第15話 新しい生活、次の仕事
あの日、雨宮と契約を結んでから、だいたい一か月が過ぎた。
思っていたよりも、というべきか。
思っていた通り、というべきか。
少なくとも、話に聞いていたような“物騒な仕事”は、まだ一度も回ってきていない。
まあ、当然と言えば当然だ。
そんなにぽんぽん殺しだの暗殺だのが飛び交っていたら、それはもう法治国家としてどうなんだという話になる。いや、裏では飛び交っているのかもしれないけど、少なくとも俺のところにはまだ来ていない。
代わり、と言っていいのかは分からないが、警備まわりの仕事を何件かこなしていた。
もちろん、俺ひとりではない。
信頼だの実績だの、そういうものが足りないのだろう。毎回アルフとセットだった。
アルフはこの手の仕事にも慣れているらしかった。
あの容姿だから、最初は舐められることもあるんじゃないかと思っていたが、実際はそうでもない。現場に入れば、知己の仲らしい別の警備担当と気さくに世間話をしていたり、先方の使用人や案内役に自然と溶け込んだりしている。
外では例のキャラ――つまり、あの明るくて少しきゃぴきゃぴした“活発女子”の顔で通しているらしく、特に年配の警備やスタッフには妙に可愛がられていた。
……まあ、中には別種の“そういう”視線で見ている連中も、それなりにいたが。
さすがに手を出すところまでは行っていない。アルフが上手くいなしているのか、周りが見ているのか、その両方か。いずれにせよ、俺がそこへ口を出す必要はなかった。
というか、俺は俺で、たいてい壁の花だった。
触らぬ神に祟りなし。
それに、俺が前へ出たところで何かが良くなるわけでもない。愛想のよさで場を回せるタイプじゃないし、会話の中心になれる人間でもない。だったら大人しく空気になっている方が、まだ仕事はしやすい。
仕事の内容も、思っていたものとは少し違っていた。
何やら最近、政治屋だかその周辺だかで暗殺未遂があったらしい。
そのせいで、公的なSPとは別に、私費で警備を強化する連中が増えているのだとか。
詳しい事情の説明はないが、それは当然だろう。
俺たちはただ言われたように警備するだけだ。
料亭での数時間。
どこかのビルの一室で行われる、何だかよく分からない取引のあいだの小一時間。
高そうなホテルのラウンジで、神経を研ぎ澄ませる数分。
正規の警備みたいに、スーツを着てインカムをつけて、直立不動で扉の前に立つ、なんてことはなかった。
普段着のまま、それとなく周囲を歩く。客を装い、通行人を装い、あるいは店の関係者のふりをして、その場を見張る。
案件ごとに多少違いはある。
最初に貸しオフィスみたいな場所で顔合わせすることもあれば、現地集合で、結局最後まで他の警備担当とろくに言葉も交わさず終わることもあった。
人数もまちまちだ。
だが、大体十人前後。少なくとも、俺ひとりがどうこうできる規模の仕事じゃないことだけは分かる。
最初のうちは、また何か襲撃でもあるんじゃないかと内心びくびくしていた。
料亭の襖の向こうで誰かが椅子を引く音、ホテルの通路の奥で急に人影が動く気配、それだけで気を張る。
だが、何も起きなかった。
拍子抜けするくらい、何も。
やっぱり、最初の尾行の時みたいなことの方が異常だったのだろう。
だから、こんな楽な仕事でいいんだろうか、と思うことはあった。
仕事自体は、正直かなり“ぬるい”部類だと思う。
少なくとも、倉庫で重い荷物を運んで汗だくになるより、体力的にはずっと楽だ。緊張はするが、それだけ。
そのくせ、報酬は美味しかった。
この一か月で、支払われた額は、前の倉庫仕事の年収に迫っている。
毎回、手渡しで現金。茶封筒。
中身の確認もその場ではしない。しないまま持ち帰り、金額にびくびくしながら部屋の引き出しにしまう。
家には茶封筒がじわじわと溜まっていった。
机の引き出しの奥、クローゼットの箱の中、今まで持ったこともない、まとまった現金が家の中にあるという事実に少しばかりソワソワする。
アルフ経由で、「そのうち個別の口座を用意する」と聞かされてはいるので、それまではまあ、このままでいいのだろう。
口座開設にそんな時間がかかるのか、とは思った。
だが、黒い仕事だ。普通の手続きとは違う理由でもあるのだろう。そう思って、それ以上は深く考えないことにした。
そんな具合だから、倉庫の仕事はもう辞めていた。
退職の連絡をした時は、少しばかり残念そうにはされた。
けれど、最後は思ったより快く送り出してくれたので、あそこは案外いい職場だったのだと思う。少なくとも、俺みたいな半端な人間を雑に使い潰すばかりの場所ではなかった。
だからこそ、少しだけ後ろめたさもある。
だが、もう戻る気にはなれなかった。
そんな、平穏と言えば平穏な、けれどどこか薄く歪んだ日常を送っていたある日。
アルフから呼び出しが入った。
* * *
チリン、とお淑やかなベルの音が鳴る。
契約の時にも訪れたバー、サイレント・ショット。
いまでは何度か仕事の前後に立ち寄り、軽く食事を取ったり、連絡を受けたりする場所になっていた。最初はあんなに身構えたのに、人間というのは慣れるもんだな、と自分でも思う。
ちなみに、ここでの食事や酒は契約者なら無料らしい。
最初にそれを聞いた時は驚いたが、おかげで大いに世話になっている。正直助かる。
時間はちょうど昼時だった。
店内は相変わらず薄暗い。
だが、奥のキッチンからはいい匂いが漂ってきている。炒めた油と醤油っぽい香ばしさが混じっていて、空腹を思い出させる匂いだった。
カウンターへ目をやる。
高いスツールに腰かけ、足をぶらぶらと揺らしながら、オレンジジュースらしきものをストローで吸っているアルフの姿があった。
ホットパンツにパーカー、革靴。以前と同じような格好だ。多分、細かい服は違うんだろうが、ファッションに無頓着な俺にそんな差が分かるはずもない。たぶん一緒だ。
ドアベルの音に気づいたのか、アルフがこちらを振り向く。
ぱっと顔を明るくして、声を上げた。
「あ、恒一さん! お疲れ様ですー!」
少なくともここは身内の場だと思うのだが、アルフは基本的に外向けのテンションで通すことが多い。本人曰く、「いつ他のお客さんが来るか分からないので」らしい。
別に俺が困るわけでもないので、好きにさせていた。
「お疲れ」
軽くそれだけ返し、ひとつ間を空けてカウンターへ座る。
ちょうどそのタイミングで、キッチンから皿を持った女が出てきた。
バーのバーテンダーをしている、あの黒髪の女だ。
大盛りのチャーハンが、アルフの前へ置かれる。
相変わらず言葉少なだし、何回顔を合わせても距離感はまったく変わらない。そもそも名前すら教えてもらっていない。アルフは知っているらしいが、「心を開いた相手にしか名前を言わないし、人前で呼ばれたくない人なんです」とのことだった。
皿を置いた彼女に俺も声をかけた。
「すみません、俺にも同じのを」
黒髪の女がこちらを見る。
表情は何も変わらない。そのまま一度だけこくりと頷き、キッチンへ引っ込んでいく。
と思ったら、すぐに水の入ったグラスを持って戻ってきた。
それを俺の前へ置きながら、短く言う。
「材料が切れた。ナポリタンならある」
「あ、じゃあそれで」
再び、頷きだけ。
女はまたすっとキッチンへ戻っていった。
不愛想なのは確かだ。
だが、嫌われているわけではない。最近ではそのくらいのことも、何となく分かるようになっていた。
「それで」
俺たちのやり取りが一段落するのを待っていたらしく、アルフがスプーンを止めて話し始める。
「今日のお話なんですけど」
口元には笑み。
「来週、ちょっと大きい仕事があるそうなんです」
言いながら、スプーンをぴこぴこと動かす。
相変わらず、どちらが本来の顔なのか一瞬分からなくなるくらい自然だ。こうして見ていると、本当にただの女の子にしか見えないのだから始末が悪い。
「今までは外回りの仕事ばっかりだったんですけど、今回はちょっと違いまして」
違う。
その一言で、背中の奥に小さく緊張が走る。
警備ではないのだろうか。
俺は黙って先を促すように頷いた。
「今度、お金持ちが集まる海上パーティがあるんですが」
アルフは何でもないように言った。
「そこに潜入してもらいたいんです」
潜入?
アルフは気にした様子もなくチャーハンをもう一口食べ、ごくんと飲み込んでから、また続けた。
「大型のクルーザーに、招待客は二百人前後。招待客を装って侵入。対象は、主催かつクルーザーの所有者であるオーナーの所有物です。対象を確保して、その後問題がなければパーティ終了後に離脱。最悪の場合は、対象を破棄して撤退。――とのことです」
すらすらと要項を伝える際に、一瞬だけ彼の素の表情が顔を覗かせる。
指摘することなく、気になる点だけ聞く。
「対象ってのは?」
アルフが肩をすくめる。
「それが、まだ知らされてないんですよ」
「知らされてない?」
「はい。後で依頼人から改めて連絡があるとか。ただ、一応、手持ちできる範囲のものではあるらしいですね」
なるほど。
いや、納得はしづらいが、そういうものなのだろう。依頼人側も慎重なのかもしれないし、俺みたいな末端にはぎりぎりまで情報を出さないだけかもしれない。
「基本的には、私と恒一さんがペアで出席します」
アルフはいつの間にか空になった皿を少しだけ横へ寄せる。
「招待状はこちらで用意するので問題ありません。ただ――」
そこで指を一本立てる。
「武器の類は持ち込みできないので、その点だけは気をつけないとですねー」
そりゃそうだ。
そんな閉鎖空間の金持ちパーティで、警備がゆるいはずがない。
クルーザーなんて、陸より逃げ道が少ないぶん、持ち込みのチェックはもっと厳しいだろう。
心許ないのは事実だ。
だが、ないならないでやるしかない。
「それで」
アルフがさっきまでの軽い調子のまま、スッと身を少し寄せた。
「恒一さん、スーツって持ってます?」
「スーツ?」
「もちろん、パーティ用の」
あるはずがない。
俺は無言で首を横に振った。
「わかりましたっ!」
アルフはぱっと顔を明るくする。
「じゃあこの後、仕立てに行きましょう!」
「仕立て」
「はい。御用達のお店があるんです」
そして畳みかけるように続ける。
「あ、お値段は気にしなくて大丈夫です! お仕事用なんで、こっちで持ちますから!」
そう言って、グラスのオレンジジュースを一気に飲み干す。
喉が鳴る音が、妙に元気だ。
「ご飯終わるころにまた来ますから、ゆっくりしててくださいね! それじゃ、また!」
言うだけ言うと、アルフは奥の扉へ消えていった。
ばたばたと忙しない足音が遠ざかっていく。
俺はしばらく、その方向を見たまま座っていた。
潜入、か。
今さらながら、次の仕事について考える。
当然、そんなものはやったことがない。
勝手が分からない。
いや、待て。アルフは“二人で潜入”と言っていた。ということは、メインで動くのはアルフで、俺はその補助。極端に言えば、パーティへ自然に入るための相方、賑やかし、案山子みたいなものかもしれない。
うん。
そう思うと、少しだけ気が楽になってきた。
俺が華麗に立ち回る必要はない。
アルフが主導して、俺は後ろについていけばいい。
たぶん、そういうことだ。
ひとりでうんうん頷いていたところへ、キッチンから黒髪のバーテンダーが出てきた。
大盛りのナポリタンを抱えている。
ごとり、と目の前へ皿が置かれる。
山盛りだ。どう見ても“普通”の量じゃない。
「ごゆっくり」
短くそれだけ言う。
「……どうも」
いや、旨そうだ。旨そうなんだが。
でも俺、大盛りでとは言ってないんだけどな。
少しげんなりしながらも、出してもらったものを残すのは悪い気がする。
腹を括って、いざ、とフォークを取った。
* * *
アルフが戻ってきた頃には、俺はややグロッキーになっていた。
皿は空だ。
完食した。
したけど、腹がきつい。パンパンだ。ナポリタンというのは、見た目以上に腹へ来る。しかも大盛りだ。何でバーでこんなガッツリ飯が出てくるんだ。
「お待たせしましたー!」
アルフは相変わらず元気だった。
「……ああ、おかえり」
「食べましたね!」
「食べたよ」
いや、食べるしかなかっただろ。
そう思いながら水を一口飲む。
腹の中でナポリタンがずっしり主張していた。
……うん。
無理はしないでおこう。
そう心の底から思いながら、俺は重たい腹をさすった。




