第8話 いつものようにただ引き金を引く
息を整える。
心臓はまだ嫌な速さで打っているし、耳の奥ではさっきの発砲音が鈍く残っている。鼻の中には埃っぽい空気と、鉄の匂いが混ざっていた。油と錆と血が一緒になったような、血が口内にあるんじゃないかとすら錯覚しそうだ。
機械の陰にしゃがみ込んだまま、ゆっくり息を吸う。
浅く。肺の奥まで吸い込まない。
頭の方は妙に冷えていた。
背後の奥。
暗がりの向こうに、うずくまっている男の輪郭を感じる。さっき頭を抱えていた、社長と呼ばれていた中年男だろう。輪郭と言っても、目で見えているわけではない。ただ、そこに人がいると分かる。まるでゲームで味方も敵も薄くハイライトされる時みたいに、存在だけが頭の中へ入ってくる。
スーツの男の気配は、もうない。
最初の銃撃で倒れたあいつだ。頭から派手に血を吹いていた。俺に医学の知識なんてないが、あれが無事で済むとは到底思えない。
そして、俺をここまで連れてきた男は、すぐ横で倒れている。額を撃ち抜かれて、驚いた顔のまま動かない。こっちは確実だ。
残るのは一人。
二階の足場から撃ってきた、襲撃者。
あれから一分か、二分か。
正確なところは分からない。
けれど、短くはない時間が過ぎているはずだった。
続く発砲音はない。
足場を踏む金属音もない。
外の音もほとんど聞こえない。ここは住宅街の外れで、さっきまで車の通りすらなかったのだ。静かすぎるくらいだ。
こっちとしては都合がいい。
いや、正確には“まだマシ”くらいか。
向こうは恐らく、俺たちの位置を大まかには把握している。
頭を出した瞬間に撃ち込むつもりか。
それとも、痺れを切らして降りてくるか。
工場に入った時から続いているあの妙な感覚は、まだ消えていない。
人がいる。
そういう存在感だけは分かる。
けれど、位置が曖昧だ。空間のどこかに引っかかっていることしか分からない。ゲームのミニマップならもっと親切に出るだろうに、現実はそこまで甘くないらしい。
俺は乾いた唇を舌で舐めた。
スーツの男と、額を撃ち抜かれた男。
あの二人の様子を見るに、相手は腕がいい。あるいは、もっと射程のある得物を使っている。ライフルか何か。少なくとも、拳銃であそこまできれいに頭を抜いてくるとは思いにくい。
昔、どこかで聞きかじった知識を思い出す。
拳銃の有効射程はせいぜい十メートル前後。静止している的ならもう少し伸びるとか、動く相手にはもっと厳しいとか、そんな話だった気がする。
だとすれば、向こうは装備でこっちより上だ。
おそらく向こうもそれを分かっている。
だから不用意に近づかない。
近づかなくても勝てるなら、待っていればいい。
どうせ、位置はある程度割れている。
なら――
俺は機械の陰から少しだけ顔をずらし、声を張った。
「おい! 誰だ、てめぇ! 社長に手ぇ出して、ただで済むと思うなよ!」
自分で言いながら、ものすごく雑な芝居だと思った。
いかにも部下っぽい口の利き方をしてみたが、黙っているよりは何か一つでも情報が欲しかった。
向こうは、俺のことなんて知らないはずだ。
ここで反応があれば。
動けば。それだけでも十分だった。
だが、返ってきたのは静寂だけだった。
俺の声が工場の高い天井へ吸い込まれ、鉄骨と壁に反射して、少し遅れて消えていく。
くそ、と心の中で毒づいた、その時だった。
じゃり、と。
微かな音がした。
ほんの小さな擦れ。
耳を澄ませなければ聞き逃すくらいの音。
でも、俺にはそれで十分だった。
ゆっくり。
慎重に。
足を運ぶ音。
靴底が、足場に溜まった埃か鉄粉を擦る音。
どれだけ気を遣っても、人が動けば音は出る。FPSじゃ当たり前の話だ。むしろ音の方が視覚より大事なことさえある。何人いるか、どの位置か、どこへ向かっているか。音だけでほとんど分かることもある。
襲撃者は、俺の声を聞いて動いた。
たぶん、元から大まかな位置は掴んでいた。
でも“どこにいるか”までは確定しきれていなかったのだろう。だから射線が通る位置へ移動している。
分かるぜ。
そう、心のどこかが妙に冷静に呟く。
相手は二人。
いや、実際には俺と社長の二人だから、味方同士ってわけじゃないけど。
二対一は嫌だよな。どれだけ上手いプレイヤーだって、二枚から同時に撃たれたら厳しい。相手が武器を持っていないかもしれない、なんて楽観はできない。リスポーンなんてできないんだから。
じり、じり、と。
牛歩みたいな移動が続く。
向こうは、自分の位置がもうバレているなんて思っていないはずだ。
こっちへの射線が通る場所へ出ようとしている。
しかも足音まで拾われているとも考えていない。
そこが、唯一の優位だった。
俺は拳銃をゆっくり持ち上げた。
二階の足場。
機械の陰からぎりぎり見える範囲。
あいつが通るはずの場所。
こっちはもう、目が慣れてきている。
人相までは見えない。けれど、人影がそこを横切るかどうかくらいなら分かる。立っていても、中腰でも。どちらでもいいように、クロスヘアをその中間くらいへ置く。
ゲームなら、迷わずヘッドラインへ合わせる。
でも今は違う。
当てることだけ考えろ。
仕留めることは、その次だ。
後二歩。
一歩。
――今。
クロスヘアへ人影が重なった瞬間、迷わず引き金を引いた。
手の中で衝撃が弾ける。
だが、不思議なことに、その衝撃はどこか慣れた様子で腕と肩へ流れていった。反動でぶれた照準が、ほとんど無意識のうちに戻る。広がったクロスヘアが、また引き絞られて元の大きさへ戻っていく。
当たった。
その感覚だけは、はっきり分かった。
だが相手はまだ動く。
当然だ。ゲームだって、胴に一発入れただけじゃ大抵倒れない。
残弾は二発。
いけるか。
人影がぐらりと揺れ、うずくまる。
まだだ。まだ終わっていない。だが、逆に言えば動きが鈍ったぶん狙いやすい。
もう一発。
引き金を引く。
今度はもっと落ち着いていた。さっきよりぶれない。人影の中心へ吸い込まれるように弾が飛ぶ。
命中。
相手がさらに崩れる。
それでも、まだ完全には止まらない。
残り一発。
そこで、頭へ合わせた。
この状況で迷うな。
胴にもう一発でもいいのかもしれない。けれど、中途半端が一番まずい。向こうがまだ撃てるなら、それで終わるのはこっちだ。
クロスヘアを頭部へ重ねる。
発砲。
次の瞬間、身体の奥にひどく嫌な、そして同時に妙に馴染んだ感覚が返ってきた。
ヘッドショット。
聞きなれた独特の音が、頭の中で勝手に再生される。
ゲームで何度も見た、聞いた、感じた種類の当たり方。良いところに“入った”感覚。ほんの一瞬、脳がそれを快いものとして処理しかける。
気持ちいいんだよな、ヘッドショット。
そんな、あり得ない感想がよぎってしまう。
次の瞬間には自己嫌悪が追いかけてくる。
ふざけるな、と思う。
これはゲームじゃない。
だが、現実の方はそんな俺の葛藤なんか待ってくれない。
足場の上の人影が、完全に崩れた。
金属のどこかへ身体がぶつかる、重い音。
それから動かない。
視界の端に、残弾数がゼロと表示される。
そして――
右上に、キルログが流れた。
【 二階堂 恒一 ↓ エマーソン・ベイル 】
思わず、息が止まりかける。
キルログ。
何だそれ。
何でそんなものまで出る。
誰だよ、エマーソン・ベイルって。
そんなツッコミが頭の中を一瞬駆け抜ける。
だが同時に、別のこともはっきり分かってしまっていた。
いま、俺が殺した。
ふう、と細く息を吐く。
いや、吐いたつもりだった。
実際には喉がうまく開かず、熱い空気が少し漏れただけだったかもしれない。
拳銃を握る手を見る。
震えていた。
小刻みに。
自分の意思とは関係なく、指先から手首まで、細かく揺れている。
恐怖が遅れて戻ってきたのか。
それとも逆に、極度の集中が切れた反動か。
高揚と嫌悪と恐怖が、全部ない交ぜになっていて、自分でもよく分からなかった。
俺はそのまま、しばらく俯いていた。
工場の中は静かだった。
さっきまでの銃声が嘘みたいに、ただ高い天井の下へ埃っぽい沈黙だけが落ちている。
その静けさの中で、鼓動だけがやけにうるさく響いていた。




