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冬晴れのあとで

掲載日:2026/10/04

 




 できれば、こんな日が来なければいいと、ずっと思ってた。





 ***



 今日、三週間ぶりに彼と会う。

 本当はもっと早くに会いたかった。でも、お互い就活や試験で忙しくてなかなか時間が取れず、ようやく二人の予定を合わせることができた。

 久しぶりに会うのだと思うと、ときめきとは違う胸の高鳴りを抑えることができなかった。


(……緊張する)


 本当は、いつもの場所で待ち合わせしようと思っていた。けれど、彼から「バイトが長引きそうだから、終わったら家まで行くね」と連絡がきたので、仕方なくアパートで彼が来るのを待つことにしたのだ。


 彼が来るまでの間、本を読んだりテレビを見たりして時間を潰していた。でもせっかくの読書も文字は全くと言っていいほど頭に入ってこず、テレビの音ばかりがやけに大きく耳に響いた。

 結局、何をしていても、そわそわとした気持ちを落ち着けることはできなかった。



 ***



 龍臣(たつおみ)との出会いは、大学で初めて受けた講義だった。


 自分の前の席に座っていたその人は、髪を耳にかける仕草も声もどこか中性的で、彼なのか彼女なのか判然としなかった。

 けれど、なぜか目が離せない、妙な存在感を醸し出した人だなと思ったことを、よく覚えている。



 次に会ったのはサークルでの飲み会だった。


「あ! ねえねえ、君! エビセンの講義、受けてるよね!? 見たことある!」


 いきなり笑顔で声をかけられて、思わず飲みかけのジュースをこぼしそうになった。初めて話すとは思えないくらい、彼は親しげに話しかけてきた。


 人見知りが激しく女子校育ちの私は、最初戸惑いを感じたが、彼の人懐っこさに感化されたのか、次第に仲良くなっていった。

 そのうち数人のグループが出来上がり、その中に龍臣も私もいたため、さらに距離が縮まっていったのも不思議はなかった。



 告白は龍臣からだった。

 あれは、仲間から誕生日のお祝いをしてもらった時のこと。皆が口々に「おめでとう!」と言ってプレゼントを渡してくれ、その波が引いた瞬間、龍臣が花束を抱えて前に出てきた。


「……は、初めて会った時からずっと好きです! 俺と、付き合ってください!」


 その時には、私も彼に対して友達以上の好意を抱いていたことを自覚していた。返事はもちろんYES一択だった。


 後日聞いたところによると、龍臣は女性に告白するのが初めてだったらしく「めちゃくちゃ緊張して、何言ったかあんまり覚えてない」とのことだった。


 彼は人懐っこさとは裏腹に、驚くほど周りの空気を気にするタイプだった。皆に好かれていたけれど、その裏で、誰か一人にでも嫌われることを恐れているようだった。


 そんな繊細な彼は、万が一私に振られたときは、サークルも止めて私の前から姿を消そうとしていたらしい。

 今となっては、そこまでしなくてもと思うのだが、当時の私はそんなに想っていてくれたんだと感動したことを覚えてる。



 それからは楽しい月日を共に過ごしていた。

 サークルメンバーと集まって遊ぶときもあったが、基本的には二人であちこち出かけた。

 映画や水族館に花火大会、紅葉狩りにクリスマス……恋人たちのイベントはすべてこなし、デートスポットもほぼ行き尽くしていた。でもどこに行っても飽きることはなく、ただただ楽しかった。


 女子校育ちとはいえ、過去に付き合った人がいなかったわけではない。でも彼との付き合いはそれまでの人たちとは違っていて、好きな人と付き合うということはこんなに幸せな気持ちになるものなのかとよく思っていた。


 そして、その幸せは、この先もずっと続くものだと、そう思っていた――。



 ***



 気づけば、窓の外の光が少しずつオレンジから群青に変わっていた。

 本来の待ち合わせ時間は午後三時だった。予想以上に長引いているのだろうか。それとも――


(もし、私の考えている通りなら……)


 最悪のパターンが頭をよぎる。どうか、違っていてほしい。心の中で強く願った。


 ――ピンポーン


 チャイムが鳴る。時刻は午後六時を回ったところだった。


「ごめん。遅くなった」


 鍵を開けると同時に、大して悪びれもせずに彼が部屋に入ってくる。


「随分遅かったんだね。バイト、忙しかったの?」


 微かな希望を胸に問いかける。しかし、私の願いは即座に砕かれた。


「バイトは四時過ぎには終わったんだけど、その後で射矢(いりや)から連絡が入ってさ」

「……そうなんだ。射矢くんと二人で会ってたの?」

「いや、射矢ん家に行ったらあの子たちもいたよ」

「あの子たち……」


 言われた言葉をそのまま返すことしかできない。胸の奥がざらりと音を立てた。


「うん、前に紹介したでしょ? 沙紀(さき)ちゃんと理恵(りえ)ちゃん」


 ……やっぱり。心の中に落胆が広がる。



 沙紀ちゃんと理恵ちゃん。それは射矢くんの彼女の沙紀と、その友達の理恵だ。

 正直なところ、射矢くんの彼女だけならまだ納得できる。けれど、どうしていつも、その彼女の友達まで一緒に来るのかがわからない。

 彼女の友達も呼ぶというのなら、せめて龍臣の彼女である私も誘おうとは思わないのだろうか。

 それが無理なら、他の男友達も呼ぼうとは考えないのだろうか。

 誰が見てもダブルデートにしか見えない、彼らの無神経とも取れるその行動に、私の心はもう限界だった――。



 ***



 初めて二人に会ったのはいつのことだっただろう。


 射矢くんの住むアパートは大学から徒歩五分。仲間内では、誰かの家よりも気楽に集まれる「第二の部室」みたいな場所になっていた。


 サークルのイベントをきっかけに仲良くなった龍臣も、当たり前のように射矢くんのところに通うようになっていった。龍臣の彼女である私も、いつしか射矢くんと仲良くなり、一緒にお邪魔させてもらったことも一度や二度じゃなかった。

 あの日も、いつもの流れでお邪魔することになっていた。



 ある日のこと。休日だというのに、大事な試験があったため大学に来ていた私に、龍臣から連絡が入った。


『今日、試験だろ? 俺も射矢ん家にいるから、終わったらおいでよ。射矢もいいって言ってるし』


 会えないと思っていた私の心は、スマホの画面を見た瞬間、ふわりと一気に軽くなった。

 嬉しくなり、『行く!』と即答した。


 試験を終え、浮かれる足取りで射矢くんのお宅へ向かう。チャイムを鳴らすと「開いてるよ〜」と射矢くんの声が。


「お邪魔しまーす」


 いつもの如く、靴を脱いで部屋に上がると、そこにいたのは龍臣と射矢くんだけじゃなく、見たこともない二人の女性がいた。


(誰……?)


 思わず固まる私に、龍臣が紹介してくれる。


「前に射矢に彼女ができたって話、したじゃん? それがこっちの彼女、沙紀ちゃん」


 うん、聞いた。彼女ほしいってずっと言い続けてた射矢くんに、彼女ができて良かったねって二人で喜び合ったよね。それは覚えてる。

 じゃあ、その子は? 龍臣にピッタリ寄り添ってる、その女の子は誰なの?


「で、こっちが理恵ちゃん。沙紀ちゃんの友達」

(……友達?)


 そう言うには、二人の距離が近すぎた。


「彼女さん、はじめまして♡ よろしく〜」


 鼻につく甘い声に嫌悪感を抱いたのは、私の心が狭量だからなのか。それとも、ただの嫉妬だったのか。もしかすると、その両方かもしれない。


 話を聞くと、射矢くんカップルは付き合って早々に派手に喧嘩をしたらしく、二人の仲を取り持つためにお互いの友達として協力し合ったらしい。

 しかも喧嘩の原因はこの理恵という彼女だったようで、射矢くんと理恵が必要以上に仲良くしてるところを彼女が見てしまい、ヤキモチを焼いて喧嘩にまで至ったということのようだ。


「私一人だけだとまた大事な友達を傷つけちゃうから、たっくんが一緒にいてくれて良かった〜」


 そう言いながら、開いた胸元を龍臣の腕に押し付けていく。


(…………)


 言いたいことは山ほどあった。


 あんたのそういう態度が、沙紀ちゃんを傷つけたんじゃないの?

 傷つける相手が自分の友達じゃないなら、どうでもいいってわけ?

 彼女だという私が来たのを知ってて、尚、寄り添った身体を離さない意図は何?


 言葉にならない不快感が、心の奥底でヘドロのように溜まっていく。


 しばらくの間、帰ろうか帰るまいか迷っていたが、結局その場にいることにした。私が帰るとこの二人はより親密になるかもしれないという不安と、私がこの場にいることで二人が少しは距離を取るかと思ったからだ。

 残念ながら、後者については期待外れだったとしか言いようがない。

 二人は私が見えていないかのように、寄り添ったまま意味のない会話を楽しんでいる。私がなんとか会話に加わろうとしても、軽い相槌だけで流され、すぐにまた二人の世界に入る。


 この部屋の中で、二組のカップルができていて、私一人だけが場違いだった。


(……もう無理)


 耐えきれなくなり、射矢くんの家をそっと後にした。

 外に出ると、夕方の風が思いのほか冷たかった。



 ***



 その夜。

 昼間、射矢くんの家で見たこと――理恵と龍臣の距離の近さ――について、どうしても話がしたくて電話をかけた。

 けれど、返ってきた言葉は「まだ射矢の家にいる」だった。


「……ねえ、会って話がしたいんだけど」


 理恵との関係や、私への対応の冷たさについて、話がしたかった。話し合わないと、これからの付き合いにも影響が出ると思ったからだ。

 でも――


「無理」


 一拍の間。

 龍臣はため息を零しながら、一言で私を切り捨てた。


「え……なんで?」

「今日はさ、射矢と沙紀ちゃんの仲を取り持つのに、ずっと気を張ってたんだよ。正直、もう人の感情とか考えるのもしんどい。今から雫(しずく)に会ってまた気を遣うとか、無理だから」

「……」


 そんな言い方ある? そう言おうとして、言葉を飲み込んだ。感情的になるのは良くないと、自分を律した。でも、胸の奥では何かが小さく軋んだ。


 黙り込んだ私に気を良くしたのか、龍臣はまだ言い足りなかったらしく言葉を続けた。


「雫もさ、俺の彼女なら俺のことちゃんと理解してよ。わかるでしょ?」


 わからない。何を言われたのか、全く理解できなかった。

 何も言えなくて無言になる私を余所に、龍臣はため息をつきながら電話を切った。

 通話の切れる音が、頭の中に静かに響いた。



 ***



 その後も何度も同じことが続いた。その都度、同じことを言い続けた。それが日常になっていくことが、いちばん怖かったからだ。


 射矢くんと会うのはいい。その彼女である沙紀ちゃんと会うのも構わない。でも理恵って子とは会わないでほしい。


 でも私の訴えは龍臣には届かない。全くと言っていいほど、聞き入れてもらえなかった。


「……あのさ」


 龍臣の声が、少し低くなった。


「俺の友達のこと悪く言うの、止めてくれる?」


 友達? 誰が? 他人の彼氏に目の前で身体を押し付けてきた、あの恥知らずのこと? ……あんなの友達じゃないでしょう。ただの男好きじゃない。


 心の中で罵倒が止まらない。でもそれを口にするのは堪えた。

 そんな私を見て、龍臣が最後に言うのは決まってこのセリフだった。


「俺の彼女なら、俺のことちゃんと理解(わか)ってよ」


 まるで呪文みたいに、彼はいつもそう言う。

 そして私は、その言葉に逆らえなかった。


 私が悪いの? じゃあ、彼女である私が辛いから止めてほしいと言っても、全く止めてくれない彼氏は本当に私のこと理解(わか)ってくれてるの?


 付き合い始めの頃、龍臣がよく言っていたことを思い出す。


「俺、彼女に我儘言われるの、好きなんだよね。だから雫も遠慮なく我儘言ってよね」


 だから、これくらいの我儘言っても許されると思っていた。でも龍臣にとっては、自分の友達との関係に口を出されるのは、我儘とは言わないらしい。


「雫の言ってるのは我儘じゃなくて、ただの自己中。自分勝手だよ」


  ――その言葉で、心にヒビが入る音を聞いた気がした。


 それは、確かに小さな音だった。けれど、その亀裂は、二度と元には戻らない気がした。

 もう、この人は私の好きになった龍臣じゃないのかもしれない。そう思った。



 ***



 その日から、龍臣へ連絡をすることをピタリと止めた。


 時折、気まぐれのようにやってくる龍臣からの連絡に、感情の伴わない声で返答するだけだったが、どうやらその対応は彼にとっては正解だったようだ。

 後日共通の友達から聞いたところによると、龍臣は「雫がようやく俺のこと理解してくれた」と言っていたらしい。

 その話を耳にした時、思わず笑いが零れた。


 そうね。理解したよ、ちゃんと。



 ――私とあなたとでは、価値観が大きく違うってことを。



 それでも、一度は好きになった人だ。もしかしたら、私の気持ちを考えてあの女と会うことを控えてくれてるのかもしれない。もう一度、前のような関係に戻れるかもしれない。

 淡い期待と知りつつも、微かな願いを持ち続けた。


 けれどその願いは、たった今あっけなく砕かれた。


 今日も、龍臣は彼らと会っていた。もっと言えば、あの女と会っていたのだ。私と会う約束を遅らせてまで、あの女と会っていたのだと思うと、残っていた僅かな愛情も弾けて消えた。


 私は、龍臣があの女と会ってるなら伝えようと思っていた言葉を吐き出した。


「……ねえ」

「ん?」


 笑顔で振り返る彼に告げる。






「――別れよう」






「え?」


 まさか、と言った驚愕の顔で龍臣が私を見つめてくる。私からすれば、彼がなぜそんなに驚くのかわからない。

 私との時間より、他の女との時間を優先し続ける彼氏なんていらない。私には、必要ないのだ。


 そこから龍臣が「何で急に」「別れたくない」と色々喚いていたが、今さら何を言われても私の心には響いてこなかった。

 私がどれだけ嫌だと伝えても、彼は耳を傾けることすらしてくれなかったのだ。なぜ、私だけが彼の言葉を受け入れる必要があるのだろうか。


 どれだけ気持ちを訴えても、私の気持ちが変わらないことを悟った龍臣は「……わかった」と一言告げると、そのまま肩を落としながら玄関へと足を向けた。


「……俺が好きなのは、雫だけなんだよ。だから、何をしても信じてほしかった。俺の彼女なら……それくらい理解(わか)ってくれると思ってたのに」


 振り返った彼が、声を震わせてそう告げるが、私は何も反応を示さず、黙って彼を送り出した。


 扉を閉めて、鍵をかける。

 その向こう側で、龍臣が去っていく足音が聞こえる。


(……終わった)


 あんなに好きで幸せだったはずなのに、最後はこんなに後味の悪い別れになるなんて。ほんの数ヶ月前の私には考えられないことだった。


「……」


 龍臣を送り出して、気が緩んでしまったのだろうか。これまで堪えていた涙が、ぽたり、ぽたりと三和土に落ちる。

 その場に立っていられなくなり、ずるずると崩れ落ちるように座り込んだ。


「くっ……、うぅ……うわああああああ!!!」


 叫んだ声が壁に反響して、やがてその場には嗚咽だけが残った。

 これまでずっと溜め込んでいた澱を流すように、身体中から涙が溢れ出てきて止まらなかった。


 悔しい。

 悲しい。

 なんで。

 なんで。

 なんで、なんで、なんで、なんで、なんで!


 ……どうして、こんなことになったんだろう。

 私が我慢していれば良かったの?

 私が龍臣の交友関係を理解して見守っていれば良かったのかな?

 私が龍臣の彼女として相応しくなかったから、ダメだった?


 堪えきれない涙を流し続けながら、何が悪かったのかと自問自答し続ける。


 でも本当はわかっている。

 答えなんて出ないし、正しい答えなんてないのだ。

 恋愛に正も誤もない。


 ただ、言えるのは、私たちは合わなかっただけ。

 私には龍臣じゃなかった。

 龍臣には私じゃなかった。

 ただ、それだけ。

 なのに――。


 頭でどれだけ理解していても、恋を失った辛さだけは無くなることはなかった。



 ***



 別れてから数ヶ月が経った。

 学部が違う龍臣や射矢くんとは、全く顔を合わせなくなった。


 共通の友達からは「龍臣、めちゃくちゃ凹んで泣いてたよ」と聞いた。そんなふうに思ってくれていたのかと、少し驚いて、ほんの少しだけ嬉しかった。


 これが小説や漫画なら、理恵にはきっとざまぁ展開が待ってるんだろう。でも、残念ながらこれは現実。そんな都合の良い展開は訪れない。


 それなら、それでいい。私は、私の幸せを探せばいいだけ。


「あ〜、今日はいい天気!」


 空を見上げれば、冬晴れというのにピッタリな青空が広がっている。


 さようなら、好きだった人。

 あなたはあなたの道を歩んでほしい。

 私は私で、自分の幸せな道を歩むから。


 心の中でそう呟くと、私は一歩を踏み出した――。


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