投げる者、掴む者
振り抜く左腕から矢のような速球が繰り出される。
キャッチャーミットから響く音は、恐らく間近で聞くと物凄い音量に違いない。
三塁側応援席の後ろの方にいる俺たちのところまで、小気味の良い音が届いた。
未だ衰えぬ剛速球。もう九回だというのに、素晴らしいスタミナだ。
「凄いじゃないか、あの一年坊主。球威が落ちてない」
「豪腕ピッチャーだ。充分褒められるべき内容だがな。欲を言えば――」
感心して呟く俺は、俺たちがいま応援している高校の野球部OBである。元ピッチャー。答える相手は当時俺とバッテリーを組んでいた元キャッチャーだ。
県大会二回戦敗退の俺たちが、目の前で今にも甲子園への切符を掴もうとしている後輩たちを批評するの図はなんだか滑稽だ。
俺は相棒に視線を向け、先を促した。
「強気に攻めるのもいいが、少しだけでいいから慎重さが欲しいかな。八回あたりから、リリースポイントが高くなってきてる。見ろ、球も高めに浮き始めているぜ」
相手チームのネクストバッターズサークルには、四番打者が控えているのだ。わずか一点のリードでは心許ない。
だが俺たちは、思ったことを全て言葉にしない程度には大人になっていた。応援席に居並ぶ熱狂的な観客の手前、気を遣ったのだ。
「甲子園まであとふたり。さすがに緊張してるのかもな」
――ストライクバッターアウト!
相手チームの三番が凡退した。
「これで十七奪三振か! 凄えな、俺の記録の倍を超えたぜ」
俺の八奪三振は、しかし公式試合での記録ではない。単なる練習試合だ。
それをあいつは、高校に入りたてだと言うのに。
「もう充分だ。もし負けても、あいつら全員におごってやろうぜ」
「……」
沈黙する相棒。俺は視線を感じ、相棒を見た。
奴は俺の目を見て呟くように言った。
「あの一年坊主に嫉妬してんのか?」
「は? 何言ってる?」
「あいつらは負けねえよ。試合が終わる前から、負けること考えてんじゃねえよ!」
「――!」
俺ははっとした。
そうだった。俺たちの“夏”が終わったのも、一番の原因は俺のこの気持ちの弱さにあった。
最後の一球――
九回裏、フルカウント。俺は相手の四番打者と対決していた。相手にとっては一打サヨナラのチャンスだ。
「もういいさ。俺は充分にがんばった」
七回にピッチャー返しを右大腿部に受け、スプレーで冷やしながら投げ抜いた。
しかもこの打席、フルカウントになってからもファールで執拗に粘られ、俺は気持ちが萎え始めていた。
相棒がタイムを取り、マウンドに近付いてくる。
「おい。あと一球だ。奴は振り遅れてる。まだ二回戦だぜ、気持ちで負けんじゃねえぞ!」
「そんな風に見えるのか。……っせーな、打たせねえよ!」
こいつを抑えても延長になるだけ。その思いが、俺の投球を雑な物にしていた。それを気遣う相棒を邪険にキャッチャーボックスに追い返した上、相棒のサインさえろくに見ようとせずに俺は投球モーションに入った。
――キィーン!
小気味よい金属音に、一瞬頭が真っ白になる。
肩の力を抜けば最高の一球が投げられると思ったのだが、俺の投げた球は気が抜けたように真ん中高めに入ってしまった。そして、スタンドに運ばれた。
痛恨の一球。しかし俺は、その白球を苦笑いしながら見送った。
ひとりで投げてきたんだぞ。さっき、ピッチャー返しを受けたんだぞ。
力が無いから負けたんじゃねえ。他の投手より過酷な条件で投げてきたんだ。同じ条件なら俺は負けねえ。
言い訳の材料はいくらでもあった。根拠のないそれらの言葉に縋ることの情けなさに気づきもせず、俺は負けてもへらへら笑っていた。心の底では、負けた理由をピッチャー返しのせいにできてラッキーだとさえ思っていたかも知れない。
俺など足元にも及ばないほど過酷な条件にさらされながら、それでも勝ち抜いたピッチャーはいくらでもいるというのに。
俺は勝負を投げてしまったのだ。
この土壇場であれだけのバッティングが出来る四番と対決していたのだから、気を抜くなどもってのほかだったのだ。
ひどい甘えん坊だ。あんな俺、今思い出すと恥さらし以外の何者でもない。
負けた後、言い訳ばかりが口をついて出た。だが、心の中ではいつも試合前の監督の言葉がリフレインしていた。
「試合を投げるな。球を投げろ」
試合後、監督は俺達を労うばかりで、説教じみた言葉は一切吐かなかった。
「……るな」
相棒が球場に向き直る。
力の有無だけでは決まらない。試合に運はつきものだが、運なんてものは自分で切り拓くものだ。何より一番大事なことは。
「気持ちで負けるな! 思い切り行け!」
俺と相棒の声援がひとつに重なった。
――キィン!
相手の四番にも意地があるのだろう。打ち取ったかに見えた打球はイレギュラーなバウンドをして、内野安打となった。これにはさすがに運の悪戯を感じずにはいられないが、相手にとって見れば四番打者の強い気持ちが呼び込んだ幸運なのかも知れない。一塁側応援席は俄然盛り上がった。
「見ろよ、あの一年坊主の目」
相棒に言われるまでもない。
あの時の俺が持っていなかったものを、あの一年坊主は持っている。ニヒルなふりをして苦笑いなどせず、キャッチャーのサインに鋭い視線を向ける。決してあきらめず、極限まで集中している目。
もう、絶対に打たれない。
その視線には金属バットにさえ穴を穿つかと思わせるほどの力がこもっており、言葉より雄弁に投手の決意を物語る。
あいつなら、甲子園常連の強豪校二年・三年の選手たちを相手に一歩も引けをとらないピッチングを披露するはずだ。
土壇場で自身の持つ最高のパフォーマンスを発揮できる奴。そんな奴こそが、勝ち進む運を掴むのだ。
あいつは七回以前までのピッチングを取り戻した。
ギリギリまで球を掴むピッチングを。
俺たちが見守る中、あいつは左腕を豪快に振り抜いた。
甲子園への切符をその手に掴むために。