第7話 襲撃
男に促されるまま、廃工場の敷地へ足を踏み入れる。
長い間放置された建物特有の、錆と土と古い油の匂いが鼻の奥にこびりつく。
敷地内は思っていた以上に荒れていた。
周囲には草がぼうぼうに茂っていて、膝くらいまで伸びた雑草が揺れているのが見えた。
だけど、建物の入口へ向かう部分だけ草の丈が少し低い。
きれいに刈られているわけじゃない。けれど、そこだけ誰かが何度も踏み固めたみたいに寝ている。最近も人が通っているのだと分かる程度には、不自然な道になっていた。
つまり、ここは完全な廃墟じゃない。
さっきの連中なりが出入りしてるんだろう。
「開けろ」
入口に着くなり、背後の男が頭の後ろへ硬いものを押しつけたまま低く言う。
言われた通りドアノブに手をかける。
周囲の錆びついた見た目から、もっと固着しているものかと思っていたのに、ノブは拍子抜けするほどあっさり回った。
ああ、やっぱり最近使われているんだな、と思う。
そのまま扉を手前へ引き、中へ入った。
薄暗い。
だが、まったく見えないわけじゃない。
工場の中央あたりに、小さなランプかなにかがぼんやりと灯っている。その光は頼りなさげに周囲の影を浮かび上がらせていた。あれくらいの明るさなら、外からは気づきにくいのかもしれない。
中は、想像通りごちゃごちゃしていた。
埃をかぶった機材。
ビニールのシートが掛けられた資材。
もう動かないのだろう重い鉄の台。
天井は高く、その高い位置には、昔使っていたらしい大きな機械やフックのようなものがいくつもぶら下がっている。
ぐるりと壁沿いには、二階にあたる高さに細い通路が張り巡らされていた。鉄骨で組まれた足場のようなもので、ところどころに手すりがある。昔はそこから全体を見渡したり、作業したりしていたのだろうか。
入口で少し足を止めてしまったせいか、背後からごり、とまた頭を押された。
「止まるな」
慌てて歩みを進める。
不思議なもので、ここまで来ると逆に少し頭が冷えてくる。
もちろん怖い。怖いに決まっている。けれど、怖さが一定を超えると、頭のどこかだけが妙に静かになることがある。今がたぶんそうだった。
周囲の情報が、視界の中で自然に整理されていく。
光源。
遮蔽物。
上の通路。
中央の空間。
入口からここまでの距離。
出口になりそうな場所。
まるで頭の中に、いまいる場所の簡易マップが描かれていくようだった。
そこで、ひとつ奇妙なことに気づく。
さっきまで尾行していた男たちは二人だった。
その二人の輪郭は、いまもどこか薄ぼんやりと意識の中で掴めている。中央の光の近くにいる。そこまではいい。
それに加えて、俺のすぐ後ろに一人。
これは、いま頭へ何かを押しつけている男だ。
そして――
もう一人、この空間に誰かいる。
仲間か。
違うのか。
それは分からない。
ただ、いる、という感覚だけが妙にはっきりあった。
だからといって何ができるわけでもない。今は言われるまま歩くしかない。俺は足音をできるだけ小さくしながら、中央の方へ進んだ。
「社長ぉ」
背後の男が急に声を張った。
その声が、広い工場の中で反響して少し嫌な響きになる。
「不用心ですぜ。変な虫がくっついてきてましたよ」
前にいた二人組が、ばっとこちらを振り返る。
「あ、兄貴!?」
スーツ姿の男が、驚いたような声を上げた。
「遅くなるって言ってましたけど……何すか、そいつ」
近づいてくる。
中年の方――社長、と呼ばれた男は、最初焦ったような顔をしたが、俺を見た途端に少しだけ表情を緩めた。安堵と、それから不審げな視線。どこの誰だと測る顔だ。
「何を嗅ぎ回ってるかは知りませんがね」
背後の男が、俺の頭へ押しつけた冷たい塊をぐりっと動かしながら続ける。
「こそこそ社長の後をついてる妙な奴がいたもんで、そのまま引っ張ってきたってわけですわ」
少しばかり自己の評価をして欲しそうな、誇示するような雰囲気。
「とりあえず、持ってた携帯とカメラはこっちで回収しときましたから。あとで中身確認しときましょうや。それまではそこらにふん縛って――」
その言葉は、最後まで続かなかった。
パン、と。
乾いた音が響いた。
それとほぼ同時に、目の前まで歩いてきていたスーツの男の頭から、血が吹いた。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
ただ、男のこめかみのあたりが弾けて、赤黒いものが飛んだ。目が見開かれたまま、男の身体がその場でぐらりと傾く。
右上。
発砲音の方向が、まるでアイコンみたいに頭の中へ差し込まれる。
さらに、弾道の軌跡が薄い白い線として一瞬だけ見えた気がした。
上の足場からだ。
反射的にそちらを見る。
だが、明かりが届かない。鉄骨の通路の向こうは暗く、撃った相手の姿までは見えない。
ドサッ、とスーツの男が倒れるのとほとんど同時に、背後の男が怒鳴った。
「社長! 物陰に!」
言いながら、俺の頭に押しつけていた銃口をそっちの方へ向けて撃つ。
耳元に近い。
破裂音で鼓膜がひっくり返りそうになる。
「ひいっ!」
社長と呼ばれた中年男が、情けない声を上げてしゃがみ込むのが見えた。両手で頭を抱え、醜く縮こまっている。さっきまでのふてぶてしさなんて一瞬で吹き飛んでいた。
だが、今の俺にはその情けなさを笑う余裕もない。
発砲音を背中で聞きながら、頭の一部が妙に冷静に処理する。
いま、意識が俺から外れた。
少なくとも、一瞬は。
その一瞬が全てだった。
俺は横へ倒れ込むように跳んだ。
近くにあった大きな機械の陰へ滑り込む。金属の匂いと、床に積もった埃が一気に顔へ来る。射線は通らないはずだ。少なくとも、さっきの位置よりはマシだ。
続けざまにまた発砲音。
上からの乾いた音がもう一度鳴ったかと思うと、どさり、と何かが横へ落ちた。
思わずそちらを見る。
額に穴を開けた男が、俺のすぐそばへ倒れ込んでいた。
さっきまで俺の背後にいた、あの男だろう。驚愕を張りつかせたままの顔が、こちらを向いている。死んでいる。頭に穴が開いて生きてるヤツが居たら驚きだ。
その拍子に、男の手から離れた黒いものが床を滑って俺の方へ転がってきた。
銃だ。
ゲームの中では、見慣れている。
拾う、構える、撃つ。その一連の流れだって、画面の中ならいくらでもやってきた。
だが、いま目の前にあるのは画面の中のデータじゃない。人を殺せる本物の銃だ。
それでも。
それでも、俺の手は伸びた。
恐る恐る。
なのに、妙に迷いなく。
指先が冷たい金属へ触れ、そのまま握り込む。
その瞬間、ぞっとするくらい手に馴染んだ。まるで最初からそこに収まる形で作られていたみたいに。
一瞬だけ、目を閉じる。
息を吸う。
吐く。
それから目を開くと、視界の前へ、あの見慣れたUIが今度こそはっきり浮かび上がっていた。
右下に残弾数。
小さく、しかし確かな数字。三発。
少ないな、と冷静に考えながら、自然に体が動く。
マガジンを抜く。
確認する。
何でできるのか自分でも分からない。意味なんて理解していない。ただ、やったことがある動きみたいに、指が勝手に動く。
ゲームで新しい武器を拾った時、自動で入るアニメーションみたいだ。自分で操作している感覚が薄い。
ただ、弾は出る。
それが分かる。
それで十分だった。
視界の中央に、小さな十字が浮かぶ。
クロスヘア。
それを見た瞬間、喉の奥がひくりと引きつった。
そんなものが現実に見えるはずがない。なのに、いまはある。それが冗談みたいにはっきりと見えてしまっている。
そこへ弾が飛ぶ。
理屈じゃない。
感覚で分かる。
上の足場。
社長が隠れている位置。
死角。
相手の移動の気配。
全部が画面内で、視覚内で整理されていく。
俺は機械の陰にしゃがみ込んだまま、銃を握る手にじわじわと汗がにじむのを感じていた。
怖い。
怖いのに、視界だけが妙にはっきりしている。
まるで、いつものFPSゲームが始まるみたいな。そんな感覚。




