第5話 初仕事
あの日、喫茶店で名刺を渡されてから数日が経った。
財布の中には、まだあの一枚が入っている。
雨宮しずく。仲介人。裏には携帯番号だけ。やけに質のいい紙で、他のカード類の中に紛れていても妙に手触りだけが違うから、財布を開くたびに嫌でも存在を思い出した。
最初の一日二日は、落ち着かなかった。
帰宅しても、階段を上がる自分の足音にびくつく。
アパートの前に知らない車が停まっているだけで心臓が跳ねる。
夜中にスマホが光るたび、警察か、あるいはあの女の関係者かと肝が冷えた。
だが、何も来なかった。
その日の夜も。
次の日も。
さらにもう一日。
何もない時間が一日、二日と積み重なるにつれて、さすがにずっと張りつめたままでいるのも馬鹿らしくなってくる。もちろん完全に安心したわけじゃない。いまだに人影や物音には妙に神経が立つし、通りの向こう側で立ち止まる人間がいるだけで視線がそっちへ吸われる。
それでも、恐怖というのは不思議なもので、何も起きない時間が続くと少しずつ形を変える。
剥き出しの怯えが、ぼんやりした不安へ変わる。
そうなると今度は、その不安の周りを別のものがうろつき始める。
好奇心、とか。
金のこと、とか。
今のままの毎日でいいのか、みたいな、余計な考えとか。
* * *
その日も、夜勤を終えて帰ってきたところだった。
部屋の鍵を閉め、靴を脱ぎ、いつもの癖でPCの電源を入れる。
古いファンの回る音が、狭いワンルームにじわじわ広がる。モニターに見慣れた立ち上がりの光が映ると、頭の中のどこかが「今日もこれで終わりだ」とじんわりと考える。
ゲームを起動する。
シャワーの前に一戦だけ。いつもと同じ。
けれどその日、マウスへ手を伸ばしかけて、ふと止まった。
何となく、財布の中の名刺が気になったのだ。
椅子の横に置いた鞄から財布を引っ張り出す。中身は相変わらず寂しい。レシート、ポイントカード、身分証、数枚の札。カード入れのところに差し込まれた一枚を抜くと、端の方が少しだけよれていた。数日入れっぱなしにしていたせいだろう。
表を見て、裏返す。
そこにある携帯番号を、PCの検索窓に打ち込んだ。
ほら、あるじゃないか。
営業だの勧誘だの、妙な電話がかかってきた時、番号を検索すると「どこどこ会社でした」とか「悪質な押し売りです」みたいに出てくるやつ。あれみたいに、何か一つでも引っかかればと思った。
期待半分、呆れ半分でエンターキーを押す。
結果は、何もなし。
検索結果の画面はやけに白く、やけに空虚だった。
そりゃそうか、と小さく鼻で笑う。こんな番号で何かヒットするなら苦労はない。
「……だよな」
誰もいない部屋で呟いて、名刺を指先でくるくる回す。
それでも、そこで終わらなかった。
もう一つ、気になっていたことがあったからだ。
検索窓へ改めて打ち込む。
【裏の仕事 報酬】
自分で打っておいて、阿呆みたいな単語だと思った。
笑ってしまうくらい直球だ。もう少しそれらしい言い回しがあるだろうに、とも思うが、他にどう入れればいいのか分からないのだから仕方がない。
出てきた結果を適当に流し見する。
最近ニュースになっていた裏バイト関連の記事。
まとめサイト。
眉唾なゴシップ記事。
いかにも信用ならない見出しで「一晩で数千万!」だの「実行役はたった数万にまで中抜きされる!」だの、好き勝手書いてある。
どれもこれも、面白おかしく盛っているのだろう。
それでも、全体をならして読んでいると、ひとつだけぼんやり見えてくることがある。
多かれ少なかれ、結構な額が動くらしい、ということだ。
今の俺の月の手取りなんて、それこそ仕事一回で吹き飛ぶような額かもしれない。
もちろん、そんなのまともな話ではない。まともじゃないからこそ、それだけ金が動く。
「……いや、いかんいかん」
思わず頭を振った。
そんなアングラな仕事をして、身を崩すのがオチだ。
捕まって刑務所へ行く可能性もある。
それどころか、死ぬ可能性だって普通にある。
とてもじゃないが、まともな精神のまともな人間がやるようなものじゃない。
――そう、まともな人間なら。
そこまで考えて、少しだけ嫌な沈黙が落ちる。
数千万とまではいかなくても。
数百万でもあれば。
そんなことを思ってしまうのは、たぶん仕方のないことだった。
毎日、まんじりとしないまま起きて、働いて、帰って、ゲームして、また寝る。
生産性があるんだかないんだかよく分からない仕事を繰り返して、給料日が来れば家賃や生活費に消えていく。大きな夢があるわけでもない。守る家族も、迷惑をかける相手も、今の俺にはもういない。
だったら、いっそ――
そこまで考えたところで、机の上のスマホが震えた。
「っ」
びくりと肩が跳ねる。
ほとんど反射で手を伸ばし、画面を取った。
表示されていた番号を見た瞬間、喉がきゅっと縮む。
さっきまで検索していた番号と、同じだった。
「おいおい……」
何でこっちの番号を知っているんだよ。
いや、それくらいできる人間だと思うべきなのか。気味が悪い。
画面を開く。
『そろそろ日も経ったし、お仕事の話はいかが?』
それだけの一文だった。
飾り気も何もない。
軽い。
妙に軽いくせに、内容だけは軽くない。
ごくり、と喉が鳴る。
脳裏に、さっき見ていた“裏の仕事 報酬”の検索結果がよぎる。数千万だの数万だの、いい加減な数字の並び。そのどれもが胡散臭かったくせに、今だけは妙に現実感を帯びて見える。
返信をどうするか迷っていると、追い打ちみたいにもう一通届いた。
『最初は簡単な仕事で試してもらっていいわよ』
簡単な仕事。
そんな言葉を額面通りに受け取るほど俺は素直ではない。
とはいえ、いきなり殺しだの何だのを振ってくるとも思えない。思いたくない、の方が近いかもしれないけども。
たぶんそう、荷物の受け渡しとか。
――そういう、ギリギリ“まだ言い訳ができる範囲”の何か。
そこまで考えて、気づく。
興味を持ってしまっている。
否定したくても、自分の中でそれが否定しきれない。
怖い。
面倒だ。
危ない。
でも、その全部と同じくらい、今の鬱々とした毎日とは違う何かがある気もしてしまっている。
十数分は迷ったと思う。
いや、体感ではもっと長かったかもしれない。
部屋の中を何度か歩き回り、また椅子に座り、スマホを伏せ、もう一度裏返して、文面を見て、閉じて、開いて。そんなことを繰り返した末、俺はようやく短い文を打った。
『話だけで良いなら、聞かせてください』
送信ボタンを押した直後、胃のあたりが重くなる。
やってしまった、という感じと。
やっと何かが動いた、という感じが。
同じくらいの重さで胸の中に落ちた。
* * *
翌日の夜。
仕事が休みだった俺は、駅前の雑居ビルの前に立っていた。
駅前といっても、メイン通りから少し外れた場所だ。居酒屋やカラオケ、安いマッサージ店なんかが縦に重なった、ごくありふれた夜の雑居ビル。一階に入っているのはチェーンの居酒屋で、赤っぽい提灯風の照明と、店の外まで漏れてくる笑い声がいかにもそれらしい。
店内には完全個室がいくつかあったはずだ、と思い出す。
前に誰かに連れられて来たことがあった気がするが、誰とだったかは思い出せない。
自動ドアをくぐると、油と醤油とアルコールの混ざった匂いが一気に鼻へ来た。
同時に、やたら元気な声。
「いらっしゃいませー!」
若い店員が寄ってくる。笑顔が少し眩しい。
「ご予約ですか?」
「あ、えっと……トウゴウで、予約してると思うんですけど」
メッセージで言われた通りの偽名を口にする。
自分で言っておいて少し変な感じがした。普段の生活で偽名なんて使わない。たったそれだけのことなのに、変な方向へ一歩踏み出した実感がある。
「かしこまりました! こちらへどうぞー!」
店員は何の疑いもなく奥へ案内していく。
靴のまま上がれるタイプの店でよかった、とどうでもいいことを思う。靴を脱ぐ小上がりだったら、逃げるのに面倒だと頭の片隅で考えていた。
通路の両脇から、話し声や笑い声が漏れてくる。
サラリーマンらしい集団、大学生っぽい男女、酔って大声になっている中年。どこにでもある夜の居酒屋の風景だ。
その奥の個室へ通されて、俺は一瞬、入口で足を止めた。
すでに雨宮が座っていたからだ。
服装は、この間の喫茶店の時とはだいぶ違っていた。
スキニー気味のジーンズに、少し大きめのジャケット。コートではなく、もっと街に馴染む軽さがある。メイクの雰囲気も前より少し若いというか、砕けているというか、とにかく印象が違う。
道端ですれ違っても、気づかなかったかもしれない。
雨宮は、入口で立ち尽くす俺を見て、向かいの席を顎で示した。
「座って」
短い一言に、はっと我に返る。
「あ、どうも……」
どうも、じゃないだろと思いながら、慌てて席に着く。
そのちょうどのタイミングで、さっきの店員がまたやってきて、おしぼりを置きながら注文を聞いてきた。
雨宮の前には、すでにジョッキに入ったビールがある。泡の残り方を見るに、俺が来る前から少し飲んでいたらしい。
いや、これから仕事の話だよな?
「お飲み物お決まりでしたら」
「あ、ウーロン茶で」
反射でそう答える。
店員が去っていくと、個室の薄い壁越しに外のざわめきが一段大きく聞こえる気がした。
「よく来てくれたわね」
雨宮が言って、ぐい、とビールを呷る。
その仕草がやけに板についていて、妙に似合っていた。
何だろう。喫茶店の時よりずっと年相応に見えるのに、同時に“ただの若い女”にはまったく見えない。
そんな俺の混乱を無視するように、雨宮はお通しのきんぴらを箸でつまんでいる。
店員がウーロン茶を運んできて置いた直後、雨宮がジョッキを軽く持ち上げた。
「お疲れさま」
それに対して、俺は条件反射みたいにグラスを少し上げる。
「あ、どうも」
カチ、と軽く当たる音。
その瞬間、何をやっているんだ俺は、と少し遅れて思った。
「……あの」
窺うように切り出す。
こういう話を居酒屋の個室でしていいのか分からないし、壁がどれだけ薄いかも分からない。自然と声は小さくなった。
「仕事、の話ですよね」
「そう」
雨宮は気軽に頷く。
「とりあえず今日のところは、簡単な仕事をまず、ね」
そう言ってビールの残りをまた呷る。
いや待て。
これから仕事になるかもしれないのに飲んでるのか。
それでいいのか。
大丈夫なのか。
いろいろ突っ込みたいことはあったが、口には出さなかった。
黙ったままでいる俺を、急かしていると勘違いしたのか、雨宮はそのまま話を進める。
「せっかちね。まあいいわ。仕事ができる人なら、こっちも歓迎」
言いながら、脇に置いていた鞄から一枚の写真を取り出し、テーブル越しにこちらへ差し出した。
俺はそれを受け取る。
隠し撮りしたような角度の写真だった。
そこに写っていたのは、中年の男。ジャージ姿に太い金のネックレス。眉間に皺が寄っていて、見るからに機嫌が悪そうだ。趣味も悪い。
「ここから数分歩いたところにある、小さい雑居ビルのオーナーよ」
雨宮が写真の男を指先で軽く示す。
「こいつが、どうやら今日飛ぶらしくてね。行き先を尾行してほしいの」
尾行。
その単語を頭の中で一度転がす。
やったことはない。もちろん、まともな人生の中で必要になったこともない。
だが、思ったよりも危険は少なそうだ。
そう考えて、少しだけ安心している自分がいるのも分かった。
「飛ぶって……」
気になったことを、そのまま口にする。
「そういう時って普通、車とか使うんじゃないですか。さすがに車の尾行は……」
俺の言葉を、雨宮は想定済みだったらしい。表情ひとつ変えずに答える。
「ちょっと語弊があったわね。飛ぶのはまだ先」
「……」
「ただ、そいつ、私財を隠してる場所があるらしくて。そこにはいつも歩いて行ってるのよ」
何でまた。
思わず眉が動いたのが、自分でも分かった。
雨宮は小さく肩をすくめる。
「どうも車で行くと目立つらしくてね。信用してる人間数人とだけで行ってるみたい。だから徒歩で大丈夫」
なるほど。
完全に納得したわけではないが、理屈としては分からなくもない。
腕を組んで考え込む俺を見て、雨宮はそのまま報酬の話へ移った。
「とりあえず、まずはお試しってことでこれくらい」
そう言って、人差し指を一本立てる。
一本。
何だ。
一万か? いや、それはさすがにないだろう。こんな仕事に呼び出して一万なら、最初から話にならない。十万か。十万なら、見知らぬ中年男を尾ける仕事としては十分高い。十分高いが、その十分の中に危険も込みなのだろうと思うと、急に安くも感じる。
十万。
尾行するだけで十万。
でも、見つかって半殺しにされるような可能性だってある。
最悪、もっと面倒なことに巻き込まれるかもしれない。
しかし――
「分かりました」
気づけば、そう言っていた。
自分でも少し驚くくらい、言葉はするりと出た。
数分迷った気もするし、実際には数秒だったのかもしれない。どちらにせよ、俺の中ではもう半分くらい答えが出ていたのだと思う。
そもそも、雨宮のメッセージへ返信した時点で、俺は“話を聞くだけ”では終わらないつもりだったのかもしれない。
金か。
それとも、今の鬱々とした毎日から別の場所へ滑り出す感じか。
自分でもよく分からない。
ただ、あのまま何もない夜勤とゲームと寝不足の繰り返しだけで、何年も先まで生きている自分の姿が、どうにも想像できなかったのだ。
雨宮は、俺の返事に満足したように小さく頷いた。
「そう。じゃあ、行きましょうか」
あっさりしている。
もっと段取りの説明とか、注意事項とか、そういうものが先にあるかと思った。
立ち上がる雨宮の後に続いて、俺も席を立つ。
外へ出ると、どんよりした雲が空に広がり始めていた。夜の色に、湿った灰色が混ざっている。遠くで雷が鳴ってもおかしくないような空だ。
店の明かりを背にして、雨宮が振り返る。
「さ、こっち」
「……はい」
歩き出した雨宮に少しだけ遅れて、その背中を追う。
駅前の灯りはいつも通り眩しくて、行き交う人間たちは誰もこちらを気にしていない。
その普通さの中を、俺は妙に落ち着かない気分で歩いていた。
初めての仕事。
尾行。
報酬。
全部がまだ現実感を持たないくせに、一歩進むごとに後戻りだけはしにくくなっていく気がした。




