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アキドル!  作者: パンケーキ
1章
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1章⑥

「おかえりなさいませ、ご主人様、お嬢様♪」


 店内に入ると、メイド服を着た店員が満面の笑みと猫なで声で迎えてくれた。

 「2名」と応えると、店員は「こちらの席へどうぞ♪」と言って入り口近くのテーブル席へ案内する。


 ぱっと見た感じ、豪華な装飾にどこか高級感のある店内である。

 俺は妙に納得しながら、案内された椅子に腰かけた。

 ん、何だ?座り心地があまり良くないぞ、これ。

 座面のクッションが中綿が潰れており、座っただけでべちゃんこになっていた。

 改めて店内を見る。

 壁や天井などの豪華な装飾とは裏腹に、テーブルやイスは如何にも安っぽい造りである。

 頭隠して尻隠さずとは、まさにこのことである。


「リンちゃん、週末ライブはもちろん出るんだよね?」

「あーん、私も参加したかったんだけど、その日は用事ができちゃったの」


「ご主人様、アキドルにはぜひ『@LICE』を応援してね♪」

「もちろんだよ。俺、応援するから今年も絶対に優勝してね」


 他の客は椅子のことなんてまったく気にせず、女性店員と楽しそうに談笑していた。

 最近は女性をターゲットにしたメイドカフェもあるらしいが、『@M@ID』というメイドカフェは明らかに男性をターゲットに絞った店なのだろう。

 その証拠に、店内における男性客の割合が圧倒的に高いのは火を見るよりも明らかだ。

 しかも、驚くべきことに店内はほぼ満席状態である。

 さすが『アキドルGP』で優勝した店だけあって、『純風』より遥かに客入りが良いみたいだ。


「ねえ、晶」

「何だ?」


 同じく店内を物珍しそうに物色していた明が口を開いた。


「メイドカフェって、みんなこんな感じなの?私、メイドカフェって初めてだからよくわからなくて」

「そんなの知らん。俺だってメイドカフェに入ったことなんてないからな」


 「そうだったの?」と、明は意外そうな顔をした。


「てっきり、あんたは硝子さんの手伝いで、メイドカフェに行ったことがあると思ってたわよ」

「確かに、姉ちゃんは『アキログ』の取材でメイドカフェに何度か行ってるけど、俺は姉ちゃんについて行ったことなんて一度もない。だから、メイドカフェに入るのは今回が初めてだ」


 「ふーん」と言って明は素直に納得していた。


「ご主人様、お嬢様♪ご注文はお決まりでしょうか?」


 店員が注文を取りに俺たちの席までやって来た。

 明はメニュー表に視線を落としたまま、店員に向かって口を開いた。


「すみません。何かオススメってありますか?」

「でしたら、ラブデコフルーティパフェがオススメですよ♪」


 何だ、その身悶えたくなるようなメニューは!

 興味津々な様子で尋ねた明に向かって、店員は恥ずかしげもなく笑顔で答えた。


「おい、明。何だそのメニューは?」

「これのことだよ」


 明がメニュー表を指差した。

 指差したメニューには店員が言った名前と写真が映っていた。

 細長いグラスの上にはありとあらゆるフルーツが積まれており、さながらスカイツリーのようである。

 うわー、見ているだけで胃がもたれてきそうだぞ。

 こんなの頼む奴っているのか……。


「大人気メニューで1日限定10食しか出ないんですよ♪」

「ねえ、限定10食だって。どうする?」

「コーヒーで」


 迷わず即答。

 そんな罰ゲームみたいなデザート。例え空きっ腹でも、頼むわけがない。


「コーヒーと一緒にフルーツケーキはいかがですか?」

「いえ、結構です」

「それとも、愛情たっぷりのカレーライスはいかがですか?」

「いえ、遠慮しておきます」

「お腹が空いたご主人様のためにデミハンバーグプレートもご用意していますよ♪」


 マジでコーヒーだけお願いします。

 さっきからコーヒーと言っているのに、何で色々と勧めて来るんだよ!


「えー、コーヒーだけなんですかー?ヒナ残念」


 なんだよ残念って!

 店員ヒナはわざとらしく残念そうな顔をしながら猫なで声で言った。

 店員の仕草に思わず顔が引きつるのがわかる。

 一方、店員の態度に驚き一つ見せず、メニューに視線を落としたまま明は口を開いた。


「うーん。私はアップルティーとネコニャンデコットケーキっていうのにしようかな」

「ありがとうございますニャン♪」


 おい、ちょっと待て!

 いま語尾になんか変なのがついていなかったか?

 注文を受けたメイドさんはキッチンの方へ戻って行った。


「なあ、明。いま絶対に語尾になんかついてたよな?ニャンとかワンみたいな……」

「メイドカフェなんだから、語尾に何かつくのは当然じゃないの?」


 明は何の疑問も抱かずにしれっとした顔で言った。

 そう、なのか?

 俺が間違っているのか?

 いや、どう考えても間違っているのは俺じゃないだろう!


 他の席では、店員と客が楽しそうに談笑している。

 注文の品が来るまで特にすることがない。何気なくメニューに目を通してみた。

 ふむふむ……コーヒー一杯580円か……って580円!!

 思わず吹き出しそうになった。


「な、なあ、明」

「どうしたのよ?」

「コーヒー1杯580円って、いくらなんでも高すぎるだろう」


 『純風』のコーヒーが200円だから、およそ2倍以上の値段である。

 いくらなんでも高すぎるだろ。

 メイド抜きでいいなら、うちの店に来いと言って回りたいくらいだ。

 まあ、ここに来ている奴らはメイド目当てだから、コーヒーなんてメイドと話すためのおまけ程度にしか考えていないのだろう。

 でも、やっぱり納得いかねえ。

 580円ってさ、駅前でハンバーガーにポテトとドリンクのセットが頼めるぞ。


「普通の喫茶店より少し割高って感じね」

「だろ?」

「でも、強気な価格なのに、店内はほぼ満席よ、満席。正直すごいと思わない?」


 明は『満席』の部分を強調しながら言った。


「そりゃあ、ウチと違って可愛い子が揃ってるんだ。多少値段が高くても客を集めることが出来るんじゃないのか?」

「それは遠まわしに『純風』の女の子は可愛くないって言ってるの?」

「お前、まさか自分のこと可愛いって思っているのか?毎日きちんと鏡は見ているのか?」

「な、なんですって!」


 怒った明はメニュー表を持っている手を振り上げた。


「お待たせしました♪こちらコーヒーとミルクティー、ネコニャンデコットケーキになりますニャン♪」


 ほら、やっぱり言ってるよ!

 メイドなのに語尾がニャンって、明らかにおかしいぞ。

 一昔前に語尾がニャンっていうメイドが登場したアニメがあったけどさ……。

 それはアニメだから許されるのであって、リアルで聞くとやっぱりおかしいよ。


 明はばつが悪そうに、メニュー表を振り上げた手をゆっくりと降ろした。

 メイド姿の店員は、俺の悩みなど気にも留めずに注文の品をテーブルの上に置いた。


「晶、見てみて。パンケーキの上にネコちゃんが描いてあるよ」


 パンケーキの上には生クリームとチョコレートで可愛らしいネコが描かれており、皿の縁にはチョコレートで『ニャン♪』と書かれていた。


「あのう、この店って去年アキドルGPで優勝したお店ですよね?」

「そうですニャン♪」


 店員は壁に貼ってあるポスターを指差しながら、自慢げに胸を張った。

 「@LICE」と文字が書かれたポスターには、5人組の女の子がマシンガンを片手に持ちながらポーズをきめていた。

 なるほど、確かにメイドとマシンガンだ。

 俺はポスターを見ながら妙に納得してしまった。

 でも、あのとき店員さんが言った最後の『カーニバル』は、どういう意味なのだろう。


「去年の第9回アキドルGPで、見事、栄えある優勝に輝いた『@LICE』ですニャン!」

「やっぱり、ポスターを見てひょっとしたらって思ったのよ」


 明は納得したようにうんうんと頷いた。


「ひょっとして、ご主人様たちがお店にいらっしゃったのは、ライブ目当てなのかニャン?」

「ライブ?」

「はい♪毎週日曜の午後には、ミニライブもやっているんですニャン♪」


 アキドルGPに優勝するような店はライブをやったりするのか。

 じゃあ、奥の方にある『あれ』はステージということか?

 店の奥にある、小さな簡易ステージに視線を向けた。

 ステージは簡素な造りだが、真上にはスポットライトやミラーボールといった立派な照明設備が備えつけられていた。。

 さらには、壁際にはライブ用の大型スピーカーも設置されていた。


「うわぁ、すごいねー」


 明はステージを見て、思わず驚きの声をあげた。


「今週の土日もミニライブをやりますので、ぜひ遊びに来てくださいニャン♪」

「ねえ、晶。今度の土日にライブやるって」


 まさかライブを見てみたいとかいいだすんじゃないだろうな?

 残念だが、土日は俺もお前もシフトが入ってるから無理だぞ。


「そっか、残念だな」


 でもまあ、アキドルGPで優勝したアイドルのライブがどの程度のものかちょっとは興味あるけどね。

 俺はゆっくりとコーヒーに口をつけた。


「っ!」


 思わずコーヒーを噴出しそうになった。


「ど、どうしたの?」

「い、いや、何でもない……」


 何だこのコーヒーは?!

 香りは悪いし、味もうすい。インスタントコーヒーじゃねえのか、これ!

 これで580円って、明らかに詐欺じゃねえか!

 『純風』のコーヒーの方がずっと美味しいぞ。


 ってそういえば、ここに来たのはそんな理由じゃない。


「すみません、ちょっとお聞きしたいことがあるんですけど」

「はいはい、なにかニャン?」


 もう語尾にニャンはいらないから。


「この店にカノンって子は働いていませんか?」

「カノンちゃん、かニャン?はい、確かに働いてますニャン♪」


 どうやら、彼女は『@M@ID』の子で間違いないらしい。


「ひょっとしてご主人様、カノンちゃんとお話しがしたかったのニャン?でも、カノンちゃん、ご主人様たちと入れ違いでビラ配りに行っちゃったんですニャン」

「え、そうなんですか?」


 どうやらタイミングが悪かったようだ。


「ところで、晶。あんたの持ってた名刺に書いてあったカノンって子、その子と知り合いなの?」

「まあ、そういうところだ」

「どこで知り合ったのよ」

「変な奴らにからまれているところを助けた」


 俺はコーヒーをもう一口飲んだ。


「晶、どうするの?その子が戻って来るまでここで待ってるつもり?」

「そうだな。それが一番確実だと思う」


 まあ、ビラ配りだけならここでコーヒーを飲みながら時間を潰していればいいよな。


「あ、忘れていたニャン。当店は1時間1オーダー制になっているニャン♪」


 おい、何だよそれ!

 そんな話は聞いてないぞ!

 そういうことは普通、最初の注文を取るときに言うべきことだろうが。

 しれっとした顔で言わないでくれ。

 俺は慌てて財布の中身を確認する。

 500円硬貨が1つと100円硬貨が3つのみ。今月はいろいろと出費があったから懐が寒い。

 こんなことなら店に入る前に銀行へ行っておけばよかった。

 それから、俺たちは1時間ギリギリまで粘ってみた。しかし、彼女が店に戻って来ることはなかった。

 当初の目的が未達成のまま、俺と明は『@M@ID』を後にした。



  ♪ ♪ ♪



 吹き抜ける生暖かい風がとても心地よい。

 時折、体育館の中から掛け声が響いてくる。

 大方、バレー部かバスケ部あたりが夏の大会に向けて練習に励んでいるのだろう。

 体育館裏はちょうど日陰になっており、教室にいるよりも涼しく感じる。

 あたりに人の気配は全く感じられない。

 まあ、体育館裏にいるのだから当然と言えば当然か。

 吹き抜ける風が『彼女』の髪と木々を揺らした。

 今、この場にいるのは俺と『彼女』の二人だけである。


「それで、私をこんなところに呼び出して、相模くんはどういうつもりなのかしら?」


 風になびく前髪を抑え、俺の顔に目を据えたまま、腹の内を探るように笹川さんは言った。


「ここの方がいいかなと思ったんだよ」

「……どうしてかしら?」

「個人的見解」


 要領を得ない俺の返答に対し、笹川さんは怪訝な顔をしてみせた。

 いや、そんな警戒しなくてもいいんだけどな……。

 別に取って食おうとか、そんなつもりはまったくないし。

 放課後になった途端、俺は明に気づかれぬようにこっそりと教室から抜け出し、笹川さんをこの体育館裏へ呼び出した。

 笹川さんをこの場所に呼んだのは理由がある。

 他の場所だとまずい。

 俺自身ではなく、彼女にとって非常にまずいからだ。


「まさかとは思うけど、こんなムードのないところで愛の告白なんてしないわよね?」

「ないない」

「そこまで力いっぱい否定することはないんじゃない?」

「す、すまん」


 全力で否定した俺に対して、笹川さんは眉をひそめた。


「それで、いったい私に何の用なの?」


 表情を変えず、少し苛立った口調で笹川さんは言った。


「俺が笹川さんを呼んだ理由は、そんな色恋沙汰の話じゃなくてさ……」


 俺はポケットからあるものを取り出し、彼女に見せた。


「これ、返しておこうと思って」

「これって何……っ!」


 俺が取り出したものを見た瞬間、彼女の顔が豹変した。

 苛立った表情から一変、見る見る内に笹川さんの顔が歪み、青ざめていった。

 彼女にしてみれば、愛の告白の方がマシだったかもしれないな……。


「ちょ、ちょっと!どうして相模君がこれを持っているのよ!」


 ぶるぶると肩を震わせながら、酷く狼狽した様子で、笹川さんは俺の持っている黒い手帳を指差した。


 やっぱり、そうだったのか……。

 

 この手帳は、昨日偶然俺が拾ったものであり、『@M@ID』のカノンって子が落としていったものだ。

 とどのつまり、この手帳の持ち主はカノンって子のものであり、カノンの正体というのが……。


「いやー、まさかあのときの女の子が笹川さんだったなんてね。確か、カノンって名前……」

「そ、その名前は言わないでー!」


 体育館の中まで響き渡りそうな声で笹川さんが叫んだ。

 笹川歌乃。歌乃だからカノン。

 なんと安直なネーミングだろう。もう少しネーミングは考えた方がいいと思うよ……。


「まさか学校の、しかもクラスメートに知られるなんて……。恥だわ、屈辱だわ、切腹ものだわ!」


 笹川さんはショックのあまり、地面に膝を突いて負のオーラを放出していた。

 普段の彼女からは想像もできない姿を、俺は目の当たりにしていた。

 彼女にとって、今まで築いてきたイメージが音を立てて崩れ去ったのだから無理もないか……。

 正直言うと、手帳に挟んであった学生証を見たときはびっくりしたね。

 だって、学生証には笹川歌乃って名前と顔写真が貼ってあったんだもん。

 おっかなびっくりで、何度も自分の目を疑っちゃったよ。

 しかし、笹川さんって、よく見ると目元や顔立ちはあのときのメイドにそっくりだ。

 普段、笹川さんの顔をじっくり見る機会なんてないからわからなかったけど、こうやって見ると、実は笹川さんってかなり可愛いんじゃないかな?

 ……きつい性格を覗けば、だけど……。


「笹川さん、バイトのときはポニーテールにしてるんだね?あ、でも目の色が違うけど……」

「カラコンつけてるのよ。そのぐらいわかるでしょ」


 笹川さんは憎々しい口調で吐き捨てるように言った。

 明らかに俺に対して敵愾心を抱いているらしい。


「それで、私がカノンだと知って、あなたはどうするつもりなのかしら?まさかそれを使って、脅迫しようだなんて考えてないわよね?」

「いやいや、別にそんなことしないから」

「今の私がその言葉を信用すると思っているの?」


 俺ってそんなに口の軽い男だと思われているのか?

 なんか笹川さんは猜疑心にとらわれてて、俺の言葉をまともに信じる気はないらしい。

 

「それに、返すだけなら教室で返してくれてもよかったじゃない。わざわざこんな一目のつかない場所で返そうだなんて、何か企んでいるとしか思えないわ」

「まあ、教室でもよかったんだけどさ。笹川さんがあのカノンって子かどうか確認したかった、っていうのもあったから」

「知らなかったわ。相模君って結構イイ性格していたのね」


 それは決して褒め言葉じゃないよな?

 明らかに悪い意味でのイイ性格ということだろう。


「で、ひとまず、それは返してくれるの?くれないの?」


 「どうぞ」と言って持っていた学生証を笹川さんに手渡した。 

 笹川さんはすぐさま学生証をポケットの中に入れた。


「まさかあの笹川さんが、アキドルGPで優勝したお店で働いていたなんてね」

「普段の私からじゃ、とても想像できないかしら?」


 笹川さんが嫌味たっぷりに言った。


「まあね。ひょっとして、去年のアキドルGPに出てたりする?」

「だとしたら、相模君は私のことをどう思うのかしら?」


 いや、正直言って凄いと思うよ。

 もし、口外してもいいのなら、その日のうちに知り合い全員に教えちゃうね。

 うちの委員長の笹川歌乃は、アキドルGPで優勝したアイドルグループ『@LICE』の一員なんだぜってね。

 俺の顔をじっと見つめていた笹川さんは、ゆっくりと息を吐き出した。


「秘密よ。そんなこと、私が教えると思う?」


 いつもの涼しげな表情で、笹川さんはきっぱりと言い放った。

 ですよねー。

 どうやら教える気はないらしい、残念である。


「もういいかしら?」

「あ、ごめん。なんか長話しさせちゃって悪かったね」


 笹川さんはすっかりいつもの調子を取り戻していた。


「もう一度言うけど、私があの店で働いてること、他のみんなには言わないこと、いいわね?」


 命令ですか?

 笹川さんも結構イイ性格しているよ。

 こんな面白い話をみんなに言いふらせないなんて残念だけど、彼女の名誉のためならば、それも致し方ないか。


「言わないよ。約束する」

「……信じていいのね?」

「相模晶、笹川さんの秘密を生涯かけて守ることを誓います」

「そこまで言うなら、とりあえず執行猶予ってことで保留にしておいてあげるわ」


 それだけ言うと、笹川さんは校舎に向かって歩いて行った。

 俺は有罪判決が出た容疑者か何かですか?

 俺はがくりと肩を落として項垂れた。


「そういえば、言い忘れていたことがあったわ」


 顔を上げると、少し離れたところで笹川さんが足を止めていた。

 頬を少しだけ紅く染めて、ためらいがちに口を開いた。


「あ、ありがとう……。助けてくれたことも、手帳をかえしてくれたことも含めてね」

「ど、どういたしまして」

「もし機会があれば、ぜひお店に来てくれる?お礼にうんとサービスしてあげるわ」


 いや、それは遠慮しておくよ。

 俺はあの店にもう一度足を踏み入れる勇気なんてさらさらないよ。

 それに第一、値段の割にコーヒーが不味い。

 あ、でも、ニャン♪って言う笹川さんも見てみたい気もするようなしないような……。

 前言撤回、やっぱり俺は安くて美味しい『純風』の店の方でいい。

 あと二か月で無くなっちゃうけどね。


「そう、それは残念ね」


 俺の顔を見て察したのか、笹川さんは悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 いつもはどこか冷めた感じの笹川さんがこんな表情もできるんだなっと思った。

 人前では決して見せたことのない笑顔に、胸の動悸が早くなった。

 笹川さんは「じゃあね」と言ってから、再び校舎に向かって歩いて行った。

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