千穂との別れと幼馴染
オリガミの管理者になったあと、俺は彼女からいくつかのレクチャーを受けていた。
難解な技術解説ではない。どちらかといえば、オリガミという存在にどう向き合うべきかという、倫理と責任に関わる心構えのようなものだった。
『まず第一に、私の存在は絶対に秘匿してください。国家、民間、問わず、あらゆる個人、組織に対してです。理由は……』
「なるほど……わかった。そりゃ、秘密にしないとヤバイな」
※※※
そんな話をオリガミとしていたときの事だった。
ピーンポーン。
場違いなまでに間延びしたインターホンの音が、静かな部屋に響いた。
俺は反射的に立ち上がった。モニター越しに確認すると、そこに立っていたのは……千穂だった。
(来たか……)
動揺がなかったと言えば嘘になる。でも、新しい目標ができたからだろうか。今なら、不思議と、ちゃんと向き合える気がする。
玄関のドアを開けると、千穂は弱々しく言った。
「……しょうちゃん」
「やあ、千穂。いらっしゃい」
目の前の千穂は、見るからにやつれていた。目元に隈が浮かび、髪も乱れていて、声には張りがなかった。
「まあ……とにかく、入りなよ」
俺は玄関を開け、リビングへと案内した。千穂をソファに座らせ、俺も向かいに静かに座った。
※※※
ソファに座った後も、千穂は何も話さなかった。ただ、うつむいたまま、打ちひしがれたように肩を落としていた。
部屋には静寂が満ちていた。時計の針の音だけが、やけに大きく響いている。
長い沈黙のあと、ようやく千穂が口を開いた。それは、今にも消えそうな、小さな小さな声だった。
「しょうちゃん、ごめん。私、浮気しちゃった」
「……そっか。ホテルから出てるところ、見たよ」
「ごめんねぇ。ごめんねぇ。うっ、うっ、うっ……」
千穂は必死に嗚咽をこらえようとしていたみたいだが、すべて失敗していた。
「……やっぱり、見てたんだね。……あの時のこと」
千穂は顔を伏せたまま、か細い声で続けた。
「……ごめん。本当に、ごめん。相手は……サッカー部の神山先輩。しょうちゃんのこと、協力したいって言ってくれてたの。冤罪のことも知ってて……現場に居合わせたとか言ってて……知り合いが動画取ってたから、冤罪の場面が映ってる動画探してくれるって……味方が欲しかったの……」
言葉を絞り出すようにして、千穂は肩を震わせる。
「最初は、本当にただ協力してくれるだけだった。でも……付き合ってくれって言われちゃって……それから顔を合わせるたびに告白されて……断ったよ?何度も何度も……」
「でも、ある時言われたの……『俺の気持ちに応えないなら、もう協力できないかもしれない』って……遠回しに、脅しみたいに……」
「もちろん私は断ったよ。でも……」
彼女の声が震える。涙が、ぽつりとソファのクッションに落ちた。
「……『一回だけでいいから思い出をくれ』って言われて……もう、私……疲れてて……何が正しいのか、わかんなくなってて……」
「……思い出を一度だけって……それで、ホテルに……」
千穂は涙をこらえきれず、声を震わせていた。
「俺はさ……冤罪とか、正直どうでもよかったんだよ。千穂さえ隣にいてくれれば、それで良かった。……何度も言ったよな?」
「うん……そうだね。何度も……何度も言ってくれてた……」
「でも千穂は、それを聞き入れてくれなかった」
「……うん……なんか……意固地になってた。しょうちゃんのことは私が……私が守らなきゃって……勝手に思い込んで……何様だよって、今は思う」
「いや……俺にも、悪いとこはあったよ。千穂が責任感がバカみたいに強いの、知ってたのに。ひどい姿見せてきもんな……千穂から見たら、俺なんか、守るべきひとりの子どもみたいなもんだったんだろ」
「ちがう……!そんなふうに思ってない……でも、でも……助けなきゃって……そう思ったら止まんなくなって……」
「だったら……俺が強引にでも止めればよかったんだ!キスして強引にでも家に連れ込んで、ずっとベッドの上でイチャイチャしてればよかったんだ!俺がそうしなかったから、こんな事になったんだ!」
「違う!しょうちゃんのせいじゃない!全部……私が弱かったから!全部、私が一人で抱え込んじゃったせいなの!しょうちゃんの気持ち、ちゃんと見てあげられなかった!強くもないくせに、強がって……空回りして……」
しばらく沈黙が流れたあと、千穂が、おそるおそる訊いてくる。
「ねぇ……これから、どうするの……?やっぱり……別れるの……?」
「ああ……別れる」
「……い、いやだぁ……いやだよぉ……」
※※※
千穂がしくしくと、まるで子どもみたいに泣き崩れる。嗚咽混じりの声が、胸を刺す。
抱きしめてやることも、頭を撫でてやることも、今の俺にはできない。見ているだけしかできない。それが何より悔しかった。
「で、でも……そうだよね。他の人とそういうことしたら、普通許せないよね……わかった……もう……こない……」
千穂の大きな瞳から、ぽろり、ぽろりと涙がこぼれ落ちていた。やつれた顔は泣き疲れたように力なく、いつもの面影すら薄れている。千穂はゆっくりと俺に背を向けて、肩を落とし、離れて行こうとした。
「まてよ。別れるとは言ったけど、幼馴染をやめるとは言ってないぞ」
「え?」
「恋人関係じゃなくなったから、ここで千穂を抱きしめられない。でも、千穂が俺の支えになってくれて、ずっと俺のために動いててくれたことは事実なんだ」
「だから千穂さえ良ければ、千穂が辛くないのであれば、付き合う前の関係に戻らないか?友達だったあのころにさ。家にも来てくれていいよ」
俺の言葉に、千穂の瞳に少しだけ光が戻った。
「い、いいの?」
「もちろんだ。たとえ恋人じゃなくなっても、千穂が俺の大切な人であることは変わらないよ」
そして、俺は強く付け加える。
「でもだ!何か困ったことや悩んでることがあったら、必ず友達の俺に相談すること!それだけは絶対だ!なにかあったら、俺が助けてやるから!」
「あと、その神山って言ったっけ?そいつ、きな臭いぞ。本当に俺の冤罪の場にいたのか?」
「……うん。そうみたい。拡散されてる動画とは違う動画、持ってた。現場でしょうちゃんのこと、撮影してたんだと思う」
「人が痴漢扱いされてるところをスマホで撮影するなんて、まともな感性の持ち主じゃないと思うけどな……もうそいつと関わらないほうが良い。もともと千穂目当てに近づいたんじゃないか?千穂はかわいいからな。何かあったら絶対に俺に言えよ?」
「……う、うん……そんなん、いま言われたら……また、泣いちゃうよ……うっうっうっ……」
「くれぐれも下手な行動はするなよ?そいつ、何してくるかわからないから。二人きりになったりするなよ?あと、ホテルで動画、取られてないよな?」
「……だ、だいじょうぶだと思うけど……」
「いいか、もう一度いうぞ。何かあったら絶対に俺に相談しろ。恋人じゃなくても、千穂は俺の大切な幼馴染だ。それは何があってもだ。俺に嫌われるかもしれないとか考えて、相談をためらったりするな。そっちの方がよっぽど、俺を傷つけるからな」
「……わ、わかったよ……なんか、しょうちゃん、すごいね……強い……」
「ああ、さっき、人生でやるべきことを見つけたんだ。俺はこれから、その道を突き進もうと思ってる」
この目標を失わずにいられたのは、ある意味、千穂のおかげだった。浮気は、正直言って辛かった。
けれど、もし俺が、あのとき幸福なままだったら、オリガミが消えていたかもしれない。それを思うと、寒気が走る。
「……そっか……それ、いつか教えてね……今日は帰るね……」
「ああ、気を付けてな。……って言っても、家は目と鼻の先か。またな!」
「うん、ばいばい……」
千穂は帰っていった。玄関から歩く千穂の背中を見送る。寂しげな背中だった。
※※※
ふう……とため息をついて、部屋に戻ると、オリガミの声が聞こえてくる。
『千穂さんのおかげで、私は今ここに存在していると言っても過言ではありませんね。今回、お兄様の幸福値を著しく下げたことは許容できませんが、それまでお兄様の幸せを支えていたのも、間違いなく彼女でした』
「ああ……あいつには幸せになってほしいよ。千穂のおかげで、今の俺があるんだ……」
※※※
たとえもう恋人じゃなくても、千穂には笑っててほしい。本当に……心から、そう願っていた。
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