兄
朝、目を覚ました風太郎は怪我人の割に忙しかった。眠気を覚まそうと顔を洗い、部屋に戻ると立花が運んでくれた朝食を平らげる。食欲はあったが気分は晴れず、食事というよりは作業に近い行為だった。
空になった食器を下げ、自分で傷口の消毒を行っていると彼を訪れる者がいた。旅館という場所にはほとほと似合わない、山猿の鍛冶屋がそこにはいた。
「ほらよ風太郎、代わりの刀だ」
東海林郎は土産として、一振りの刀を風太郎に差し出した。彼はそれを受け取り、鞘から刀を引き抜き具合を確かめる。
一目見て誰もが驚くような特徴は、それには無い。冗談みたいな長さも悪趣味な装飾も、自称剣豪があれこれ説明してくれる独特な刃文も見当たらない。より正確に言えば、それは地味だった。これを見せてくれとせがむ子供は少なくとも刀を見慣れている江戸にはいないだろう。
だがそれは、武器としては一級品だった。普通柄に巻かれるのは布と決まっているが、これは違う。握ればしっかりと手に馴染む黒い動物の皮は、柔らかくも滑らない。柄巻きとしてこれ以上に望める物を彼は思いつかなかった。
最低限の装飾さえされていない楕円状の鍔の表面はなめらかな曲面になっており、外側に行くほど薄く刀身に近いほど厚みを持つ。刀に備え付けられた唯一の防具であるそれは、この国にはない盾の原理を踏襲している。もちろんその機能は微々たる物だったが、装飾よりも実用性を重視されている。
最後に風太郎が確かめたのは、刀としての本懐とも言える刀身そのもの。反りに合わせて寸分の狂いもなく平行に走る刃文は東海林の実直さとよく重なる。刃を指の腹でなぞれば、冷たい鉄が指紋に引っかかる。唯一確かめられないのはその強度だが、そこを風太郎は疑いはしない。道具として最高の機能を詰め込んだこの刀が、簡単な事でひん曲がる事など想像できなかったのだ。
「……悪くないな」
笑って、風太郎は答える。悪くないという言葉が示す通り、欲を言えば自分の戦い方や体型に合わせた物が欲しかった。しかし、そんな贅沢を言える金も時間も彼にはないのだ。
「何、買い手が死んだ曰く付きの作り置きさ」
東海林郎にとっても、何時までも保存できない訳あり品を処分できる良い機会だった。
「刀が折れれば、新しいのを作ればい。だが……」
東海林郎には、鍛冶屋としての誇りがある。妥協の無い刀を作り上げ、刀を通して人を見て来た。だから彼は知っているのだ、刀を折られた侍の末路を。腑抜け、ただ時間を浪費するその姿を何度も見た。
刀は侍の分身だった。単純に道具が壊れたと受け止められる侍はこの世にいない。替えは効かない、唯一無二の誇り。
それを失った風太郎を、東海林郎は励まそうと考えた。だけど、そうしなかった。
「止そう、柄じゃない」
出来無かったのだ。紡ぐべき慰めの言葉は侮辱以上の何者でもない。侍とはそういう生き物なのだ。
「有り難く受け取ろう……と、言いたいが」
刀を鞘へと仕舞た風太郎はまた笑い、刀の柄を東海林郎へと向けた。
「金が無いんだ、悪いな」
宿代飯代その他諸々、刀を新調する余裕など彼には無かったのだ。
「ああ、それなら心配ない。もう受け取ったからな」
切実な風太郎の心配は、何の事はない杞憂で終わった。東海林郎は既に刀に見合う十分な代金を別の人物から受け取っていたのだ。
「誰からだ?」
「通りを見てみろ」
言われた通り、風太郎は窓へ近づき目抜き通りを見下ろした。合いも変わらず湯気を纏う人の中に、見慣れた姿がそこにいた。幼い頃から見慣れている、兄の姿が。
「なんだ、元気そうじゃないか。まあ、刀の代金は経費で落としておくよ」
流太郎は窓から身を乗り出す風太郎を見るなり、声を張り上げ呼びかけた。予想外の人物の登場に風太郎は面食らったが、それでも久しぶりに見る身内の姿は彼を喜ばせるには十分だった。
「歩けるだろう? 少し、話しておきたい事がある」
ただ、流太郎が単なる見舞いで来るような男では無い事を風太郎は知っている。妙な胸騒ぎを覚えながらも、彼は外出の準備を始めた。
「ところで、兄上はいつ来たんだ?」
手近な団子屋に腰を据えた二人は、小腹を満たしつつ話を始めた。世辞も前置きも二人の間には余計なだけで、風太郎は気になる事を直接聞いていた。
「ついさっきさ。連れの巫女さんから手紙を貰って急いで駆けつけたよ……うん、中々しっかり者でお前の嫁には丁度良いのかも知れんな」
実を言えば、流太郎は心の隅で弟に家を継がせようと思っていた。何せ彼自身は普通の成人女性に興味は無いのだ、ここは弟に跡継ぎを作らせる他無い。だから、弟の嫁など子供が埋め産めれ誰でも良いのだ。願わくば、旅の行きずりで聡明な甥が産まれし事を。
などと下らない事はその辺で。
「はっ、誰があんな強欲女。年を喰えば母上顔負けの意地悪婆さんに成り果てるぞ」
「嫌よ嫌よも好きのうちって言うじゃないか……うん、美味いねこれ」
古今東西の真理を得意げに話した流太郎は、良い匂いのする焼き団子を上品に頬張る。旅で疲れた彼の体を、絶妙な甘さがほぐして行く。一口、また一口と団子を口に運び、もう串しか残っていない。
「他の男に惚れた女を、好きになれるわけ無いだろう」
団子に夢中になっていた流太郎は、弟の呟き声を聞き逃す。
「何か言った?」
聞き返しても、ひねくれ者の風太郎が答える筈など無かった。
「なんでもない……それより、話したい事って何だ?」
思い出したように、風太郎は話の本題を切り出した。何も兄弟愛を温めるためにこんな所にいる訳ではない。幕府に務める役人がわざわざ馬を走らせてきた理由を、まだ聞いてはいないかった。
「ああ、お前を殺そうとした男の話だ」
表情一つ変えずに、流太郎は答える。単なる事務連絡に兄弟としての情愛は必要ない。話すべきことは決まっている、ただの必要事項だけ。
「人気者だな、あいつ」
「妬いてるのか?」
流太郎が茶々を入れれば、面白いぐらいに風太郎は不貞腐れた。
「そいつの何を教えてくれるんだ」
「あいつはお前と同じで、宝探しをしているのさ」
その答えに、風太郎はため息をつくしかなかった。あの男の目的が判明したというのに、まだ心の靄は消えない。
「俺以外にそんな馬鹿がいたとは、驚いたよ」
だから皮肉を答える。いつものように、それしか出来ないのだから。
「もっとも、お前と彼では目的が違うがな」
「……目的?」
目を丸くして聞き返す風太郎に、流太郎は笑ってみせた。馬鹿な生徒ほど教え甲斐があるのはいつの時代も変わらない。
「まさかお前は、あんな重要な物を、碌な報酬を払わずお前にだけ探させているとでも思っていたのか?」
筋を通して考えれば、誰にでも辿りつく結論である。金持ちの道楽などではない、政府主導の発掘調査。当然褒美や懸賞金があってもおかしな話ではない。その全てを一人の若者に託すほど、国というものは甘くない。
「……って事は、あいつだけじゃないんだな」
「それなりには人手を割いているさ。ただ、担当する地域が被ってるっていうのは珍しいけれど」
「地域って……そんなに規模が大きいのか」
「日本全国津々浦々、草の根を分けてまでもね。まあ一番正確に探せるのは連れの巫女さんだろうけど」
そういう事は初めに言うべきだと思ったが、聞かなかった自分にも非がある。だから風太郎はため息をつく事しか出来なかった。
「褒め言葉は立花に直接言ってやれ」
「確かに、相手を間違えたな」
会話が途切れたのを良い事に、風太郎は頭の中で話を纏めた。
まず、この国全体で天の叢雲を探している。ピエールの道楽などではない……いや、道楽かも知れない。しかし彼がそうすると言えば、国を上げての方針となる。少なくとも、一個人の宝探しとは訳が違ってくる。
そこで考えられる最も効率的な方法は、複数の人間に探させる事。ただ単にやれと言っても普通はやらないので、何らかの形で報酬を用意する。
単純に、風太郎はその中の一人でしかなかったのだ。
「全く、味方みたいな奴らに殺されかけるとはな」
口をへの字に曲げ、愚痴るように風太郎が呟く。事情を知っていれば交渉も出来ただろう、少なくともいきなり斬られる事など無かった筈だ。もちろん、相手があくまでまもとな奴だという希望的観測に基づいてはいるが。
「味方? 少しは考えろ……お前を殺せば、それだけ報酬が貰える可能性が高くなる。お前が諦めるまで、何度だって殺そうとするさ」
流太郎の言葉は、有りもしなかった可能性を考慮させる余裕すら与えない。風太郎が戦った男はそういう人間なのだろう。
「穏やかじゃないな」
「そういうものさ、世の中は」
血を血で洗う戦国時代は遠い昔。それなのに人は理由を見つけては争い、殺し合う。弱肉強食の摂理は、まだ普遍的な価値観としての座を譲らない。
嫌気が差すのは、この世か自分か。風太郎はその疑問を疑問のままで終わらせた。両者に大きな違いを見い出せなかったのだ。
「そういえば、一つ聞き忘れていた」
少し冷めてしまった焼き団子を口に入れ、ゆっくりと咀嚼する。朝食よりも美味く感じるのは、横に誰かが座っているから。
「こいつの代金も払ってくれるのか?」
脳天気な弟の問いに、流太郎は笑って答えた。ただ、その代金を笑って払う事は出来なかったが。
「いいや割り勘だ、さすがにこれは経費じゃ落とせそうもない」
「そうだったな、女に給料三ヶ月分の着物を貢いで厳しいんだったんだな……」
そう、日暮流太郎は金欠である。街の娘に贈り物をするのとは訳が違う、相手は時の将軍の姪なのだ。給料三ヶ月分をつぎ込んだとしても、足りるかどうか。
「まさか、私がそんな事をするわけ無いだろう」
しかし流太郎は己が誇りの為とぼけてみせた。手の内が知られている事など当然知らない。
「たとえそれが金髪の美少女でもか?」
だから貢いだ女の容姿を当てられ、流太郎は思わず絶句してしまった。
「……誰から聞いた?」
遅れて出てきた言葉は、風太郎を笑わせるには十分だった。だからせめてもの礼として種を明かしてやることにした。
「本人から」
その瞬間、流太郎の眼の色が変わった。人の良さそうな笑顔は消え去り、見開いた目は鬼そのもの。風太郎の首根っこを掴み、永世江戸にまで届きそうな大声で怒鳴りつける。
「どこだ、ルナ様はどこにいるっ!?」
顔についた唾を拭って、風太郎は辺りを見回した。皆自分たちを白い目で見ているが、我関せずに談笑を決め込む二人組の姿がすぐに見つかった。仲よさそうに並んで歩くその姿は、姉妹にも見えなくもない。
最も人の具合が良くなったからと言ってすぐに温泉巡りを再開するのはどうかと思ったが。
「そこ」
風太郎が指さす先にいるのは風呂桶を持って歩く立花とルナ。気がつけばもう、目の前に兄の姿はなかった。
「ルナ様ああああああああああああっ!」
それは魂の叫び。想い人を見つけた男の叫び。世俗と常識を捨てた修羅の叫び。
悲しい事に、普通の人にはただ五月蝿いだけだったが。
「お、おお流太郎こんなところで何を」
「お怪我はありませんか? 馬鹿な弟に寝込みを襲われたり下着を奪われたりはしませんでしたかあっ!? あとは厠で後ろから突然襲われたりそれは考えるだけで……ああ、もうっ!」
ルナが全てを言い終えるよりも早く、流太郎は思いつく限りの言葉を浴びせた。
「……風太郎さん、怪我の具合はどうですか?」
風太郎のそばにまで来た立花は、思い出したよう彼に尋ねる。
「今は怪我より、身内の恥が身に染みるよ」
泣き付く流太郎に、困った顔をするルナ。自身を襲う恥ずかしさが彼の傷よりも深いところへ鋭く突き刺さった。
宿屋へと戻った彼らは、いつもと毛色が違っていた。ルナと流太郎が膝を付き合わせて、その様子を立花と風太郎が眺めている。原因は言うまでもなく流太郎で、彼は誰よりも神妙な顔をしていた。彼の願いは唯一つ、彼女の安全それだけだ。
「ルナ様、お願いですから城に帰ってください」
普段の風太郎が見ないような、役人としての真面目な顔がそこにある。嫌というほど必死なその顔に外野の二人は少したじろぐ。
「嫌じゃ」
しかしルナはめげない懲りない屈しない。悪びれる様子など微塵も感じられないその態度、口をへの字に曲げて断固拒否する。彼女の意思は固かった。
「そうだ相撲、相撲を見に行きましょう……ね?」
真面目さが伝わらないとなると、別の方法で懐柔しようとする流太郎。人気の大勝負をちらつかせれば江戸に帰ってくれるとふんでいた。
「代わりに見て、後で感想を聞かせてくれ」
そしてその予想はすぐに砕かれた。彼女にとっては鍛え抜かれた横綱同士の押しては返すせめぎ合いよりもこの旅の方の行く末の方が気になるのだ。もちろんそんな事を流太郎が気づくはずもなく、見当外れの勘違いをするしかなかった。
「……もしかして、何か城に嫌なやつでもいるんですか? 畜生、誰だルナ様のご機嫌を損ねる下郎は、島流しでは足りんぞ!」
「落ち着け兄上、少しはルナの話も聞いてやれ」
暴走気味な流太郎を諭す風太郎だったが、果たしてそれは間違えだった。
「……ルナ? 一言、足りないんじゃないのかなあ!?」
よく人を目で殺すなんて言うが、兄の目はそれを超越していた。むき出しの殺意に刀に添えられた右手。きっとこの男は弟を殺すことに何一つ後ろめたさを感じないのだろう。
「ル、ルナ様のお話もご拝聴した方が宜しいのではないでしょうかねえ」
若干引き笑いになりながら、脳みその中から出来るだけ丁寧な言葉を選んで話す風太郎。それでやっと流太郎の殺意は完全に消えてくれた。
「うん、いいぞ風太郎。それでこそ日暮家の男だ」
兄弟漫才に嫌気が差したのか、ルナが大きなため息をつく。原因が自分にあることぐらい彼女はわかっていた。
「あのな流太郎、余は別に城が嫌になった訳ではないぞ?」
「だったらどうして……」
思いつめた顔で呟く流太郎に、にっこりと笑うルナ。お互いの表情の意味を、理解し合える日は来ないだろう。
「こっちの方が、楽しいのじゃ!」
彼女の満面な笑みは、立花と風太郎を少し笑顔にするには十分だった。だけどそれは流太郎の心をひどく抉った。
「一つだけ、忠告をさせて下さい」
だからせめて、彼は言う。せめてもの償いか、せめてもの手向けか。忠告という言葉に違いないが、彼にとってそれ以上の意味がある。誰にも伝わらないそれが自己満足でしかないと知りながら。
「風太郎の剣の腕は確かです。諸国を渡り歩いて鍛えたその腕、私であっても看破することは難しいでしょう」
身内だから、よく知っているから。そんな甘い理由で弟を評価したことなど彼にはない。ただ同じ剣を振るうものとして正しく狂いのない評価を彼は下す。
「その風太郎が、負けたのです……この旅が十二分に安全であるとは言い難い」
だからこそ、重い。風太郎が負けたという事実は危険の二文字をちらつかせるには十分すぎる。それをわかっているのは、誰よりも風太郎自身だった。
「で、でもな! こやつらと居るのは中々楽しいのじゃぞ!?」
楽しい、面白い。そんな理由ぐらい、流太郎もわかっている。狭い城を駆け回るより自由に国中を歩きまわる方が何倍も素晴らしいに違いない。仕事とはいえ、あんな場所に彼女を閉じ込めた重宝人としてわかっている。
だけどそれを認めてしまうわけには行けない、肯定など許されない。彼女と国への忠義は同じ秤に載せるなど、考える事も許されない。
「そうですね……でしたらこうしましょう」
だから彼は妥協案を探す。人の良い笑顔を浮かべ、他の感情を押し殺して。
「三人とも、江戸へ帰ってはどうですか?」
だから、彼の独断で言える妥協案を口にする。それに、もう頃合いなのかもしれない。彼は一人、そう思う。
「でも、それだと……」
真っ先に言葉を挟んだのは立花だった。ただ、言いたい事の全てを言わず、すぐに言葉を濁らせる。
「立花さん……だったね。これまでの働きに見合う額は用意させてもらうつもりだよ」
流太郎はなんの躊躇もなく、立花の事情を話した。彼女が旅の見返りとして報酬を貰おうとしている事を、風太郎もルナも知らない事実だった。
「へぇ、お前もそういう口だったのか」
皮肉っぽい口調で茶々を入れる風太郎だったが、立花は何一つ動じない。
「そうだ風太郎、実は丁度腕利きの護衛を探して欲しいと言われていてな。どうだ、悪い話じゃないと思うんだが」
これで誰にとっても、江戸へと戻る事に利益が生まれた。もし三人まとめて戻ってくれるのなら、ルナだって退屈することは無くなるだろうと彼は考えた。
「確かに、私にとっても悪い話じゃなさそうですね」
少し間を置いて、立花が口を開く。諦めがついたのか、その顔に迷いはない。少なくとも風太郎にはそう見えた。
「風太郎さんはどうしますか?」
聞かれるまでもなく、彼の答えは決まっていた。
「俺は降りない、降りる気は無い……一人でもやるさ」
誰でもなく、自分自身に言い聞かせるよう彼は力強く答えた。もともと一人でやってきた、これからだって一人でやれる。単純なその答えが今の彼には必要だった。
「だから、帰る相談は三人でやってくれ。ルナも立花が江戸にいるならそれで十分だろう?」
それから表情を柔らげ、渦中のルナへと問いかける。きっと遊び相手なら立花ほど向いている人間はいないだろうから。
「ふうたろ……」
名前を呼んで、すぐに止める。部屋を後にする彼へ掛ける言葉を幼い彼女が簡単に見つけられるはずもなかった。
「勝てるのか?」
流太郎は違った。剥き出しの刃と違わぬ鋭く冷たいその声が、風太郎の足音を奪う。
「お前は倒したあの男に……次は勝てるのか?」
繰り返す、避けられぬ壁。道楽とは違う旅の重さ。突き付けられたそれに風太郎は、まだ正面から向き合えずに。
「さあ、どうだろうな」
おどけて笑って、部屋を出た。いつもの彼がそうするより、ずっと悲しそうに。
一呼吸おいた流太郎が、話を振り出しへと戻す。今の彼がすべき事はもとから一つしかないのだ。
「ルナ様……解って頂きたい。私はあなたの身の安全を第一に考えなければならないのです」
「いやじゃ! 帰りとうないわ!」
何度繰り返しても同じ二人の会話、結論が覆されることはない単なる時間の浪費。根競べならまだ救いがあるかもしれないが、立花の目には二人がどちらも頑固に見えたのだから仕方はない。
その姿はまるで、幼い彼女とあの人のようで。少女の願いが男の決意を曲げる事などあるはずもなく。
「……私もそろそろ席を外しますね」
だから彼女は席を外すことを選んだ。静観は耐えられそうになく、ルナの肩をしっかりと持てるほど立派な考えは持ち合わせていない。だからそれが、ただ彼女にとってのみ最良の考えだった。自己嫌悪に苛まれながらも、立花はゆっくりと立ち上がる。
「立花!」
ルナが名前を呼ぶ。だから立花は見栄を張って笑ってみせた。
「大丈夫、ちょっと散歩をしてくるだけですから」
だけど、駄目だった。ルナの目にも、彼女が無理をしているように見えたから。
先に宿を出た風太郎だったが、彼には行く当てなど無かった。目的だけは頭にあっても、やるべき事がわからない。だから結局街を歩く。情報収集とそれらしい言葉を思い浮かべてみたが、結局散歩という事実がそれを簡単に塗りつぶしてしまった。
風太郎はこの旅の行く末を案じた。唯一無二の刀を探さなければならないのに、この国は一人で探すには広すぎる。刀探しに生涯をかけない唯一の方法は立花と共に旅をする事。だがあの守銭奴に当座の金とまだ見ぬ人類の宝を比較させるなど到底無理な話で、説得は不可能。啖呵を切ったばかりなのに、撤回せざるを得ないこの状況。
立花に泣きつけばもしかすると付いてきてくれるかもしれない。しかし風太郎はそれが嫌だった。単に頭を下げるのが嫌ではない、彼女の心にいるだろう想い人のせいだ。鬼と違わぬあの男に同情してしまったからだ。他の男と旅をしていいのか、危険に晒していいのかなど柄でもない考えが風太郎の頭を虱潰しに埋めていく。
だから逃げ道を見つけたとき、彼は内心ほっとした。兄の言っていた仕事に就くことが、少しは冷静になった今ではそこまで悪い物には思えない。伸びきった髪を切りそれなりに立派な着物を貰い楽しい江戸で日々を送る。
悪くない、そう思う。思い込んで納得させようとする。
「なんだ、随分と腑抜けた顔してるんだな」
そんな風太郎を、たまたま通りかかった東海林郎がそう称した。
振り返ればそこには服を来た山猿が半笑いで立っていた。だが風太郎はそれを怒る気にはなれず、逆に妙に納得してしまった。
腑抜けた顔。
悪くない? 馬鹿馬鹿しい、腑抜けただけだ。やりたい事など、初めから一つしか無かったのに、他の選択肢を上げて満足していた。
馬鹿馬鹿しいと、もう一度彼は思う。幕府の仕事も立花の事も、心を踊らせる宝探しと比べれば鼻糞以下の価値しかないというのに。
「東海林郎か……てっきり山奥に帰ったのかと思ったよ」
憑き物が落ちたように、明るい顔で風太郎が答える。それをあえて言及するほど東海林郎も無粋ではない。男というのはそれで良いのだ。
「あのなあ、俺の自宅はここにあるんだぞ?」
意外そうな顔をする風太郎に、彼は取っておきの落ちを自信に満ちたしたり顔で披露する。
「まあ月に二、三度しか帰らないがな」
風太郎が、腹を抱えて笑い始める。釣られて東海林郎も笑う。お互いにそういう気分だったのだ。
下らない事で笑う。
世間の決まりに唾を吐く。
それがこれ以上にないくらいに楽しくて、風太郎を包んでいた靄はどこかへと消える。ただ、景色が明るく見える。
そう考えると、急に腹が減ってしまった。頬が落ちるほど美味いものが腹一杯に食いたい。そんな事は生きているなら当然のことだ。
「そうだお前、この辺りで安くて美味い食い物屋を知らないか? どこも観光客向けの値段で嫌になってたんだ」
涙を拭い腹を抑え、風太郎が尋ねる。派手な看板より地元の人間の方が余程頼りになるのは、経験上知っていた。
「ああ、それなら美味い茸蕎麦を出す店を知ってるぞ」
「へえ、そんなに美味いのか」
茸。何度か食べた事はあるが、常食する程の物ではない。
「何せ俺が採ってきた奴を使ってるからな」
しかも山猿のお墨付きと来ている。まだ見ぬそれを思い浮かべれば、腹の虫が声を上げる。だからまた馬鹿みたいな大声で二人は笑い始める。
それで良いのだ、男というのは。
だが、女というのはそうもいかない。箸が転がり笑うのは時を過ぎれば下品な事で、耐え難い同調圧力が首を締め、自分も誰かの首を締める。そんな息苦しさを抱えて生きる。そんな事は生まれた時から決まっている。
通りを歩く立花は、自分が男であれば良かったとどうしようもない事を悔やんだ。男であれば、焼け落ちた長い髪を悔やむ事はない。爛れた背中を嘆くことは無い。あの人に固執する理由も消える。
子を産め、育て、土になれ。良き妻であれ母であれ。何よりも家を守れ。誰が言ったか世間の道理、逃れられぬ女の呪縛。
なら、どうすればいい? 彼女は問う、自分自身に。
女の価値など無い女は、これから先どう生きればいい? 正しさを語ってくれた人はここにはいない、自分はもう幼くはない。
過ぎてゆく人波は、皆楽しそうに話している。家族のこと、食事のこと、未来のことを。
彼女は俯く、照らす太陽が自分を責める気がした。
肩がぶつかり、顔を上げる。単なる条件反射が少し憎たらしく、顔をまた下げたくなる。
「あ……」
だけど、出来なかった。黒い瞳が捉えた姿を、見逃すことなど出来なかった。
女がいた。知っている姿、名前、声。彼女から正しさを奪ったその女が、目の前に。
「お久しぶりね、立花さん」
馴れ馴れしく名前を呼ばれ、虫唾が走る。奥歯を噛み締め、耳障りな音が響く。だけど、表情だけは取り繕う。心のままにいる事は、下品すぎるから。
「あなた方も探していたんですね……少し意外です」
搾り出した声は震え、急拵えの表情は不器用だった。
「あの人とは無縁だと思ったのかしら?」
女は、彩音は違った。よく通る綺麗な声に、余裕のある笑み。それが奪った。
「ええ、強く正しい人でしたから」
立花が信じた強さと正しさを。
「変わったのよ、あの人は」
「あなたが……変えた」
拳を握り、血が滲む。頭を冷やしてすぐに開く。手のひらに食い込んだ爪の後は、すぐには消えてくれない。
「そういうものよ、人は皆ね」
悟ったような言葉を武器に、彩音は立花との歩を狭める。立花が少したじろげば、また一歩近づく。
「あなたは、いつまでそのままなの? そんな服を着て、あんな場所にしがみついて」
彩音が笑う。そうしなければならない気がして。
「本当、馬鹿みたい」
囁くその言語が、立花の何かを壊した。
ただ、憎しみだけを残した彼女が。
連れられて来た蕎麦屋で、雑談に興じる風太郎と東海林郎。香ばしい蕎麦が茹で上がるまで黙って待つには長すぎるのだ。
「小遣い稼ぎにしては悪くない商売だな」
「素人に毒茸を食われても困るしな……一石二鳥という奴だ」
「なるほど、そういう物か」
そんな二人の間に気さくな蕎麦屋の主人が語りかける。観光客向けの馴れ馴れしさと顔なじみ向けの厚かましさを持ち合わせた、程良くしたたかな人物だった。
「それにしても、東海林郎さんが人を連れて来るなんて珍しいですね……ご友人ですか?」
「まあ、そんな所かもな」
「おいお前、明日は雨だから洗濯は今日の内に済ませておけよ!」
東海林郎に聞こえるよう、厨房の奥にいる家内に大声で知らせる店主。こんな愉快な店主が不味い蕎麦を持って来たら詐欺だと風太郎は笑った。
「そうそう、向いの料亭が茸料理を出したいって言っていたな……」
「じょ、冗談ですよ」
怯えた声で答えても、東海林郎の機嫌は直らない。彼は素直に奥へと引っ込み蕎麦を持ってくることにした。腹が膨れれば誰だって機嫌が良くなるのを彼は嫌というほど知っていた。
「どうだか」
「はいお待ちどう、ここでしか食えない茸蕎麦だよ!」
漂う湯気、涎を促す蕎麦の香り、麺を覆う何種類もの茸。手始めに箸を入れるが、中々どうして蕎麦が見えない。今、風太郎の胃袋が歓喜の声を上げた。
「いやいや、丁度具の乗った蕎麦を食いたいと思っていたんだよ」
性悪巫女のせいで食い損ねた天麩羅への未練を断ち切れる時が、ようやく彼の元へとやってきた。朝飯も団子も食ったが、これは別腹。目の前にある美味い物を食べないなど、まともな人間には許されざる暴挙である。
「俺が言うのも何だが……特に茸が美味いぞ」
ようやく見つけた麺を救い、天高く掲げる。滴る汁に絡みつく茸、みっともなくも零れ落ちる涎。今、勝利の時が。
「よし、いただきま」
「おい聞いたか、通りで喧嘩だってよ!」
「ああ、何でも妙な巫女が女に平手打ちしたらしいぞ!」
来なかった。興奮した通行人の声が話す特徴によく似た人物を風太郎は知っていた。というか、確実に立花だった。
「……行ってくる」
陰鬱な気分で箸を戻し、席を立つ風太郎。東海林郎は笑い出してしまいそうだったが、それをすれば斬り殺されそうな気がしたので止めておいた。
「戻らないなら代わりに食ってやろうか?」
「そうならなければいいけどな」
代わりに出来るだけ気の利いた言葉を用意してみたが、気休めにすらならなかった。
出来上がった人混みをかき分け、騒ぎの中心へと急ぐ風太郎。やっぱりと言うべきは、相変わらず目立つ立花の姿。まさかと言うべきは、平手打ちされたというその女。まさか四度も会うとは思わなかった、ここまでくれば偶然という言葉では片付けられない。
ただ、いつまでもこの二人の睨み合いを野次馬と一緒に眺める訳にもいかず、風太郎は立花に向かって歩き、今にも飛び出しそうな右手を掴んだ。
「立花、その辺にしておけ」
風太郎に気づいた二人は真逆の反応を見せた。余計に興奮を見せる立花と、頬から手を話し笑みを浮かべる彩音。
「放して下さい! 私は、私はっ!」
流れる涙を隠そうともせず、彼女は何度も叫ぶ。何があったのか考えたくは無かった。
「またお会いしましたね……怪我の具合は良いのですか?」
彼の目には、彼女の笑顔が今はただ不気味な物にしか映らない。自信の心境を探らせないためか、それとも。
「彩音、だったか」
名前を呼ばれ、彩音が答えるより早く、立花が二人の間に入る。いつもの冷静な彼女はどこかへ消え、剥き出しの感情で吠える。
「あなたに何が解るんですか!? 知らないくせに、いきなり出てきてあの人を奪って……解ろうなんて、しないくせに!」
その言葉に、女は答えない。言葉の意味を、風太郎は理解出来ない。
だけど、一つだけわかる。立花が月並み以上に悩んでいる事、目の前の女が嫌いな事。それで彼には十分だった。絵のような笑顔を振りまく彩音より、よほど信頼できた。
彼女の方が、人間らしく思えたからだ。
「日暮さん、でしたね。その人は何か勘違いをなさってるようです……どこか落ち着ける場所にでも連れて行ってくれると助かります」
また吠え出しそうになる立花を、風太郎が制止する。これ以上往来の目を集めるのも気が引けたし、何より立花がこの女と建設的な話が出来るとは思えない。
「悪かったな、連れが迷惑をかけた……すぐに連れて帰る。だから、それで手打ちって事にしてくれないか?」
「ええ、それで構いませんよ」
風太郎の提案に、彩音はすぐに答えをくれた。彼女としてもこんな場所で目立ち過ぎるのは特ではないのだろう。
「悪いな」
「風太郎さん!」
ただ、やはりというべきか立花は納得できないのだろう。踵を返した彼の腕を強くつかみ、荒々しく名前を呼ぶ。勿論風太郎も、彼女の意図が解らないほど鈍感ではない。だから余計な一言を捨て台詞として残す事にした。
「だけど、感謝は出来ないな……ほら、俺はあんたが嫌いだから」
彩音の表情は、もう風太郎にはわからない。だけど腕を掴む立花の顔は十分見える。涙は乾かず目は腫れて、だけど少しだけ笑ってた。
「日暮さん」
呼び止める彩音の声に、二人は立ち止まらない。それでも彼女は言葉を止めない。
「どうやら探し物は、ここには無いようですよ」
はっきりと聞こえるその声が、彼の耳を通り過ぎる。今は探し物よりも、立花の方が気になったからだ。
時間が経って、少しは冷静になったのだろう。相変わらず鼻水を啜ったり目を擦ったりと忙しそうにしていたが、少なくとも頭は存分に冷えたらしい。
「ごめんなさい……なんだか、助けて貰って」
それこそ、謝罪と感謝をまとめて言葉に出来るぐらいには。
「お前でもあんな風になるんだな」
壁に背を預け、風太郎は素直な感想を口にした。麩の向こうからは流太郎とルナの言い合いが聞こえるが、今は気に留めない事にした。二人の舌の根がもう少し乾いてからでも遅くはないと暢気なことさえ考えていた。
「い、いつもはもっと冷静ですよ?」
恥ずかしそうに口を手で覆いながら立花が弁解する。もちろん、そんな事は言われるまでもない。
「知ってるよ」
ついでに守銭奴で他人を見下したような態度を取っていると付け加えようと風太郎は考えたが、話がややこしくなりそうだったので止めた。それに、泣き顔の女にかける言葉じゃないとも思った。
「そうでしたね、そういえば」
そこで一旦、会話が途切れた。風太郎は何も聞きたくない訳ではなく、むしろその逆である。あの女とはどういう関係だとか、あの男のことは良いのかだとか下世話な疑問が頭を過ぎり、首を振っては追い払う。そんな事をしているのだから、二の句が継げなくなっただけである。
「江戸に帰るのか?」
だから結局、一番無難そうな話題を振ることにした。立花にとっては至極重要な事かもしれないが、腹を括った風太郎にとっては割合興味の無い事ではあった。彼女が旅を続けると言えば続ければ良いし、戻ると言うならあの寂れた神社に顔を出してやればいい。
もっとも彼自身、会わないという選択肢を思い浮かべすらしなかったのだから、彼女の事が気にならなくなった訳ではないのだ。
「さあて、どうしましょうか」
調子が戻ってきたのか、いつものように曖昧な返事をする立花に、それを見て少しだけ安堵する風太郎。感情を顕にする立花は珍しいものではあったが、やり辛い物ではあった。
「ところで……いくら貰えるんだ? 天の叢雲を見つけると」
この際だからと思い切り、彼は彼女が答えてくれなさそうな質問をぶつけた。実際、気になるところではあったのだから仕方ない。
「さあ、いくらでしょうね」
「喧嘩を止めてやっただろ? 好奇心ぐらい満たさせてくれ」
うやむやに答える立花に、彼は恩着せがましくも追求した。すると諦めがついたのか、彼女は大きなため息をつき口を開く。
「……額はわかりません、現物支給ですから」
彼女の瞼が、そっと閉じる。彼はただ黙って、言葉の続きを待つ。息苦しさは無い、雪が自然に溶けるように。ただゆっくり、言葉の続きを待った。
「覚えてますか? 私の住んでいる神社、みすぼらしくて汚くて」
ついでに屋根が半分しかなかったな、などとは口が裂けても言えるはずもなく。
「どうだったかな、昔の事はすぐ忘れるんだ」
頭を掻いてわざとらしくも嘯いた。それが彼にできる精一杯の心遣いだったから。
「そこをね、直してもらうんですよ。そっくりそのまま、昔と同じような普通の神社に……どこにでもある、普通の場所に」
慈しむような目で、立花は遠くを眺めた。窓から見える青い空の先に彼女が見るのは、彼がし利用もない遠い過去。土足で足を踏み入れられない、誰にでもある平凡な特別。
「……お前が金に五月蝿いのはそのせいか?」
「さあ、どうでしょうね」
言い終えた立花は満足したのか、少しだけ笑っていた。それで彼は、少しだけ彼女の事がわかった。
立花が、何も単なる守銭奴ではない事。自分の過去をしっかりと精算するために旅立った事。それなのに風太郎は彼女を立派だとは思えない。だから彼は、彼女の過去など禄に知らない彼はこう言うのだ。
「馬鹿だなお前は、大馬鹿だよ」
よく通るその声が、立花の心に突き刺さる。初め、彼女は腹を立てた。何も知らないくせにと苛立った。だけどそれは当然だから、説明しなければならない。自分の過去を、その理由を。
「あそこは……大切な」
それを、風太郎は言わせない。言わせてはならない。彼は過去に干渉できない、ただ眺める事しかできない。だから、彼は言う。
明日の事と、未来の事を。
「俺達が探してるのは、天下に轟く伝説の剣だぞ? そっくりそのまま神社を戻す、それだけか? どうした守銭奴もっと欲張れ」
彼女の肩を優しく掴んで、彼は言う。
「どうせなら豪邸にして、末代まで遊んで暮らせる金を貰って……ついでに若い男前を囲えばいい」
理由は簡単、至極単純。
そっちの方が、楽しそうだからだ。
「だろう?」
彼女は、目の前にいる男の方が自分の何倍も馬鹿だと思った。人の事を馬鹿者呼ばわりしてどんな説教をしてくれるのかと思えば、子どもじみた突拍子のない夢を語った。
この人は、馬鹿だ。事情も知らない、知ろうとさえしないくせに。何がわかると言うんだと悪態をついてみても、どこか心が軽くなる。
「それなら」
その理由を、彼女はよくわからない。それでも良かった、良いと思えるその理由ならすぐに分かる。
「それならその時は、あなたを一番に雇ってあげます」
こんなに楽しいのは、本当に久しぶりだったから。
二人は笑う、それでいい。決めるべき事は山ほどある、超えるべき壁はまだそこにある。だけど今を笑えるなら、そんな物は小さな事で、鼻歌を混じえてただ前へと進めばいい。
何せ明日は、今日よりもっと楽しそうだ。
「おいおい、真っ先に俺を囲う気か」
立花の出した答えに、風太郎はおどけてみせる。それで金が貰えるならそんなに悪くないかもと思いながら。
「また俗っぽいこと考えて……違いますよ、使用人にしてあげるって言っているんです。炊事洗濯風呂掃除、何からやらせましょうかね?」
きっと風太郎を顎で使う日が来たら、どれほど楽しいだろうと立花は思った。だからもしこの旅が終わったら、そうできるよう頼んでみよう。あの胡散臭い将軍様か、日暮風太郎その人に。
「ああそうか、そうかい」
少しがっかりしたような、だけどそれなりには嬉しそうな声で風太郎が答える。
「何だよ、いつものお前じゃないか」
それから、聞こいよう小さな声で呟いた。しかし残念な事に思惑は外れ、見事に立花の耳に届いてしまったらしい。その証拠に、彼女はくすくすと可愛らしく笑い始めたのだから。
「……さて、兄上とルナの仲裁でもしてくるかな」
妙な居心地の悪さを感じた風太郎は、この部屋を出られるもっともらしい理由を口にした。これ以上立花の心配をしても余計なだけで、からかわれるのが関の山だ。
「風太郎さん」
部屋を出ようとする風太郎に、立花が優しい声で呼び止める。
「あなたがあの人を嫌いって言ってくれて……嬉しかったです」
彼は、振り返らなかった。顔を見れば、また下らない話をしそうだったから。
「嫌な人間ですね、私は」
「おいおい、お前がいつ立派になった」
だから一言だけ言い残す。続きはまた、旅の道中暇な時に。
「ああ、そういえばそうでしたね」
妙に明るい声が耳に残る。どうやら、すぐにその時は来てくれそうだ。
麩を開ければ、そこには変わらない光景が広がっている。体をじたばたさせるルナと必死に諌める流太郎。
「嫌じゃ嫌じゃ嫌じゃ!」
「駄目です駄目です、こればっかりは譲れません!」
話は平行線、というか会話ですらない。単なる主張の乱立にそろそろ嫌気が差してきた風太郎は割って入り口を開く。
「二人とも朝まで喋り通すつもりか? 見てるだけで喉が乾きそうだ」
率直な感想を述べたつもりだったが、それが流太郎の気に触ってしまったらしい。温厚さはどこかへ消え、冷たい声で彼が言う。
「風太郎、お前は黙っていろ」
喧嘩の原因はいつも些細で、そもそも喧嘩と呼ぶにはあまりにも幼稚で。ただ、やはり兄弟喧嘩とはそういう物で、風太郎は苛立ちを黙って飲み込めるほど大人ではなかった。
「ルナ、失礼な事を言ってもいいか?」
という訳で、彼は全面的にルナに協力する事にした。言ってしまえば、兄に対するささやかな報復である。
「よいぞ、余の言い分を通す為なら」
「兄上、徳川の親戚なんて数え切れない程いる筈だ。姪や甥、従兄弟にまた従兄弟なんて珍しくもない……それにルナは女だろう? だったら」
徳川と名のつく人間は、側室という厄介な制度のせいでこの国には多くいる。そしてその中でも女という生き物には特に扱いが面倒くさい。跡目を継がせるわけにもいかず、政略結婚をさせるぐらいしか役に立たない、それが将軍家の女という物だ。
「一人ぐらいお転婆な姫さんがいても良いと思うがね」
風太郎が笑いながらそう言い放つと、流太郎の目が濁った。彼女をぞんざいに扱った事に腹を立てたのか、あるいは別の理由か。
別の理由というのなら、風太郎にもある。いくら彼女が兄の雇い主の縁者だからといって、年端の行かぬ少女を無理矢理江戸に連れ戻すのは誰の目から見てもやり過ぎだろう。彼女が流太郎にとっていかに大切かなど風太郎は嫌というほど理解していたが、行き過ぎた過保護は公私混同に他ならない。
「それに、そこまでお熱だと仕事かどうか怪しいものだ」
風太郎の言葉は、流太郎の頭を冷やすには十分だったらしい。その証拠に彼は出来る限りわざとらしくため息をついてみた。すると少しだけ、考える事が馬鹿らしく思えた。
「全くお前は、事の重大さを理解してないというか……暢気というかだなあ」
ただ、結論は出た。風太郎の言葉に説得力があった訳ではないし、公私混同しているつもりもない。物の見方を少しだけ変えてみただけだった。
「おい風太郎、余がお転婆とはどういう事じゃ!」
「すいませんねぇ、好奇心だけで付いてくるお姫様なんて前代未聞の事態でして」
「またそういう言い草を……不敬罪で斬っても許されるかな」
冗談を言ってはじゃれあう二人の姿を見ながら、流太郎がそう言った。笑顔の理由は諦めか、それとも希望を見つけたか。
「おいおい、恐ろしい事を言わないでくれ」
「でもまあ、もう少しその命を有効活用させてもらおうかな」
そうだ、そうしよう。自分以外は気に掛けない法のためではなく、もっと実用的な物の為に。そう思えた流太郎は、少しだけ持病の自己嫌悪が和らいだ気がした。
「どういう事だ?」
いまいち要領を得ない風太郎に、流太郎が説明を付け加える。
「お転婆なお姫様の護衛さ……命を懸けるには十分すぎる仕事だろう?」
その言語に誰よりも驚いたのは、ルナだった。遠回しすぎるその言葉が、旅の続きを確約してくれた。
「ほ、本当か流太郎!」
「ええ、困ったら盾にでもしてください」
俺は弾除け程度の価値しかないのかと風太郎は思ったが、ルナの願いは遂げられそうなのでそれで良しとした。
「良かったじゃないか、ルナ」
「ああ、そうじゃな!」
喜ぶ二人を尻目に、流太郎が大きな咳払いをして注意を引く。存分に目線を集めた彼は、聞いてもいないのに口を開き己が考えを語り始めた。
「私はね、死にそうな弟の見舞いに来た心の優しい兄だ」
「はあ」
言いたい事はある風太郎だったが、もちろん今は黙っておく。機嫌を損ねるわけにはいかないのだ。
「だから本来の仕事である姫様探しを忘れてしまいましたとさ」
なんともまあ嘘八百を並べられるものだと風太郎は思ったが、やっぱりそれも口に出さないでおいた。その理由などあえて言うまい。
「そういう事にしておいたよ、私の中ではね」
何と無しに釈然としない風太郎。勝負に負けて試合に買った、そんな常套句が頭に浮かぶ。ただ、ルナは違った。子どもらしい良い笑顔が、なかなか顔から離れない。
「ふふっ、お主もなかなか話のわかる男ではないか」
「馬鹿な弟を見てると、こっちが馬鹿らしく思っただけですよ」
「そうだ流太郎、お主に褒美をやろう!」
何を思いついたのか、手のひらで景気のいい音を立てるルナ。謙遜なのか、笑顔で首を横に振る流太郎。
「いえそんな、私はただの立派な兄なだ」
きっと流太郎は、まだ言葉を続けたかったのだろう。だけどそれは叶わない、庇護すべき少女に不意を突かれたのだ。全く情けない、腰に立派な刀を差して置いてこの体たらく、武士としての誇りは無いのか……などと風太郎は調子のいいことを考えたが言葉に出すのは止めておいた。
その代わり、何かあった時には母に告げ口しようとだけ考えた。
傍から見たらそれは簡単な出来事だった。ルナの唇が流太郎の頬にほんの少し、風が撫でるように触れただけ。たったそれだけなのに、流太郎は気を失ってその場に倒れこんだ。
「りゅ、流太郎! どこか悪いところでもあるのか!?」
倒れた彼を必死に揺さぶるルナだったが、無理やり起こすことも無いだろうと風太郎は一人納得する。
「持病だ持病、ほっときゃ治るよ」
何せ床に伏せる兄の顔が、この上無いほどに幸せそうだったのだから。
「それで、もう行くのか……怪我はいいのか?」
日はまだ傾かず、青い空には雲が流れる。それから荷物を纏めた彼らが負けない程に晴れやかな顔で並んでいる。
「目が覚めて兄貴の考えが変わったら困るからな」
ルナの言葉を、適当に風太郎がはぐらかす。それに考えを変えたくなかったのは、誰より自分自身だからか。だから、彼はそれ以上は考えない。何処吹く風の悩みなど、いつかは消えてくれると願って。
「お別れの言葉は良いんですか?」
「男兄弟っていうのはこんなもんさ」
立花の瞼の腫れは、まだ消えてはくれないだろう。それでも願う、この空と同じようにと。
「たしかに、私が兄と別れるときはもっと湿っぽかったですね」
「へぇ……兄弟なんていたのか、意外だな。確か神社にはいなかったと思うが」
風太郎は江戸で見た神社を思い出してみたが、兄弟どころか人の気配さえいなかった。
「何を言ってるんですか、風太郎さんはもう兄に会ったでしょう?」
「確かに兄上には会ったが……あのな、今はお前の兄貴の話をしてるんだが」
「え? 私の兄のはずですけど」
知らない風太郎と、会ったと言いはる立花の話は噛み合わない。ただ有難い事に、立花が齟齬の原因を思い出してくれた。
「あ、そうだ……言い忘れていましたが」
だから答えてやることにした。もっとも、何時も通りに嫌味たっぷりで。
「兄がつけたその傷、妹の私が謹んで謝罪させて頂きます」
一瞬、その言葉の意味を風太郎は理解できなかった。
兄、つけた、妹、兄、傷、謝罪。反芻する言葉に、混ざり合ういくつもの単語。壊れかけの頭でもう一度整理する単語、整合性だけ取り出せば、それは元の言葉と代わりはない。兄が、つけた傷を、妹が、彼女が。
「あー……妹? 兄?」
「言ってませんでした?」
素知らぬ顔でそう言う彼女が、何よりも説得力がある。彼女が漏らした兄は、自分があの時負けた男で、何よりも。
「そうか、『あの人』ってお前の兄貴だったのか……」
風太郎は、自分をこれ以上にない馬鹿者だと思った。妹が婿入りでもしたのだろう兄を慕うのは当然の事で、義姉に食って掛かるのも間違いでは無く、彼女は単なる彼の妹で。
空を見上げる、風は止まない。淀んだ空気はどこかへ消え、ただ明日へと進んでいく。そんな単純で、変わらないただの事実が、笑えるぐらいに幸せだった。
「変じゃな、風太郎の奴」
「何がですか?」
そんな彼の姿を見て、いつものように笑う二人。
「自分を斬った相手がわかったくせに、随分と嬉しそうじゃ」
その理由を、立花は少し解った気がした。ただ、問いただす事はしたく無い。そうすれば、何かが消えてしまうのだ。
だから、彼女は。
「きっと、男の人っていうのは」
道を進む彼に倣い、大きな空を眺めてみる。女心と秋の空など、良く言ったものだと彼女は一人感心する。よく出来た言葉だと、今は思う。
「複雑なんですよ、私達が思う以上に」
初夏の香りが交じる風が、彼女の花をそっと撫でる。願わくば、彼がこの空のままで。
それから、秋の訪れを憎たらしく思いながら。
進んでいく。どこを? 道を。
ただ真っ直ぐな、風の様に。




