『赤飯の記憶 ― 第三話 記録係の手帳』
佐井田が警察を辞めたあとの話。
「記憶が良い」という才能が、必ずしも救いになるとは限らない――そんな一面が少しだけ顔を出す回です。
昼の休憩室。
料理番組の明るい声が、遠くのざわめきみたいに流れている。
風間翔子は唐揚げ弁当を頬張りながら、そっと顔を上げた。
「それで……そのあとどうしたんですか?」
「警察、辞めたあと?」
「はい」
佐井田は、麦茶のストローを指でくるくると回しながら微笑む。
「病院の記録係をしてたよ。患者さんのカルテを整理する仕事」
「え、意外と真面目じゃないですか」
「見た目よりはね」
翔子が笑うと、その空気に引っ張られるように佐井田も笑った。
けれど、その笑みの奥には――ほのかな影が落ちていた。
「でもね……その仕事、すぐ辞めちゃった」
翔子は箸を止める。
「どうしてですか?」
佐井田は、一拍置いて目線を落とした。
「覚えちゃうの。全部」
「全部……?」
「顔も、声も、最後の言葉も。
カルテをめくるたびに、その人が目の前に立つの」
休憩室の空調の音が、やけに大きく響いた。
「……きついですね」
「きつかったよ」
佐井田は、小さく笑って続けた。
「でもね、あるおばあちゃんが亡くなる前に言ったの」
“あんたはいいねぇ、全部覚えててくれるんだろ?”
“私のことも……覚えててくれよ”
その声の温度まで思い出すように、佐井田は静かに目を伏せた。
「そのとき思ったんだ。“忘れられない”のも悪いことばかりじゃないって」
翔子は胸の奥がじんわり温かくなるのを感じながら、黙って頷いた。
「……でもさ、さすがにしんどい日はあってね」
佐井田が肩をすくめる。
「カルテの隅に落書きしてた」
「えっ、何を?」
「ハムスター」
翔子、飲み物を危うく吹きかける。
「なんでそこだけ急に可愛いんですか!?」
「走ってるの見ると元気出るじゃん。
“人生、回し車だなぁ”って」
翔子も笑い、湯気の向こうで二人の声がふわりと混じった。
その瞬間、機械の音さえ一瞬止まった気がした。
――佐井田にとって、それはようやく“息ができる時間”だった。
(間)
翔子「……あの、佐井田さん」
佐井田「ん?」
翔子「人生、回し車じゃなくて……せめて散歩くらいにしません?」
佐井田「いや、それだと私、途中で道に迷うから」
翔子「迷う前提なんですか!?」
佐井田「私、スーパーで迷子になるよ」
翔子「いや、幼児レベルの迷子」
翔子のツッコミは、回し車みたいにくるくる空回りした。
重くなりすぎないように、最後は翔子のツッコミで空気をふわっと戻しました。
佐井田にとって、翔子との時間が“息継ぎ”になっているのが、少しでも伝われば嬉しいです。




