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もし、タイムマシンがあるなら

作者: 小鳥遊 夕也

ーもしタイムマシンがあるなら。


そしてその状況で二択を強いられたとしたら。


今の俺はなんて答えるのだろうか。


未来か過去か、その二択なら間違いなく俺は「乗らない」と答えただろう。


…などと天の邪鬼っぷりを冒頭から曝け出したこの話も早くも路頭に迷ってしまっているのだが、行先は見えているから問題はない。


そう、今俺は「タイムマシン」に乗っているのだ。


行先?それは3年前の過去へだ。



-----------------



現在PM21:55。


現在地から約1200キロメートル離れた都会から遠路はるばるやってきた若者を乗せた電車は心地の良い揺れと電車特有の一定のリズム音を奏でながら札幌駅と向かっていた。説明は不要であろうが冒頭で「タイムマシン、行先は3年前の過去」と記述したがSFめいた要素は一切なくあくまで俺の心情を表したものだと注意しておく。


(3年越しの想いを乗せて…か)などと自嘲を込めてこっそり苦笑した。


今回北海道行きを決めたことは勢いしかない行動ではあるが反面、当時高校生だった俺達もお互いに大人になったのであろうと俺は思っている。もうじき駅に着く…果たしてどうなってしまうのか。緊張しないわけがない、何せ「3年間、実際に一度も触れ合った事がない」男女が出会うわけなのだから。

新千歳空港から駅までの距離では感傷に耽るには少し足りなかったかも知れないが余りあれこれ考えても仕方がない。そもそも東京からこっちへ来ると決めたのもほとんどが勢いだったのだから。


などと考えているうちに無機質なアナウンスが流れ俺はホームに到着した。少し厚着をしてきたつもりがやはり肌寒くてパーカーのチャックを閉めてラブコールを入れる。「会いたかった…お待たせ、3年待たせたな。運命の人」などと言ったモンブランに蜂蜜をかけても足りないくらい甘く、奥歯なら浮くどころか月まで飛んでいってしまうのではないか、というフレーズは胸の中で殺しておいてごくごく普通の有り触れた言葉で到着を知らせ、慣れているはずがない土地に少し委縮しつつも俺は指定された「東口改札」の案内に目をやった。


あと少し…。否応なしに緊張は高まる。電光掲示板の案内を探し改札を抜ける前に、それらしき彼女の面影を探す。

メールや電話だけといっても文明は日々進化を続けているし、人間の知恵には驚かされてばかりだが面識のない者同士、さらに服装なども知らなくてもお互いを認識し合う方法がある、と前置きが長くなったが写メの交換は当時からしていたし、ごく最近も近況報告と兼ねてしていた。とはいっても一抹の不安は残るので俺は「会いたかったよ」の第一声を直接と言いたかったが諦めて先に電話することにした。


「着いたよ、どこいる?」単純明快だ。

しかし無反応な電話の向こう。


その瞬間、壮大なフィクションだったのか。そうか俺は悪い夢を見ているに違いない、そんな考えが頭を過った。だってそうだろう?高校3年生の時に知り合い、そしてその半年後に彼女が事故に遭い、階段から突き落とされて折れたろっ骨の欠片が心臓近くに刺さり、その除去手術で助かる確率は30%と医者に宣告されて連絡も途絶えこともあった。一方的にさようならを告げられ途方に暮れたこともあった。入院中に病院を抜け出し、彼女の友達から「空港に向かったらしい」というメールが深夜にきたこともあった。無事見つかって病院に戻れたらしいが、傷口は開いて胸から大量出血していたらしい…そうか、よかった。安堵してやっと眠りについたのは明け方、という時もあった。

そんなドラマでしか見たことがない話をどうやって確かめればいい?誰かいい方法があるなら教えてくれ。いくらかなら払ってもいい。


いや、俺はそれを確かめにきたのだ、引き返すわけにはいかない。「もしもし?もう居るよ、そっちこそどこ?」彼女からの返答。そうは言われても周りを見渡してもそれらしき姿はない。余談だが、当時の俺は派手な頭をしていたので、声を掛けてもらえた方が早いのにと思ったのは後日談である。


数分あたりを見渡しつつしばらくしたところで彼女が驚きとも緊張とも、いや戸惑いとも取れる微妙なトーンの声で言った。

「あっ、いたかも」その声を聞いた瞬間、俺の心臓は2センチ動く。跳ね上がるような感覚、狩猟本能があるわけではないが何となく先に視認されるというのはバツが悪い。全身から嫌な汗が噴き出しながらも周りを慎重に確認し直す。

「違う違う、後ろだよ。こっちこっち」断っておくが今の季節は春、夏はもうじきだが俺はスイカを割りに札幌にきたわけではない。不満を心の中で述べているうちに誘導され、声の主らしき人物が前方に立っていた。そして近づく。距離が縮まる…。一瞬、間があく。


「探したよ、本当に」第一声は俺からでロマンチックさには欠けた言葉だった。さすがの似非ロマンチストの俺でもどこぞやのJ-POPシンガーのように「ずっと探してた」なんて含みは当然なく、思ったままのことを言った。

「なんかうろうろしてたから面白かったよ、そのまましばらく眺めておこうかと思ったくらい」メールのままの彼女らしい答えだ。俺は言った。「そうかい。ご生憎さま、俺は見世物じゃない上にご尊顔というわけでもないし」誰かが聞いたらただ当たり前の会話なのかも知れない。でも俺たちにとってはこれが3年越しの対面であって緊張していないわけがない。久し振りにあった恋人…というよりは昔からの友人かのように自然にやり取りを交わしあった。きっとそれで彼女も安心したのだろう。安堵にも見て取れる微笑みを浮かべて、すっと隣についた。「じゃあ…とりあえず行く?」かくして駅の改札を抜け、地下鉄へ向かうことにした。


面と向かってジロジロ見ていいのは自分の顔とエロ本くらいだと思う俺は彼女を凝視せずにいたが、隣を並んで歩いた時に改めてゆっくりと彼女を見る機会があった。断じて言うがエロ本を見る感覚で見たわけではない、一応。

茶髪のボブっぽい感じの髪型に白いジャケット、黒いバルーンスカートにニーハイという女の子といった格好で足元は5㎝プラス位のパンプスを履いていた。

写真で見るよりはギャルっぽいメイクなような気もしたがすごく顔が小さいからパーツがより目立つのであろうか。本人はギャルと言われるのも、顔が小さいと言われるものコンプレックスらしい。

ギャル、いいじゃないか。おじさんはそういうのは嫌いじゃないぞ。まあ前者に関してはよく分かるが後者に関しては小さい時に「宇宙人」と言われて傷ついたことがあるからだそうだ。言われてみればわからんでもない。いや、賛辞のつもりだ。


時計に目をやると日付変更線まではあと4時間。時間はもう遅いが折角来たわけだしそのまま自宅直行というのも味気ないと思ったが、彼女が疲れているのはわかったので素直に諦めた。「一緒にいる時に疲れたは別れる原因」なんてカップル間ではタブー視されているとヤギの餌にもならないような雑誌、もしくは頭脳が退化しそうなTV番組で見て聞いた記憶があるがそれもお互い分かり合えていればさほど大きな問題にはならないのではないか。そんなことを感じさせるひとコマだった。彼女の事情も理解の上で俺は来たので当然文句は言わず、ひたすら彼女の案内で歩いた。


地下鉄に乗った。他愛もないことを話しながら、彼女の帰路に付き合う。結構揺れるので腰や肩に手を回しながら話していると周りから見たら俺達は恋人同士に見えるのだろうか。いつしか憧れたような風景が今目の前にある。

実感湧かないな、そんなことを思っていた。結局北海道から帰って東京に戻っても変わらなかったのはあとの話である。

「鏡が付いてるんだね」入口ドア付近にあった鏡を見て俺が言った。一瞬、彼女がどうしてお空は青いの?といった子供を見るような顔で俺を見たあとに答えた「そっか、東京にはないんだよね。」そういいながら髪を手櫛で直しながら、「でもあるとついつい見ちゃうよね」と言った。やっぱり普通の女の子なんだな、一番そう思った時だった。いや、当たり前なんだが。ただ前記したように…いやここには書けないようなことも過去に何度かあった上に3年という月日は何だか常識的な感覚さえも鈍らせてしまっているような気がした。


ふとこんなことを思った。新しい情報の連続に脳味噌の処理速度がついてこれなくなった場合、人間は過去という事例を持ち出すのではないか。ある種の雛型として過去というツールを使い、比較するために。つまり、自分の経験の中で「人前や公共の場で鏡を見るのは女の子」という1つのパターンが存在するというわけだ。誰しもが意識してしているわけでもなく自然にそうしているに違いない。そんなことをぼーっと考えていると、彼女が心配そうな顔で俺を見てきた。目が合う、目を逸らされる。少し気分がいい。右を向いても左を向いても俺には馴染みのない光景なので落ち着きはしないが彼女と並んで歩き、話すこと自体にはもう緊張はしていなかった。もっといろいろ思うところはあったのだろうけど、そんな思いを寸断するが如く電車のアナウンスが流れ、彼女が着いたよと一言いった。


ホームに下りるとやはり肌寒さを感じて、少し足早になる。地下鉄から地上に出るともっと寒い。当たり前だが。

カチッ、という音が聞こえて彼女がタバコに火を点けた。昔は俺がタバコを吸っているのが分かると電話越しによく説教されたのによくもまぁ、俺の目の前で吸えるものだ。そんなことを彼女に言うと、「そんなこともあったね」と言いながらふーっと文字通り煙に巻かれてしまった。

とぼとぼと歩きながら、彼女の家が見えてきた。「入口がね、すっごいおばけが出てきそうなの」俺が好きそうだ。

着いて一言「確かにね。俺が死んだら好んで来れそうだよ。立地条件も悪くないしね」など軽口を叩きながら地下の駐車場から階段を目指した。思ったより天井が低いのでかがんでいると「ぶつかるほど背高くないでしょ」と厳しいコメントが前方から聞こえたが聞こえないふりをしながら俺は後を歩いた。階段を登る時に彼女のスカートの中身でも見てやればおあいこだなと自分の中で計算していたからだ。


彼女の部屋はその駐車場から入っての中1階と言えばいいのかよく分からないが、ロフトつきの1Kだった。築5年~10年くらいだろうか。

玄関に着くと少し待っててと言われて、彼女はドアの向こうに消えた。中には彼氏がいることは聞いていたし実際声も聞こえてきていたから俺は否応なしに聞かされるはめになったわけだが外まで声が丸聞こえなのもどういったものか…部屋に戻ってきたことによって彼氏が嬉々として走り回っているらしい。

そして聞こえる彼女の声「キッド!だめでしょ!」「もう~またおしっこ漏らして」「あんたは本当に馬鹿ね~」やけに独り言が多いな、などと思いながら俺は待った。


「やっぱりあんまり待たせるのは悪いと思ったから、もう入っていいよ。キッドのせいで散らかってるけど」暫くしてから出てきた彼女はそう言うと俺を入るように促した。待っていたのは構わないし、楽しい会話が聞けたから俺は退屈していなかったし快諾した。ただ1つ心残りがあるとすれば階段を登るときに彼女のスカートの中身は見れなかったということ位だったが気にせず玄関にお邪魔する。

右側に風呂とトイレが別でドアが2つ、突き当りにドアが1つ、あの先が生活している部屋なんだろう。ところで鍵はチェーンまで閉めた方がいいのか?俺なら閉める。「いや、気にしないでいいよ。いつも鍵しないままコンビニとか行くし」都内ではとても真似できない芸当だ。もしかして北海道はゴキブリだけじゃなく泥棒もいないのか?

「あはは、そんなことはないけど。女の子なんだから、とは言われるね。あとは騒いでも苦情とか来ないから学校の友達のたまり場になっちゃってさ。きっと私の友達は皆うちの合鍵を持ってると思うよ6人位」とんでもないことを涼しい顔で彼女が言った。まったくついていけないね。


そしていよいよ彼女の彼氏にご対面だ。

ドアを開けて生活スペースに入ると、その刹那走り回る茶色い影に跳び付かれた。困惑していると彼女が苦笑したように言う「キッドは男の子だから、きっとヤキモチ妬いてるんだよ」そういうものなのだろうか。

「まあ、俺は小さな子どもと動物には大概嫌われるタイプだし覚悟していたから大丈夫だよ」すると彼女は「わかるわかる、そうだよね」と言った。俺の中では冗談のつもりだったのだが通じたのか通じてないのかそう言った。もし前者であればあとで灸をすえておこう。後者なら一人で泣こう。


足元をせわしなく走り回る茶色い物体にそろそろ嫌気を感じながら、荷物を床においた。部屋の構成としては入って右側にキッチンがあって冷蔵庫。カウンターを仕切りにあとはテーブルとテレビとキッドのトイレがあるくらいでまぁまぁ広いな、というのが率直な感想だった。

「キッドがうるさくてごめんね」上着を脱ぎながら彼女が謝った。どうやら俺も脱ぐらしい。その時は何で脱ぐのかわからなかったのだがキッドがいるから服に毛がつかないようにするためだったのだとあとで気づいた。犬を飼わない人間はこういうのには疎い。パーカーを脱ぎながら「気にしないでいいよ、ありがとう」と答えた。彼女が部屋のお香に火を点けて俺に灰皿を渡す。

その様を見ていると思わず同棲した時の絵を思い浮かべてしまうわけだが、違和感があったのですぐに止めた。

そういえば昼から何も食べてない。どこか夜食べに行きたかったが、コンビニくらいにしておこう。彼女が疲れているのはわかっていたし別に気取ってどこに行くというよりもこうして一緒にいる時間を大事に考えた結果だった。そう考えていることまでは言わなかったが彼女もわかっていたのだろうか、俺がコンビニに行って夜飯を買いに行こうと提案するとごめんねとありがとうを一緒に言った。


一服しながら休んでいると、彼女が「キッドがヤキモチ妬くところ見せてあげよっか?」と言い出して俺に抱きついてきた。いきなりの事で驚いたがそんなまもなくキッドが俺と彼女の隙間に入り込んできて吠えたので俺は彼女から離れ跳びつこうとするキッドを制した。

「ね?言ったでしょ?男の子と抱き合うといつもこうなの、女の子だと大丈夫なのに、わかってるのかな?こいつも」と彼女が言って、慌てたように付け加えた。「あ、男の子っていってもみんなで飲んで酔った時の話ね。友達仲良いから」俺は曖昧な返事をした。

キッドが落ち着いたころにもう一度彼女が抱きついてきた。そして深い溜息をつきながらきつく手を回してくる。「会いたかった?」彼女が言った。何ていえば分からなかった。ただ「ああ」と肯定の返事の代わりに俺もきつく彼女を抱きしめ直した。


しばらくの沈黙…車も通らないような北の大地、夜は本当に静かだ。そのしじまを破ったのは彼女の方だった。

「そろそろ行こうか」そして俺達は夜飯の調達へとコンビニへ向かって、歩き出した。さっきも歩いた道をただ歩く。コンビニというゴールに向かって。気温も時間も変わっているわけではないのになぜだか温かいのは手を繋いでいるからだろうか。

道中、地元の若者たちに出くわし、大声で騒いでいるのを見て俺にもあんな時が、などとありきたりの感傷に浸りつつ横を通り過ぎる。「俺も手繋ぎてぇ~」そう叫ばれ恥ずかしい思いをしたが、彼女は見せつけるように繋いだ右手を振り回した。照れ臭そうに笑った。


コンビニに到着して、適当な弁当を調達してレジを運ぶ。

彼女が何を買ったかは覚えてないが、会計を一緒に払おうとしていたので少し揉めたが、わざわざ遠方から…という意味なのだろうと思ってここは甘えておくことにした。

「帰りは違う道で帰ろっか」彼女がそう言って俺は何故だと思ったが、さっきの若者たちに遭うのが嫌なのだろうと納得して承諾した。コンビニの帰り道、さっきと違って手には二人分の弁当があるので手は繋がなかった。

「今日は満月じゃないんだね」俺が空を見上げていった。「そう?私には満月に見えるけど」彼女がそう言うので「いや、多分その手前の状態じゃないかな」俺が言い返す。付け加えるかのように「満月だったら襲ってるかもね」と言っておいた。呆れた顔を見せる彼女を見ながら俺はこんな話を思い出していた。

満月の時の犯罪率。引力が強いために脳に血液が集まり気持ちが高揚しやすいのではないか?と科学者の中でひと昔前に囁かれた話だ。一度は聞いたことがあるのではないか。ただ、調べてみると実証されたわけでもない都市伝説の類の話である。

「今日は満月だったので彼女を襲いました」なんてジョークも面白いなと考えていると神妙な面持ちで彼女が話始めた。「2年位前だったかな、一時期連絡あんまりとってなかった時期があったよね。その時さ」そこまで言って彼女がちらりと俺の顔色を窺ったような気がした。

目線をやると彼女が続きを話し出す。「その時、付き合ってた人がいたの」聞いた瞬間、少し胸が痛くなった。


もしタイムマシンがあるなら、この話の肝と言える部分に触れたような気がしたからだ。俺が東京で過ごしている時間、彼女も同じように過ごしているわけであっていろいろな経験を重ねて今、現在があるわけである。当たり前のことだが、こうして一つの事実として告げられると逃げ道は用意されていないんだと痛感せざるを得ない。

ただ断っておくがショックを受けた反面、俺にも彼女が居たし彼女にも彼氏がいないという方が不自然であるしその事実を受け止められないわけではない。逆に「ずっと彼氏を作らないで待ってた」と言われる方がきっと受け止めることが出来なかっただろう。そんなことは有り得ないのだが。

適当な相槌を打つと彼女が話を続ける。

「その時に付き合ってた人ねロンブーの敦に似てて、車がすごく好きで私も学校とか朝送ってもらったりしててその人はトラックの運転手してたの。一時期は一緒に住んでたりしたんだけど、ある日ね。私その人に浮気されちゃったの。」

「そうか」一通り聞いたあとに俺は曖昧な返事をした。女の子が昔の話をよくする生き物だということは知らないわけじゃない。ただこのタイミングで話した彼女の心情が俺には分からなかった。

彼女が続ける、「それでね、私その浮気は許しちゃったんだ。好きだったし…仕方ないかなって思って。でも続きがあって、私福祉の学校に行ってるじゃない?それで他校と一緒に施設に行ったりして障害ある人たちの介護実習があるのね。その時にメアド交換した人がいてね。会ったのはそれきりなんだけどメールはしてたんだ。だって、彼氏に福祉の話をしても通じないことも同じ福祉の学校に通ってる彼なら理解もしてくれるから、でもそれだけなの。ただ話を聞いてわかってくれる人が欲しかっただけだし、好き嫌いってなるとまた別で…その人は私のこと好きって言ってくれてたんだけど。私も彼氏がいたから何もなくて。」

要所で相槌は打ちながら彼女が一方的に話し続けた。

「メールしてることが彼氏にバレちゃったの。したら彼氏が怒って、浮気してるだろ!って。してない!って言っても信じてくれなかったんだ。その後、気づいたら家を出る準備されてた。」

聞いてもないそんな話をいきなりされて、俺はただただ頷くことしか出来なかった。もし定期的に会える距離にいて、いつでも会えるような出会いだったら気のきいたことの1つや2つは言えたのかも知れない。いや、言い訳だ。

俺はきっと怖かったんだ。ここで何か言ってこの空気が凍りついてしまうことが。それだけならいい、「じゃあこれからは俺が」なんて言って責任を取れるわけでもない。相手がどう思っているかなんて、ましてや何か答えを求めているわけでもないかも知れないし分からない。俺に話す、その行為自体で満足していたのかも知れない。それは彼女にしか分からない。だからと言ってそれは如何なるものか。聞かされた相手の気持ちを考えた上で言おうと決めたのだろうか。

やがて俺は考えてもゴールのない迷路に迷い込むような気がして考えるのを止めた。

彼女の中でこの話が終わったのであろうか小さくため息をつき、「そっちは?言いよる女の子とかいたでしょ?」俺に話を振ってきた。「さあ、どうだろうね。いないよそんなの」俺の見え透いた嘘に彼女も口から曖昧な音を出した。


話しているうちに家に戻ってきてキッドからの熱烈な歓迎を迎えつつ、俺は腰を下ろした。

彼女がコンビニで買ってきた弁当をテーブルの上に置くと「着替えてくるね」そう言ってドアの向こうに消えた。出てきた彼女は高校か中学の時のジャージの短パンにTシャツという姿だった。名前を見ると伊藤と書いてあったが彼女の姓は伊藤ではない。きっと友達か何かのだろうが、夏の寝どこに飛びまわる蚊のよりも、治りかけの瘡蓋よりも、別段気になったわけではないので突っ込まずにいた。

彼女も俺に対して過剰に気を使っているわけではない様子で俺はそれを察して安心していた。気を使われても困る。「お互いちゃんと話せて気まずくならないでよかったね」家に向かう途中の地下鉄でそんな話をしたのはついさっきであるし、こうして一緒にいる時間がとても落ち着いたものに思えていた。

かくして俺は弁当を出して先に食べ始めようと蓋を開けたのだが最初はキッドがまとわりついて来るのでとてもじゃないが食べられる気がしなかった。そんなことを言うと「本当にマイナス思考だよね」彼女から言われた。「今更知ったかのように言うなよ。知ってるだろ」厭味も込めて俺が返す。まあね、そう言いながら彼女は苦笑した。

食べ物を咀嚼する音だけが響く室内で会話はあまりなく、彼女も学校にバイトにと疲れた様子だった。なぜだかテレビはつけずに弁当を食べた。当然男である俺の方が早く食べ終わり、片付けをしていると灰皿を彼女が出してきた。「吸っていいよ、もしかしたら私まだ食べてるし気遣ってるのかなって思ったんだけど。友達呼んだ時もみんな気にしないしもくもくになるの」礼を言いながら俺は煙草に火を点けた。

「でも福祉関係の人って煙草とか吸わないイメージがあったな、話聞くと違うみたいだし。まあ偏見だけどね」そう言うと彼女は「そんなことないし皆煙草も酒も普通にするよ。ストレス溜まるしね」と言った。説得力がある言葉だ。確かに福祉や介護関係の学校だったり仕事をしていて、楽だというのは一度も聞いたことがない。

コンビニに向かうときに玄関で靴を履いたのだが、広い玄関というわけではなかったので踵は潰したままで玄関を出てしばらく歩いていた。すると彼女から「ちゃんと靴履けた?」と母親のように言ってきたのを覚えている。そういう洞察力というのは介護をする上で必要なのだろう。


そうこうしているうちにお互い食べ終えて、ロフトにあるベッドまで登った。俺はその時デスクワークの仕事をしていて腰を痛めていたから登っている最中に先に上にいった彼女から心配の眼差しを向けられた挙句、「本当に登れる?無理そう」などと小馬鹿にされていた。確かにロフトには過去数回しか登った経験がなかったので一抹の不安は消しきれなかったが、なんとか無事に登った俺は勝ち誇ったかのように彼女を見た。いや、登れて当然なんだが。上のスペースは意外と広く、枕二つと小さなテーブル、収納がついていたし男女二人が横になっても十分空きがあるくらいだった。多少そわそわしていると彼女が「じゃあ電気消すね」と言って電気を消したのと同時に俺も眼鏡を外した。

横になっていると彼女の方からくっついてくる。

そこにあるリアルな温もりとは相反するかのようにやはり実感が沸かない。3年前によく話していた。彼女が甘えん坊で一緒にいる時は殆どくっついていないと嫌だということを。そんなことを思い出しながら、俺は彼女の肩に手を回す。空いた左手を彼女に掴まれ、彼女がその左手を自分の頭で上下させる。つまりはよしよしをして欲しいということだ。わかったわかった、なんて言いながら頭を撫でた。可愛らしいはずなのに、この行動で俺は思いだしたくない過去を思い出してしまったがその時は当然それは内緒だった。

こうして寄り添いあっていると色々な思い出が浮かんでくる。3年前の俺達に愛があった?と聞かれれば間違いなく俺はYESと答えるであろうし、付き合ってた?と聞かれればそれは分からないけどお互い相思相愛だったのは事実だ。喧嘩もしたし思いを伝えあったりもした。会いに行こうともしたし、彼女も東京に何回か来たこともあった。でも俺達は一度も会わなかった。そして3年が経った今、彼女は俺の腕の中にいる。

でも、そういう気持ちを言葉にすることは出来なかった。もし、言ってしまったら今、現在を取り巻く彼女の環境を壊してしまうような気がしたからだ。

そのせいもあってこのまま若い男女が一緒に寝て何もないわけがない、そう思っていたが俺はキスすら出来ずにひたすら彼女の頭を撫でていた。思いや考えを巡らせ、まるでそれが彼女に伝わっているかのように俺は言った「俺達も大人になったってことだよな」そう言うと彼女は「私はまだ子供だよ」と答えた。どういうつもりで言ったのか分からない。でも少なからず俺がその時に何を考えていたのか分かっていたのかもしれない、もしくは彼女も似たようなことを考えていたのか、どちらにせよ彼女はそう言った。私はまだ子供だと。


「大人」というフレーズに逃げ道を作っておきたかったのかも知れない。それが免罪符になればと願うかのように。いつから俺はこう打算的な考えをするようになったのだろうか。恋は直球勝負、CDに書かれていたら今時の女子高生でもジャケ買いはしなさそうだが大真面目な話、それが清い在り方だろう。

白か黒か分からずグレーにしておくのが大人なら俺は大人にはなりたくなかった。ただ現にこうしてそう言った俺はもう過去には戻れないのだろう。そう、3年前には。

急にこみ上げるこの説明の出来ない想いを打ち消すがごとく俺は彼女を強く抱き締めた。そしてキスをした。少し戸惑った彼女も受け入れるかのように自身を突き出す、絡まり合う舌先がお互いの存在理由、存在を求めあっているような気がしていた。


そして俺たちはお互いを確かめ合うかのように求めあい果て、やがてまどろみ眠りについた。


気づけば外が明るくなっていて先に起きたのは俺だった。彼女はまだ隣で可愛らしい寝顔を見せている。

俺は連休を取っていて今日の夜の便で東京に帰る予定だったが彼女は学校があるようだ。その間は、外に出るなり観光する予定でいた。学校が夕方に終わってそのあとで軽くご飯を食べてから帰ろうかな、という話だった。その筈だったのだが、ロフトから下りて準備して着替えた彼女が携帯を開きながら「ごめん、今日会議に参加しないといけなくなっちゃった」といった。

寝ぼけたままの頭では彼女が何を言っているかが分からなかったが、少し考えてつまり「今日は学校が終わった後に時間がない」ということだろう。

突然お別れを告げるなんて反則だろ、俺はそう思い咄嗟に携帯を開いてJALの最終便の時間を調べた。

次の日が仕事なので19時位の便で帰ろうと思っていたが、21時位の最終便なら、と思ったからだ。しかし彼女は「学校の後は、友達の誕生日会があって…。本当は昨日のはずだったんだけど無理言ってずらしてもらってて、ごめんね本当にごめん」そう言われてしまって俺は全てを理解した。そうか、無理させてしまってたんだな、と。

「分かった」そう首を縦に振った俺がどんな顔をしていたのか分からない。でも少なくとも笑顔ではなかったことは確かだ。ロフトから俺は彼女を見下ろし、彼女は俺を見上げる。そんな春麗らかな午前8時。

少し見つめあい、彼女が切り出す「じゃあ…いってくるね。鍵は閉めないで…えっ?本当にいいの、大丈夫だから。あ、でもキッドが外に出ないようにリビングのドアはちゃんと閉めてね。まだ寝ててもいいから、じゃあね」

注意事項だけ言って彼女は小さく手を振って出ていった。


パタパタと足音がして玄関で彼女がブーツを履くを音が聞こえる。安いドアの音がして外のコンクリートを歩く音、鉄筋の階段を下りていく音がしだいに小さくなり認識できなくなった時に俺は不意に込み上げる寂しさに何故か涙していた。

「さて、行くか」事情が事情にしても遠路はるばる来て取り残されている今この状況を半ば自嘲するかのように呟いた。そしてロフトを下りた先で待っていた彼女の彼氏であるキッドに俺は言う。さっき泣いたのは俺とお前だけの秘密だから彼女に言うんじゃないぞ。そういうとキッドは首をかしげた。頭をくしゃくしゃと撫でて嫌がるキッドを見てから俺は満足して、着替えて彼女のアパートを後にした。


今でも鮮明に思い出せる。ロフトから俺を見上げる彼女の顔を。あの時何故溢れ出す涙を止めることが出来なかったのか、自分でもわからない、でもこうして3年越しに会えたのに、会おうと思えば会える距離であることを3年かけて実証したのに、その実感を超える位に予感したのだ。それが最後に俺が見る彼女の姿になるのだ、と。


そしてその予感が的中することになるのを知るのは春が終り、夏になる前の梅雨の時期だった。

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