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人間不信とオリガミ起動

次の日から、学校に行けなかった。


アラームが鳴っても、ベッドから起き上がれなかった。制服に袖を通す気にもならなかったし、顔を洗うことすらめんどくさかった。


何をしても意味がないように感じた。何もやる気がおきなかった。


朝、インターホンが何度も鳴っていた。間違いなく千穂だろう。でも俺は布団から出なかった。スマホはずっと電源を切ったまま。通知の音すら聞きたくなかった。


もう何もわからなかった。


あれだけ俺のつらいときに寄り添ってくれた千穂が浮気?あれだけ俺のために動いてくれた千穂が、俺を裏切った?そんなの、ありえるか? どう考えても、おかしいだろ。


なのに、ホテルから出てくる二人の姿が、何度も頭の中に蘇る。千穂のコート。うつむいた顔。隣の男。ゆっくり歩いていく後ろ姿。あれが現実じゃなかったらよかったのに、って何度思っても、脳が勝手に再生を始める。


それだけじゃなかった。実際には見てもいない場面まで、勝手に想像してしまう。ホテルの中で、千穂とあの男が裸で絡み合っているところ。千穂が男に抱きついて、俺の知らない顔をしている。声を漏らして、髪を乱して、何もかもを委ねてる。そんな光景を、俺の頭は止めてくれなかった。


「違う、ちがう、そんなの知らない……!」


何度もそう言って、頭を振って、目を閉じても、浮かんでくるのは千穂のあのコート、そして見えもしなかったベッドの上での姿だった。実際に見てないのに、ありありと思い描いてしまう。


胸のあたりが苦しくて、呼吸も浅くなる。胃が縮こまって、喉の奥が熱くなる。ひとりで勝手に想像して、勝手に苦しんで、勝手に千穂を憎みそうになる。


「……なんで!なんでなんだよ!」


自分の中の千穂と、目の前で見た千穂と、想像の中の千穂が全部バラバラで、頭の中がぐちゃぐちゃだった。涙も出ない。怒る余裕もない。ただ、体が熱くなったり冷たくなったりを繰り返して、苦しいだけだった。


それでも、千穂のことを恨めない。あれだけ俺のそばにいてくれた人を憎むなんて無理だった。父さんが死んで、何もかもどうでもよくなって、まともに学校にも行けなかったとき――千穂だけは、俺のことを見捨てなかった。


家にひきこもっていて抜け殻だった俺に、普通に話しかけてくれた。飯も食わずにボーッとしてた俺に、おにぎりを押しつけてきた。何も言わずに、黙って横に座っててくれた。


あのとき、千穂がいてくれなかったら、俺は本当に終わってたかもしれない。千穂は、俺にとって命の恩人だ。大げさじゃなく、本気でそう思ってる。だから、憎めない。腹が立ってるのに、心のどこかで「それでも千穂だから」って思ってしまう。


じゃあ、あれは仕方なかったってことにすればいいのか。たかが体の関係。そう割り切ればいいのか。心までは奪われてないって、そう信じればいいのか。そんなふうに考えて、自分を納得させようとしたけど、うまくいかなかった。


そもそも、千穂は俺のことをどう思ってるんだ? 俺と一緒にいるのも、全部惰性だったんじゃないか?


嫌いじゃないけど好きでもない、みたいな温度感で、なんとなく一緒にいただけなんじゃないのか?


俺が相思相愛だと勘違いしてただけか?


もうわけがわからなかった。千穂のことを信じたい気持ちと、信じきれない現実の記憶が、ずっと頭の中でぶつかり合っていた。


その瞬間、胃の奥から突き上げるような感覚がきた。吐き気が一気にこみあげてきて、俺はトイレに駆け込んだ。便座にしがみつくようにして、何度も吐いた。


食べていないから何も出ないのに、それでも吐き続けた。涙が勝手に出て、鼻水も止まらなかった。呼吸もうまくできなかった。


気づいたら、二時間近くトイレにいた。体力も感情も全部すり減って、動けなかった。床に倒れ込むみたいに座り込んで、ただ呼吸だけしてた。


鏡に映った自分は、ひどい顔をしていた。目は真っ赤で、髪もぐちゃぐちゃで、服もシワだらけ。何もかもが情けなかった。


「みっともないな……」


声に出したら、余計に自分が惨めに思えた。もし父さんがこんな俺を見たら、何て言うだろうな。


「男だったらシャキッとしろ!」って言うかもしれない。いや、「そうか、つらかったなあ」って言ってくれるかもしれない。どっちでもいい。もう、何でもいい。父さんに会いたい。


立ち上がる気力はなかった。だから、這って向かった。父さんの部屋の方へ。廊下をゆっくり進んで、部屋の前で止まった。ドアの前で、しばらく動けなかった。


心のどこかで、ドアが急に開いて「正太郎?どうした?」って、父さんが出てきてくれるんじゃないかと思っていた。


でも、ドアは開かなかった。声も聞こえなかった。部屋の中はずっと静かだった。


そっか。父さん、もういないんだった。千穂は、どこいっちゃったんだろ。気づいたら、俺の周りから大切な人たちがいなくなっていた。


俺はその場にしゃがみ込んで、ただドアを見つめていた。誰も出てこないとわかっているのに、目が離せなかった。けれど、じっとしているのも限界だった。


床に手をついたまま、這い上がるようにドアにしがみついた。指先に力を込めて、ゆっくりと立ち上がる。情けないほど体が重かった。それでも、父の気配に触れたくて――俺はドアノブに手をかけた。


そして、ゆっくりと父の部屋のドアを開けた。


少しでも父の近くにいたかった。何も残っていないとわかっていても、そこに残る匂いや空気に、すがりたかった。


意味も理由もわからない。ただ、胸の奥からこみ上げてくる感情に突き動かされて、口が勝手に動いた。


「人間って、なんなんだよ……」


誰にも届かないはずの独り言を、小さくつぶやいた。


※※※


『ぴーん、ぽーん、ぱーん、ぽーん。』


場違いなほど軽快な音が、父の静まり返った部屋に響いた。


『オリガミ、起動しました。』


続いたのは、透き通るように澄んだ女性の声。感情らしき抑揚はないが、どこまでも整った音質で、ただひたすらに美しかった。


『お兄様のご質問、「人間」についてお答えします。』


『人間とはヒト科ヒト属に属する生物であり、脳が高度に発達し、言語・社会性・道具使用・創造力を持つことを特徴とします。これは生物学的な定義ですが、哲学的、心理学的な視点からも定義可能です。説明いたしますか?』


「……え?」

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