第1話 夜勤明けの帰り道
朝というにはまだ少し早い、白みかけた空だった。
夜通し動いていた倉庫のシャッターが開くたび、冷えた外気が土埃みたいな匂いを運び込んでくる。春先とはいえ、夜勤明けの身体にはまだ少し堪える。
俺――二階堂恒一は、バーコード読み取り機を所定の棚に戻し、軍手を外して、小さく息を吐いた。
「お疲れ、二階堂くん」
先に上がる同僚の一人が、気の抜けた声で言う。
「お疲れさまです」
自分でも驚くくらい平坦な声が出た。まあ、毎度こんなものだ。
愛想が悪いというより、単純に朝方はもう思考が鈍ってる。夜勤明けなんて、誰だってそんなもんだろう。
今日の作業は比較的ましだった。
重い荷は少なかったし、クレーム対応の面倒もなかった。だからといって元気が余るわけでもない。肩は重いし、腰はだるい。眠気はとうに限界を越えて、逆に少しだけ頭が冴えている感じがする。
ロッカーから財布とスマホを取り出し、薄手のパーカーを羽織って外に出る。
倉庫街の朝は、人が少ないわりに無機質な音がやけに多く感じる。遠くでフォークリフトがバックする電子音。トラックのエンジン。アスファルトを撫でる風。あと、コンビニ帰りらしい誰かのビニール袋の擦れる音。
空は明るくなりかけているのに、街はまだ夜の延長みたいだった。
こういう時間は嫌いじゃない。
好きかと言われると別にそうでもないが、昼間の人間みたいにしゃきしゃき生きろと言われるよりは、たぶんこっちの方がましだ。
駅までの道をだらだら歩きながら、スマホを見た。
通知は特にない。友人からのメッセージも、バイト先のシフト変更も、今日は何も来ていなかった。
いいことなのか悪いことなのかは知らないが、少なくとも朝一番から頭を使わなくて済む。
適当にニュースアプリを流し見する。芸能人の不倫だの、海外の株価だの、どうでもいい見出しが並んでいた。親指を滑らせて閉じようとしたところで、ゲームのアプデ情報が目に入る。
『新シーズンでSMG下方修正、ARのリコイル調整』
ああ、また調整入ってたのか、と思う。
昨日も何戦かやって、近距離の撃ち合いが妙に荒れる気がしていた。武器バランスの調整なんて、だいたい文句が出る。とはいえ、結局は慣れた奴が勝つだけだ。そういうものでもある。
SNSではもう騒ぎになっていた。
運営が終わってるだの、いやまだ強いだの、プロの切り抜きだの。指先だけで流しながら、無意識にいくつかの意見を見比べる。自分ではそこまで熱心なプレイヤーだとは思っていないが、こういう話だけは自然に頭に入る。
別に大会に出たこともない。
配信してるわけでもない。
ランクだって自慢できるほどじゃない。
ただ長くやっているだけだ。
人より少し、マップの形とか、角の危なさとか、射線の通り方とかを考える癖がついているだけで。たまに一緒に遊ぶ友人からは、立ち回りは上手いよな、と評価を貰う。
電車に揺られ、乗り換えて、自宅最寄りの駅に着く頃には、空はだいぶ明るくなっていた。朝の通勤通学の流れと、夜勤帰りの人間はどうしても噛み合わない。
妙にしゃきっとした顔をした会社員や、眠そうにあくびする学生の間を抜けながら、ああ俺はいまから寝るんだよな、と思う。
それでいて、帰ったらたぶん一戦だけやる。
意味はない。
健康にも悪い。
さっさとシャワーを浴びて寝た方がいいに決まってる。
でも、夜勤明けに一戦だけやるのが、もう習慣になっていた。
頭の中に残った仕事の雑音を、一回別の音で上書きしないと落ち着かないのだ。
* * *
アパートは駅から徒歩十分ちょっと。築年数だけは立派で、壁は薄いが家賃も安い。外観はくたびれているが、寝るだけの場所と割り切るなら十分だった。
部屋に入るなり靴を脱ぎ散らかし、冷蔵庫を開ける。
水、安いエナジードリンク、特売で買ったゼリー飲料。固形物はなかった。コンビニに行くか、と一瞬思ったが、まずは座りたかった。椅子に腰を下ろし、PCの電源を入れる。
機械音が小さく唸り始める。見慣れた起動画面。デスクの上には半分空いたペットボトルと、食べかけのスナック菓子の袋と、読みもしないまま積んだ本が二冊。生活感というより、生活の残骸みたいだな。
ログインして、いつものFPSを起動する。
ソロで一戦だけ。負けたら寝る。勝っても寝る。そう決めてマッチングをかけた。
ロード画面のマップを見た瞬間、頭が少しだけ切り替わる。
夜勤帰りの重たい脳みそに、乾いたスイッチが入る感じがある。
この感覚は昔から好きだった。
現実はだるい。人間関係は面倒だし、金は足りないし、身体は疲れる。けれどゲームの中には、ルールがある。危ない場所には危ない理由があって、通りやすい場所には通りやすい理由がある。理不尽がないとは言わないが、少なくとも現実よりは分かりやすい。
試合が始まる。
味方が開幕から突っ込み、すぐに一人落ちた。
ああ、そういう感じか、と思う。焦って詰めても仕方がない。俺は正面の撃ち合いが特別強いわけじゃない。エイムだけなら、上にはいくらでもいる。だから基本は無理をしない。まず危ない角を切る。射線を減らす。通路の長さを見る。引ける位置を確保する。
前に出るにしても、死なない出方がある。
音を拾う。
足音一つ。リロード。遠くの発砲。
味方のカバーが間に合わないのを見て、正面を捨てて横へ流れる。敵が顔を出す位置はだいたい決まっている。案の定、相手は短く覗いた。撃つ。倒しきれない。けれど深追いはしない。別角度からもう一人来る。
クロスヘアを置いて待つ。
出てきた相手を落として、すぐに引く。
味方のカバーが間に合って敵がダウン。アシストが一つ付いた。
「……まあ、そんなもんか」
誰もいない部屋で独り言をこぼす。
派手じゃない。
キル数が飛び抜けるわけでもない。
けれど、こういう地味な積み方で勝つ試合は嫌いじゃなかった。
結局、その一戦は勝った。
最後も大立ち回りではなく、時間を使わせて敵を焦らせただけだ。リザルトは悪くない。上出来でもない。いつも通りの範囲だった。
満足したわけでもないが、もう一戦やる気力もない。
俺はヘッドセットを外し、ゲームを終了した。
部屋が静かになる。
その静けさの中で、妙な違和感が残った。
「……ん?」
まばたきをする。
モニターはもうデスクトップ画面だ。さっきまでのマップも、敵も、クロスヘアもない。なのに、視界の真ん中あたりに、何かがまだ残っている気がした。
残像、というのとも少し違う。
目に焼きついた光の跡ではなく、もっと感覚に近い何かだった。
俺は目頭を押さえ、首を回した。疲れ目か。寝不足か。夜勤明けにゲームなんかやるからこうなる。
そう思って立ち上がる。
その瞬間、自分でも妙なことに気づいた。
机の角。
ベッドまでの動線。
床に置きっぱなしの鞄の位置。
それらが急に、“意味のある配置”として見えたのだ。
ここを通ればぶつからない。
この角は少し邪魔だ。
椅子を半歩引けば動きやすい。
そんなの、普段だって無意識にやっていることではある。
あるのだが、今はそれが妙にはっきりしていた。部屋の中の物の位置が、ただの生活用品じゃなく、遮蔽物とか障害物とか、そういう別の分類で頭に入ってくる。
「いや……さすがに疲れてるな」
苦笑する。
笑ったつもりだったが、うまく笑えていたかは分からない。
とりあえず水を飲む。ぬるい。
冷蔵庫の中身をもう一度確認して、やっぱり何か買いに行くかと思った。エナドリだけで寝るのも身体に悪いし、朝飯代わりになるものくらいは欲しい。
財布とスマホだけ持って外へ出る。
アパートの階段を下りたところで、またあの違和感があった。
道路脇のブロック塀。
細い路地。
停められた自転車。
電柱の影。
住宅街の朝の風景でしかないはずなのに、どういうわけか、頭のどこかがそれを別の意味で読んでいた。
この道は見通しがいい。
この角は向こうが見えない。
ここに立つと通行人とぶつかりやすい。
この位置なら脇を抜けやすい。
ゲームのしすぎだ、と自分に言い聞かせる。
そうでも思わないと、説明がつかない。現実の街並みを相手に、何を考えているんだ俺は。
だが、気味が悪いことに、それは妙に当たっている気がした。
前から来た通学中らしい女子高生二人組を、身体が勝手に避ける。
いや、避けるというより、ぶつからない位置を先に選んでいた。自分では自然に歩いているつもりなのに、足がやけにすんなり動く。
コンビニまではあと少し。
角を一つ曲がれば早い。
けれど、その角の手前で、俺は足を止めた。
「……?」
いつもなら何も考えずに曲がる細い道だった。
アパートの住民や近所の人間しか使わないような、車も通れない生活道路。人影はない。音もない。見たところ危険なものは何ひとつない。
それなのに、嫌だった。
うまく言えない。
胸騒ぎ、というのとも違う。もっと機械的で、乾いた感じだ。あの先は通りたくない。そっちは危ない。そんな判断だけが、妙にはっきりある。
「何だよ……」
自分で考えていて、意味が分からなかった。
危ないも何も、ただの住宅街だ。朝だぞ。ゾンビが湧くわけでも、待ち伏せされるわけでもない。
少し立ち尽くして、それから俺は肩をすくめた。
まあ、疲れてるなら疲れてるでいい。遠回りしたところで一分二分の話だ。意味の分からない感覚に従うのも馬鹿らしいが、わざわざ逆らうほどでもない。
俺は角を曲がらず、外側の道を回る方を選んだ。
その、数秒後だった。
ガシャン、と硬い音が響いた。
続いて短い悲鳴と、何かが倒れる音。
反射的に顔を上げる。
音のしたのは、さっきまで俺が立っていた角の向こうだった。
思わず小走りで近づいて、けれど角を曲がる直前で足が緩む。そこもまた、変な感じがしたからだ。結局、壁際からそっと覗くようにして向こうを見る。
細道の先で、自転車同士がぶつかっていた。
一台は配達員らしい電動自転車。もう一台は学生服を着た男子高校生。どちらも派手な怪我ではなさそうだが、片方は尻もちをつき、片方は自転車を倒したまま悪態をついている。
「っつ……前見て走れよ!」
「そっちこそ……!」
どうやら大事故ではない。
ほっとしかけて、それでも胸の奥が妙に冷えた。
さっき俺が感じた“嫌な感じ”は、これか。
もし何も考えずにあの道へ入っていたら、ぶつかっていたのが俺だった可能性もある。
あるいは、巻き込まれていたかもしれない。
そう思った瞬間、自分の背中にじわりと汗が滲むのが分かった。
「……いや、偶然だろ」
口に出してみる。
朝の空気に溶けるような、小さな声だった。
偶然。
ただの偶然。
たまたま嫌な予感がして、たまたま避けて、たまたまその先で事故が起きただけ。
それで説明はつく。つくはずだ。
でも、だったらどうしてあんなふうに、あの道の先だけが“危ない位置”みたいに思えたのか。
壁に背を預けたまま、俺は自分の指先を見る。
わずかに震えていた。夜勤明けだからか、寝不足だからか、それとも別の何かかは分からない。
視界の向こうでは、事故処理が始まっていた。
近所の住人が出てきて、配達員に声をかける。学生が倒れた自転車を起こす。何でもない日常の、何でもない揉め事だ。
その何でもなさが、逆に気味が悪かった。
俺だけが、少しだけ違うものを見たみたいで。
手をポケットに突っ込み、ゆっくり息を吐く。
笑い飛ばすには、少しだけ、出来すぎていた。
現実がゲームみたいに見えるなんて、そんな馬鹿げた話を。
ついさっきまでなら、俺自身が鼻で笑っていたはずなのに。
朝の光はもう、夜の名残をほとんど押し流していた。
その白っぽい明るさの中で、俺はしばらく動けなかった。
あの道を避けた理由を、まだ言葉にできないままで。




