1章⑩
アキバの夜は早い。
日曜の夕方を迎える度にいつも思う。
買い物や遊びに訪れた人々は、歩行者天国が終わる午後5時を過ぎると、ぞろぞろと駅に向かい帰路につく。
そして、午後7時を迎える頃にはどの店も明日に備えて店仕舞いとなるのだ。
もちろん、喫茶『純風』も例外ではない。
午後7時をを迎えた時点でラストオーダーとなり、店内にいる客が帰った時点で閉店となる。
今日は、7時の時点で客がゼロだったこともあって、いつもより早くバイトが終わることとなった。
「あー、今日はなんか疲れたな」
体中の疲れを外へ吐き出すように大きなため息をついた。
更衣室で私服に着替えるながら、休憩後のバイトを振り返った。
午後4時を過ぎた辺りから、ライブ帰りの客がどっと『純風』へ押し寄せてきたのだ。
そのため店内はてんてこ舞いとなり、6時過ぎまで店内を駆けずり回ることになった。
へとへとになるまで働かされたおかげで、足腰がへとへとである。
明日は筋肉痛にならなければいいけど……。
でも、この忙しさも今日限りだろう。
明日になれば、またいつもの閑古鳥が鳴り響く『純風』になるはずだ。
着替え終わった後、更衣室を出る。
階段を下りながら何気なくトゥイッターを起動する。
お気に入りを開くと、バタPの呟きがずらりと並んでいた。
バタP:予約していた海雲工房のMILKフィギュアとうとうゲット!
バタP:このクオリティ、さすが海雲工房。GJと言わずにはいられない。
バタP:これで12600円はぶっちゃけ安すぎっしょ!
バタPの奴、購入したフィギュアを写真で撮ってトゥイッターにアップしているあたり、よほど嬉しいみたいだ。
バタPの呟きに苦笑しながら、他に呟きがないか確認してからケータイを閉じた。
一条第二ビルから出ると、外はすっかり陽が沈み、辺りは暗くなっていた。
先に着替えを終えた明たちが『純風』の前で、何やら話し込んでいた。
「へえ、やっぱりお嬢様は違うわね……。あ、晶」
明は俺が出てきたことに気づくと、手を振ってきた。
「何を話していたんだよ」
「今ね、一条さんの話をしていたの」
「一条さんの?」
「そうよ、。聞いて驚かないでよ。一条さんって、実は帰国子女なんだって」
「へえ、そうなの?」
「はい。私が6歳の頃、アメリカに留学して去年の夏に日本へ戻ってきたんです」
「へえ、そうなんだ」
でも、帰国子女の割には日本語が凄く流暢だな。
あっちに行っても日本語を使っていたのかな?
「そういえば、一条さんってどこの学校に通っているの?」
「はい。神田にある錦條女学園って学校に通っているんですけど、ご存知ですか?」
「き、錦條?!」
「き、錦條だって!」
驚きのあまり、俺と明は思わず声が裏返ってしまった。
「ちょ、ちょ、超がつくくらいのお嬢様学校じゃないか!」
「一条さん、そんな学校に通ってたの?!」
「き、錦條って、そんなに凄い学校なのですか?」
一条さんは俺たちの反応に驚きながら訊き返した。
「凄いなんてものじゃないわよ!」
「少なくとも、私たちみたいな一般人が行けるような学校じゃないわね」
錦條とは、一葉高校と同じアキバの近くにある学校で女子高「錦條女学園」のことである。
アキバがまだ電気街と呼ばれる以前からある歴史のある学校だ。
超がつくほどのお嬢様学校なだけあって、在籍しているのは代議士の娘だったり、社長のご息女だったり、名家のご令嬢だったりと、正真正銘のお嬢様が通うことのできるエスカレーター式の学校である。
明の言った通り、俺たちのような一般人には決して足を踏み入れることの出来ない、雲一つ上にある学校なのだ。
もしかしてとは思っていたけど、一条さんがあの錦條に通っていたとは……。
「す、すみません、私、そういうこと全然知らなくて――」
「い、いや、別に一条さんを攻めてるわけじゃないんだよ」
「でも、錦條って凄いわね。私、クラスの子に錦條の知り合いが出来たって自慢しよ」
いや、そんなどうでもいいことを自慢してどうするんだよ。
まあ、錦條に知り合いができたってだけでも、十二分に自慢できるのは間違いないけど……。
一条さんはケータイを取り出し、時間を確認すると、少し慌てた様子で口を開いた。
「あ、もうこんな時間ですね。みなさん、今日は本当にありがとうございました」
一条さんは俺たちに向けて深々とお辞儀をした。
「一条さんっていつもそんなに堅苦しいの感じなの?」
「え、私ってそんなに堅苦しい印象ですか?」
「うん」
「かなり堅苦しい感じかな?」
「そ、そうですか……」
「あ、別に他人行儀とかそういう意味じゃないんだよ。ほら、私たち、もう友だちなんだし、もっと肩の力を抜いて気楽に接していいんだよ」
しゅんと落ち込んでいる一条さんを見て、明は慌ててフォローした。
「と、友だち、ですか?」
明と灯里先輩は笑みを浮かべながら首を縦に振った。
「そうだ。今度から一条さんのこと、楓ちゃんって名前で呼んでもいいかな?」
「な、名前で、ですか?!」
いきなりの明の提案に、一条さんは少し上ずった声で言った。
「私たちのことも気軽に名前で呼んでいいから。あ、でも一条さんは名前で呼ばれるのは苦手だったりする?」
「い、いえ、そんなことはないです!」
一条さんは首を横に振りながら力一杯に否定した。
「じゃあ、決まりね。今度から楓ちゃんって呼ぶから、よろしくね」
「は、はい。よろしくお願いします――――明さん」
一条さんは照れ臭そうに明の名前を呼んだ。
明と灯里先輩はにっこりと笑顔を一条さんに向けた。
「もう、明ちゃんって結構強引なところがあるんですね」
「一条さん、俺のことも名前で呼んでみてよ」
「さ、さすがに、男の方を名前で呼ぶのはちょっと……」
「まあ、晶は別に名前で呼ばなくてもいいんじゃない」
「晶君。女の子が男の子を名前で呼ぶときは、特別な関係にあるときだけだよ」
な、何なんですか、その訳のわからない理屈は……。
しかもそれだと、明も灯里先輩も俺と特別な関係ってことになるじゃないですかね。
二人の場合、付き合いが長いからある意味特別な関係だとは思うけど……。
どうやら、俺は名前で呼んでもらえそうにないらしい、残念である。
一条さんはがっくりと肩を落としている俺を見ながら、苦笑した。
「さて、私はこれで失礼しますね。みなさん、今日は本当にありがとうございました」
「楓ちゃん、また明日ね」
「おつかれー」
一条さんは軽く一礼した後、中央通りへ向かって歩いて行った。
中央通りの方へ歩いて行ったということは、UDXの裏で向井さんが待ってるのかな?
一条さんの姿が見えなくなると、灯里先輩は俺の方へと振り向いた。
「晶君、この後お父さんのところに行くんだよね?」
「はい、まだお店は開いてますよね?」
「うん、たぶん大丈夫だよ」
「あれ、晶は灯里の店に行くの?」
「ああ。姉ちゃんの注文したパソコンを受け取りにな。お前もついてくるか?」
「私?」
明はほんの少し考えてから、申し訳なさそうに手をあわせた。
「私、今日はちょっと予定があるから遠慮しておく。また今度誘ってよ」
「珍しいな、お前が用事なんて」
「ちょっとね、色々とやりたいことがあるから」
明はどこか罰が悪そうな顔をした。
「そっか、明ちゃんならいつでも大歓迎だから、また今度遊びに来てね」
「うん。それじゃあ二人とも、またね」
俺たちに手を振りながら、明は昌平橋通りに向かって歩いて行った。
あれ、帰り道とは逆方向だよな?
アイツ、何でお茶の水方面に向かって行ったんだろう。
「灯里先輩。明の奴、帰り道が逆ですよね?」
「そうだけど、どうかした?」
「いや、アイツの言ってたやりたいことって何のかなって」
「ひょっとして、晶君、明ちゃんのことが気になるの?」
灯里先輩は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「い、いえ、別に他意はないですよ。先輩、からかうのはやめてください」
「ごめんごめん。さて、私たちも行こうか?」
灯里先輩は中央通りに向かって歩き出した。
俺も先輩の後を追って歩き出した。
♪ ♪ ♪
一条さんが『純風』で働き始めてから次の日。
学校帰りに暇を持て余していた俺は、ヨドカメにある通信広場まで来ていた。
通信広場では子どもから大人まで大勢の人が携帯ゲームを持って集まり、暑さなど忘れたかのようにゲームに集中していた。
この暑い中でよくゲームなんかできるな……。
半ば呆れた気持ちで彼らを見てから、駅の中央改札口に視線を向ける。
中央改札口から少し離れた場所では、ユニ&エミが路上ライブを行っているのが見える。
二人は暑さを吹き飛ばすくらいの勢いで、精一杯踊り、うたっていた。
喉が渇いたので俺は広場に設置された自販機でペットボトルのお茶を購入した。
さて、今日はバイトはないし、どこで時間を潰そうかな。
「あら、誰かと思えば相模君じゃない」
お茶を取りだしながらこの後の予定について考えていると、不意に声をかけられた。
「こんにちは、相模君」
声がした方を振り向くと、ヨドアキ前の通信広場に似つかわしくない人がベンチに座っていた。
「やあ、笹川さん」
クラス委員長の笹川歌乃はいつものように涼しげな表情で通信広場のベンチに座っていた。
「奇遇ね。こんなところで会うなんて」
「そうだね。あ、隣、座ってもいいかな?」
「ええ、どうぞ」
俺はお言葉に甘えて笹川さんの隣に腰かける。
ベンチに座るとき、笹川さんの髪からふわっと柑橘類の香りがした。
「今日は秋星さんと一緒じゃないの?」
「アイツなら、今日はバイト」
今日のシフトは明と原垣内、それと一条さんの三人だったはず。
今頃は『純風』で汗水たらして働いてるのだろう。
……客がいればの話だけど。
「笹川さんこそ、こんなところで何していたの?」
「別に何も。バイトまでの時間つぶしに、ここでぼうっとしていただけよ」
俺の質問に笹川さんはミネラルウォーターを持ち上げながら素っ気ない態度で答えた。
しかし、俺には笹川さんが中央改札口の前で歌っているユニ&エミをじっと見据えていたように見えた。
まさか、ここから二人のライブを見てたとか?
……いや、そんなわけはないか。
ペットボトルのキャップを外して、お茶を飲みながらユニ&エミを遠巻きに見る。
ちょうど、ライブが終わったらしく、二人は撤収の準備をしていた。
お、ウチの学校の生徒が二人に話しかけているぞ。
ライブを見物していた一葉高校の生徒がユニ&エミに話しかけた後、鞄から手帳らしきものを手渡した。
ユニ&エミは手帳に何かを書き込むと、手帳を生徒に返した。
ああ、なるほどね。サインをもらっていたのか。
サインをするなんて、ユニ&エミは結構人気があるんだな。
「そういえば、日曜日ことなんだけどさ」
「日曜日?」
「うん。日曜日にベルサールアキバで合同ライブがあったよね?」
「ええ」
「そのライブに『@M@ID』の『@LICE』も出たんでしょ?」
「そうだけど……相模君、ひょっとしてわざわざライブを見に行ったの?」
「別に見に行ったわけじゃないよ。たまたまベルサールアキバを通ったら合同ライブがやっていたのを見たんだ。凄い盛り上がってたね。俺、アイドルの生ライブとか見たことなかったから驚いちゃったよ」
なんか一方的に話しているみたいで、すごく気まずいんだけど……。
気が付くと、笹川さんは両手でジュースを握りしめたまま、視線を地面に落としたまま微動だにしなかった。
あれ、笹川さん、何か怒ってない?
まさか俺、地雷を踏んじゃったとか?
そんなことを考えていると、笹川さんはおもむろに鞄を持って立ち上がり、持っていたジュースをゴミ箱に入れた。
「私、そろそろバイトの時間だから」
「あ、うん」
笹川さんは目の前の横断歩道に向かって歩き出した。
うーん、やっぱり俺、笹川さんを怒らせたかもしれないな……。
気に障るようなことを言ったつもりはないんだけどな……。
自分に非はないと思いつつも、このままじゃ不味いと思い、俺は空になったペットボトルをゴミ箱に入れて笹川さんの後を追いかけた。
駅の中央改札口横を通って、電気街へ通じる東西通路を抜けたところで笹川さんに追いつくと、
「どうして相模君がついてきてるのかしら?」
笹川さんは後ろを振り返らずに訊いてきた。
「ひょっとしてマズイこと言っちゃったのかなって思ってさ。気を悪くしたなら謝るよ、ごめん」
「別に、特に気にしてないわ」
笹川さんは素っ気なく答えた。
なんか棘のある言い方だよ……。
本当に気にしてないのかな?
「私、日曜日の合同ライブには参加してないから、どのくらい人が見に来たとかまったく知らないのよ」
「参加しなかった、って体調でも崩したの?」
笹川さんは口を閉ざしたまま、俺の問いには答えなかった。
しばらくの間、俺と笹川さんの間に重苦しい雰囲気が漂う。
ラヂ館跡地前を抜けて、総武線高架下の横断歩道を渡ったところで、笹川さんはようやく口を開いた。
「そういえば、私が『@M@ID』で働いていること、他の誰にも言ってないのね」
「他のみんなにはバラさないって言ったからね」
「最悪の場合、クラスのみんなに知れ渡るんじゃないかなって、予感はしていたんだけど」
「俺、そんなに口の軽い男に見えるのかな……」
もし見えるとしたら、ちょっと――いや相当ショックだな。
「そうじゃないけど、あなたがうっかり秋星さんにしゃべったり、私と相模君が話していたところを誰かに見られたりして学校中に噂が広まるって可能性だってあったでしょ?」
そうかもしれないけど……。
うーん、笹川さんって意外と心配性な性格なんだな。
そもそも、校内でも堅物で有名な笹川さんが、メイドカフェで働くばかりかアキバ系アイドルをやっているなんて話、誰も信じるわけないと思うんだけど……。
何で笹川さんは『@M@ID』で働いていることを秘密にしたいんだろう。
ウチの学校、別にバイト禁止ってわけじゃないし、他のクラスには笹川さんみたいにメイドカフェで働いている子だっていると思うけど……。
気になった俺は、笹川さんに訊いてみることにした。
「どうして笹川さんは『@M@ID』で働いていることを秘密にしておきたいの?」
「そんなの決まってるじゃない。私がメイドカフェで働いているなんてことが学校中に知れ渡ったりしたら、今まで必死に築いてきたイメージが崩れちゃうじゃない。私、学校では優等生でいようって心がけているから」
「あー、そういうこと。笹川さんって、結構そういうの気にしているんだ」
「気にするに決まっているじゃない」
「でも、秘密にしてまでやりたいってことは、ひょっとして笹川さんはアイドルとか目指してたりするの?」
一瞬、笹川さんの顔が強張った気がした。
「もし、そうだと言ったら、相模くんはどう思う?」
「ど、どうって言われても……」
「いい年して、私みたいな人間が子どもみたいな夢を追いかけてるなんて、おかしいって思う?」
笹川さんはまるで自分がアイドルを目指すのは間違っていると、自嘲するように言った。
「思わないよ。むしろ、尊敬するかも」
「そ、尊敬って、そんな大袈裟なこと言わないでよ」
俺の言葉に笹川さんは少しだけ驚いた表情を見せた。
「だって、今の俺には思い描いた夢とか、明確な目標なんて何もないからさ……。だから、夢に向かって頑張っている人を笑うなんてこと、俺には絶対できないよ」
笹川さんは口を挟まずに、静かに俺の言葉に耳を傾けていた。
「相模君、あなたって見かけによらず、結構紳士的なのね」
笹川さんは表情を和らげ、からかうような笑みを見せた。
「さて、もうちょっとお喋りがしたかったけど、今日はこのぐらいにしておきましょうか」
気がつくと、俺たちはすでに『@M@ID』が入っている雑居ビルの前まで来ていた。
「相模君とお話するのは面白かったわ。また今度、お喋りに付き合って頂戴」
「あ、ああ。俺でよければ……」
「楽しみにしているから」
笹川さんは学校では決して見せることのない笑顔を見せた後、雑居ビルの中へ入って行った。
♪ ♪ ♪
笹川さんと別れた後、俺はジャンク通りで適当に時間を潰してから、『純風』へと向かった。
「いらっしゃい」
入り口のドアをくぐると、男子用の制服を着た原垣内が出迎えてくれた。
「原垣内」
「なに?」
「お前さ…………いや、何でもないや」
すっかり男子用の制服姿が板についてきたな、って言おうと思ったけど、やめておくことにした。
「なんだ、相模も来たの?」
レジでアイスコーヒーを注文したところで、カウンター席に座っていた番田が声をかけてきた。
「あんたもヒマだね。バイトがない日までここへ来るなんてさ」
「お前こそ、暇さえあればいつもゲームしているじゃねえか。どうせいつもの『VR-EX』でもしていたんだろ?」
俺は呆れ顔の番田に対して、眉をひそめながら言い返した。
「別にいいじゃない。このゲームを極めるのがあたしの生きがいなんだよ」
たかがゲームのくせに、生きがいなんて言葉を口に出すなよ。
それに、もうちょっとマシな生きがいを見つけた方がいいと思うぞ?
やれやれとため息をついてから注文したアイスコーヒーを受け取って、番田と同じカウンター席に腰かけた。
「あら、晶君も来てたんだ」
テーブル席の方を振り向くと灯里先輩が座っていた。
どうやら、俺と同じく客として『純風』に来たらしい。
テーブルの上には、ミルクティーと作りかけのコス、そして先輩特製の裁縫セットがあった。
「灯里、これでいいかな?」
「あ、ここはね――こうしてから――ここを通せばいいんだよ」
「あ、なるほど。さすがは灯里ね」
先輩の隣に座っていた明が灯里先輩の手元を覗きこみながら、しきりに頷いてみせた。
「おい、お団子地味女」
ジト目で明を睨みつつ、声を低くしながら言った。
「何よ、いま手が離せないから後にしてくれる」
「手を離す云々の前に、なんでお前は仕事をそっちのけで先輩のコス作りを手伝っているんだよ。お前はバイト中だろうが」
「別にいいじゃない。今はお客さんだって来てないんだから」
明は針を動かす手を止めずにあっけらかんとした口調で言った。
確かに、明の言う通り、『純風』は今日も閑古鳥が鳴いていた。
客と呼べるのは、俺と灯里先輩、そして番田の三人だけだ。
「ごめんね、明ちゃんがどうしても手伝いたいって言うからお願いしちゃったの」
「いえ、先輩は謝らなくていいですよ。悪いのは仕事をほったらかして、コス作りしているこいつですから」
俺はコス作りに夢中になっている明を指差した。
「こんにちは、みなさん」
割って入るように、『純風』の制服を着た一条さんが店の中に入ってきた。
自慢の長い髪を一つにまとめポニーテールにした一条さんはどこか新鮮味があった。
うん、この髪型も悪くない。
むしろ、良いと思う。
「楓ちゃん、こんにちは」
「あら、今日はみなさんお揃いなんですね」
一条さんは店内を見回してから笑顔で言った。
店内には『純風』のバイトが全員揃っていた。
そういえば、こうして全員が集まるのなんて店長の爆弾発言以来だよな。
珍しいことがあるものだ。
「ところで、灯里さんと明さんは何をしているのでしょうか?」
一条さんは明たちに視線を向けながら首を傾げた。
「これ? これはね、夏コミ用のコスプレを作っているの」
「夏コミとコスプレ?」
「夏コミっていうのは、年に二回、東京ビックサイトで開かれる同人誌の即売会のことだよ」
「そういえば、聞いたことがあります。確か、コミケっていうんですよね?」
一条さんの言葉に、灯里先輩は笑顔で頷いた。
「それで、コスプレっていうのはアニメやマンガに出てくるキャラクターと同じ服を着たりして、そのキャラクターに成りきることなんだよ」
「そ、そうなんですか。日本にはそんな文化があるんですね、知らなかったです」
一条さんは妙に納得したように頷いて見せた。
「それで、灯里さんがいま作っているのは、何のキャラクターですか?」
「いま作っているのはね、『ヴァンガード・ファントム』っていうアニメに出てくるヒロイン、ミミットちゃんの変身コスチュームなんだ4」
「ラ、ランガード・ファントムですか?!」
「あれ、ひょっとして楓ちゃん、ランガード・ファントムを知ってるの?」
「も、もちろんです! 毎週日曜日の朝に放送している大人気アニメですよね!」
一条さんは鼻息を鳴らしながら興奮気味に言った。
へー、そんなに人気のあるのか。その『ランガード・ファントム』だっけ?
名前だけなら聞いたことあるけど、日曜の朝はテレビなんてまったく見ないし、よくは知らないんだよね。
「明、お前は知ってるのか?」
「当たり前よ、私は毎週欠かさず見ているわ」
「私や明ちゃんだけじゃなく、彰人や明美も見てるわよ」
「へえ、まさかひょっとして、原垣内や番田も見ているのか?」
番田は首を左右に振った。
「あたしは見てないよ。そういうの興味ないから」
「私は、欠かさず見てる。面白いし、何より主題歌が大好き」
原垣内は淡々とした口調で答えた。
「小夜の言う通り、主題歌もすごくいいよね。確か、ネットでかなり有名なボカロPだっけ? その人が作った曲なんでしょ」
「うん。『キノPO』って人が、作った曲。私、キノPOの曲、大好き」
原垣内は微かに表情を和らげながら言った、ような気がした。
「灯里さん、ミミットちゃんの服が作れるなんて凄いんですね。尊敬しちゃいます」
一条さんは灯里先輩に尊敬の眼差しを向けた。
「灯里はね、コス作りが趣味なんだよ。灯里の部屋には、アニメやマンガのコスプレ衣装がたくさんあるんだから」
「アニメやマンガの衣装がですか?! 凄いですね!」
一条さんは目を輝かせながら言った。
「もしよかった、今度、私の部屋を見に来る?」
「よろしいんですか?」
「うん、彰人や明美のことも紹介してあげたいし、楓ちゃんなら大歓迎だよ」
「ありがとうございます。それじゃあ、機会があったらお邪魔させていただきますね」
一条さんは舞い上がる勢いで喜んだ。
それからしばらくの間、お客さんがいないのをいいことに、明たちはテーブル席に座ってアニメの話で盛り上がっていた。
珍しく原垣内も輪の中に加わり、一緒になって話をしている。
俺はカウンター席に座り、その光景を眺めつつ、のんびりと時間を過ごしていった。
午後4時をまわる頃になって、ようやく入り口のドアが開き、客が来店してきた。
「いらっしゃいま――あれ、硝子さん?」
「おーっす」
客かと思いきや、なんと店にやってきたのは俺の姉ちゃんこと相模硝子だった。
日曜日のときと同じ紺のスーツを着込み、バッチリと決めたメイク姿でドアの前に立っている。
いつもこの時間は取材に出かけているか、愚痴りながら家で記事を書いているはずだ。
何しに『純風』へ来たんだろう。
「姉ちゃん、こんな時間にどうしたんだよ」
「あー、純は?」
姉ちゃんは店内を見回しながら、店長の姿を探した。
「2階で仕事しているんじゃないんですか?」
明が応えると、姉ちゃんは首を横に振った。
「いや、2階に行ったらいなかったのよ。だから、店にいるのかと思って覗いたんだけど……」
「店長なら、日曜市の件で商工会の会合で出かけたよ。まさかとは思うけど、またケンカしてから戻って来るんじゃないかな?」
カウンター席でゲームをしていた番田が言った。
「そうなの?まいったなぁ」
姉ちゃんはため息交じりに肩をすくめてみせた。
「姉ちゃん、何かあったの?」
「実はちょっと、厄介なものを見つけちゃったんだよね」
姉ちゃんはショルダーバッグの中を漁ってから、テーブルの上に置いた。




