幼馴染との甘々な日々
それから、俺の生活は少しずつ元に戻っていった。
食事は簡単なものを自分で作ることもあったが、栄養バランスを考えて宅食サービスを利用することも多かった。
父の遺産があったおかげで、贅沢はできないものの、自立するまでの間、生活に困ることはなさそうだった。生きていくための十分なお金を残してくれた父には、本当に感謝している。
親族もみなそこそこ裕福で、物語に出てくるような遺産を狙う人間は一人もいなかったのも幸いした。ある意味、運がよかったんだと思う。
そんなある日のことだった。
※※※
夕方のリビングでぼんやりしていると、玄関のインターホンが鳴った。出てみると、千穂が小さく手を振って立っていた。
「こんにちは」
その一言に、どこかほっとした。俺はドアを開け、彼女をリビングへと招き入れた。ソファに腰を下ろす千穂に「お茶でも飲む?」と声をかけようとしたそのとき、彼女のから言葉が飛んできた。
「しょうちゃん、ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ。最近はな、宅食も頼んでるし、自炊も……たまには」
「そうなんだ。何作ったの?」
「……目玉焼きと、冷凍チャーハン」
千穂は呆れたようにため息をついた。
「それ、自炊って言わないよ?」
「いいんだよ、ちゃんと栄養バランスは取れてる。アプリがそう言ってた」
「アプリじゃなくて、私が心配してるの」
そう言いながら、千穂は勝手にキッチンに回り込み、冷蔵庫の中をのぞき込んだ。
「……冷蔵庫に野菜、ほとんどないよ」
「バレたか」
「はぁ……もう、今度また作り置き持ってくるね」
「悪いよ。千穂だって忙しいだろ」
「忙しいけど、しょうちゃんの方が心配だもん。放っておけるわけないよ」
そう言いながら、千穂は俺のほうをじっと見て、少しだけ眉を下げた。
俺はなんとなく視線を逸らしてしまう。
「……ありがとうな」
「気にしないでいいよ。私がやりたいからやってるだけだから」
言葉に詰まりそうになった。どう返せばいいか、わからない。でも、その優しさが、どれだけありがたいかはちゃんと伝えたかった。
「……千穂がいてくれて、本当によかったよ」
「……うん。私も」
照れくさそうに、けれど嬉しそうに微笑むその顔を見て、俺の胸の中も、少しだけあたたかくなった。
祖父母やおじさんたちも、俺のことをずっと気にかけてくれている。生活の細かいことを電話で聞いてくれたり、様子を見に立ち寄ってくれたりしてくれていた。
俺には、ちゃんと支えてくれる人たちがいる。だからこそ、なんとか日常を取り戻せたのだと思う。
そして、その中心に千穂がいてくれた。それが一番の支えだった。
※※※
しばらく遠ざかっていた趣味の折り紙も、ようやく再開する気になれた。
きっかけは千穂だった。
告白のとき、彼女は言っていた。「折り紙に打ち込んでる姿が、子どもみたいに真剣で……すごくかっこよかったよ」って。その言葉が、ずっと心に残っていた。
「かっこいい」と言われたから再開したわけじゃない。ただ、あの頃の自分が、ほんの少しでも誰かにとって価値ある姿に見えていたのなら、また始めてもいい気がした。
まず手をつけたのは、制作の途中で止まっていた戦艦大和だった。
父の死をきっかけに触れることすらできなかった。紙は湿気を吸って波打ち、折りかけの艦首は、まるで気力を失ったようにしおれていた。
正直、見るのもつらかった。思い出したくない感情まで、全部引っ張り出される気がした。でも、完成させなければならないと思った。理由はわからなかった。ただ、終わらせなきゃいけないと思った。
完成までは早かった。ほとんど仕上がっていたから、当然だ。けれど、妙な達成感があった。
完成した戦艦大和を机に置いたとき、心の中で何かが「終わった」と呟いた。声には出なかったけれど、胸の奥で確かに響いた。
艦のフォルムは少し歪んでいたし、湿気の跡も残っていた。けれど、それでよかった。それが「いまの俺」だった。
そして同時に、父の死に打ちひしがれていた「あの日の俺」とも、別れを告げられた気がした。
※※※
戦艦大和を完成させてからというもの、何かが少しずつ動き出した気がした。もっと何かを折りたい。そう思って、次の題材に悩んだ末、俺は決めた。
千穂を折ることにした。
俺にできることといえば折り紙しかない。千穂の存在がどれだけ俺を救ってくれたか、それをどうにかして形にしたかった。俺なりの、感謝の証だ。
試作品は、なんとか形になった。千穂の髪型や輪郭を再現するのに苦労した。でも、それっぽく仕上がったと思う。真剣に、丁寧に、何度も試してようやく納得のいくものになった。
それを千穂に見せた。
「……すごい……これって私?」
「うん。だいぶ工夫した。髪型がやっぱり難しくてさ」
千穂は紙の自分をじっと見つめた。そして、ためらうように話しかけてきた。
「……ね、ねえ、しょうちゃん?」
「ん?」
「これ、しょうちゃんの部屋にずっと置いておくつもりなの?」
「そうだよ。でも、試作品だから、これから本制作する。次のは、これよりもクオリティがあがるぞ!」
「………」
俺の意気揚々とした声に、千穂はわずかに顔をこわばらせて黙り込んだ。そんな様子を見て、俺もようやく何かに気づいた。
「……だ、ダメだった?」
千穂はぎこちない笑みを浮かべる。
「……リアルに再現されてる自分を、机の上に飾られてるって考えたら、ちょっと……」
「……あー、そういう感じか」
「うん。ちょっとだけイヤかも。ちょっとだけだよ」
「イヤかあ」
「うん。だから、はい、没収だよ」
そう言って、千穂は俺の手から折り紙の“千穂”を取り上げた。
「……え?それ持って帰るの?飾るの?」
「違う。家にも飾らない。これは封印する。どこか目につかない箱に入れて保管するよ」
「えー、そこまでする?」
「そこまでだよ!」
俺は軽く肩をすくめた。
「……そうか。残念だな。わりと自信作だったんだけど」
「ごめんね……で、でも、丁寧に折ってくれたのは伝わったよ!……ありがとう!」
そう言って千穂は、なんとも言えない表情で折り紙を抱え、ケースにいれて、そそくさと自分のバッグにしまい込んだ。
……まあ、千穂が持っててくれるなら、いいか。
※※※
高校にも、また通うようになった。
もちろん千穂と一緒だ。朝は並んで歩いて、肩を寄せ合いながら登校した。並んで靴を履いて、並んで昇降口をくぐる。そんな当たり前のことが、ただ嬉しかった。
クラスメイトの前でも、俺たちは隠すことなく一緒にいた。
昼休みに同じ弁当を食べたりして、二人で仲良さそうにしていると、いたるところから、茶化してくる声が聞こえる。
「はいはい、イチャつくなイチャつくな」
「おいおい、ここ学校だぞー?」
「見せつけやがって……」
「爆発しろ」
でも、誰も本気で邪魔してくるような奴はいなかった。
千穂はもともとクラスでも人気者だ。男女問わず好かれていた。その千穂が、俺の隣で笑っている。その事実に、多少の嫉妬や意地悪を混ぜながらも、みんな祝福するような目を向けてくれていた。
気恥ずかしさはあった。けれど、いちいち隠すようなことでもないと思った。好きな人が隣にいる。それだけで幸せだった。
※※※
学業についても問題なかった。
父の死で少しブランクがあったが、もともと成績は悪くなかったので、すぐに取り戻せた。定期テストでも以前と変わらない点数が取れるようになってきて、むしろ前より集中できるようになっていた。
ある日、俺の返却された答案を見て、千穂が目を見開いて言った。
「ええ!なんでしょうちゃんのほうが点数いいの?おかしいよ!家に引きこもって、何もしてなかったのに!」
「いや、テストに向けて、ちゃんと勉強したぞ!」
「それは私もだけど!」
「た、確かに頑張ってたな……」
「むっ……しょうちゃんってさ、頭いいよね……前から思ってたけど、ずるいよ」
千穂は、口を尖らせながらも、どこか嬉しそうだった。悔しがってるように見せて、目が笑っていた。
「嬉しそうだな」
「別に、嬉しくなんか……でも…ちょっとだけ。頭がいいところも、しょうちゃん、かっこいい!」
そんなやりとりが心地よかった。
※※※
クリスマスも、千穂と一緒に過ごした。
俺が部屋の飾りつけを担当した。千穂は手料理を頑張ってくれた。机にはチキンやポテトサラダ、ミネストローネ、それから俺の好きな苺のショートケーキもあった。
「これ全部、千穂が?」
「うん!しょうちゃんが喜ぶと思って、頑張ったよ!」
「……ありがとう。すごいな」
「えへへ……そんな大げさな」
ツリーの明かりが、千穂の笑顔をやわらかく照らしていた。その姿を見ているだけで、胸の奥がじわじわと温かくなってくる。
食事のあと、テレビを見ながら並んで座って、静かな時間を過ごした。特別なことはなにもしていないのに、ずっと一緒にいたくなるような夜だった。
そして、その夜。俺たちは、はじめて一つになった。
どちらかが誘ったわけでもない。ただ自然と、そうなった。
触れる手が震えて、言葉は少なかったけれど、心はちゃんと通じていた気がした。すべてが終わったあと、千穂は俺の胸にそっと顔を埋めて、小さく息を吐いた。
「……しょうちゃん、だいすきだよ」
その声が、あたたかくて、優しくて、俺はようやくわかった気がした。
幸せって、こういうものなんだ――と。
※※※
父さんはもういない。もう、声を聞くことも、背中を見ることもできない。
でも、不思議と、今はひどく寂しくはなかった。
俺には千穂がいる。そばにいてくれる人がいる。それだけで、こんなにも心は救われるものなんだと、今ならわかる。
もう大丈夫だ。
父さんも、どこかで俺を見て、安心してくれていると思う。
※※※
……けれど、それが崩れ始めるのは、そう遠くなかった。
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