灰色の倫理 沈黙の数式
髙野秋 東帝大学准教授数学科第二研究室所属 32歳
藤見晃 東帝大学助教授数学科第二研究室所属 27歳
坂田正仁 警視庁捜査一課第四強行犯係所属 32歳
第二章 沈黙の数式
薬品の匂いが鼻をくすぐる。
暫くすると髙野は立ち止まって部屋のドアをノックした。
ドアのプレートには『東帝大学 医学部医学科 第五研究室』と書かれていた。
直ぐにはい、と言うぶっきらぼうな返事が返ってきた。
ドアを開けると先程の比にならない強い薬品の匂いがした。
思わず藤見は顔をしかめた。
数学科では薬品を使うことなどほぼないのでなれない匂いだった。
白衣を着た男が回転いすに座っていた。
背中を向けたまま髙野に手を振った。
そしてゆっくりと回転いすを回してこちらに向いた。
それと同時に驚いたような表情を作った。
「一人じゃなかったのか。」
髙野は男ににっこり微笑むと都合が悪かったかと尋ねた。
男はすぐに首を振って「そういうわけじゃないが、意外だったものでな。」
愛想笑いを浮かべながら返した。
「じゃあ自己紹介でもしようか。」
そう言って男は回転いすから立ち上がった。
一礼すると、
「医学科准教授の成瀬実です。以後、お見知りおきを。」
と自己紹介をした。
慌てて藤見も「数学科助教授の藤見晃です。 よろしくお願いします。」
と、礼を返した。
「じゃあ、本題に入ろうか。」
成瀬はパチンと手を叩いた。
髙野と成瀬が自己紹介をしていないことと、先ほどのノリを考えると、恐らく知り合いなのだろう。
髙野は数学者だが医師免許を持っているほど医学にも精通している。
髙野曰、ニ、三番目に医学は得意らしい。
成瀬は髙野と藤見を近くにあったソファに手招きした。
何処からか菓子を出してくると机に置いた。
この研究室は数学科の研究室の数倍広かった。
軽く1kはあるだろう。
無理はない。 数学科はそんなに研究器具のようなものは使わない。
精々黒板とチョークがあれば十分だ。
しかし、医学科なら研究器具は必須だろう。
それに圧倒的に医学科の方が生徒数が多いだろう。
まだ入ったばかりの藤見でもそのくらいは分かった。
「単刀直入に言う。髙野。監察医をたまに変わってほしいんだ。」
藤見は急に現実に引き戻された。
そしてその現実では時が止まったかのように皆が固まっていた。
暫くすると髙野がくすくすと笑い始めた。
「成瀬。あんたホント面白いこと言うね。監察医変わってほしいって。」
髙野にも笑いを隠しきれていない様子があった。
「いやなぁ、これにはちゃんと訳があるんだよ。ただ単純にやりたくないわけじゃない。と言うかそもそもこの大学の監察医は俺じゃない。」
成瀬は恥ずかしそうに頭を掻いていた。
「理由とは?」
そう尋ねると成瀬は相変わらず恥ずかしそうにしながら話し始めた。
「まず、これはお前らも知ってるとは思うがこの大学。入学者数が年々増えている。 いや、正確に言えば増えてはいないがこの医学部への入学者が増えているんだよ。 だが、今話題になっているいわゆる少子高齢化と言うやつでこっちの人数はずっと減っている。 んでまぁ、監察医なんかやってる場合じゃない。ってなったんだが警察側も苦労しているようで、続投してくれと言っていてたまらないんだ。 で、お前、医師免許持ってたろ?だからたまに忙しい時だけでいいんだが代わりをやってくれないかと言う話だ。」
ふーん、と言って髙野は目を閉じた。
少しして開けた。
此処から髙野の質問攻めが始まった。
「じゃあ、まず、最初の質問。 何で担当じゃない成瀬が私に話を付けるのよ。」
「俺がお前の知り合いだからだ。 お前の知り合いだった自分を憎むよ。」
「次、何で私じゃないといけないのよ。」
「この大学内で医師免許を持ってるのが医学部の教授以外にお前しかいないんだ。」
「医学部の教授たちのほかの医師の知り合いじゃダメなの?
暇そうな医師の一人や二人、知り合いにいないの?」
「それじゃあ警察に難癖付けられるんだよ。」
そこまで成瀬が言い切ると髙野はまたソファにもたれ掛かり目を閉じた。
髙野、と藤見が声を掛けた。
髙野は片目を開け、ん?、と応じた。
「別にやらなくてもいい。 ただその場合はお前に知り合いの刑事居ただろ?その刑事と話して説得してくれればいいんだよ。
な?頼む。 どっちかでいいからやってくれたら何か奢ってやるから。」
その瞬間、髙野の口元が緩んだ。
「言ったね?」
「はい?」
髙野の顔が見慣れたような悪戯っぽい顔になった。
「男に二言はないでしょ?」
「まぁ…」
ややうんざりしながら成瀬が答えると髙野はソファから立ち上がった。
「了解。 どっちになるかは分かんないけど、何とかしてくるわ。
じゃあね。」
髙野はそれだけ言うと足取り軽く、部屋を出て行った。
藤見は成瀬に一礼して髙野を追いかけて慌てて部屋を出た。
藤見が部屋を出ると、もう髙野は二百メートルほど先にいた。
慌てて走って追いつくと髙野の顔はにっこりと笑っていた。
「さっきまでご機嫌斜めだったのに…何かいいことでもあったんですか?」
髙野はくるりと振り返って藤見を見たがその目がキラキラ輝いていたことは誰でもわかるだろうと藤見は思った。
「だって、だって!奢ってもらえるのよ!焼き肉行けるじゃない!奢りよ!」
藤見は吹き出しそうになったがぐっとこらえた。
やはりこの人は男勝りだと思った。
藤見は一つ深い深い溜息を衝いてから、髙野を数学科、第二研究室へと帰らせた。
坂田が時計を見ると十二月十五日、十四時五十八分を記録していた。
今日は非番である。
今日は話があると髙野に呼び出されていた。
コーヒーを飲みながら時間をつぶしていると喫茶店の扉から見覚えのある顔が覗いてきた。
髙野は店に入ると真っすぐに坂田の座っている席に向かった。
髙野はコーヒーを注文してすぐにこちらに真っすぐな瞳を向けた。
「じゃあ早速本題に入ろうかな。」
髙野の語りはそう始まった。
監察医をほかの大学の人間にしてもらえないかと言う
予想通りのお願いだった。
丁度昨日、藤見に依頼の新着を聞くため電話を掛けた時にこのことを教えられたのだ。
「たぶんそれは無理だ。」
それが坂田の答えだった。
何でだと不満に頬を膨らませている数学者がいたので簡単に説明することにした。
「俺は別にいいと思うがお前のことをよく知らない上のお偉方は多分だめだという。 おそらくギリギリ何とか医師免許をとれたくらいだと思うだろうしな。」
髙野は大きなため息を衝いていた。
「でもどうしようかな。そっちがだめだとなるとどうしようもないから。」
頭を抱えている様子だった為、坂田は一つ提案することにした。
「じゃあお前が代理の監察医やればいいじゃないか。
代理くらいなら俺がどうにか上は説得するからよ。」
しばし悩んだ末に分かった、と言って数学者は店を出て行った。
帰ってきたときの髙野の気分が滅入っている様子はすぐに分かった。
坂田から事前に電話があったこともあるかもしれないがそれにしても分かりやすかった。
やはり単純な人だと藤見はどこか安心した。
「駄目だったんですか?」
確認の為に一応尋ねると暗いオーラを纏ったまま髙野はうんと頷いた。
「やるしかないのかなぁ」
はい、と藤見は苦笑いしながら頷いた。
「でも僕、髙野先生なら出来ると思います。
髙野先生運動以外は全部器用ですし。」
坂田さん曰く恐ろしく分解魔らしいし、と言いかけたのを藤見は慌てて止めた。
髙野の事前情報として坂田からいくつか情報を提示されていた。
『まず、あいつは運動だけはすんごい音痴だ。
一応剣道は出来るが武器が無いとどうしようもない。
君はそこそこ運動ができると髙野の方から聞いてる。
因みに、よく君の事自慢してるぞ、あいつ。
それと、あいつ本当は一番得意な教科数学じゃないんだよ。
一番は社会、次に化学、三番目に数学、最後に国語って感じだ。
英語を入れるなら英語は二番目くらいに得意だろうな。
あいつ一応英検準一級持ってっから。
後言うとしたら…ああそうだ、あいつ分解魔だから気を付けろよ。
この前の事件でスマホ分解してたから分かるかもしれないが、
学校のエアコン壊れた時なんか自分で修理してたこともあるからな。
悪い、後はよろしく頼む。
ちょっと新人に呼ばれちまったもんでな。 じゃあな。』
それだけ一人で言い切ると一方的に電話を切った。
相変わらず乱暴な人だと思ったがそんなことを考えても仕方がない…そう割り切った。
確かに髙野が分解魔なのは藤見も少し納得した。
ずいぶん前になるが夏に故障していた扇風機を直していたこともあったかと思い出していると、「やるかぁ」と声が聞こえてきた。
「やってみるね、私。
まぁそれで藤見君の仕事増えたらごめんだけど…許してね?」
「はい!」
髙野は悪戯っぽく笑った。
この人は最初から藤見の仕事の量を少し増やすつもりだろうとなぜか確信した。
その時コンコンと部屋をノックする音がした。
髙野がはいと返事をすると一人の男がスマホを持って入ってきた。
成瀬だった。
成瀬はよっ、と軽く挨拶をするとスマホを髙野に突き出した。
「さっきちょっと聞き耳を立てていたんだがどうやらお前がやることになりそうだったからな。 早速お仕事だぜ。髙野代理監察医?」
髙野は渋々スマホを受け取って耳元にあてた。
髙野は何度か相槌を打って最後に「了解」と言うと電話を切った。
「下村さんからだった。 どうやら殺人が起きたらしいわね。
びっくりされたわよ。私が行くって言ったら。」
髙野は肩をすくめ、苦笑いをしながらそう言った。
「じゃあ、行ってらっしゃい。髙野代理監察医。」
成瀬が応援するように言うと髙野はソファから立ち上がった。
そしてもう一度肩をすくめて見せると、部屋を出て行った。
事件現場はとある製薬会社だった。
「被害者は白石隆司さん。 三十八歳。創薬第二開発部主任研究員で死因は急性中毒。因みに外傷はない。遺体の発見場所は地下薬品保管室。第一発見者は佐久間千景さん。 二十九歳。 アリバイはこれから確認するところだ。それと、体温は28℃だ。 まぁ、捜査員が駆け付けた時だから死後直後とは違うかもしれないが。」
部屋には髙野と坂田の二人だけだった。
下村などほかの捜査員は外で何やら話していた。
坂田が淡々と説明するのを聞いて髙野はへぇ、とつまらなそうに声を落とした。
「そんな事まで調べてあるのね。正仁がここに着いたのは今さっきでしょうに。」
髙野はそう言いながら手にしていた温度計を覗き、手帳を開いた。
髙野が何かを記した後タイミングを見計らったかのようにまぁな。と返事を返した。
体を少し部屋の外に向けると「俺が着く前にもう居た下村たちがいろいろと調べてくれたんだよ。だから俺はまだ実質何もしてないが。」
そう言い軽く肩をすくめた。
その後しばしの沈黙の間に髙野は手帳に何かをメモしていたが坂田はこの空気を壊してはいけないと何も口に出さなかった。
その後ほんの少し彼女の頬が緩んだ。
坂田はにっこりして身を髙野の方へ乗り出すと、「何をメモしたんだ監察医さん。 どうせなら俺にも見せてくれないか。」
悪戯っぽくなっていた顔を直すかのようにもう一度にっこりした。
髙野は仕方がなさそうに無言で坂田に手帳を渡した。
渡すとすぐに髙野は遺体の周りを歩き始めた。
死亡推定時刻などを確認するためにまだ遺体は運ばれていなかった。
『・遺体直腸温:27.1℃
・室温:20.2℃
・外傷なし。筋硬直、四肢中程度(死後3〜4時間相当?)
・死斑:背部・下肢後面に淡紫色(転倒位置一致)
・皮膚色:口唇〜頬にかけて淡い紅潮(通常の死後蒼白化と異なる)
・服装整。外気流入なし。エアコン停止。窓・換気口閉鎖。
・床に微細な水滴、冷却由来か?』
それが髙野が記したメモの内容だった。
坂田は自分の目が丸くなっているのが分かった。
髙野はそれを察知したかのように、「どうしたの?」と、問いを投げかけた。
「いや、案外丁寧に書いてあるなと思って。」
この場では口に出さなかったがものの十分程度程度で此処まで見ていたことにも驚いた。
だが髙野は不貞腐れたように「案外って何よ。」とつぶやいた。
坂田がごめん、と苦笑を浮かべると髙野は坂田の方へ戻ってきた。
で、と坂田が口調を改めた。
「何かわかったのか?死亡推定時刻とか。メモにはびっしり書かれてたが。」
髙野は坂田から手帳を受け取るとあぁ、と言った。
「おおよそはね。でもちょっとおかしいのよ。」
おかしい?、坂田が不思議そうにそう言うと髙野はゆっくり頷いた。
それと同時にコンコンと部屋のドアが叩かれた。
坂田が振り返ると下村が手招きしていた。
ちょっと悪い、と言い坂田は部屋を出た。
数分後に坂田は戻った。
「とりあえず今連絡が取れて害者に恨みがありそうな人にはアリバイを確認したらしい。」
坂田がそこまで言い終えると髙野はへぇ、と興味なさげに相槌を打った。
「それがな」と坂田は続けた。
「全員アリバイがあったらしい。」
逆に怪しいよな。と、不満垂れてつづけた。
髙野は考え込んだ顔になった。
坂田はにっこりしてそんな髙野の顔を覗き込んだ。
髙野ははは…と気弱に笑って「あんまり分かっちゃいないさ。」と言った。
「でもさっき何か分かったようなこと言ってなかったか?」
あれね、と髙野はうなずいた。「あれはまだ仮説。何なら思いつきよ。だからあなたたちに話すようなことじゃない。」
坂田はむすっとして「じゃあ仮説でもいいから話してくれよ。」と頼んだが
「その仮説であなたたちの捜査を攪乱させても責任取ってくれるの?」
と、少し強めの口調で言い返してきたので分かった、と言って引き下がった。
「じゃあこれで私は大体できること終わったから、大学に戻ってもいい?
もし何か質問があれば、答えれる範囲内で答えるから。」
そう言い残して、お気楽な代理監察医は去っていった。
一つあくびが出て時間を確認すると時計は十三時五十分を記録していた。
東帝大学に戻った髙野は、現場で記した手帳を見ながら、シャープペンを取って先程の続きを記していた。
『T(t) = T_env + (T0 - T_env) * e^(-k t)
27.1 = 20.2 + (37.0 - 20.2) * e^(-k t)
→ k ≈ 0.11/h (通常の人体冷却より速い?)
→ 死後3hでこの温度は不自然
→ 冷却速度が途中で変化している可能性』
髙野は遺体に触れる機会は少ない方だったが、元は警察官を目指していたこともあり少々犯罪学にも詳しかった。
『※冷却曲線の不連続点を調査。
→ 一度低温環境に置かれた?
・冷却室/車内冷却の可能性
・皮膚色:一酸化炭素中毒に類似
→ 血液中のCohb?
→ 体温が低下しても紅潮が残るのは異常』
筆圧が強くなっているのが分かった。
「また何か厄介な事件に巻き込まれてるんですか?」
頭の上から聞きなれた声が降ってきた。
顔をあげると藤見がコップを二つ持って立っていた。
コップの中身はコーヒーだった。
自分が欠伸をしたのを見られていたのだろうか、と髙野は少々気恥ずかしい気持ちになった。
そうね、とコーヒーを一口含んだ後に答えた。
「でも、今回はどちらかというと自分から首を突っ込んだ感じだから、そこまで嫌じゃないかな。」
「それで?何かわかったんですか?」
言わずとも藤見は髙野が何かつかんだことを確信しているだろう。
だが、敢えて聞いたのは確認を含んでいるのだと髙野は思った。
「分かったと言うほどの事じゃないわ。 でもまぁ、手掛かりがないと言えばそれも嘘になる。」
今あるのは疑問くらいよ、と髙野は付け足した。
「じゃあその疑問でもいいですから教えてくれませんか? 可能性はかなり低いかもしれませんが、それを聞いて、僕が何か閃くかもしれませんから。」
髙野はにこりと笑い、「そうね」と言うと今回の事件の概要と自分が疑問に思ったことを話し始めた。
「まず、亡くなっていたのは白石隆司さんと言う人で、死因は急性中毒。 外傷はない。 被害者に恨みを抱いていそうな人は全員、アリバイがあったそうよ。」
髙野はそこまで言っていったん区切り、もう一口コーヒーを飲んだ。
「で、私が違和感を感じたのは、何かと言えば室温が20℃で、加えて死後3時間で遺体直腸温が27℃なのはちょっと可笑しい。 基準としての人体冷却の目安って言うものがあってそれと大分異なるの。」
そう言うと髙野は紙を持ってきてそこに鉛筆で何かを書き始めた。
『死後1時間約35.5℃ほとんど変化なし
死後2時間約33〜34℃ゆるやかに下降開始
死後4時間約30〜31℃冷却進行中
死後6時間約27〜28℃このあたりで27℃付近になることが多い
死後8〜10時間約24〜25℃外気温に近づく』
書き終えると髙野はふぅ、と一つ小さなため息を衝いた。
「私が言っても分かりにくいだろうから書くとこんな感じね。」
少し苦笑いをしながら髙野はそういった。
そう言えば坂田が髙野は一番国語が苦手だと言っていたことを思い出した。
その時に髙野のスマホが着信を告げた。
ちょっと、と部屋の奥へ移動すると髙野は何度か相槌を打った後にじゃあ、よろしく。と言い、電話を切った。
「坂田さんですか?」
そう尋ねると、髙野は何も言わずにゆっくりと頷いた。
「これから行ってもいいか、って。 いいって言っちゃったけど、大丈夫だよね。」
もういいと言ってしまったのなら遅いだろうと思いながらも、問題ありません。と事実を言った。
坂田は髙野への電話の二十分後には東帝大学数学科第二研究室のソファへと腰を落ち着かせていた。
「で? あなたは何を私に聞きたいの?」
それが髙野が発した第一声だった。
面倒くさそうな目をしていたが坂田は構わず「単に事件の進展だよ。」
髙野はふふっと笑うと「じゃあ、捜査本部は行き詰ってるってことかしら?」
あぁ…と小さく頷いた。
「分かった。 私がどのくらい解ってるか教えてもいい。 でもその代わりそっちが先に情報を出してね? 人と話すときも、先に自己紹介するのは、話しかけた方だろうし。」
先に情報を出せと言われた場合、嫌な顔をするのがこの数学者には見え見えだったらしい。
敵わないな、そう思って少し目を閉じた後に坂田は鞄から書類を取り出した。
「わざわざそんなの持ってきてたなんて。 最初から話すつもりだったの?」
髙野がわざとらしくそう言った。
「別に…お前には言わなくても分かるだろ。」
「そうね。」
それだけだったが髙野らしいと坂田は思った。
「お前、さっきの電話の時言ってたろ? ”体温が合わない”って。 あれを急ピッチで確認したところ、どうやら当たってたみたいだぜ。」
髙野の目がきらりと輝くのが分かった。
坂田は髙野に資料を提示した。
『現場床面の残留物分析結果
- 成分:ポリエチレングリコール系冷却剤(凍結防止用化学物質)を検出。
- 現場床面の水滴から採取。
- 用途:一時的な温度低下を狙ったものと推定。
被害者衣服からの付着物検出
- 上着袖口・ズボン裾に同成分を確認。
- 衣類繊維内に「結露痕」が存在。
→ 一度低温環境に置かれた後、再び常温に戻された痕跡。
追加生化学検査結果(体内ガス分析)
- 血液中より**微量の一酸化炭素(CO)**を検出。
- 暖房器具等の使用痕跡なし。
- 呼吸抑制による意識低下または昏倒の可能性あり。
環境条件(補足)
- 室温:20.3℃
- 湿度:35%(比較的乾燥)
- 空気循環良好、換気扇は稼働状態。
→ 通常よりも体表冷却速度が速まる要因となる。』
「以上だ。 何か役に立ちそうな情報はあったか?」
髙野が顔をあげたタイミングを見計らってそう聞くと、髙野は力強く頷いた。
「じゃあ、これで俺の情報は出した。
お前にも出してもらわなきゃ不平等だ。
自己紹介をされたら、返すってもんだろ?」
「まぁね。 でもありがとう。 この情報のお陰で”仮説”が”事実”になった。
まぁ、現場検証とかはしなきゃいけないだろうけどね。
多分これでいいと思う。」
坂田はにこりと微笑むと「じゃあその方法を、お聞かせ願おうか。」
髙野は研究室にある黒板へ向かうとチョークを手に取った。
『【冷却トリック 検討】
・現場温度:20℃
・遺体直腸温:27℃
→ 死後約6時間経過のはずが、3時間程度に見せかけられている
【異常要素】
① 衣服に冷却剤成分(ポリエチレングリコール系)
② 繊維内の結露痕(低温→常温)
③ 血液中 微量CO検出
【仮説】
被害者は意識を失った後、低温環境に一時的に置かれた。
その後、遺体を現場へ移動。
→ 体温が低下した状態で発見させ、死後経過時間を“短く偽装”。
【結論】
「犯人は、温度を操作して時間を偽装した」』
髙野は粉受にチョークを置いた。
「でもよく分かったな。」
それが坂田の発した第一声だった。
「なんで?」
「今見た感じだと、あんまり数学とは関係なさそうだからだよ。
成績はいいが、お前、そういうことあんま興味ないだろ。」
髙野は片目をつぶり、チッチッチ、と指を振って見せた。
「一見すればね。 でも、これも数学の法則が使われてるのよ。」
髙野はまた粉受からチョークを取り、上下黒板を入れ替えた。
『 【ニュートンの冷却法則】
T(t) = T_s + (T_0 - T_s) * e^(-k t)
T(t):時刻tにおける遺体温度
T_s :室温(環境温度)
T_0 :死亡時の体温(約37℃)
k :冷却係数』
「ニュートンの冷却法則?」
坂田が不思議そうに聞いた。
くすりと笑った後「そうね。数学音痴のあんたなら知らなくても仕方ないかもね。」と言い
「ニュートンの冷却法則とは、超簡単に言えば『熱いものが冷める速さは、その物体と周りの空気の温度差が大きいほど速い』という法則。 何となくわかった?」
「物凄くざっりだがな。」坂田がそう肩をすくめると、「なら今度覚えてきてよね。 ちゃーんとね。」
と髙野が拗ねたような顔をした。
この年でもあの顔が似合うのは流石だな、と坂田は感心した。
シャッシャッ、と音がして坂田が顔をあげると髙野が無言で続きを書いていた。
『 条件:
T_s = 20℃
T_0 = 37℃
T(t) = 27℃(発見時)
→ 27 = 20 + (37 - 20) * e^(-k t)
7 = 17 * e^(-k t)
e^(-k t) = 7 / 17
ln(7 / 17) = -k t
k t = ln(17 / 7) ≒ 0.89』
「こんなもんかな」そう言って髙野はチョークを動かす手を止めた。
「数学音痴のあんたにも分かりやすく結論から言うと通常の環境で、室温20℃なら、
冷却係数kはおよそ 0.1〜0.125 /h(時間⁻¹) のはずなの。
言いたいことは、分かるわね?」
坂田は小さく頷いた。
髙野は黒板へと向き直った。
『k = 0.1 → t ≒ 8.9時間
k = 0.125 → t ≒ 7.1時間』
「よく分らんが要するにこの温度差だと死後七~八時間が妥当な訳か?」
ゆっくりと頷くと「よく分かったわね」と驚いたように、でも少し嬉しそうに髙野は言った。
「冷却が以上に速い。つまり…人工的に温度を下げられた可能性が高い。 言わずとも、分かるとは思うけど。」
「もちろん。 その推理と数式がその通りなら、犯人を割り出せる可能性が高い。 礼を言う、秋。」
「どういたしまして。 でもね、あなたの言ってることは一つ間違ってる。」
「何だ?」
「確かにこの推理が間違ってたら、犯人は割り出せないかもしれない。 でもね、数式は噓をつかない。
心の穢れている人間なんかより…よっぽど正直よ。」
坂田は思わず目を見開いた。そして、思わずクスッと笑った。
「随分と学者らしくなったじゃねぇか。 まぁお前はそれでいい。 学者なんだからな。 進展があったらまた連絡する。 じゃあな。」
メルトンチェスターコートを羽織り、坂田は足取り軽く、帰っていった。
十二月二十日、金曜日。
東帝大学数学科第二研究室には下村が居た。
「それで、何かいいことあったの?下村巡査部長?」
「はい、例の事件の犯人が捕まりました。
それでお礼をと係長が言っておられましたので。
それと下村です。」
髙野は愛想のよい笑みを浮かべると「そうだったね。下村巡査部長。」と、言い直した。
「じゃあ、その”係長”の方は今忙しいのかしら?」
「はい。なので今日の私は係長の代理です。『ありがとう。』と言っておられました。」
髙野は少し頬を綻ばせ、「じゃあ、『どういたしまして。』って、言っておいてくれる?」
はい。と下村は小さく頷いた。
藤見はそんな仲睦まじい様子を二階から見下ろしていた。
その時藤見のスマホが電話の着信を知らせた。
坂田からだった。
ポケットからスマホを出して電話に出ると『久しぶりだな藤見君。』と言う最近では少しばかり聞き慣れた声が聞こえた。
お久しぶりです、と藤見。
頼んでた例の件はどうだった?、と坂田。
藤見は一つため息を衝くと「どうも何も、何なら今回は坂田さんが巻き込んだといっても過言ではないでしょう。 今回は坂田さんの方が髙野先生と一緒にいたでしょうしね。 そういう場合は僕にはどうにも言いかねます。」
そう呆れた演技で返すと『それを言われちゃぁ、そこまでなんだよ。』と気恥ずかしそうな坂田の声が聞こえた。
それよりも、と藤見は切り出した。
「先程、髙野先生と下村刑事の話に聞き耳を立てさせて頂いたんですが、忙しいんじゃないですか? よくこんな事件とは無関係な電話をする時間を確保できましたね。」
厭味ったらしく聞こえたのか坂田は電話越しで気弱に笑った。
『何とか暇を見つけてな。 一応一個の事件が終わったから確認したんだよ。』
「先生の様子なら言うほど変わったことはありませんよ。
それよりどうしたんですか? そんな先生の事が気になるんですか?」
わざと少しとぼけて言ってみると『別に、何となくだ。』と平静を装っていながらも少しばかり照れ隠しな雰囲気が電話越しでも感じられてしまう声が聞こえた。
『あと一個、色々ドタバタしててあんま礼を言えてないんだがお宅の大学の物理学科の准教、名前は確か…』
そこまで言って歯切れが悪くなった。
「湊川先生ですか?」
物理学科と聞いて頭に浮かんだ名前を口に出すと、『あぁ、そうだ!その先生だ。』と興奮気味の声が聞こえた。
湊川透真。東帝大学理工学部物理学科第八研究室所属の物理学者である。
藤見が得た情報によればどうやら髙野とは昔から親交があるようだった。
彼女によれば『かなりの変人よ。 その代わり、すんごい賢いけどね。』と言うことらしい。
そう言いたい気持ちを押し殺して「分かりました。 湊川先生に伝えておきます。」とだけ言うと
『よろしく頼む。』と言う言葉の後にツーツーツーと電子音が聞こえた。
代わりに礼を言う、そう言ってしまった以上もう後戻りは出来ない。
足取りが重いながらも、藤見は雪降る外を見ながら東帝大学数学科第二研究室を出て行った。
これから少しテスト期間なので暫くあげれないかもしれませんが(そう言ってすぐ上げれたりするかもしれません)頑張って一か月以内には上げようと思います!
以後もご贔屓に!




