1章④
俺たちの通う都立一葉高校は、千代田区東神田にあるごく普通の都立高校だ
告白すれば永遠の愛が約束される桜の木とか、毎日少しずつ髪の毛が伸びている校長の銅像とか、食べれば幸運が降ってくる幻の焼きそばパン、なんてものは一つもない。
そんな神憑り的ものが一つでもあったのなら、この学校も一躍有名になっていたに違いない。
それでも、アキバに近いというだけあって、周辺の高校に比べたら進学希望者はそこそこ多い方だ。
他に『アキバに近い高校』といったら、超がつくお嬢様学校の錦條女学園ぐらいしかない。
一葉高校では、期末考査が終わると終業式まで午前授業のみとなる。
だから、午前中の授業を終えた俺は、下校の準備をしていた。
机の中にある教科書やらノートやらを鞄にしまいながら、この後の予定について考える。
結果、『フェス』跡地に行ってみることにした。
姉ちゃんの頼みごととはいえ、報酬1000円は高校生にとってなかなかの収入だ。
面倒事は早めに片づけておくに限る。
そうと決まれば、早速ジャンク通りに行くとしよう。
「ねえ、晶」
明が俺の席までやってきた。
こいつとは同じクラスなので、嫌でも顔をあわせることになる。
「なんだ?」
「授業も終わったことだし、早く『純風』に行くわよ」
「『純風』に?今日はシフト入ってないだろ?」
「晶、昨日わたしが話したこと。まさかもう忘れたの?」
明はやれやれとため息をついた後、腰に手を当てて呆れた顔をしながら言った。
失敬な。ちゃんと覚えているぞ。
すっかりと忘れていると思っていたのだが、明の奴、ちゃんと覚えていたらしい。
どうする、俺?
心の中で自問自答。
迷うことはない。
姉ちゃんの用事>明の用事。すでに不等式は成立していた。
「悪いな、明。今日は大事な用事ができたんだ」
「用事って何の?」
「姉ちゃんの仕事の手伝い。俺にとって、姉ちゃんの仕事は最優先事項である」
「じゃあ、硝子さんの頼まれ事が片付いてからでもいいわ。それなら問題ないでしょ?」
「お前一人で『純風』に行くという選択肢はないのか?」
「とにかく、晶も一緒に『純風』へ行くの。わかった?」
面倒臭そうにしている俺に向かって、明はきっぱりと言い捨てた。
「秋星さん。ちょっといいかしら」
間に割って入るように、ポニーテールにハーフリムのメガネをかけた女子が俺たちの方へ近づいてきた。
「さ、笹川さん。な、何か用?」
笹川歌乃。
俺や明と同じクラスメートであり、このクラスの学級委員を務めている。
少々きつい性格だが、品行方正、謹厳実直な彼女は、まさに正統派委員長を踏襲していると言っていい。
そのため、クラスだけでなく、生徒会や教師からの信頼も厚いのだ。
「秋星さん。あなた今日は学園祭の実行委員会があるはずじゃないの?」
「え、あ、あれ?そ、そうだっけ?」
「実行委員のあなたが、まさか忘れていたわけじゃないわよね?」
笹川さんの冷たい視線がグサグサッと明に突き刺さった。
「え、そ、それは、その……」
明は困惑した表情で視線を泳がせている。
「秋星さん、まさか本当に……」
「大丈夫!覚えてる、ちゃんと覚えてるよ!」
冷水を浴びせるような笹川さんの口調に、明はたじたじになりながらも答えた。
……お前、絶対に忘れていただろ。
如何にも忘れてましたって顔に書いてあるぞ。
「晶、ごめん。委員会終わるまで待っててくれる?」
ここで待てだと?冗談ではない。
お前は放課後という貴重な時間を学校の教室で浪費しろというのか?
アキバが俺の帰りを待っているのだ。俺の財布がかかっているのだ。
悪いけど、俺は帰らせてもらうからな。
「じゃあな明、委員会頑張れよ」
「ちょ、ちょっと晶!」
「それじゃあ、笹川さん。また明日」
「さようなら、相模くん」
俺は二人に挨拶して、そそくさと教室を後にした。
恨むなよ、明。
「こらー!裏切り者ー!」
遠吠えにも似た非難の声が、廊下まで響いた。
♪ ♪ ♪
明を見捨てて学校を出た俺は、ジャンク通り目指して中央通りから蔵前橋通りに向かって歩いた。
神田明神との交差点前で、立ち止まって信号待ちをする。
住吉センタービルの一階にあるイベント会場『ベルサールアキバ』では紳士服の即売会を行われていた。
目の前の大手家電量販店では、タイムセールが始まったらしい。メガホンを片手に、店員が店の入り口で必死に呼び込みをしていた。
少し離れた場所では、メイド服や巫女服、挙句の果てにはアニメのコスプレをした女の子が、笑顔を振りまきながら呼び込みをしていた。
アキバは今日もたくさんの人で賑わいを見せていた。
歩行者用の信号が青に切り替わり、俺は横断歩道を渡る。
そして、横断歩道を渡り切った後、前から大きな紙袋を抱えた女の子が歩いて来たことに気づいた。
身の丈にあわない大きな紙袋を抱えているせいか、足取りはふらふらとしていた。
見ていてすごく危なっかしいな……。
普通、あんなにたくさん買い物する場合はキャリーカーとか使うだろう。
あれは明らかに前が見えていない歩き方だ。
だってほら、俺が前にいることに気づかずに、真っ直ぐこっちへ向かって歩いてきているのが証拠だ。
このまま気づかずに真っ直ぐ進めば、確実に俺とぶつかるだろうな……。
って、このままだと俺にぶつかるよ!
何をボーっと見ているんだ俺は!
慌てて避けようとしたが、時すでに遅し。
紙袋を抱えた女の子は、すでに俺の目の前に迫っていた。
「キャアッ!」
「うおぉ!」
顔面からモロに紙袋とキスしてしまった俺。
そのまま勢いよく、後ろに突き飛ばされてしまい、盛大に尻餅をついた。
女の子の方も俺とぶつかった反動で倒れこむ。
抱えていた紙袋が崩れ落ち、中身が盛大にぶちまけられた。
「す、すみません!大丈夫ですか?」
俺は慌てて立ち上がり、倒れこんだ女の子に手を差し伸べた。
「い、いえ、私の方こそ、きちんと前を見ていなかったせいで申し訳ありません」
女の子は差し伸べた手をとり、ゆっくりと立ち上がった。
よかった。どうやら怪我はしなかったようだ。
立ち上がった彼女はスカートについた埃を払った。
「俺は大丈夫だけど……」
俺は視線を地面に落とす。
地面に滑り落ちた紙袋は、その拍子で真ん中から真一文字に大きく破けてしまった。
ざっと見た限り20冊以上のマンガや小説が地面にぶちまけられている。
女の子は慌てて本を拾い集める。すかさず、俺も拾うのを手伝った。
「あ、俺も手伝います」
「すみません、私がよそ見をしていたばかりに……」
「いや、俺も注意しなかったのがいけないんだし」
「いいえ、前方不注意だったのは私の方で……」
そこまで言った後、彼女は本を拾う手を止めて俺の顔をまじまじと見つめる。
「……あのう、あなたは昨日道を教えてくれた方でしょうか?」
昨日、道を教えた?
彼女の顔をまじまじと見る。
肩にかかるくらいのストレートヘアー。黒い髪がよく似合う女の子だ。
前髪は同じ長さに整えられており、可愛さよりも美しさを思わせる顔立ちにはどこか日本人形を思わせる。
男だったら一度見たら忘れることはないだろう。
「ああ!君はあのときの……」
思わず声が裏返ってしまった。
「はい、昨日は大変お世話になりました」
「い、いえ、どういたしまして」
彼女は深々と頭を下げた。
俺もつられて頭を下げる。
「あのあと大丈夫だった?」
「はい!あなたに教わった通り、無事に行くことが出来ました」
「そっか、それはよかった」
「おっしゃっていた通り、細長い建物でした」
彼女は満面の笑みで言った。
「実は今日も、教えていただいたお店に行ってきた帰りだったのですよ」
彼女はそう言って、拾い集めた本を見せた。
少年誌で連載中のマンガに、ネットでも評判のライトノベル。一昔前に流行したアニメの原作など、嬉々とした表情で本を見せてくれた。
へえ、結構いろいろなジャンルの本を購入しているんだな。
でも、一回の買物でどのくらい購入したんだよ……。
ざっと見た限りで40冊近く。
見た感じからして、俺と同い年に見えるけど、すごい量の買い物である。
「お、大人買いだね」
思わず、頭に浮かんだ言葉を口にした。
「大人買いですか?私まだ16歳なので、社会的には未成年にあたると思うのですけど……」
「ああ、大人がお菓子を大量に購入するみたいに、一度に大量の買い物をすることだよ」
「なるほど、そういうことですか。なんか面白い言葉ですね」
嬉しそうに彼女は微笑んだ。どうやら、俺が言った言葉の意味を理解したらしい。
「ところでさ」
「はい?」
「肝心の紙袋なんだけど……」
俺は彼女が持っている紙袋を指差した。
紙袋は真ん中から真っ二つに裂けてしまい、すでに袋としての機能が失われていた。
「……破れてますね」
「本、持って帰れそう?」
何を聞いているんだ、俺は。
どう考えても無理に決まってるじゃないか。
「た、たぶん大丈夫だと思います」
彼女は集めた本を積み上げてから、持ち上げようとした。
いやいやいや、女の子が持つにはちょっと厳しいよ、それ!
俺の心配をよそに、彼女はビルの様に積みあがった本を懸命に持ち上げようとしている。
「迎えの車まで……もう少しなので、そこまで行けば……手伝ってくれる方もいますので……」
「無理そうなら、その手伝ってくれる人を呼んだ方がいいとおもうけど」
「だ、大丈夫です。これは、私一人でなんとかしますから……」
だから、全然大丈夫そうに見えないよ!
腕がすごい痙攣してるよ!
まるでビルが倒壊する瞬間を間近で見させられてるみたいだ。
あ、危なっかしくて見てられねえ!
「あ、あのさ……」
懸命に持ち上げようとしている彼女に向かって、俺は遠慮がちに声をかけた。
「は、はい、な、なんでしょうか?」
腕を震わせ、顔を少しだけ引きつらせながら、彼女はゆっくりと俺の方へ振りむいた。
「なんか見ていてすごく危なっかしいから、俺も手伝うよ」
「え、で、でも、だ、大丈夫です、か、から」
「いやいや、全然大丈夫そうに見えないよ」
「で、でも、きょ、今日は、時間とか、大丈夫、ですか?」
急がなくて大丈夫なのか、という意味だろうか?
今日は時間がたっぷりあるので大丈夫だ。
それに、可愛い女の子を助けるのは、俺にとって最優先事項だ。
「今日は何も予定はないから大丈夫。それに一人で持つより二人で分けて持てば安全だと思うよ」
「そ、そうですね。それではご厚意に甘えさせていただきますね」
俺は彼女の荷物持ちを手伝うことになった。
彼女の代わりに本を持つと、腕にずしっとした重みを感じた。
け、結構重い……。けど、いつもバイトで大量の買い出しをさせられているんだ。
このぐらいの荷物なら何とか運べるはずだ。
「で、このまま駅まで行けばいいのかな?」
「いえ。あの建物の裏に迎えの車が来ています。ですから、そこまで運んでいただければ大丈夫です」
彼女はUDXを指差した。
よし。UDXならすぐ近くだし、なんとか大丈夫だろう。
俺は本を崩さぬように、彼女と一緒に中央通りを抜けた。
「あ、そういえば自己紹介がまだでしたね。私は楓と言います」
「楓って、苗字?」
「あ、楓っていうのは下の名前です。上は……一条と申します」
「一条楓さん、ね。オッケー、覚えた」
「よろしければ、あなたのお名前も教えていただけますか?」
「俺は相模晶。みんなは晶って呼んでる」
「相模さんですね。はい、覚えました」
と言ったてから彼女はやんわりと微笑んだ。
うーん。一条さんってちょっと変わってる?
話し方がすごく丁寧だし、立ち振る舞いはどこか気品があるよな。
まるで、どこかの良家のお嬢様って感じ?いや、ひょっとしたら、本当に良家のお嬢様なのかもしれない。
でなければ、アキバでマンガやラノベの大人買いなんてしないよな。
「そういえば。あの後、相模さんは大丈夫でしたか?お連れの方はすごく急いでいた様子でしたけど……」
彼女は思い出したように言った。
「ああ、俺とアイツのことなら気にしないでいいよ。ちゃんと、時間には間に合ったからさ」
「そうですか、よかったです。私の道案内をしたせいで、時間に間に合わなかったら、本当に申し訳ないと思っていたんです」
彼女は安心したように言った。
まあ、本当はギリギリアウトだったんだけどね。
UDXの裏まで行くと、黒い車が一台、道路脇に止まっているのが見えた。
一条さんの言っていた迎えの車というのは、あれのことだろうか?
「あの車でいいの?」
「はい、あの車までお願いします」
確認を取ると、、その通りだったらしい。
黒い車に近づくと、車からスーツ姿の男性が出てきた。
スーツ姿の男はゆっくりと俺たちの方へ歩み寄ってくる。
髪はオールバックで、身長は俺よりもずっと高く、足はすらっとしていて長く見える。
俺の身長が168センチだから、180センチはあるかもしれない。
「お疲れ様でした」と言ってスーツ姿の男は上体を約30度傾けた。
「遅くなって申し訳ありません、向井さん」
「いえ」と向井さんと呼ばれた黒いスーツ姿の男性が言った。
一条さんと同じく、上品さと優雅さを備えた立ち振る舞い。そして、キリっとした余裕のある顔立ち。
まさか、これが世に言う『執事』という奴なのでは?
テレビや漫画などではよく耳にするけれど、実物を見たのは初めてである。
「そちらの方は?」と言って体を傾けたまま、向井さんは俺の顔をちらりと視線を送ってきた。
「昨日、私に親切にしてくださった方で、相模晶さんと言います。先ほど、中央通りで偶然にもお逢いして、この荷物を持っていただきましたの」
「そうですか。相模様、一度もならず二度までもお嬢様のためにありがとうございます」
今度は俺に向かって、上半身を30度傾けてからお礼の言葉を述べた。
「い、いえ、困っている人を助けるのは当たり前のことですから」
「相模さん、向井さんに荷物を渡してください」
「は、はい」
俺は持っていた本を向井さんに手渡した。
向井さんは苦も無くそれを軽々と持ち上げて、車のトランクにしまいこんだ。
少しだけ、悔しい気持ちになった。
「さて、それでは私たちはこれで失礼しますね。今日は本当にありがとうございました」
そう言って、一条さんは深く頭を下げた。
「いえいえ、どういたしまして」
一条さんは顔を上げた後、車の後部座席に乗り込んだ。
続いて向井さんが車に乗り込んだ後、リアウィンドーが下がった。
一条さんはリアウィンドーから少しだけ顔を出し口を開いた。
「相模さん」
「はい?」
「相模さんにまたお逢いできるでしょうか?」
「もちろん。一条さんさえよければ」
「でしたら、今度お会いした時、ぜひ『アキバ』を案内していただけませんか?」
「アキバを案内、ですか?」
「はい。あ、もちろん相模さんがよろしければ、ですけど」
俺さえよければって……。
一条さんにそんなこと言われて断る男なんて、誰もいないと思うよ。
「いいですよ。俺、ここら辺にはすごく詳しいんで、今度逢ったときはおすすめのラーメンの店を紹介するよ」
「本当ですか?ありがとうございます」
「それじゃあ、また逢う日を楽しみにしていますね」
俺が快く返事をすると、一条さんは嬉しそうに笑みを浮かべた。
リアウィンドーが閉じた後、彼女を乗せた車が動き出し、そのまま上野方面へ向かって走り去った。
俺は一条さんを乗せた車が見えなくなるまで動かずに見送っていた。