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形なき宝




 江戸を離れて早二日、風太郎と立花は東海道を西へと歩いていた。立花によると天の叢雲は箱根を越え、少し北西へと進んだ山々にあるという事らしい。彼らは箱根の手前、相模川の上流で宿を取り、今朝早くに出発していた。


 そして正午前の今、立花の腹の虫は盛大に鳴いていた。


「何か買っておけば良かっただろ」


 風太郎は途中で腹が減るだろうと握り飯を購入していたのだが、守銭奴の立花はそうしなかった。


「いえ、あそこの店宿泊料は良心的でしたが握り飯の値段は割高……あんな物を買うぐらいなら餓死したほうがましです」


 途中で拾った木の棒を杖替わりにして、立花は愚痴を零しながら歩く。あれだけ金をせしめておいてと風太郎は当然のように思った。


「んじゃ、おかまいなく」


 鞄から笹にくるまった握り飯を取り出し、紐を解く。真っ白なそれに胡麻が散りばめられた握り飯を、立花は物欲しそうに眺めていた。そのせいで風太郎はかぶり付くのを躊躇してしまった。悪いことなど何一つしていないのだが、何故だか社会通念に反する気がしてならなかったのだ。


「今私に握り飯をくれると、来世では多くの人から尊敬されます。女性にも大人気で美人の妻が八人も貰えます。さらにひ孫の代まで金銭で困ることも無いでしょう」


 その余計な一言のおかげで、風太郎の決心は付いた。彼は口いっぱいに握り飯を頬張ったのだ。


「俺には空腹のほうが辛いね」


 浅はかな人間を尻目にして食べる握り飯は、どんな具よりも素晴らしく米の味を引き立ててくれた。


「片寄れ、片寄れ!」


 行儀悪く歩きながら握り飯を食べていると、後ろのほうから野太い声が聞こえた。風太郎はそれが何なのかすぐに分かったのだが、立花は振り返り後ろを見ても何のことだかわからずうろたえた。結果として、彼は彼女の裾をつかみ道の端へと誘導したのだった。


「おかずにしては持って来いだな」


 それからすぐに、彼らはやって来た。何十、何百もの家来を連れ、自らの権力を誇示するため最大限の贅を尽くしたありとあらゆる装飾品。風にはためく旗にはしっかりと彼らの家紋が描かれている。人はそれを、大名行列と呼んでいた。


「……私、初めて見ました。江戸を出たことが無かったので」


 二人が歩くよりも早く、行列は彼らの横を通りすぎてゆく。江戸から帰ってきた途中なのだろう、向かう先は彼らよりも西だろうか。人数の規模からして高名な藩では無いらしいが、それでも通行人の目を楽しませるには十分すぎた。とりわけ、立花にとっては。


「じゃあ、いい経験になるな」

「ですね」


 彼女は空腹を忘れ、大名行列に見入っていた。旗も馬も大きな籠も、彼女にとっては全てが初めてだった。風太郎はここ二年で何度も見て来たので、別段驚いたりはしなかった。初めのうちは馬をかっぱらって自分の物にしてしまおうとも考えたが、長い目で見れば歩く方が余程長生きできると気づき、それからは今のように眺める程度に留めている。


 そして祭りのような長蛇の列の最後尾が、今二人の横を過ぎ去った。


「目的地まであとどれくらいだ?」


 握り飯の最後の一片を口に仕舞い込み、二つ目のそれを取り出す。


「昼過ぎにはつくと思いま」


 全てを言い終わる前に、立花の腹の虫が二度目の反乱を起こした。そのせいで、風太郎はまた自分が悪いのではないかという錯覚に陥った。


「やらないからな」


 そう言うと、彼女の盛大な舌打ちが返って来た。そのおかげで、彼はまた遠慮無く握り飯を頬張る事ができた。






 彼らは大きな失敗を犯した。地図は持っていたのだが、残念ながら地名と海岸線と藩の境目しか書かれていないそれには高低差という情報が抜けていた。結局彼らの目的地となる山間の大きな村についたのは、昼過ぎを過ぎてからだった。


「すいません、宿を取りたいのですが」


 風太郎はこんな辺鄙なところで宿など儲かるのかと考えたが、ここは素直に感謝するべきだろうと考えた。立花はこんな辺鄙なところで宿など料金が高くならないかと考えたが、ここは素直に値切り交渉に精を出すべきだと考えた。


「あらまあお侍さん、よくこんな辺鄙な村まで……そちらは、お連れの方?」


 気前のよさそうな女主人の問に、風太郎は素直に答えるかを少し考えた。


 前の宿では、巫女を連れているというだけで酷い目にあった。やれお祓いをしてくれなど、旅巫女なんて久々に見たから握手してくれなど、巫女装束は脱ぐとどうなっているかなど、色々な質問が主人や泊まり客から飛んできた。そのくせ宿の料金は据え置きだったので、良い事など一つもなかったのだ。


「旅芸人です」


 そういう訳で、彼は適当な理由を述べた。もしどんな芸をするのかと聞かれれば煙管を使った芸をすると答えればいいし、煙管はどうしたと聞かれれば壊れたとでも答えればいい。我ながら完璧な作戦だと彼は自画自賛した。


「あら、あらあらごめんなさい」


 いまいち要領の得ない謝罪をしながら、女主人は立花を舐め回すように見た。それと風太郎のぞんざいな説明のせいで立花の眉間には青筋が浮かんでいたのだが、女主人はそれだけは都合よく見逃してくれた。


「そうですよねぇ、巫女さんだって普段着ぐらいありますもんねぇ」


 もしどんな芸をするのかと尋ねられれば、自分は侍を意のままに操れる巫女だという事にしてしまおうと立花は企んだ。実際に見せてくれと頼まれれば風太郎に三回まわって犬の真似でもさせればいいと思い立った。


「越後の方まで足を伸ばすんですか?」

「いえ、ここいらで少し探し物を……」


 愛想笑いを浮かべる風太郎と立花だったが、互いの腹の中は別々な事を考えていた。しかしそんな二人を見て、女主人は要らぬ気を利かせてくれた。


「ところであなた方新婚さんですかい? それなら布団は一つ、枕は二つにして頂けると料金の方がお安く」

「部屋は別々でお願いします」


 にやける女主人に、立花は鋭く言い放った。いくら彼女が守銭奴だからといって、その辺りはしっかりと線を引いていた。


「単なる仕事仲間ですから」


 たじろぐ女主人に風太郎は小さな声でそう付け加えた。部屋の準備をして来ます、と言い残し女主人はそのまま階段を上がっていった。彼は立花に何か話しかけようと思ったが、どこからどう見ても機嫌が悪かったのでやめておいた。


 手持ち無沙汰そうにぼんやりと景色を眺めていると、やたらと立派な装備を纏った武士が血相を変えてやってきた。


「おい、貴様ら!」


 偉ぶる態度を隠そうともせず、武士は二人を怒鳴りつけた。


「このあたりで、背がこれぐらいの姫さ……小童を見なかったか? それなりに目立つ容姿をしているからわかると思うんだが」


 どうやら男はどこかの藩の小さなお姫様を探しているらしいが、そんなことは風太郎にとってどうでも良かった。鼻息の荒い武士が国に戻って首を斬られようが関係ない、ただ風太郎は目の前の男の態度が気に入らなかった。


「人に何かを頼む時は、お願いしますじゃないのか?」


 喧嘩腰の彼にいい顔をする人間などこの世にいる筈もなく、武士は彼を鋭い目で睨みつけた。二人とも大人げないと感じた立花は、仕方なしに一計を案じる事にした。


「おい小僧、誰に向かって口を」

「東の泉で見かけたような……」


 とぼけた顔で、彼女はそんな事を言う。もちろん嘘でしかない。


「本当か」

「神に誓って」


 にっこりと笑うと、武士は何も言い残さず東の方へと走っていった。


「いいのかよ、そんな無責任なことを言って」

「まあ八百万もいますから、一人ぐらい嘘つきの神様がいてもいいでしょう」


 やおよろずとはよく言うがそれはあまりにも都合良過ぎはしないかと風太郎は思ったが、口には出さずにおいた。言った所で何も解決しないからだ。


「……行ったのか?」


 部屋の隅から、誰かの声が聞こえてきた。幼い少女のものだと二人はすぐに気づいた。


「ええ、東の方へと……」


 姿を表したその少女を、二人はまじまじと見つめずにはいられなかった。先程の武士が言っていた通り、背が低い子供という事は変りないのだが、問題はその姿だった。一見して高価だとわかる着物はまだいい。問題はその髪だった。


 夜空に輝く月のように、それは光り輝いている。黄金のその髪に、彼らは見覚えがあったのだ。


「な、なんじゃ貴様ら? 余は見せ物ではないぞ!」


 少女はどこからか軍配を取り出し左右に振り回す。きっと相撲の興行の時にでも買ったのだろう、身分には似合わないほど安っぽかった。


「変わった髪の色だな」


「はっはっは、これは余の自慢で伯父上とそっくりなのじゃ!」


 褒められたとわかると、少女は露骨に機嫌を良くして大声で笑った。


「……もしかして、ピエールの親戚か?」

「き、きさまなぜそれを!」


 やはり彼の縁者だったかと納得の行った風太郎は大きな溜息をついた。きっと徳川の人間は皆単純に出来ているのだろうとも結論づけた。


「お姫様、こちらは貴方の伯父上から命を受けた日暮風太郎」


 立花は深々と頭を下げながら、その少女に風太郎を紹介した。


「……日暮? お主、もしかして流太郎の親族か!」

「え? ああそうだが」


 風太郎は嫌な予感がした。あの日暮流太郎とこの少女は、絶対に会わせてはいけないような気がしたからだ。しかし時は残酷であり、風太郎がそれを阻止するより早く悲劇は起こってしまったのだ。何せ目の前のこの少女は、自分の兄の好みの異性でしかないのだから。


「もちろんだ! 流太郎はすごいぞ、余を泣かした女中を地方に飛ばしたり、この間だって給料三ヶ月分の反物を余に献上してくれたのじゃ! 安月給のくせによくやるわい!」


 その姿が簡単に想像できる自分自身が情けなくて仕方がない。きっと兄の事だから、この少女が泣けば馬車も飛脚も追い越し道無き道を走り抜け、泣かせた相手をなんの躊躇もせず斬り殺すに違いない。もしこの少女があれがほしいこれがほしいと強請れば実家を抵当に入れてでも買うことだろう。


 そして何よりも恐ろしいのは、どちらの場合でも兄は満面の笑みを浮かべていると確信できることだった。


 そんな事を考えていると、風太郎は陰鬱な気分になってしまった。


「あれは今度医者に見せた方が良さそうだな」

「なんじゃ? 流太郎はどこか悪いのか?」


 心配そうな顔をして、少女は風太郎に尋ねた。流石にお前が原因だと面と向かって言えなかった。


「頭と下半身が異常だな」


 今度実家に帰ったら、母と一緒になって無理にでもお見合いをさせよう。彼は心に誓ったし、三ヶ月経ってもしっかりと覚えていようとも誓った。


「そうか、それは大変じゃな」

「私は永世江戸の橘神社で巫女をさせて頂いている、橘立花と申します」


 自己紹介する立花に対しては、少女は少し頷くだけで済ませた。あまり彼女には興味が持てないしい。


「それでお主らは何をしにこんな所まで?」

「捜し物だよ。それでその辺をぶらぶらとね」


 この少女の喋り方はそれほどピエールと似ていないな、などと考えながら風太郎は適当にはぐらかした。


「ふーむ、ならば丁度良いな……よしこうしよう」


 難しい顔をして考え込み、妙案が浮かんだのか急に笑顔になる少女。その姿を見て立花は素直に可愛らしいと思ったが、同時になんで徳川の人間がこんな所にいるのだろうと頭を悩ませた。


「余も連れて行け!」






 荷物を部屋へと運び、彼らは近くの蕎麦屋で遅い昼食を取っていた。別に名物という訳ではないらしいのだが、宿屋に聞くとここぐらいしかないとの事だった。小上がりの四人席に座り、彼らは仲良く盛り蕎麦を啜っていた。天ぷらをつけるほどの余裕は風太郎と立花には無かったし、姫様と呼ばれた少女は天ぷらなど飽きるほど食べていたらしい。


「俺はさっきの連中に引き渡したほうがいいと思う」


 風太郎は箸で掬った麺をじゃぶじゃぶと景気よくつゆにつけ、いい音を立てながら啜った。何でもつゆは麺の半分ほどしかつけずに蕎麦の風味を楽しむのが江戸の流儀らしいが、彼はこっちの方がうまいと思っていたので素直にそうした。


「どうしてですか?」


 少女も風太郎の食べ方を真似して、じゃぶじゃぶとつゆにつけて食べる。立花だけは最初は上品に食べていたが、好奇心に負け麺をつゆの中へと突っ込んだ。


「わざわざ面倒を抱え込む必要があるか?」

「こーんな可愛い少女を捕まえて面倒とは何だ、面倒とは」


 箸で少女の顔を指せば、彼女はふくれっ面でそんな事を言った。もしここに兄上がいたら今頃悶絶していたに違いない、などと風太郎はくだらない事を考えていた。そしてやはりあれは医者に見せたほうが良いなと勝手に結論づけた。


「まあそうかも知れませんが……風太郎さん、耳を貸してください」

「何だよ」


 言われたとおり彼はそうすると、立花は小さな声で私見を述べ始めた。


「いいですか、少しは考えてください。彼女徳川家の人間なのですから、何か問題に巻き込まれたときに便利じゃないですか」

「なるほどな」


 確かにそれは一理あるなと、彼は納得した。最悪人質に取ってしまえばどんな問題も切り抜けられるのではないかと悪党みたいな事さえ考えもした。


「それに私たちは旅芸人なんですよ? 金髪の少女が居たら説得力があるじゃないですか」

「そうだなあ」


 旅芸人という単語に刺があるように思えたが、彼はまた素直に納得した。


「ずるいぞ二人だけで話をして!」


 蕎麦をずるずると啜りながら、少女はそんなことを言った。


「いえいえ、あまりに貴方が可愛らしいので褒めていたんですよ」


 適当な事を微笑んで誤魔化す立花だったが、少女は真に受けてしまったようだ。


「おお、お主は中々見所があるではないか!」

「そういえばお前、名前なんて言うんだ?」


 しかしそんな事より、風太郎には彼女の名前が気になった。苗字の方は随分と前から見当が付いていたので、別に聞きたくはないが。


「ルナ、徳川ルナじゃ!」


 徳川、という名前のせいでそこにいた誰もが彼女を見た。そのせいで風太郎と立花はなんとも居た堪れない気持ちに襲われた。


「は、はは……芸名です」


 風太郎は精一杯誤魔化したが、誰もが頷く代わりに小声で何やら話し始めた。


「誰が芸人じゃ! お主は余のことを馬鹿にして」


 流石の立花も無闇に面倒に巻き込まれるのは避けたいのか、ルナの口を強引に手でふさいだ。


「もう駄目ですよルナ様こんなところでそんな冗談を言っては」


 それから風太郎と立花は顔を見合わせ大きな溜め息をついた。伝説の剣を探しに来たはずなのに、見つけたのは厄介事だけだった。


「親父、お勘じょ」


 立ち上がり店主を呼びつけようとしたところで、風太郎の言葉は途切れた。顔を真赤に染めた武士が三人怒鳴りながらの入店を見てしまったからだ。真ん中を歩く一番偉そうな武士は、ついさっき宿屋でだまくらかしたばかりの男だった。


「まったく姫様はどこに行ったというんだ! それにあの巫女……泉どころか畑も無いではないか!」

「後で払うよ」


 にこやかな笑顔を浮かべ、風太郎は店主に言った。そして急いでその場から走り去ったのだ。もちろん彼だけではなく、立花もルナも全速力で逃げ出した。理由は皆それぞれ違うが、結果は同じだったのだ。


「く、食い逃げだ!」

「いたぞ、追え!」


 うろたえる店主と、目を見開き怒り狂う武士。こんな知らない村どこに逃げようかと考えた風太郎だったが、どうやら東には何も無いらしいのでとりあえず西へと逃げることにした。






 西に逃げたのは失敗だったと気づくのに時間はかからなかった。店主が大声で食い逃げだと叫べば、農作業に精を出す農民たちが日頃中々発揮できずにいた正義の心を燃やし風太郎たちを追いかける。


「ほら、早速面倒に巻き込まれただろ! なんだ徳川の名前を出せば食い逃げが許されるのか!?」


 後ろを振り返れば、ちょっとしたお祭りのようになっていた。先頭を走る武士は耳まで赤く何かを喚き散らしているので、多分鬼と関係がある祭りなのだろう。


「そっちは良いですけど追っ手の方は余計に追いかけてくるだけでしょうね」


 見た目によらず足腰の強いルナが、その鬼にあっかんべぇをした。すると面白い事に鬼の怒号は一層強くなり、どんどんと距離も縮められてゆく。


「こら、お前も挑発するんじゃない!」

「はっはっは、あ奴らも中々面白い顔ができるではないか!」


 しかし逃げる側の人間にとってそんな事など有利に働くはずもなく、風太郎は焦るばかりだった。


「なあ立花、天の叢雲はどこにあるんだ!?」

「多分あの山です」


 彼女が指さす先には、山というよりは崖に近いそれがそびえ立っていた。西に走っていたおかげで、知らずのうちに近くまで来ていた。


「しかしまあ、なかなか疲れるのう」

「だったら……先に行ってろ!」


 そう言うと風太郎は走るルナの体を打き抱え、立花に向かって放り投げた。突然のことで二人は驚いたが、立花がなんとか小さなルナの体を受け止めてくれた。

 二人が段々と小さくなって行くのを確認して、彼は後ろを振り返る。同時に後を追う群衆の足も止まってくれた。


「こ、小僧! ルナ様を放り投げるとは……何を考えている!」

「まったくお前ら、揃いも揃って兄上と同じ病気かよ」


 袖の下から小銭入れを取り出し、近くにいる鋤を持った若い男に放り投げた。


「蕎麦の代金と一緒に言っておいてくれ。もう少しつゆが濃い方が美味いと」


 これで食い逃げの汚名は晴らされたと満足した風太郎は、腰から刀を引き抜き改めて三人の武士に向かい合った。


「来いよ」


 風太郎は考えた。彼らは将軍の姪の護衛という、真っ当とした職についている武士であると。だから江戸で襲ってきた何とか一家のように、一体多で戦うような下劣な手段を取り得るとは考えられない。


「まずはお前からだ」


 そういう訳で、彼は一番気弱そうな武士の顔に切っ先を突き付けた。






 無事に逃げおおせた立花とルナは、天の叢雲があると思われる崖の麓の雑木林で息をひそめて風太郎が来るのを待っていた。


「大丈夫かのう、風太郎は」


 小さな声で、ルナはそんな言葉を漏らしていた。三対一なら十中八九斬り殺されているだろうと立花は思ったが、心配させても良い事はなさそうだったのでいつも通り適当な返事で答えた。


「ああ見えて結構腕が立つようですよ」

「まあ、あの流太郎の弟じゃからな」


 笑いながらそんな話をしていると、茂みが揺れる音が聞こえた。立花とルナは咄嗟に身を潜め、耳を研ぎ澄ませた。


「奴らは見つかったか?」


 落ち着いた男の声が聞こえた。言葉から察するに彼の他にもまだ人がいるらしい。


「いいやまだだ、今村の者が総出で探しているが」

「ちくしょう奴ら、幕府の差し金だって言うじゃねぇか! どこから嗅ぎつけやがった!」


 若い男が二人、声を荒らげて事情を説明してくれた。


「とにかくあれを見られるわけにはいかない……見つけ次第殺せ!」

「おう!」


 掛け声と共に足音が四方へと散っていく。今ここから逃げるのは得策ではないと踏んで、立花とルナはその場で息を潜めた。


「何やら険悪なようじゃな……」

「まあ、風太郎さんの活躍に期待しましょう」


 もし見つかっても神がどうとか言えば殺されることは無いだろうと考えたので、立花の心中は穏やかだった。風太郎が斬られた後だったら、親族に葬式代を請求しようとさえ考えていたのだった。






 風太郎の予想通り、気弱そうな男は勝負を仕掛けられたとわかると剣を抜きゆっくりと近づいてきた。荒事には慣れていないのだろう、正眼に構える刀が小刻みに震えている。

 勝負を長引かせたところで自分に利は無いと判断した風太郎の動きは早かった。


 一歩。


 近づくと同時に相手の距離と出方を測る。竹刀で何百回と叩き合ったところで、一回の実戦には叶わないと風太郎は知っていた。実戦は否が応でも自分の手に持つそれが人を殺す道具だと教えてくれるからだ。


 二歩。


 突進してくる敵に対する一般的な戦い方は、もちろん機を計り迎撃することである。そんなに難しい事ではなく、ただ刀を振り下ろすだけでいいのだ。


 三歩。


 だから風太郎は足を早めた。敵は教則通りの剣しか振るわないと理解したので、その裏の裏をかくことにした。


 四歩。


 彼の出した答えは単純、言葉にすれば一言で済む。




 斬られる前に斬る。




 単純にして必勝、達人にしかできないそれを彼はやってのけた。


「手当てをすれば間に合うぞ」


 刀を納め二人の武士にそう言った。あれだけ殺気立っていた群衆も、斬り合いを目にして言葉もでなくなっていた。ただ一人偉そうな武士だけは悟ったように笑っていた。


「なかなかやるじゃないか……小僧、名を何と言う?」


 手首を負傷した気弱な武士を介抱しながら、彼は名を尋ねた。それは風太郎を一人前の侍と見た目た証だった。


「……日暮風太郎」


 名を聞いたとたんに、武士は狂ったように笑い始めた。


「おい、どうした」

「日頃の恨み……貴様で晴らさせてもらおうか」


 ようやく漏れた言葉らしい言葉は、とても穏便ではない物だった。初対面の人間に日頃の恨みとは、風太郎は自分の胸に手を当て思い起こしたい気分だった。しかしそうはせずに、立花が教えてくれた山へと逃げる事にした。三人連続で戦う気などこれっぽっちも持ち合わせていなかったのだ。


「落ち着いて! ぶっ殺してやりたい気持ちはわかりますがまずはこいつの手当を」

「小僧! 次会う時は必ずや貴様を血祭りにあげるからな! はははは、その首流太郎に送り届けてやる! 待っていろ!」


 もう一人の武士に諌められながら、偉そうな武士は怒号の中に彼の兄の名を混ぜていた。それなら直接兄上に文句を言えばいいのにと思ったが、そうは出来ないであろう事情を察し素直に走った。彼が向かう先には、そうは出来ないであろう事情が待っていること確実だった。






 崖の近くに行けば立花とルナがいた。おまけに目を血走らせた農民が二、三人ほど農具を持って立っていた。というよりは、二人を囲んでいた。

 何やら立花が説得を試みているようだったが、風太郎はこれ以上彼女の口車に乗せられ賽銭箱に金を入れる馬鹿を見たくなかったので彼らを右から順番に脇差の鞘で殴りつけて行った。


「待ったか?」


 一人だけまだ意識があるようだったので、石蹴りの要領でその男の顔を蹴った。すると立花から深い溜息が聞こえてきた。


「儲け損ねました」

「遅いぞ!」


 口々に文句を言う二人を無視して、切り立つ崖を見上げた。


「この上でいいんだよな」

「絶対とは言い切れないですけど。この辺りは電波の状況が悪いので」

「なんだそれ」


 しかしそれで風太郎の決心は付いた。腰から提げた荒縄、苦無を取り外し、代わりに草履の鼻緒をそこにかける。途中手を滑らせてそのまま奈落の底まで落ちる気にはなれないらしく、彼は近くの木に念入りに縄を巻きつけた。


「どうやって行くんですか? 登山道も見つからないですけど」


 苦無の柄についている円環状になった部分に縄を通す。貝殻の粉に手をつっこみ、全体に粉が行き渡ると余計な分を軽く叩いて落とした。滑り止めの効果があるので、こういった崖を登る時に重宝するのだ。


「とれじゃーはんたーをなめるなよ?」


 実際に崖に手をかけてみると、見た目以上に凹凸があった。なので彼は何の躊躇もなく、その崖を登り始めた。手馴れている彼にとって、この程度の崖は朝飯前だった。


「どちらかというと猿ですね」

「やーい、あっちに可愛い雌猿がおったぞー!」


 具合の良さそうな岩の裂け目を見つけると、彼はそこに縄を通した苦無を深く突き刺した。これで万が一手を滑らせても死ぬことはない。


「うるさい、こっちは真面目なんだ!」


 下を見ずにそう叫び、彼はまた上を目指して進んでゆく。途中足場が崩れ滑落しそうになったが、咄嗟に苦無を突き刺し事無きを得た。そしてまた上へ上へと登っていく。傍からみると単純な作業にしか見えないが、風太郎にとっては大変な問題だった。次掴む岩はどれにするか、足場は大丈夫かなど、しっかりと確認しながら進んでいく。


 そしてついに頂上に到着した。彼の額は汗で湿り、指先はひりひりと傷んでいる。


「お疲れ様です」


 そこには何故か立花とルナがいた。


「……なんで?」


 間抜けな顔で彼は尋ねる。すると立花は真面目な顔で答えてくれた。


「よく見たら登山道がありました。探すの大変だったんですよ?」

「ああそうかい」


 一体俺の苦労は何だったんだと、風太郎は俯いた。そのせいで余計に体力が奪われてしまったような気さえした。


「怒ってます?」

「全然?」


 武士は食わねど高楊枝。しかし自身の気品のためではなく、意地を貫き通すため。今度生まれ変わるならもう少し楽な職業がいいなと彼は考えた。


「そんなことよりお主、余は面白い物を見つけたぞ」


 上機嫌のルナが、頂上で何かを見つけたようで子供らしくはしゃいだり威張ったりしていた。


「ここに何かがあるのは間違いないです」


 立ち上がり立花の指差す場所を見てみると、薄暗い洞窟があった。一瞬風太郎の心臓が高鳴ったが、駆け出すより冷静に考えるべきではないかと思い直し、そうした。


 天の叢雲を隠す場所には不適切ではないかというのが、第一の印象だった。確かに雨風は凌げるかもしれないが、落盤などの事故が起きれば二度と取り出せなくなってしまう。それに辺鄙とはいえ宿屋のある村に保管したりするだろうか、というのも考えた。


 しかし『とれじゃーはんたー』として、怪しい場所に足に踏み入れない訳には行かない。そして彼は勢い良く立ち上がった。


「よし、行くぞ風太郎!」


 その拍子に脹脛の筋肉をつってしまい、涙目になって痛みを堪えた。せっかくはりきっていたルナは出鼻を挫かれてしまったのだった。


「……ちょっとだけ休ませて」

「情けないんですね、とれじゃーはんたーって」


 反論できるほどの元気は、もはや彼に残されていなかった。






 洞窟の中は神秘的な明るさに包まれていた。岩の隙間から差し込む光が、冷たい岩の表面を薄く照らしている。彼らは一目見て、なぜ登山道が作られていたかを理解した。もはや洞窟という言葉では事足りず、立派な設備として整っていた。きっと村の者が置いたのだろう、十人以上が楽に座れるぐらい広い蓙が敷いてある。そして風太郎は、ここに来るべきでは無かったのではないかと考えてしまった。


 簡素で装飾のない木が二本、交差して縛られている。それは決して倒れぬよう、深く地面に突き刺さっていた。それは切支丹の象徴であった。事の大きさを理解したのか、立花はルナの目を手で覆った。


「……これ、祝福を受けています。それも大勢の人から」


 彼女の言う事を風太郎はすんなりと理解できた。宿屋の女主人も蕎麦屋の親父もついさっき気絶させた三人組もここに来ては神に祈りを捧げているのだろう。立花が方便で使った神とはまた少し違った異教の神に。


「だろうな」


 祝福をかけられるのは位の高い神官にしか出来ないと語っていたが、それよりも大勢の人の真摯な祈りが祝福になったと考え、彼は一人納得した。立派な服と豪勢な神社に住む彼らより、ここの村人のほうが余程敬虔なのではないかと風太郎は思った。


「何の話じゃ?」

「ルナ様はもう少し大人になってから見ましょうね」


 信仰する神の違いで首が刎ねられるなど、風太郎にっては馬鹿馬鹿しい事でしかなかった。ただその理由が分からないほど彼は子供ではなかった。


「外れだな」


 だから彼はそう言った。簡素な十字架など、天の叢雲の代わりは務まらなかった。


「どうします? さっきの人達に教えてあげますか?」

「どうしたもんかな」


 無理して密告するほど重大な問題ではなく、黙っているほど簡単な問題ではない。曖昧な気持ちを抱えながら、彼らは洞窟を後にした。






 仕事熱心な人間というものはいつの時代にもいるものだ。鼻息を荒くした偉そうな武士と会うのは本日で三度目だったが、風太郎にとって二度と会いたくない人間だったという事は間違いない。


 こちらを見るなり、武士は刀を引き抜き猛進した。教測通りの迎撃法が使えるほど彼の動きは遅くない。風太郎も急いで刀を抜き、刃を刃で受け止める。鋭い金属音が山に反響した。


「小僧、随分と探したぞ」

「無理するなよ、いい年だろ? ほら白髪が増えるぞ」


 頬に冷や汗が伝うのを感じながら、風太郎は減らず口を叩いた。そして一瞬の隙を見つけ相手を蹴り飛ばし距離を取る。ついでに冷静さを失って崖から落ちてくれれば楽なのに、と本気で考えていた。


 しかし武士は単純に侮辱されたと感じたのだろう、また顔を赤くして風太郎に突進した。


「誰の」


 振り下ろされる刃を受け止める。しかし休むまもなくすぐさま二撃目が飛んできた。


「せいだと」


 埒が明かない、風太郎はそう感じた。だから一歩距離を取り、試しに袈裟斬りを放ってみた。力は込めず、しかし勢いは殺さずに。


「思っている!」


 彼の刀が捉えたのは、またしても鉄の塊だった。

 二人の鍔競り合いが始まる。柄を握る両手に力を込め、押し返されぬよう気張る。お互いの刃が少しずつ欠けてゆき、時折火花が散った。


「話し合いとかどう思うよ!?」


 この男と戦いたくないというのが風太郎の素直な気持ちだった。理由は自分が負ける可能性が大いに有りうるから。


「なら一つ訊ねる……あの腐れ外道の弟が何故こんな場所にいる!」


 意外なことに、武士は風太郎の言葉に乗ってくれた。腐れ外道が誰だか一瞬わからなかったが、弟という単語で補完すればすぐに答えが出てくれた。流太郎のいつもの柔和な笑みが風太郎の頭を過ぎる。


「探しものだよ」

「それでそいつは見つかったのか!?」


 風太郎がそうするよりも早く、武士は鋭い蹴りを繰り出してきた。金的を真っ直ぐ狙ってきたそれを後ろに飛んで事無きを得た。


「そうだな……」


 刀を右脇に構え直し、間合いを測る。


 答えはもう出ていたのだ。


「生憎、まずい蕎麦しか無かったよ!」


 腹を括った彼は、もう刃を磨り減らすだけの斬り合いを望んではいなかった。

 次で決める。汗はもう乾いていた。

 そう思っていたのは、武士も同じだったらしい。刀を上段に構え一撃必殺を狙った。

 先に動くのは得策ではないと、風太郎は直感で理解した。互いに摺り足を繰り返すだけの睨み合いが続く。刃の代わりに、彼の神経はどんどんと磨り減って行った。




 来る。そう思った矢先のこと。




「……あれ?」


 武士は糸の切れた人形のようその場に倒れこんでしまった。一瞬自分の気合で倒してしまったのかと滑稽な発想を持ち出す頭を疑ってみたが、どうやらそれは杞憂で済んだ。倒れた武士の後ろには、農具を構えた何人もの農民が立っていた。何が可笑しいのか、皆満面の笑みを浮べていた。


「なんだ、みんなで山菜でも取りに来たのか?」


 敵意がないと判断した風太郎は刀を納め軽い冗談を飛ばしてみた。すると一番嬉しそうな顔をした男、よく見れば先程の蕎麦屋の店主が地面の上に正座した。


「申し訳ございませんでした!」


 謝罪の言葉と一緒に彼は深く頭を提げる。事情の飲み込めない風太郎一行は、ただ間抜けな顔をするのが精一杯だった。






 山を降り宿には帰らず何故か蕎麦屋に戻った一行。村の者は皆あえて口にしなかったが、原因は例の洞窟が絡んでいた。


「いやすいません、失礼なことをして。てっきり私達を捕まえに来た幕府の差し金かと……」


 それが間違いだったと気づいたのはついさっきの事だった。風太郎と武士の会話を耳を済ませて聞いていた一人がそれを確認してくれたらしい。探し物の下りでそれがわかったらしいのだが、風太郎は素直に喜ぶ事が出来なかった。


「俺、誤解されるような事言ってた?」


 なぜなら今、風太郎達の目の前には大盛りの天ぷら蕎麦が置かれていたからだ。まずい蕎麦だと言い切った手前、素直に箸をつける気にはなれなかったのだ。ちなみに立花は話に耳を傾けず蕎麦を食べ始めていた。


「探しものがどうとか、徳川様がどうとか、役人の弟君だとか」


 頭をへこへこと下げながら、店主は言い訳を口にする。徳川様に関しての事実は絶対に訂正しないと彼は心に誓った。


「勘違いで命を狙われるなど笑い話にもならぬな」

「本当、何とお詫びすれば良いのか……これでお納めして頂けると思いませんが、何卒ご理解の方を」


 袖の下に口止め料。名前など何種類もあるが、それが香ばしい油の匂いと色とりどりの山の幸を引き連れた天ぷらそばであった事は珍しいだろう。黄金の輝きを持つそれを目の前にして風太郎は生唾を飲み込んだ。

 食べよう、食べてしまおう。彼はそう決心した。


「いや、礼には及ば」


 しかし遅かった。立花は風太郎の天ぷらを華麗に奪い取った。


「おい、俺の天ぷらだぞ」

「さっきまずい蕎麦だって言っていたじゃないですか」


 さすがこの巫女、他人の弱点を熟知していた。さらに質が悪いのは、それを真顔でやってのける所である。自分が悪いことをしているなど微塵も思っていないのだ。


「それは言葉のあやで……というか天ぷらは関係ないだろ天ぷらは!」

「確かに」


 一瞬納得の行った彼女だったが、やはり残念な事にそれは一瞬で終わった。げっ歯類がそうするよう、彼女は奪い取った天ぷらを小刻みに咀嚼していった。あれよあれよと言う間に、風太郎の天ぷらは全て彼女の胃袋に収まった。


「……もういい、俺が悪かった」

「身から出た錆ですね」


 だらしのないげっぷと共に出てきたのは、風太郎を非難する言葉だった。


「錆の原因は周囲の環境にあるって知ってたか?」

「あそうだ、ルナ様はお若いですから……油物を食べるとにきびが出来てしまいます。ここは責任を持って私が食べて差し上げましょう」

「おお、気が利くではないか!」


 まだ食い足りないのか、立花は年端の行かぬ少女の天ぷらさえも優しいふりをして奪い取っていた。


「聞けよお前ら」

「そう言えばルナ様、富士山の近くには肌に嬉しい秘湯が多いとご存知でしたか?」

「何っ、それを早く言わんか!」

「まあルナ様には必要なさそうですが」


 しかし和気藹々と始まった女の会話に彼がついて行けるはずもなく、仕方無しに溜息をついた。それから諦めても天ぷらそば改め盛りそばを箸で掬い、行儀悪くじゃぶじゃぶとつゆをつけて啜ってみた。


「何だ、さっきより美味いじゃないか」






 日は沈み人は眠る。もちろん彼は例外だ。


「どうするかな……」


 蝋燭の仄かな火と月明かりを頼りに、彼はつい先程まで手紙を書いていた。つい先程までと言うぐらいなので今は当然書いていない。性に似合わず頭を使ってしまった結果、その足りない頭を抱える羽目になったのだ。


「何をやっているですか?」


 いつの間にか彼の背後にいた立花が、覗き込むよう話しかける。風太郎は一瞬間抜けな声を漏らして肩を震わせたが、すぐに平常心を取り戻しため息をついた。


「……普通夜に男の部屋に来るか?」

「ルナ様とかるたで遊ぼうと思ったのですが、読み札を読んでくれる人がいないので。というか風太郎さんにそれ以上を求めていないので」


 実を言えば、風太郎も年頃の男である以上何も期待を持たなかった訳ではない。しかし現実としてここまで言われてしまった以上調子の外れた嫌味で答えるしかなかった。


「よく回る口だな……別に構いやしないが、これが終わってからな」


 彼が指差す紙は、まだ半分ほどしか埋まっていない。書くべき事は山ほどあるが、適当な言葉は一つも見当たらなかった。


「兄上にな。徳川の姫様を預かることになったんだからこれぐらいは」


 風太郎の説明を聞き流し、立花はその手紙を手に取り読み始めた。墨が垂れ畳に落ちそうになったが、結局そうはならなかったので風太郎は何も言わなかった。ただ顔は嫌というほどしかめてやったが。


「拝啓、兄上どの。この度はピエール徳川七世の姪と思しき徳川ルナ姫と旅を共にする事になった故を説明すると同時に、まあそのお気に入りの姫様が危ない目に合わないとも言い切れないけど何とか頑張ろうと思います。自分は一緒にいた武士よりも多分使い物になるだろうから心配はしないでください。というか来ないでください。むしろ外敵よりもあの性格に問題のある巫女の方が心配で……」


 眉をひそめる立花の言葉はそこで止まった。手紙の文字もそこで途切れていた。


「反省文ですか? これは」


 そして風太郎に辛辣かつ率直な感想を述べた。


「そうにしかならないから困っているんだよ」

「仕方ない、私が代わりに書いてあげましょう」


 筆を掴み、立花は自信満々にそんな言葉を吐く。


「大丈夫か?」

「任せてください」


 何とも心もとない台詞をお供に、彼女は一度風太郎の書いた文章に大きなばつ印をつけ新たな文字を書き始めた。ある程度文章がまとまった所で、彼は手紙を読んでみた。


「姫は預かった……返して欲しくば孫の代まで遊んで暮らせるほどの金と京都の別荘と小間使いを六人ほどよこせ」


 違った。それは彼の思惑とはあまりにもかけ離れていた。風太郎の頭にあったのは、兄への謝罪とこれからの旅に対する許しだった。しかし彼女は、彼女の手紙は違う。そこにあるのは清々しいまでの欲望だった。


「おい、俺達はいつから誘拐犯に転職した」

「貰える時に貰わなければ」

「立花、遅いではないか! それに風太郎、お主もどうせ暇であろう!」


 痺れを切らしたルナが怒鳴り声と共に風太郎の部屋へと乗り込んできた。そして彼らが書いている手紙を見つけるなり何を勘違いしたのかこんな事を言った。


「おお、何をしていると思えば二人で落書きか! ははは、余は永世江戸一の絵の名人じゃぞ!」


 立花から筆を受け取り彼女は鼻歌を歌いながら手紙の余白に人の顔を書き始めた。出来上がった目付きの悪いちょんまげの下に覚束無い文字で『ふーたろー』と書き込んだ。立花は声を殺して笑い始め、風太郎はまたため息をついた。


「あのな、遊んでる訳じゃ」


 彼の声など上機嫌なルナに通じるはずもない。彼女は『ふーたろー』の横にやたらと美人に書かれた短髪の女性の下に『り』と書こうと試みた。試みただけなので、当然失敗に終わった。


「あ」


 墨の入った硯が彼女の白く小さな手に景気よく当たり、見事な物理運動を経てひっくり返る。反省文から脅迫文、そして落書き帳へと見事な転身を遂げた一枚の紙は、ただの黒い何かへと変貌してしまった。


「こ、こういう芸術もあるのじゃ」


 その感性など理解できる筈もない風太郎は、もはや手紙ではなくなったそれをつまみ上げた。


「まあ、出さなくてもいいか」


 その口から、ため息が漏れることは無かった。




 ついでに笑顔も作ってみせた。

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