第2話 見えてはいけないもの
結局、コンビニには行った。
行ったはいいが、何を買ったのかはあまり覚えていない。おにぎりを二つと、サラダチキンと、安い缶コーヒー。そんなところだったと思う。レジで店員に何か言われて、たぶん「袋いりますか」だったのだろうが、少し間が空いてから「あ、はい」と返した記憶だけが残っている。
部屋に戻ってからも、落ち着かなかった。
買ってきた朝飯をテーブルに広げ、適当に胃へ流し込みながら、何度もさっきの事故を思い返す。
あの道を避けたのは、胸騒ぎがしたからじゃない。もっとこう、説明のつかない感覚だった。危険、とまではいかない。ただ、あのまま進むとぶつかる。そんなふうに“分かった”。
そう。分かった、というのが一番近い。
見えたわけじゃない。聞こえたわけでもない。なのに、分かった。
「……寝るか」
考えても仕方がない。
こういう時、人間はろくな答えを出さない。夜勤明けならなおさらだ。
シャワーを浴びて、ベッドに倒れ込んだ。薄いカーテン越しに朝の光が差している。目を閉じればすぐに眠れると思っていたのに、頭の奥だけが妙にざわついていた。
角。
道幅。
電柱の位置。
さっき見た住宅街の景色が、どうしてか脳内で整理されていく。ここは見通しが悪い。ここは逃げやすい。ここは人と鉢合わせしやすい。そんな具合に。
何なんだよ、と思う。
俺は警察官でもなければ工作員でもない。ただの夜勤バイトだ。
日常の風景をそんなふうに区分けして何になる。ゲームのやりすぎにしたって、限度があるだろう。
それでも、しばらく眠れなかった。
* * *
目が覚めたのはもう夕方に差し迫ったころだった。
スマホを見ると、十七時少し前。寝すぎた気もするし、夜勤前の睡眠としてはこんなものという気もする。頭の重さはだいぶ抜けていた。少なくとも、朝方みたいな現実感の薄さはない。
そこで少し安心する。
やっぱり疲れていただけかもしれない。人間、眠い時は妙なことを考える。夜勤明けにゲームまでやればなおさらだ。
ベッドから起き上がり、顔を洗って、冷蔵庫から水を取り出す。
一口飲んで、部屋の中を見回した。
妙な感じは、まだ残っていた。
「……おいおい」
思わず独り言が漏れる。
机と椅子の間。
脱ぎっぱなしのジーンズ。
壁際に寄せたダンボール。
それらの位置関係が、やっぱり妙に分かりやすい。昨日までと同じ部屋なのに、動線が線で引かれているみたいに頭へ入ってくる。
ここに足を引っかける。
ここを半歩ずらせば通りやすい。
この角はぶつける。
試しに床へ置いてあったコンビニ袋を蹴飛ばさないよう歩いてみると、やけにするりと通れた。別にすごいことじゃない。自分の部屋なのだから当たり前だ。だが、その“当たり前”にしては、少し滑らかすぎる。
俺は眉をひそめ、椅子へ座った。
PCを立ち上げようとして、やめる。ゲームのやりすぎだと思うなら、まず距離を置くべきだろう。こういう時、検証のつもりでいつも通り遊んだら意味がない。……いや、検証するなら逆に触った方がいいのか? などと考え始めて、馬鹿らしくなった。
カーテンを開ける。
夕方の光が、部屋の中へ斜めに差し込んできた。
気分転換でもしようと、軽くストレッチをして、夜勤前に少し早めの食事を取ることにした。
台所の奥で見つけたカップ麺と、冷凍してあった米。健康には悪いが、今さら改まってどうこうする生活でもない。
台所で湯を沸かしている最中、ふと、何の気なしにヤカンの口に手を伸ばす。
はたから見たら馬鹿げてる行為だ。なんせ、湯が湧いたらココから蒸気が溢れるんだから。ただ、妙な胸騒ぎがして、そこに人差し指を差し出す。
数秒後、来る! と思った瞬間、反射的に手を引く。直後に、シュワッと熱い熱気がヤカンの口から漏れた。
今、熱が来るのが分かった。
ゲームでグレネードが飛んでくる時にアイコンが出るイメージが近いかもしれない。
見えないけど、危険が近くにあると体が認識して勝手に避ける感じ。思わず背筋がぞわりとした。
「……」
言葉が出ない。
何だ、これは。
今のは予測か? それとも、偶然か。
いやいや、そりゃ段々熱くなってくるから、蒸気が吹き出るタイミングも分かる、かもしれないだろ。
うだうだ考える頭を振り、思考を投げる。
なにやってるんだ、俺は。そう言いながら食事を済ませ、時間を見て部屋を出た。
今日も夜勤だ。行かなければ。
この得体の知れない違和感と向き合うにしても、生活を止める理由にはならない。
* * *
夕方の駅前は、朝よりよほど人が多い。
スーツ姿の会社員、制服の学生、買い物帰りの主婦、キャリーバッグを引く旅行者。誰も彼もが自分の行き先を持っていて、その流れの中へ入ると、俺みたいな半端な生活をしている人間は少しだけ仲間外れにされているように見える。
いつものように、駅へと向かう人の流れに乗った。
その瞬間、違和感がまた強くなる。
人の間を抜ける道筋が、妙に見えた。
あのサラリーマンは左へ寄る。
前の親子は速度が遅い。
右から来る女子高生二人は並んだまま曲がる。
だから俺は、ここで半歩だけ内側へ入ればぶつからない。
そんな判断が、いちいち意識しなくてもできる。
いや、できるというより、最初から結果だけが頭へ入ってくる感じだ。
退勤ラッシュの中を、俺は驚くほどスムーズに歩いていた。
肩もぶつからない。避ける動作も大げさにならない。ちょっと身体をずらすだけで、人の流れの隙間へ自然に滑り込める。
「……何だこれ」
ぼそりと漏らす。
気持ち悪い。
便利ではある。正直。だが、この感覚は気持ち悪い。
改札近くで急に子どもが走り出した。
母親が慌てて声を上げる。俺の進行方向と交差する。ぶつかる――と思うより先に、足が一歩だけ外へ逃げていた。子どもは俺の脇をすり抜け、転びかけて、後ろから掛けてきた母親が何とか捕まえる。
「ああっ、すみません!」
「いえ……」
子供を抱えながら謝る母親に反射的に返しながら、自分の足元を見る。
今のも、ほとんど考えていない。なのに最短で避けていた。
偶然、では済ませにくくなってきた。
ホームでも同じだった。
人がどの位置へ並ぶか、どこが空きやすいか、どのドア前が流れやすいか。見ようとして見ているわけじゃないのに、情報が勝手に整理されていく。
視界にゲージや文字が浮かんでいるわけではない。
いっそそうならまだ説明もしやすい。病院に行けと言われて終わりだ。
実際はそんなSFみたいなものじゃない。
ただ、世界の見え方だけが少し変わっている。
それが一番、気持ち悪かった。
* * *
倉庫に着いてからも、その妙な感覚は消えなかった。
「二階堂、今日こっちから回って」
班長に言われ、はいと返して持ち場へ入る。
いつも通りの作業。搬入された荷物の仕分け、棚入れ、台車の移動。単純だが、ミスれば面倒で、集中力が切れるとすぐ事故になる。
俺は台車に載せた段ボールを押しながら、ふと違和感に気づいた。
通路が、見やすい。
いや、見やすいというのは変か。
どこを通ればぶつからないか、どこで切り返せば最短か、どの棚の前で人と鉢合わせするかが、やけにはっきりする。台車の向きを少し変えるだけで、通り抜けがずっと楽になる場所も分かる。
試しに、いつもより少しだけ早いテンポで動いてみた。
右へ寄る。パレットを避ける。前から来る別班の作業員とすれ違う。台車の角度を一瞬だけ調整して、棚の陰から出てくる人間を先にやり過ごす。
全部、妙なくらい噛み合った。
「二階堂、今日なんか手際いいな?」
近くで作業していた年上のパートが、感心したように言う。
「……そうですか?」
「ぶつかりそうでぶつからないっていうか。何か、やたら周りが見えてるみたいな」
言われて、愛想笑いのようなものを返す。
本人が一番困ってるんですけど、とは言えなかった。
だが、作業が楽なのは事実だった。
荷物を落としそうになる前に体勢を変えられる。誰かが角から来る気配に先に気づく。高く積まれた箱の不安定さが、視界の違和感として先に引っかかる。
休憩前、棚の上段から小さめのケースが滑りかけた時もそうだった。
誰かが「あっ」と声を上げたのとほぼ同時に、俺の身体は半歩だけ横へ逃げていた。
次の瞬間、ケースが落ちる。さっきまで俺の頭があった位置のすぐ横へ。
「危なっ」
「二階堂、今のよく避けたな!」
別の作業員が笑う。
俺も乾いた笑いを返したが、内心はまったく笑えなかった。
まただ。
落ちてくる、と分かった。
分かったから避けた。音でもなく、視界の端の僅かなズレでもなく、もっと前の段階で。
背中に汗が滲む。
便利だ。
役に立つ。
けれど、これは普通じゃない。
普通じゃないという事実が、じわじわと現実味を増していく。
* * *
休憩時間、俺は自販機の前で缶コーヒーを買っていた。
甘いやつにしようかブラックにしようか少し迷って、結局安いブラックを押す。何となく、甘いものを飲む気分じゃなかった。
自販機の脇に寄って缶を開け、一口飲む。
苦い。眠気覚ましにはなるだろうが、うまいかと言われると微妙だ。
スマホを取り出し、「ゲーム 現実 残像」とか「FPS やりすぎ 幻覚」とか、馬鹿みたいなワードで検索してみる。
当然、それっぽいものは出てくる。目の疲れ、自律神経、睡眠不足、ストレス、脳の錯覚。どれもあり得そうで、どれもぴたりとは来ない。
症状の説明文を読みながら、ふと気づいた。
休憩スペースへ入ってくる人間の動きが、また見えている。
ドアが開く。
班長が入ってくる。
その後ろに、台車を押した新人。
新人は左足の運びが少し雑で、台車の車輪が自販機の角へ当たりそうになる。
当たる、と思った瞬間、俺は無意識に半歩だけ横へ避けていた。
直後、ガツンと鈍い音がして、自販機の脇へ台車がぶつかる。
「す、すみません!」
「大丈夫、気を付けてね」
反射的に答えながら、心臓が嫌な打ち方をした。
いま避けたのは、自分へ向かってきたからじゃない。
台車の軌道がぶれると“分かった”からだ。
俺は検索画面を閉じ、スマホをポケットへ突っ込んだ。
もう、気のせいではない。
少なくとも、自分の中ではそうだった。
何かがおかしい。
世界の見え方が、おかしい。
それが病気でも疲労でも、何でもいい。
だが、このまま放っておいていい感じじゃない。少なくとも、そう簡単には。
とはいえ、今すぐ病院へ駆け込めるわけでもない。もう夜だし、金だって余っていない。結局、俺にできるのは、せいぜい様子を見ることくらいだ。
結局こうやってズルズル後回しにしがちだよな、と少しだけ笑いそうになる。
ゲームだったら、こういう時はもっと分かりやすい。
チュートリアルがあって、新機能の説明が出て、便利な使い方まで教えてくれる。現実にはそんなものはない。得体の知れない何かが起きても、自分で勝手に怯えて、自分で勝手に処理するしかない。
夜勤が終わる頃には、さすがに疲れが溜まっていた。
だが、朝ほどの眠気とは違う。頭のどこかだけが妙に冴えている、嫌な疲れ方だ。
外へ出る。
冷たい朝の空気が頬に当たる。
倉庫街の端を抜け、駅とは逆の道へ少しだけ歩いた。真っ直ぐ帰る気になれなかったのだ。風に当たれば少しは落ち着くかと思ったが、そんなことはなかった。
空は白み始めている。
遠くでトラックが走る音。電線にとまった鳥の声。朝の気配が、ゆっくりと街へ広がっていく。
その中で、ふいに違和感が体を巡る。
さっきまでとは質の違う違和感だった。
ぶつからない、避けられる、作業が楽になる、そういう生活の延長の感覚じゃない。もっと直接的で、もっと嫌な感じ。
危ない。
その言葉だけが、頭の奥へ落ちてきた。
「……っ」
足が止まる。
呼吸が浅くなる。
道の先には、古びた雑居ビルがある。昼間はほとんど人気がない、小さな事務所や倉庫ばかり入った建物だ。その裏手へ続く細い通路に、視線が吸い寄せられた。
何も見えない。
人影もない。
音だって、遠くの車の音しか聞こえない。
なのに、その先だけが妙に違和感がある。
まるでゲームで、角の向こうに敵がいるかもしれない時みたいに。
「……何だよ、それ」
自分でも分かるくらい、声が硬かった。
行くな、と本能が言っている。
それでも、視線はそこから外れない。
雑居ビルの裏。
細い通路。
朝の白い光がまだ届ききらない、半端な暗がり。
その奥から、不意に何かを引きずるような音がした。
次いで、押し殺したような短い声。
人の声だった。
俺は反射的に息を止めた。
心臓が一拍遅れて、大きく跳ねる。
――関わるな。
頭ではそう分かっていた。
けれど同時に、あの通路の先が“危ない場所”として、ひどくはっきり見えてしまっていた。
何かが起きている。
そう確信したところで、俺の足はまだ動けずにいた。




