第4話 仲介人
「あなた、何者なの?」
――こっちが聞きたい。
そう思った。
思っただけで、口には出さなかった。出せなかった、の方が正しいかもしれない。
散々走って、曲がって、壁にぶつかりそうになりながら逃げ回って、ようやく呼吸が少し戻ってきたところだったのだ。そこへ知らない女に真正面からそんなことを言われても、まともな返事なんて出るわけがない。
たぶん、睨むような顔になっていたと思う。
別に威嚇したかったわけじゃない。ただ、余裕がなかった。
心臓はまだ嫌な速さで打っていたし、喉の奥には乾いた鉄みたいな味が残っていた。耳の奥では、少し前の発砲音がまだ薄くこびりついている。
ちらりと視線を上げる。
年は二十代後半くらいに見えた。
黒のコートの下に覗く服は、派手ではないが質が良さそうだった。形が綺麗で、変に気取っていない。化粧も薄い。街角に立っていれば目立つ美人、というより、ラウンジの薄暗い照明の中に座っていそうな顔立ちだった。
整っているのに、妙に親しみやすくない。
目が冷たい、というのとも少し違う。
温度がないわけじゃない。むしろよく見ている。
その上で、必要な情報だけを、使える情報だけを精査しているような目。
「……まあ、いいわ」
女は、俺の沈黙を特に気にした様子もなくそう言った。
「話があるの。ちょっと付き合って」
それだけ言うと、くるりと踵を返して歩き出す。
一瞬、あっけに取られた。
いや待て。
何だその、俺が当然ついていく前提みたいな進め方は。
そもそも話があるって何だよ。こっちはまだ状況整理すら終わってないんだぞ。
数歩先まで進んだところで、女はふと足を止め、顔だけこちらへ振り返った。
たぶん、俺の足が動いていないことに気づいたのだろう。
「悪いようにはしないわ」
少しだけ細められた目が、まっすぐこちらを見る。
「それに、火薬の匂いが取れるまで、いいでしょう?」
どくり、と心臓が大きく跳ねた気がした。
呼吸が、ほんの一瞬だけ止まる。
火薬の匂い。
俺が銃を撃ったのを、こいつは知っている。
思わず自分の服へ視線を落としかけて、ぎりぎりで止めた。そういう反応がそのまま答えになるのは分かる。分かるのに、身体の方が勝手に強張る。
なぜそれを、なんて聞く間もない。
女はもう、こっちの反応に満足したみたいに再び前を向いて歩き出していた。
俺は小さく息を吐いた。
吐いたつもりだったが、喉の奥に引っかかってうまく出なかった。
……とりあえず、着いていくしかないか。
逃げるという選択肢も頭をよぎらなかったわけじゃない。
だが、いま背を向けて走ったところで、さっきの修羅場の直後だ。足も頭もまだまともに回っていない。それに、この女がただの一般人でないことくらい、もう十分分かっている。
俺は重い足を動かし、少し距離を空けてその後をついていった。
* * *
連れて行かれたのは、通りから一本外れたところにある古びた喫茶店だった。
繁華街から少しずれた住宅街の入口みたいな場所で、さっきまでの騒がしさが嘘みたいに静かだ。空はすでに白みきっていて、電線に止まった鳥の声と、遠くを走る車の音だけが遠くに聞こえる。
そんな通りの隅に、店はひっそりあった。
看板らしい看板もない。
ただ、古い木のドアに小さく「OPEN」の札がぶら下がっているだけだ。ガラスも少しくすんでいて、店の中は外からだとよく見えない。
たぶん、知らなければ一生ここが喫茶店だと気づかなかったと思う。
女は迷いなくそのドアを押した。
きい、と小さく軋むような音がして、ふわりと珈琲の匂いが流れ出てくる。
俺も慌てて後に続いた。
中は、思っていたよりもずっと落ち着いた空間だった。
カウンターが数席と、奥に小さなテーブル席がいくつか。木の色が濃い。床も壁も長い時間を吸い込んだみたいに鈍く艶を帯びていて、窓から差し込む朝の光さえ少し柔らかく見えた。
客は誰もいない。
カウンターの向こうでは、白髪交じりのマスターらしき男が、グラスを磨いていた。
入ってきた俺たちに一度だけ視線を寄越し、何も言わずにまた手元へ戻す。その無関心が、この女がここに馴染んでいることを物語っていた。
女は店の奥へ向かう。
靴音が床へ吸われるみたいに静かだった。
俺はちらりと視線だけで店の中を見回しながら、向かいの席へ腰を下ろす。
椅子が小さく軋んだ。
座るのとほとんど同時だったと思う。いつの間にか脇へ来ていたマスターが、水の入ったグラスとおしぼりを置いた。気配が薄い。さっきの女もそうだが、どことなく危険な匂いがする。
「ご注文は?」
当然みたいな顔で聞かれる。
隣の女は、視線すら向けずに一言だけ言った。
「ホットで」
マスターは軽く頷き、今度はこちらを見る。
急にこっちへ振るな。心の準備ってものがあるだろう。そもそも喫茶店なんて、こういう時でもなきゃほとんど来ない。何を頼めば正解なのかもよく分からない。
口の中でもごもごと音にならないものを転がした末、ようやく出てきたのは、
「あ、アイスで」
という、我ながら驚くほど面白みのない一言だった。
マスターは特に何も言わず、一礼して下がっていく。
その背中を見送りながら、俺はとりあえず目の前の水へ手を伸ばした。
冷たい。
グラスの表面が指先へしっとり張りつく。
走ったせいか、喉が思っていた以上に乾いていたらしい。一口含んだだけで、冷えた水が食道をすべり落ちる感触がやけに心地よかった。
もう一口。
それからさらにもう一口、喉を鳴らして飲んで、ようやくグラスを置く。
「……どう?」
女が言った。
「少しは落ち着いたかしら?」
椅子の背へゆったりと体重を預け、足を組み、手を重ねてこちらを見ている。その姿が妙に洗練されていて、慌てて喉を鳴らした俺は少しだけ気恥ずかしかった。
俺はごまかすように小さく咳払いをして、こくりと頷いた。
「そ。よかった」
女はそこで初めて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「じゃあ、最初に自己紹介。私は雨宮しずく。仲介人よ」
言いながら、コートの内側から名刺を取り出してテーブルへ差し出してくる。
名刺。
なぜか一瞬だけ就活の時期を思い出した。
説明会だの面接だの、そういうものからはずいぶん遠い場所へ来た気がする。
俺はテーブルに置かれたそれを一度見て、雨宮の顔を見て、それから手前へ引き寄せた。
紙質が妙にいい。
厚みも手触りも、安い印刷所のそれじゃないのが分かる。表には<雨宮しずく>の名前と、その横に小さく<仲介人>の肩書き。裏返すと、携帯の番号だけがそっけなく並んでいた。
「仲介人?」
初めて、声が出た気がする。
水のおかげで喉は少し開いていた。思ったより低い声が出る。自分で言っておいて、少しだけ違和感があったけど、仕方ない。
ちょうどそのタイミングで、コーヒーが運ばれてきた。
かちゃり、とソーサーの音。
白い湯気を立てるホットコーヒーが雨宮の前へ置かれ、俺の前には背の高いグラスに入ったアイスコーヒー。小さなミルクが添えられ、ガムシロップはない。
まあ、甘くなくても飲めるけど。
雨宮がカップを持ち上げるのに合わせて、俺もストローを刺して一口吸った。
旨い。
思わず、少しだけ目を見開いてしまったかもしれない。
普段はコンビニの缶コーヒーか、ペットボトルの安いやつくらいしか飲まない。だから余計に分かる。苦みも酸味も、鼻に抜ける匂いも、いかにも“コーヒーです”と主張してくる感じがある。
……俺もホットにすればよかったかな。
そんなことを考えていると、雨宮が口を開いた。
「そう、仲介人」
カップをソーサーへ戻す音が、静かに鳴る。
「仕事を斡旋したり、人と人をつないだり。まあ、色々ね」
「……その仲介人さんが、何の御用ですか」
そこだ。
そこが一番大事だ。
俺みたいな人間が、こんな女と話す理由なんて本来ない。
あるとしたら、さっきの件しかない。そして、そこに触れられるのがいちばんまずい。
火薬の匂い。
発砲。
こいつはどこまで知っている。
「さっきの現場なんだけどね」
雨宮は、俺の心中なんて知ってか知らずか、落ち着いた声音でそう言った。
ほら来た。
反射的に背中が固くなる。
脅しか。それとも別の何かか。
頭の中で安っぽい単語がぐるぐる回る。
「本当は別の人間がコトに当たる予定だったの」
雨宮は続ける。
「だけど、ちょっとブッキングしちゃってね。それで急遽あてられたのが、あの二人」
あの二人。
俺を襲ってきた連中だろうか。
ということは、この女はあいつらの仲間か。
ぶわっと冷や汗が湧くのが分かった。
まずい。
まずいまずいまずい。
のんきにコーヒーを飲んでる場合じゃない。
視線が自然と店内を巡る。入口。カウンター横の通路。あの先はバックヤードか?
裏口があるなら、そっちから抜けられるかもしれない。
そもそもマスターもグルだったらどうする。入口からそのまま走る?
いや、今の俺は入口に背を向けてる。振り向く動きは大きい。視線も切れない。もし銃でも出されたら、それこそ終わりだ。
「だけど、駄目ね」
雨宮が、わずかに肩をすくめる。
「やっぱりプロじゃないと。あんな半グレみたいなのには任せられないわ」
俺の葛藤をよそに、話は続く。
半グレ。
あの二人は、少なくともこの女にとってはその程度らしい。
じゃあ“プロ”って何だよ。そんな単語を朝の喫茶店で聞くなんて想定してないんだが。
「で、貴方よ」
雨宮がすっと人差し指をこちらへ向けた。
薄く塗られた赤いマニキュア。皺のない細い指。
仕草は綺麗なのに、向けられて嬉しい種類のものではない。
何でそこで俺なんだ。
「貴方、うちの仕事しない?」
さらっと、とんでもないことを言われた。
「もちろん、最初は本契約じゃなくていいわよ」
何を言われたのか、一瞬わからなかった。
仕事?
本契約?
何の話だ。
考え込むと、自分でも分かるくらい表情が固まっていく。
雨宮はそれを拒絶ではなく、単に考えているだけだと受け取ったらしかった。
「どういういきさつであの現場に来たかは知らないけど」
彼女は足を組み替えながら言う。
「まあ、損はさせないわよ。それに、妙なことをしようとしても、こっちにはこれがあるから」
そう言って、名刺を出したのと同じ内ポケットから、別のものをするりと取り出した。
写真だった。
粗い。
解像度も高くない。
それでも、そこに写っているものが何かはすぐに分かった。
銃を構えた俺。
その少し先で、胸を撃たれて崩れる男。
血の色は暗く潰れていたが、状況だけは十分すぎるほど伝わる。
いつの間にこんなものを、と思う。
走って逃げていた数分の間に用意できるものなのか。いや、そもそも撮っていた人間がいたってことか。どこから。誰が。
頭の中が少し白くなる。
そんな俺の沈黙を、肯定と取ったらしい。雨宮は満足げに小さく頷き、写真を元の場所へしまった。
「まあ、無理に、とは言わないわ」
嘘くさい。
少なくとも、完全に信じられるとは到底思わない。
「だけど、考えておいて頂戴ね。それじゃあ」
それだけ告げると、雨宮は椅子を引いて立ち上がった。
え。
終わりか?
慌てて振り向き、思わず手を伸ばす。
だが、そこで止まった。引き留めたところで、何を言えばいいのか分からない。待てと言って、そのあとどうする。
警察に行くなと言うのか、それとも説明しろと言うのか。どっちにしても、いまの俺の頭でうまく言葉になる気がしなかった。
宙へ浮いた右手は、行き場をなくしてゆっくり下りる。
雨宮はその様子を見ることはなく、木のドアを押して店を出ていった。
ベルが小さく鳴る。
それが止むと、店の中はまた妙に静かになった。
俺は中腰になりかけた身体を、どすんと椅子へ戻した。
背もたれが小さく鳴る。
肺の底に残っていた息を、まとめて吐き出す。
馬鹿みたいに大きい溜め息だった。
そのまま、目の前のアイスコーヒーを一気に煽る。
さっきよりも苦く感じた。
喉をすべり落ちる冷たさだけが妙に鮮明で、味はそのあとから遅れてくる。苦みと酸味が舌の上に残る。旨いはずなのに、もうそんな余裕はなかった。
グラスを置き、テーブルへ視線を落とす。
名刺が、置かれたままだった。
白い、質のいい紙。
雨宮しずく。仲介人。携帯の番号。
それを見て、俺はもう一度、さっきより大きな溜め息を吐いた。
朝の光が、店の窓から少しずつ差し込んでくる。
いつもと同じように、世界は普通の朝を続けていた。
なのに俺の前には、名刺が一枚残っている。
それだけで、もう俺の世界はどこか変わったように思えた。




