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ざまぁ② 声をきみだけに(間男視点)

どこにでも藤崎がいる。


振り返ればそこにいる。目を逸らしても、ふとした拍子に視界の端に映り込んでくる。電柱の陰、公園のベンチ、教室のドアの隙間。それらすべてに、藤崎の姿があるような気がしてならない。


どうやら、俺は本格的におかしくなってしまったらしい。さすがに、もう否定できなくなっていた。


風呂場の鏡を覗けば、そこに藤崎がいる気がする。自分の後ろに、ぼんやりと立っている“何か”の存在を感じる。怖くて振り返れない。濡れた髪をタオルで拭いていても、頭上に気配がしてならない。天井に藤崎が張りついていて、じっと俺を見下ろしている。そんなはずがあるわけない。なのに、そうとしか思えない。


目を閉じても、そこにいる。目を開ければ、やっぱりいる。


そのたびに、心臓がドクンと跳ねる。呼吸が浅くなる。冷たい汗が、じわじわと背中を濡らしていく。


こんなの、ただの妄想だ。そう思いたい。思わなきゃ、正気を保っていられない。だけど、もう無理だ。


※※※


女どころではなくなっていた。


以前なら、どこに行っても視線を集めていた。軽く笑いかければ、それだけで連絡先を聞かれることも珍しくなかった。


自分の魅力には、それなりの自負があった。見た目、トーク、立ち居振る舞い。すべて計算されていたし、それがうまく機能していた。


だが、最近は違う。


近づいてくる人の数が減った。ほとんどの女たちは俺の存在を避けるようになった。むしろ、視線を逸らし、距離をとる。俺の半径数メートルに、目に見えない壁ができたかのようだった。


俺の様子に気づいたんだろう。どう見ても挙動不審だ。目が泳ぎ、ぶつぶつと独り言を言い、時折振り返っては誰もいない方向を睨みつける。そんな奴、誰だって近寄りたくない。


「ねえ……神山くんって、なんか変わったよね」


「ちょっと怖い……前はあんなじゃなかったのに……」


そんなヒソヒソ声が耳に届く。いや、これは幻聴じゃない。確かに言われてる。実際に、顔見知りの女子が俺の姿を見て、肩をすくめて後ずさったのをこの目で見た。


俺の世界が、静かに崩れ始めている。


このままではまずい。本気で、まずい。


俺の、あの栄光の日々。ハッピーイケメンライフが、完全に終わってしまう。それだけは、絶対に受け入れられなかった。


※※※


だから、反応しないようにした。


藤崎が見えても、なにも見えていないふりをした。視界の端にあの顔があっても、決して目を向けなかった。そこに誰も見えないかのように。目線をすっとずらした。


耐えた。


「平気だ」「何も見えていない」「問題ない」


そう何度も心の中で繰り返しながら、俺は日常を装った。いつも通りを装った。視線を受けても、そらすだけ。気づいていないふりをする。それだけで、なんとか乗り越えられるだろう。


大丈夫。声をかけてくるやつもいれば、笑いかけてくる女も、まだいる。落ち着いたら「ちょっと疲れちゃっててさ。おかしくなってたよ。慰めて?」とか言って、女をたくさん抱こう。


俺は少しだけ、安心した。


ほんの少しだけ、ほっとしてしまった。


……甘かった。


※※※


あるときだった。


――ねえ?なんで捨てたの?


女の声がした。突然、耳元で。びくりと肩が跳ねた。背中が凍りつくような感覚に襲われる。


周囲をキョロキョロと見回す。誰もいない。通りのざわめきはあるが、近くに「人の気配」は感じられない。


最初は、風の音かと思った。でも、やはりどこからか声が聞こえてくる。気のせい。最初は、そう思い込もうとした。


――はじめてだったのに


ぞわりと背筋をなにかが這った。


空気が、肌にまとわりつく。異常なほどに重たく、湿った感触をしていた。やっぱり、聞こえる。しかも……はっきりと女の声だ。


――やめてって、いったのに


――寝てる内に、なんて


誰の声かわからない。でも、どこかで聞いたことがある気もした。ちょっとだけ関係を持った女の声なんて、いちいち覚えていない。最近遊んだ女……ではないと思う。


「な、なあ……今、何か聞こえなかったか?」


一緒にいた友達に聞いた。声が上ずっているのが自分でもわかる。


「え?なにが?」


友人の表情はまったくの無風。怪訝そうに眉をひそめるその顔に、焦りがにじんでいるのは俺だけだ。


――中に出さないで、って、言ったのに


「なあ、今の……『中に出さないで』って言ってなかったか!?」


声をひそめるつもりが、思いのほか大きく出てしまった。


「はあ?気持ちわりいな。なに言ってんだよ」


――彼氏にふられたんだ


――彼氏、自殺未遂しちゃった


「おい!本当に聞こえないのか!?頼むから、聞こえるって言ってくれよ!」


縋るような声を出してしまった。胸がざわつき、冷や汗が喉元を流れ落ちる。


「は?マジでうるせぇんだよ。お前さ、バチが当たったんじゃね?いろんな女泣かせてたって有名だぞ?」


――私の名前、覚えてる?


――あなただけって、言ったのに


「やめろ!やめてくれぇ!」


自分でも何に叫んでいるのかわからない。ただ、とにかく耳からそれを追い出したかった。


「近づくなって。お前ほんとにおかしいよ。……もう友達やめるわ」


――私だけを見てよ


――他の男が来たんだよ。あの後、ひどい目にあったんだよ?


「なあ!なあっ!お前は聞こえるよな!?聞こえるって言えよっ!」


「や、やめてよ……!ちょっと近寄らないで……!」


――友達だと、思ってたのに


俺は、かつて抱いた女にすがりついた。


「ひぃ……!やめてぇ……!なにも聞こえないよぉ……!神山くん、どうしちゃったのぉ……!?」


「おい神山、やめろ!彼女から離れろ!」


くそっ!


俺は教室を飛び出した。耳の中に、まだあの声が残っている。こびりついて離れない。ダダダッと靴を鳴らして玄関を抜け、校門を飛び出した。肺が熱い。息が続かない。


とにかく、家だ。家に戻れば落ち着ける……そう思った。


――妹には、手を出さないで…お願い…


走っている間も、声は止まない。


――結婚式、だめになっちゃった


俺は家に飛び込んだ。玄関の鍵を乱暴に閉め、肩で呼吸をしながら壁にもたれかかった。静けさが戻った気がした。


ふぅ……ようやく、逃れられたか……。


※※※


俺はスマホを取り出した。電話の相手は決まっていた。


あいつだ。俺がいつでも抱けて、言えば何でも従う女。藤崎に冤罪を仕掛けさせた女だ。あのときも、何の疑問も抱かず協力してくれた。


ああいう女は便利だ。欲しいときに抱けるし、従順で生意気な口も利かない。今みたいなタイミングには、ちょうどいい。


プルルルル……プルルルル……


ガチャ


通話はつながった。


「よ、よう!なあ、今から家に来ないか?と、特別に、すっげー優しくしてやるぜ」


……だが、返事がない。沈黙の中、かすかに呼吸音だけが聞こえる。


「おい……?おい!おい!なんか言えよ!」


そのときだった。電話の向こうから、重なったような声が響いた。


「「「死んでくれない?」」」


息が詰まった。心臓が止まりそうになった。


「「「ずっと……見てるから」」」


「ひっ……やめろ……!やめてくれえっ!」


喉の奥から、絞り出すような悲鳴が漏れた。ジワーッと股間のあたりに水っぽい温もりが広がる。


胸が締めつけられ、頭の奥でキーンと甲高い音が鳴り響く。思考がかき消されていく。視界はぼやけ、白く滲み、床が傾いたように世界が歪む。


空間の輪郭が崩れ、重力も時間も、全部ずれていく。音も、光も、感情すらも消えていった。


俺は、真っ白な闇の底へ、ずぶずぶと沈んでいったのだった。

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