊の末に彼らが辿り着いた場所は、夢物語とさえ思えていた近くの村だ。傾きかけた太陽が照らす木と草で出来た街並みは、お伽話に出てきた桃源郷にさえ見えた。


 もっとも、風太郎と立花の頭を埋め尽くしたのは希望ではなく恨み言だった。自身でも彼女でもなく、天にまします我らが神だ。


「なあ立花……神様ってのは……本当に、適当なんだな……」

「なんですか……今疲れてるので話しかけないで下さい」

「さあ、お殿様を探しましょう!」


 全身を覆うのが淀んだ披露と漲る元気か。それは二日歩き続けた者と、十分に昼寝した者との違いか。いや、そうではない。


 馬鹿か、とんでもない馬鹿かの違いだった。


「俺以上の馬鹿を……連れていかないなんて……適当というか、もう、職務怠慢……じゃないか」

「今度、陳情書でも……出しますか」

「頼む……連名にしてくれ」


 文面はこうだ。綺麗な社に甘い饅頭、それから立派な鏡餅。それは存分に余すとこなくくれてやるから、ついでに余計にこの目の前の馬鹿を連れていってくれ。日暮風太郎、橘立花。


 納得出来る文を思いついた風太郎は今すぐにでも筆を取りたい気分だった。


「良かったですね、陽が沈む前に村に戻れて!」


 溢れ出る元気は、余計に二人の恨みを買う。目を輝かせる女は今、焼きつくような二人の視線で射ぬかれている。もちろん彼女は馬鹿なのでそんな事には気づかない。


「あれあれ? 元気がないなーっ、どうしちゃったのかなーっ」

「誰のせいだ、誰の!」


 喉をがならせ、風太郎が吠える。精一杯の反抗に興じてみるも、それだけで体中の元気が根こそぎ消える。


「まったくうるさいなぁ……こら二人とも、夫婦漫才なら他所でやらんか」


 今までずっと風太郎の背中で眠っていたルナが、騒ぎに気づいたのか目を覚ます。聞き逃せないような事をさらっと言ってしまった彼女だったが、責める元気のないルナはいつものように優しい作り笑顔を浮かべた。


「すいません、起こしてしまいました?」

「寝る子は育つと言うが、寝過ぎじゃないかお前は」


 二人の声を聞いてようやく眠気が消えたのか、それとも区切りがついたのか。彼女自身もどちらかわからぬまま、大きな欠伸を一つ二つ。


「疲れていたから仕方ないじゃろう」

「あと、夫婦漫才じゃないですから。ちょっと無神経な人間を糾弾してるだけですから」

「こ、子供を起こすほうが無神経じゃないのかなあっ?」


 見たこともない女を見て、とうとう睡魔と決別できたルナ。彼女は目を丸くして、元死にたがりの顔をまじまじと眺めた。


「なんじゃこいつ、芸人か?」

「違うよ? 仕事はしてるけど芸人じゃないよ?」


 そういえば自分達は旅芸人という設定だったなと思い出しながらも、風太郎は外れそうになった話の筋を改めて戻すことにした。これ以上話の腰を折られては、夢に見た布団がどこまでも飛んでいくからだ。


「……それで、殿様を探すんじゃないのか?」

「あ、そうだ村の人に聞いて回らないと」


 ついでにようやく自分の仕事を思い出す女。どうやらこれで方向音痴の馬鹿に付き合わされる事はなさそうだ。


「じゃあ、私達は今日の宿を探しましょうか」

「そんなっ、せっかくだから付き合ってくださいよ!」


 遠まわしな別れの挨拶を口にすると、女は鼻声で泣きついてきた。みっともない事この上ないが、今は女の生死よりも布団の方が大事なのだ。


「図々しいな……遭難から救われても足りないのか?」

「じゃあ、こうしましょう! 私の事を手伝ってくれたら寝床を提供してあげます。今日は村長さんの家に泊まることになっているので」


 本来なら中々悪い話ではないのだが、いかんせん体力にも限りというものがある。だから彼がその誘いを断る事など何ら不思議ではなかった。


「いいよ別に、宿屋を探すから」


 素っ気ない風太郎の言葉を、彼女は待っていた。彼女は知っていた、そして彼らは知らなかった。たった一つの常識的な事実を突きつける機会は今を逃しては他にない。だから彼女は芸人だとか寝ているだけだとか今まで彼らに受けた不名誉な罵詈雑言のせいで生まれた肥溜めによく似た憎悪を全て晴らすかの如く精一杯意地の悪そうな顔を浮かべた。


 意外な事に、それは素敵な笑顔だった。


「こんな田舎に、宿屋なんてあるわけないでしょうが」


 窮鼠猫を噛まんとの意気込みだったのにも関わらず、風太郎達は素直に納得した。彼女は見落としていたのだ、性格の悪い人間ほど他人の素行に鈍感だということを。


「……よし、手分けして探すか」


 その上、旅というものに慣れてしまっていた彼らは恐ろしいぐらいに現実的な目線を持ち合わせていた。その証拠に、風太郎の一言に反論するものも悪態をつく者もいなかった。


「そうですね。じゃあルナ様行きましょうか」


 呆気にとられる女を他所に、彼らがさっさと事の手順を決めてしまう。


「ということは、俺とお前で探すのか」


 風太郎が肩を叩いてようやく、彼女は我に返った。


「え? あ……はい」

「どうしたお前、元気が無いみたいだが」


 ようやくまともな思考を取り戻した彼女は、お前という言葉に若干の苛立ちを覚えた。親から貰った大事な名前があるのにと憤ったが、そういえば自己紹介をしていない事を思い出した。


「お前じゃなくて小春です」


 という訳で素直に自分の名前を答えた。名字はそこまで可愛らしくないので言わないでおいた。


「よし小春、さっさと行ってさっさと寝るぞ」


 とりあえずさっさと眠ってしまいたい風太郎が、今度は小春の背中を叩く。突然の出来事で驚いた彼女は嬌声を上げてしまい、頬が少し赤くなった。そんな些細な事を勿論風太郎は気にしない。


 ただ、立花は気にしていた。何となく、面白くなかったのだ。


「……どうした立花、何かあったのか?」


 彼女の責めるような目線に気付いた風太郎が思わず彼女に聞き返す。


「別に、何でもありません」


 勿論彼女ははぐらかす。そういう女なのだ、彼女は。


「そうだよな、何でもないよな」




 尻馬に乗るが如く彼もそれに同意する。そういう男なのだ、彼は。






 赤々しく燃えた空は藍染めの染料が零れ、空には絹糸が如く白く細い月が輝く。夜道を照らす瞬く星は、まだ誰にも見えはしない。


 当然こんな時間に出歩く村人などいるはずもなく、聞き込みを行おうと意気込んでいた風太郎と小春は結局深夜徘徊を続ける不審者でしかなかったのだが。


 さらに彼女が殿様はお茶目だからどこかに隠れていると宣ったものだから藪の中や井戸の中などに声をかける有様、不審者という言葉の枠を超え変質者という新たな分類の仲間入りをする一歩手前にさえ差し掛かっている。


 そういう訳で、日暮風太郎はなかなか苛立っていた。


「しかしまあ、見つからないな」


 初めは殿様を探そうと意気込んでいた小春だったが、実を言えば彼女は別の事に気を取られて仕事に手が付かなくなっていた。それは前を歩く風太郎に関する事だった。


「ところで、その……」

「何だ、殴られたいのか」


 ただ、先程と変わらず風太郎は苛立っていたのだ。それも周囲の人間に八つ当たりしたくなるぐらいには。


「何でそんなに暴力的なんですか!? 違いますよ、その、腰から提げてる物がですね」


 彼の腰に提げている物、刀脇差荒縄苦無、滑り止めの粉が入った小さな布袋に換えの草履。


「……どれだ?」


 あまりにも多すぎる物を見比べても、答えは中々出てこない。


「苦無です」

「へぇ、よく名前を知っているな」


 不均等な菱形に取っ手がついた黒い鋳物の名前を正確に答えられる人間は中々少ない。素直に感心した風太郎が褒めれば、小春は得意げになって自慢の胸を張った。


「もちろんですよ! 何せ私こう見えても忍者なんですから!」


 忍者。実物を見たのは初めてだったが、永世江戸の露天で見かける娯楽本では常連の職業。本の中での彼らは君主に忠義を尽くし幻想的な忍術とやらで悪を懲らしめる。ついでに言えば、彼らの正体はいつも誰にでも秘密だった。


「忍者ってよ、よく知らないが……おいそれと正体を言いふらして良い物だったのか?」


 小春の顔が固まった。どうやら目の前の自称忍者は本の住人達とは似ても似つかない存在だったが、その一点に関しては事実だったらしい。


「あ、一番星だ」


 自責の念に耐え切れなくなった小春が現実逃避を初めて空を見上げる。星など見えぬ空を指差す彼女を見て、風太郎は大きなため息をついた。聞かなかった事には出来ないが、放っておく事なら出来そうだった。


「わかった、そこは深く追求しないでやる……それで、苦無がどうしたって?」

「どうって、あの、付かぬ事をお聞きしますが……」


 手を合わせ指先を遊ばせ、上目遣いになりながらも彼女は言葉を続ける。


「どうやって、使うんですか?」


 道具を知り用途を知らぬは、恥以外の何者でも無かった。


「お前、忍者だよな?」

「ふふふ、それはどうかな」


 聞き返す風太郎と、妙な自信を取り戻す小春。今、彼が彼女の頬をつねる。親指の爪が白く変わるほど力を込めて。そう、彼は腹が立ったのだ。


「痛いですごめんなさいほっぺたは弱いんです」


 風太郎は手を話し、留め具から一本の苦無を取り出す。脇差よりも小さなそれは取り回しが良く、彼の旅には欠かせない物になっていた。


「忍者だったら俺より詳しいと思うが……縄を通して、杭にするんだ。崖とか登るときに便利だぞ」


 勿論本来の用途として魚のわたを取ったり木に印をつけたりするのだが、それを説明する必要はないだろう。街中でこれをぶら下げていれば酔狂な奴だと思われるかもしれないが、一度街道を外れればこれほど心強いものはない。


「へー、忍者みたい」


 何とも無責任な言葉に風太郎は呆れたが、同時に一つ気がかりがあった。


「そうだお前、やっぱり流行りの本みたいに忍術とか使えるのか? ちょっと気になっていたんだよな」

「ええ、一通りなら」


 彼は、軽い気持ちだった。身の丈を超える火柱も大蛇を模る水流も期待などしていない。ただのちょっとした、誰にでもある好奇心。それが、それだけなのに。


「ちょっと見せてく」

「くらえ、まきびし!」


 彼の顔面を襲う、小さな刺の生えた何か。生暖かいそれが金属の筈などなく、一粒つまんでみれば植物だった。乾燥していて、力を入れれば簡単に形が崩れる。噂に聞いたまきびしは、誇張に次ぐ誇張の末に出来上がった幻想でしかなかった。


「勿体無いから食べちゃおーっと。三秒以内なら大丈夫だもんね」


 ふと小春に目をやれば、落ちたまきびしを拾い食いしている。どうやら非常食にもなるらしい。


 とまあ、そういう訳で風太郎は何の躊躇いもなく彼女の首を絞めた。どこの世界にも顔に変な物体を投げつけられて怒らない人間はいないだろう。


「ちょ、ちょっと! まきびしが、まきびしが喉に詰まる!」


 小春の顔が青ざめたのを確認してから、風太郎は名残り惜しくもその手を離した。


「まきびしってこんな物だったのか? 似たような奴、子供の頃親につけて遊んでたぞ」

「なかなか美味しいですよ?」

「味は聞いていない」

「あ、他に何が見たいですか? 火遁の術に水遁の術……ちなみに私、分身の術は得意でおじいちゃんに褒められた事があるんですよーっ」


 落胆の色を隠せないでいた風太郎だったが、彼女の言葉は消えかかっていた希望の炎に愉快な油を注いでくれた。


「本当か! 期待しても良いんだな? おじいちゃんって仙人みたいな人だろうな!?」


 もちろん違う、彼女が住んでいる長屋のおじいちゃんなのだが、もちろん風太郎が知る由もない。


「ちょっと準備があるんで目を瞑っていて下さい」

「ああ」


 裏切りが確約された忍術に淡い期待を抱きながら、風太郎は目を閉じる。思い描くは四方八方に現れる、実態のない彼女の姿。流行りの本ではそうだった。


「いいよって言うまで開けないで下さいね?」

「わかったから早くしろよ」


 小春を急かす彼の口元はすこしにやけていた。彼の落胆が復活するまであと三秒、二、一。


「ぐへへへ、いいではないかいいではないか……その年で生娘という事もあるまい」


 喉仏を駆使しているのか、だみを聴かせた低い小春の声。


「いや、やめてくださいお代官様! 私には心に決めた人が……」


 わざとらしいまでに高い声はやっぱり小春のそれだった。


「そんな事を言っても……おっと体は正直なようだな」


 最初の小春の声が聞こえる。


「いやっ、いやあっ! ああ太郎丸様、淫らな私を許して下さいまし……」


 二番目の小春の声が聞こえる。


「……まだーっ?」


 それにしても変な芸をしなければならないなんて分身の術は何と大変なのだろうと彼は自分に言い聞かせようとするが、無理だった。多分これが分身の術なのだろうという落胆は、目を開けるまでとっておこうと心に誓った。


「はい、目を開けてもいいですよ」


 そして彼はゆっくり、恐る恐る目を空ける。そこにいたのはやっぱり小春だけだった。流石忍者と言うべきだろうか、分身の術の痕跡など影も形もない。


「……分身してないぞ」

「何を言っているんですか、助平なお代官様と快楽に溺れゆく女中がいたじゃないですか」

「やっぱりお前芸人じゃないか!」


 とうとう堪忍袋の緒が切れた風太郎が小春の胸ぐらを掴み怒鳴る。


「これ、これが正解なんですよっ! 私達、これでご飯食べてるんですよぉっ!」


 彼女は怯えながら、必死に忍術の弁解を始めた。挿絵に描かれた英雄像は今、夜の闇へと消えた。これから先の生涯で、風太郎が忍者の出る小話に耳を傾けられる日は二度と来ない。


「火遁の術だって火打石使うだけですし、水遁の術だって筒ですよ、筒! もうね、あなたが思ってる以上に体力との戦いなんですよこっちは!」


 風太郎に怒鳴られたせいで、小春も感情的になってしまう。怒鳴り声に負けないぐらいの必死な声で彼女は極秘であるはずの忍術の種を全てばらしてしまっていた。


「そ、そうか」


 さすがの彼も申し訳なくなったのか、掴んだその手を優しく解く。それでも小春の感情の昂ぶりが収まる筈などもなく。


「大体ね、実際の忍術がこんなんで一番がっかりしたのが誰だか知ってます!?」


 いつのまにやら、彼女は言ってはいけない話題さえも口にだそうとしている。もはや聞き流すことも放っておくことも許されなかった。


「さ、さあ……」

「私ですよおっ! どうせ世間の流行に流される馬鹿な農家の三女ですよおっ!」


 そしてわんわんと泣き叫ぶ小春。風太郎もどうしていいかわからずその場で右往左往するしかなかった。

 ただ、救いはあった。一通り仕事をこなしてきた立花とルナが合流しようと彼らの元へと歩いて来たのだ。それからついでに、ばつの悪さも引き連れて。


「あ、風太郎が女を泣かせておる」


 開口一番誤解されそうな事を口走るルナに、焦っていた風太郎は上手い返事が出来なかった。


「違うんだ、その……全部世間が悪いんだ」


 結局出てきた言い訳は、史上最悪の一言だった。


「あらあら、いつの間にか泣かせるぐらいに仲が良くなったみたいですね」


 しかしルナなどまだ可愛い、問題はその後ろで意味深な作り笑いを浮かべる立花である。


「責任取ってお嫁にでも貰ってあげればどうですか? その牛みたいに大きな胸と尻、きっと元気な子供が生まれるでしょうね」


 彼女が怒っている事ぐらい、鈍感な彼にもすぐにわかった。


「あー……立花?」


 風太郎が躊躇いながらも名前を呼べば、立花の顔は一層笑顔に変わる。もはや不気味という言葉でしか言い表せない事を、彼女以外は理解していた。


「何ですか?」


 刺がないその笑顔、その不気味さを言語などでは表現できない。


「その、なんだ……怒ってるのか?」

「いいえ怒ってなんかませんよ? ただ私達が一所懸命戸口を周り聞き込みをしていたのにどっかの馬と鹿が泣いた泣かせたと下らないことで喚いているのが気に入らないだけです」


 これ以上彼女に何かを尋ねればもっと酷い言葉が帰ってきそうだったので、風太郎は隣にいるルナに小声で話しかけた。


「なあ、お前も怒ってるのか?」

「別に? まあちょっとぐらい腹が立つが……お主、もしかして」


 子供というのは大人以上に物を見ていて、彼女もまた例外では無い。


「よもや、理由がわからぬ訳ではあるまいな?」


 彼女のその質問を、風太郎は鼻で笑った。小馬鹿にしたのは自分自身、少しだけ動揺する目を背けたい自分の本心。ただ、それを言葉にする日はないのだろう。男に生まれたからには、そういう決まりがあるのだ。


「二人とも、そろそろ行きますよ」


 拗ねたままの立花が、口を曲げたままそう言った。


「どこに?」


 いつの間にか泣き止んだ小春が、目を擦りながら立花に尋ねる。


「決まってるじゃないですか。お殿様を助けにですよ」


 その返事は、あまりにも頼もしかった。






 月と星の光を頼りに、整備された街道を歩く一行。俳人が歩けば後世に残る名句を幾つかひねり出せそうな景色が広がっているのだが、もちろん彼らがその美しさに目を奪われる事はない。ここにある桃源郷より、まだ見ぬ布団の方が彼らの心を支えていたのかもしれない。


「聞いた話だと、この辺りには山賊が居着いていて……まあよくある話ですね」


 前を行く立花が、風太郎達が遊んでいた間に集めた情報をぺらぺらと披露してくれる。


「今日も食べ物を取りに来たらやたらと立派な服を着たお殿様がいたから、身代金目当てでさらいましたとさ」


 事の顛末はどこにでもあるような誘拐事件。ただいつもと違うといえば、殿様の護衛が案山子よりも役に立たなかった事だろう。もっとも死体と間違われる辺りは本家本元の案山子より向いているのかもしれないが。


「護衛も馬鹿なら殿様も馬鹿だな」

「まったくじゃ、どこの馬の骨だか知らんが君主を名乗る資格はないな」


 悪態をつく風太郎とルナ。小春は後ろで小さく謝罪をするが、もちろん二人は聞いていない。


「それにしても良くそんなに詳しく教えてもらえたな。こういう場所だと、余所者ってだけで警戒されそうなものだが」

「全く、大変だったんですよ? 今日だけで何度前世と地獄について語ったかわからないぐらいには」


 彼女の言葉は状況を思い起こさせるには十分過ぎた。言わなければ地獄に堕ちる、これで前世の罪が消えるなどと言葉巧みに善良な村人を騙したのだろう。


「それで身代金はどこにあるんだ? 助けにいくんだろう?」


 しかし助けに行くというのであれば、払うはずの大金を誰かが持っているはずである。そして当然彼らは手ぶらだった。


「誰が山賊なんかに払うと思ってるんですか? やっつけるんですよ、山賊を……主に風太郎さんが」

「ああそう、そうですか」


 これも遊んでいた罰かと思い、風太郎は腹を括った。傷の具合が良くなった訳では無いが、まあ山賊相手には勝てるだろうと高を括る。新調した刀の柄を強く握れば、慣れ親しんだ感触がそこにあった。


「あ、だったら私も手伝いますね!」

「なんだ、後ろから手裏剣でも投げてくれるのか?」


 有り余る元気を隠そうともせず小春が言うが、風太郎は忍術が役に立つのかと本気で訝しんだ。分身の術をしても、的にしかならないだろう。


「ありませんよ、そんなの……ってそうじゃなくて、格闘戦なら負けませんから」


 それなら問題は無い。敵を前にして一発芸を披露されても困るだけだが、忍者というぐらいなら近接格闘なら出来るのだろう。


「そうか、なら頼りにしてるぞ小春」

「はいっ!」


 優しく肩を叩く風太郎と、元気一杯に返事をする小春。そしてその様子をつまらなそうな細い目で見つめる立花。後ろにいるルナは愉快な笑い声を上げていた。


「……一応、私も行きます」


 口ごもりながらも、立花は彼らにそう言った。


「さっき働いただろう?」

「考えが変わりました、お殿様から山ほど謝礼を貰おうと思います」


 彼女らしいその理由が後付けだと気付いたのは風太郎だけで、それがまた彼をほんの少しだけやきもきさせた。


「本当にそれだけか?」

「それだけです」


 冷たく短く彼女がそう言う。やはりルナは、笑っていた。






 所は代わり、山賊の居着いた洞穴の壁を暖かな炎が揺らしている。彼らが普段どこで何をやっているのかは知らないが、今はそれなりの人数がその場に集まっていた。仲は良いのだろう、どこから仕入れたのか酒を回し飲みし、品のない話に興じている。


「おい殿様さんよぉ……一つ聞きたいんだが」


 無精髭を生やし髪を肩まで伸ばしたその男は、そこに居る男達の中で二番目に偉そうだった。彼はこの山賊を仕切る大将なのだが、生来の貫禄には叶わない所があったのだろう。




「オウオウ、どんな質問でもバッチコーイヨ」




 一番偉そうな人質の殿様は、刀を取られ手足も縛られているのに誰よりも偉そうだった。というより、彼は偉いのだ。


「女を選び放題って本当なのか?」


 割合真剣な顔をして、山賊の大将が尋ねる。豪放なその見た目に反して団子よりも花を選ぶ男なのだろう。


「本当デース。あの子もおまけにあの子のママも、一声かければイチコロヨ? もうメロメロヨ? レッツゴー大奥ヨ?」

「そうか、すげぇんだな殿様って……」


 そんな二人の会話を、冷ややかな目で眺めている男がいた。山賊よりも男妾と言われた方が納得できそうなその男は、奪った刀の鑑定をしていたのだがそれももう終わったらしい。


「なあ大将、餓鬼みたいに女の話に興じるのを悪いとは言いませんが……そろそろ仕事の話をしましょうや」


 彼はこの山賊の副将で、金や食料の管理を行っていた。彼が花を選ぶ日は、永遠に来ない。


「そうだな……おい殿様、お前の身代金はどこの藩から貰えば良い?」


 もっとも、その口の悪さでは男妾として上客を取ることなど出来まいだろう。


「身代金? ソレって領収書貰えるノ? モウね、最近経理のオバチャンがうるさくて前みたいにあれもこれも買い放題っていかないんだヨ?」


 意味不明な殿様の言葉に呆れた彼は、懐から煙管を取り出し深く吸い込んだ。それから灰色の煙を殿様の顔面へと嫌味たらしく噴きかけた。


「そっちの懐事情は気にないぜ、これが俺達の仕事だからな」


 しかし意外な事に、殿様は笑顔になっていた。別に男色の気があった訳でも、嗜虐的な性癖を持っていた訳ではない。ただ、久しくありついてなかった煙草を目にして嬉しかっただけなのだ。


「チョットお兄さん煙草あるノ? あるなら一口頂戴ヨ! 最近医者に止められてるカラ今のうちだヨ」


 流石の副将も呆れ果てたのか、自分の煙管の吸口を指で拭ってから殿様の鼻に刺してやった。それから横にいる大将に耳打ちをし始めた。


「随分訛りのひどい殿様ですね……全くどこの田舎だか。伝令出すだけで赤字なら、さっさと切り捨てましょうか」

「そうするか」


 山賊全体としての方針が決まった以上、やるべき事はそこにある。副将は刺したばかりの煙管を乱暴に抜き取っる。人質が心底悲しそうな顔をしてくれたので彼は卑しい笑みを作った。


「アレ、まだ途中なのニ」

「続きが欲しいのなら、どこの城を脅せば良いか早くしてくれ。こっちだって手荒な事はしたくないんでね」


 その言葉は彼の本心だった。出来るだけ手を汚さずに大金を手に入れられるのなら、それが何よりと思っていた。それと同時に、得にならない仕事は手を汚してでも切り捨てられる非情さも持っていた。


「モウ意地悪だナア……わかったヨ」


 殿様は目の前で揺れる紫煙の誘惑に負けてしまった。というか、自分が殺されることはないだろうと考えていたのだ。


「江戸城だヨ! ほらこれで良いでショ、早く煙草頂戴ヨ」


 それもそうだろう、何せこの国の首領を切り捨てる馬鹿はこの国にはいないからだ。


「なあ、大将」

「どうした」

「流石に……まずいんじゃないですかね?」


 さらに有難い事に、彼らは十分すぎるほど賢かった。






「ここが山賊の住処か。案外近いんだな」


 街道を少し外れたところにある天然の洞穴には、人工の光がゆらゆらと揺れている。ついでに五月蝿い騒ぎ声が聞こえるので、ここに山賊がいるのは間違いないだろう。


「村の人なら皆知ってるみたいでしたよ。あえて口に出さないだけで」

「さあ、行きましょうか風太郎さん」


 ちょっとした補足を加える立花と、意気揚々と急かす小春。彼女と風太郎が前を行き、残りの二人がそれに続く。緊張感の欠片もない彼らは炎に誘われる虫のように洞窟を奥へと進んでいく。


 そして今、山賊達と対面した。


「おい山賊共、恨みはないが布団の為だ。殿様を返して貰おう……か……」


 初めに見栄を切ったのは風太郎だった。ただより正確に言うならば、彼は見栄を切りきれなかった。それは断じて山賊のせいなどではない。ましてや彼自身のせいでもない。


 そう、諸悪の根源はピエール徳川七世だった。


「オ、風太郎ったら久しぶりだネ! 元気だっタ?」


 風太郎の体を過る、忘れかけていた疲労の二文字。それが今、ピエールの顔を見ただけで全身に襲いかかる。彼は己に問うた。なぜ、自分がこいつの為に努力しなければならないのか。なぜ、こいつはもっと大勢の護衛をつけていなかったのか。


 それでも結果は変わらない、ピエールは山賊に捕まったまま。


「今日は野宿にしようかな……」

「おいお前ら、こいつの連れか?」


 悲観的な事を呟く風太郎をよそに、山賊の大将が声を荒げる。


「だったら何だって言うんですか!」


 それから、何故か嬉しそうな顔で答える小春。ようやく活躍の機会を得られそうな彼女は汚名返上と言わんばかりに息巻いていたが、風太郎はそうならない。


「おい小春、帰ろうぜ」


 布団も何もいらない、今はただどこでもいいから眠りたい。それこそ、山の中で死体と間違われようとも。

 大将と小春の睨み合いは、呆気のない幕引きを迎えた。大の男が、何の躊躇いもなく頭を下げたのだ。


「頼む、引きとってくれ」

「……え?」


 真摯なその願いに、小春は思わず絶句する。そんな彼女の様子を見て、副将が親切にも解説をしてくれた。このややこしい状況を解決するには、遠回しな手段こそが唯一の近道だと彼は知っていたのだ。


「割に合わない商売はしない主義でね。それにありがたい事に俺達は山賊だから、侍らしい意地は張らん。煙草を一口やったんだ、それで手打ちにしてくれ」

「煙草? あ……伯父上、後で流太郎に報告するからな!」


 立花の陰に隠れていたルナが、ひょっこり顔を出してそんな事を言った。どうやらピエールの禁煙は周知の事実だったらしい。


「ちょ、ルナ、なんでここに……ってそれは勘弁してヨ」

「いやじゃ、悪いのは伯父上じゃ」

「さあ帰りましょうお殿様、今日のおかずはお肉だそうですよ」


 落ち込むピエールを励まそうと小春が奮闘するも、彼の目は副将の持つ煙管に釘付けだ。


「仕方ないナア……でも吸いたいナア、煙草」


 さてさてこれにて一件落着、攫われたお殿様は無事元の仲間に引き取られる事になったのさ。




 おしまい。




「……待て」


 などという結末では、納得できない男が一人いた。言うまでもない、日暮風太郎その人である。


「What? どうしたノ風太郎」

「誰が引き取ると言った?」


 その言葉に、その場にいた誰もが驚く。それもそうだ、万事解決しそうな時に吠えるなんて結婚式に乱入する野良犬のような物だ。しかしそれでも風太郎は吠える、吠え続ける。


「そもそも! お前と、お前!」


 目を真っ赤にして、風太郎が小春とピエールを交互に指差す。どこからか湧いてくる元気の根源が怒りであることを風太郎以外はなんとなく感じ取っていた。


「何で馬鹿二人で旅行してるんだよ、少しは立場を考えろ家来でも山ほど連れてこい!」

「ソ、ソレには色々事情ガ……」


 言い訳を始めるピエールに、風太郎はまた食って掛かる。


「おう何だよ言ってみろ」

「……国家機密ダヨッ!」


 日暮風太郎は、この国で一番の大馬鹿だった。迷いも後悔もなく国家元首に斬りかかろうとする人間に当てはまる言葉など、なかなかどうして見つからない物なのだ。


 その刃を止めたのは、小春だった。腰から抜いた小刀が今、風太郎の刀を削る。


「お前……何のつもりだ! 邪魔をするな!」


 昨日の友は今日の敵、敵の味方は敵。小春は間違いなく、風太郎にとっての敵だった。世界中の我儘と面倒事と胡散臭さに足を生やしたような男に味方する人間が彼の味方であるはずがない。彼は気力を振り絞り、握りしめる刀に力を込めた。


 小春の判断は冷静だった。力比べでは勝てないと悟り、小刀を逸らし風太郎の刀の向きを変える。刃が薄皮を切り裂く寸前、彼女は急いで距離を取った。


「気を確かに! あなたは今まともじゃないです!」


 その声が、確かに風太郎の耳へと届く。ただ彼の頭はその意味を理解できない、しようとさえしない。怒れる男に言葉など、無粋を通り越して無駄でしかない。


「ふざけるな!」


 喉を枯らし、乱暴に刀を振り回す。当て付けと呼べるその刃は、もちろん誰にも当たらない。


「まともじゃないのは」


 風太郎は今一度刀を強く握り直し、小春との距離を目で測った。その差たったの一と半歩、無理をすれば超えられる距離である。彼は右足に力を入れ、地面を強く踏みしめる。


 地は擦れ服ははためき、今彼は真っ直ぐと。


「お前らだろうがあっ!」


 頭を垂れて、気絶した。


「はいはい、もう帰って寝ますよ?」


 いつのまにか彼の後ろに立っていた立花が、右の拳をさすりながらそんな事を言った。勇気あるその姿を、その場にいる山賊さえもが本物の女神だと思っただろう。


「さすが正妻じゃな」


 しかしルナだけは神妙な面持ちでそんな事を言うものだから。


「誰がですか」


 立花の機嫌は悪くなった。






 結局村長の家にまとめて世話になる事になった風太郎は、一人縁側でしかめ面を決め込み酒を飲んでいた。寝ようと努力はしたのだが収まらない腹の虫が睡魔をどこかへ押しのけて、終いには肴にするはずの月は雲に隠れ、良い事など何一つ無い。だから彼は漆塗りの盃に酒を注ぎ、空を睨んで呷るのだ。


「今日は酷い目に合いましたね」


 たまたま通りかかった立花が、そんな彼を見かねて一声かける。風太郎の頬がほんの少しだけ緩んだが、それは酒のせいだろう。


「まったくだ、馬鹿に付き合うと碌な事にならん」

「あら、その台詞は私のだと思いますが」


 悪態をつく風太郎に、立花はいつもの皮肉で答える。何が気に入らなかったのか風太郎はまたしかめ面に戻って三杯目の酒を注ごうとする。だから立花は酒瓶を取り上げ、彼の盃にやさしく注いだ。深い意味はない、ただ彼女はそうしたかった。


「そうだ、天の叢雲は近いのか?」


 思い出したように彼は言う。


「ええ、もうすぐそこです」


 少し間を置き彼女が答える。


「そうか、近いか」


 雲は流れ、月が見える。隙間から挿し込む月光が、庭を照らし水面が揺れる。唇に触れる盃が、ゆっくりと酒を口へと運ぶ。


 それから、深呼吸。風味のついた呼吸が鼻と視覚を妖しく揺らし、愉快にならぬ理由はない。


「……飲むか?」

「明日も早いですよ? あんまり夜更かししないで下さいね」


 さりげなく立花に勧めてみるも、彼女は笑って彼を諌める。だから彼は、残った酒を一気に飲み干す。


「そうするよ」


 返事を聞いて満足したのか、立花がその場を後にする。残された風太郎は一人夢心地な気分を抱え、ぼんやりと空を眺めた。

 江戸で遅くまで飲んだあの日、月はどれだけ満ちていたか。ここはどこで、これからどこまで行くというのか。


 覚えてなどいない、知る由もない。

 それでも彼は覚えている。歩いた道を、旅の日々を。

 ならば彼は知っている。終着点に何があるかを。

 ただそれを語る日は、永久にこないと彼は悟った。自慢するには不格好で、笑いを取るには一味足りぬ。そして何よりこの旅の意味、誰が理解しうるものか。


 上機嫌に回想と空想の狭間を漂う風太郎の世界に、聞き慣れぬ足音が確かに響く。その音は一歩一歩と近づいて、その影だけを彼は見た。


「この酒、お前にはやるものか」


 風太郎のその言葉を、揺らめく影が鼻で笑う。


「敵と交わす盃が、この世にあるものか」


 敵。影にとって、風太郎は敵と呼ぶべき男だった。彼にとって、自らの道を阻むものは全て敵なのだ。


「敵、ね」


 曖昧な相槌を打つ風太郎は、少し違った。暗闇の中に立つその男は、あの富士の樹海で自らに傷を負わせた男である。それと同時に、橘立花の兄である。

 日暮風太郎にとっての敵は、その時の気分で変わっていく。ある時は小言ばかりをいう母親、またある時は嫌味ばかりいう立花。命を狙う薙刀を持った男も、もしかするとそうだったのかもしれない。


 だが、今はどうだろう。その答えを、彼は見つけられずにいた。


「宝探しは止めろと言ったはずだが」


 迷いを断ち切れない風太郎に、男は冷たく言い放つ。男に迷いはあるはずもなく、外れた道を踏み外さず。


「それは、俺に死ねというのか」

「そうだ」


 邪魔な者は、殺す。それだけの事が、今は恐い。


「決着を付けるか? 今すぐでも」


 虚勢を張った風太郎の手が、刀の柄を握りしめる。指先は震え、頬を冷や汗が伝った。


「他人の庭を汚す気になるものか……それに、酔っぱらいの相手など」


 だから男がその勝負を拒否した時、風太郎は心の底から安堵した。


「それは助かる。酔って斬られたと知られれば、父の墓には入れなくてね」


 軽口混じりの冗談に影は眉一つ動かさず、闇の中へと消えようとした。


「……立花に会わないのか?」


 その背中に、風太郎は問いかけた。答える義理などどこにもない、好奇心から生まれた疑問。


「もう捨てた……今の俺には必要ない」


 ため息すらつかずに、男はその疑問に答えた。冷たく寂しいその声がまた、風太郎を混乱させる。この男は敵か味方か、善か悪か。しかしそんな事を考えるのは、ほんの一瞬だけだった。


 風太郎は気づいたのだ。そんな曖昧な物を乗せられる気分という名のついた天秤は、初めから十分に狂っていると。


「なら、あの女は必要なのか?」


 何気ない風太郎の質問に、男は呆れ果てとうとうため息をついてしまった。そしてどんな答えより明確な疑問を彼に尋ねたのだ。


「……貴様に、立花は必要なのか?」


 そう言い残し、男は今度こそ闇の中へと消えて行った。


「なるほど、答えない訳だ」


 一人残された風太郎が、悟ったようにそう呟く。


 必要か、否か。


 たったそれだけの質問を、答える訳にはいかないのだ。




 そんな生き方しか出来ないのだ、彼らは。

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