第一話(仮)
その男、33歳独身、フリーター、築33年のアパートに一人暮らし。
好きなこと、映画鑑賞。嫌いなこと、人間関係を築き保つこと。
一日の発言の9割は深夜、コンビニにくる客に対して発する抑揚のない『いらっしゃいませ』と『ありがとうございました』であった。
夜21時半に家を出て22時から朝6時まで働き、家に帰って風呂に入り朝日を浴びながらコンビニ弁当とビール一缶を胃袋につめ夕方まで寝て起きたらレンタルビデオ屋で借りた映画を鑑賞しアルバイト先へ向かう、これが彼の日課であり人生であった。
大学時代に就職活動もそれなりにした時期があった。しかし就きたい仕事がないことや就職に対して意欲がわかないこと、そして人と極力関わらないで生きていきたいと思い結局途中で就活をやめアルバイトに専念するようになった。フリーター生活を送って10年経った今、彼は幸せだった。人との関わりもなく自分の時間も持てる。将来を考えなければ今の彼は誰よりも幸せなんじゃないか、そう思いながら缶ビールを口に運ぶこともあった。しかし至って温厚な性格の彼の日常は平坦で感情を高ぶらせることもない為、彼の感情は手入れのされていない機械のように日々錆びついていき、喜怒哀楽の表現はぎこちなくなっていた。
人との関わりが極端に少ない彼にとっては人とわずかに接した事や会話した事が必要以上に頭に残ることが多かった。アルバイト中、おばあさんに小包の送り方を案内をして感謝された事がその日一日彼の頭を駆け巡り、余り余った脳がおばあさんが放ったありがとうの言葉をリピートさせることもあった。彼の中では無意識に心の磁石がちょっとした出来事にさえ反応し引き寄せて、ひどい時には何気ない客の態度さえ気になってしまいそれが彼を支配した。しかし彼の中ではこれも日常の一つとなり当たり前になっていた。
今日も21時半に家を出てアルバイト先まで向かう。
今度は何を借りてみようか。この前は洋画を見たからたまには邦画もみようか。
そんなことを考えながら機械のようにレジ打ちをする彼の目の前に商品を持った一人の女性が立った。
何気なく女性の顔を見た瞬間、彼は全身に痛みを感じる程の大きな鼓動を一度した後3倍速で心臓が動きだした。
目の前に立っていた女性は彼が33年間で唯一付き合っていた彼女であった。
彼女とは大学1年から卒業するまでの4年間もの間、付き合っていた。今では人付き合いがない彼だが、人に嫌われたくない一心で気のきく優しい人を演じていた彼は大学時代、友達もそれなりにいた。そしてその友達繋がりで知り合った女性が彼女であった。
温厚な彼は彼女と喧嘩をすることもなく仲睦まじく過ごす日々が続いていた。しかし就職が決まり上京した彼女に対し地元でフリーター生活を送る彼は仕事が忙しいであろう彼女に対し連絡を控え、会いたいという気持ちも押さえ、会う約束は彼女から言い出さない限り言わなかった。そんな生活が3ヶ月程続いたある日電話口の向こうで泣きながら彼女が別れを切り出した。まだ彼女に気持ちがあった彼だったが彼女に自分の気持ちを伝えることもなく具体的な別れの理由を聞くこともなく電話を終わらせた。
別れた当初は酷く虚無感に襲われ、何も手につかない時期が何ヶ月か続いた。おそらく就職していたらその無気力さから即座にクビになっていただろう。あれから10年が経った今、TVのCMで彼女に似たタレントを見かけても彼の感情はさほど反応しなかった。
『お箸もらえますか』
骨格も服の系統もより大人びた彼女が言った。
動転した彼は彼女が何を言ったのか聞き取れなかったものの普段の無意識の行動から箸を袋に入れた彼は彼女の顔を見ることなくレジ打ちを済ませた。
『ありがとうございました』
自分だと気づかれないよう声を小さめにし、さらには声を気持ち高めに発した彼だったが彼女の携帯から鳴り響いたJポップの曲がそれをかき消した。電話のようであった。携帯を持つ左手の薬指に指輪をはめているのが見えた。彼女は胸の辺りまで伸びた髪を揺らし誰かと話しながら外へとでていった。
誰もいなくなったコンビニで彼はただ呆然と立ち尽くした。一瞬の出来事のように思えた。
バイト先の人とも積極的に話す方ではない彼が10年ぶりに会った自分をふった彼女に『久しぶり』の言葉をかけられるわけもなく話しかけるという発想さえ湧く事もなかった。
その日のバイト終わり、彼は彼女の事を考えながら帰路についた。家についてからも彼女の事を考えた。少し忘れて飯を食べながらTVを見ていた時にまたあのCMが流れると彼は彼女の事を考えた。次の日バイトがない彼はレンタルビデオ屋で邦画を借りるはずだったがその日は出掛けることもなく気づけば一日中彼女の事を考えた。
何事もなく同じ日々を繰り返していた彼の中へ突如介入してきたこの出来事は彼を静かに混乱させていた。
しかし彼女に出会った事で彼はまた恋に落ちたのでもなく話し掛けなかった事に後悔したわけでもなかった。
お洒落で清潔感のある格好、薬指にはめた指輪、携帯で誰かと話していた時の彼女の明るく楽しそうに喋る声、彼は今の自分を全否定されたような気がしていた。
定職につかずアルバイト生活をしていること
昼夜逆転の生活をしていること
人との付き合いもなく毎日映画ばかり見ていること
夢も希望もなくただ生きていること
今の彼女があまりにも今の自分とかけ離れた世界にいるように思えた彼は幸せさえ感じていたこの生活がどれだけ貧相で辱めのある生活なのかを思い知らされたようであった。たかだか1分ほどのやりとりで会話をすることもなかったがこの1分がこれからの彼の人生を大きく狂わせる根源となるのであった。
その次の日彼はフリーター生活で初めての無断欠勤をした。
続きを書くかは気分次第なのでわかりません。。見て頂いた方からの希望などがあれば書きたいと思います。