鍵は、ただ一言。【愛を告げなければ出られない部屋】
【真実の愛を告げないと出られない部屋】
「……は? 何だこのふざけた部屋は」
いつも冷静沈着。悪く言えば何を考えているかよく分からない、私の婚約者『レオン・ヴァルフォード』侯爵令息。サラリとした黒髪の奥で光るサファイアのような青の瞳。そこに浮かんでいるのは、明確な怒りだった。それを扉の上に浮かぶ怪奇文章に注いでいる。
「イタズラ、でしょうか。それにしては手が込んでいますけど」
出来るだけ平然を装って、私『エルシア・グラン』伯爵令嬢も、扉の上に掲げられた文字を見上げていた。レオン様が扉のノブに手をかけるが、鍵が掛かっているのかガツンと無慈悲な音が響く。
「魔法か? ……どこのどいつだ。侯爵令息とその婚約者を閉じ込めるなんて発想をする馬鹿者は」
視線を下げて部屋の中を見渡す。真っ白の小部屋の中には、家具などは何もない。本当に扉と怪奇な説明文が一行あるだけの、無機質な小部屋だ。
部屋の中央で床に座り込んだままの私とは対照的に、騎士であるレオン様は剣を抜く。
「エルシア。身を低くして、頭を守って」
彼はそれだけ告げると、部屋の出入り口の扉に向かって切り掛かる。キンッと金属がぶつかる音と、床伝いに体に伝わってくる衝撃。
私は床に放り出していたハンドバックに手を伸ばし、頭を守るように掲げる。そこに入っているのは、私の淡いピンクグレーの瞳と同じ──いや、それより濃いピンク色の小さな袋。
(これって……まさか私が貰ったこの恋愛成就のお守りのせい……!?)
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事の次第は先週の頭、貴族の令嬢が通う高等女学院での昼食時にまで遡る。平民と身分違いの恋愛をしていた友人が、両親から結婚の許可をもぎ取ったらしい。
貴族同士の政略結婚が当たり前のこの国で恋愛結婚、しかも身分違いでそれを叶えるなんて、とんでもない行動力だ。嬉しそうに報告する彼女の朗らかな笑顔は皆に伝染し、完全にお祝いムードになっていた。
彼女からよく恋愛相談を受けていた私も同じく祝福したが、両親の説得が上手くいっていないと相談をされていた分、疑問は残る。周囲を取り囲む友人たちが減って来たところで、こっそりと耳打ちした。
「──それで、何をきっかけにそんな急展開になったのですか?」
「実はね、とっても良い占い師さんにアドバイスを貰ったのよ」
どうやら占い師の言う通りにすれば、スルスルと絡まった糸が解けるように両親との対話が上手くいったらしい。彼女を疑うつもりは一切ないが……同じく恋愛方面での悩みを持つ私は、彼女の紹介でその占い師の元を訪れた。
王都の中でも一等地にある煌びやかな建物。……の、間にある暗い路地の奥。夕陽で怪しさの増した錆びついた扉の向こうに、占い師のお婆さんがいた。
目深に被った黒のローブ。そこから伸びるシワだらけの手が、テーブル一つ挟んで椅子に腰掛けた私の手を握る。
「お嬢さんは婚約者との関係で悩んでいるのだろう? ふむ……相手は未来の侯爵様、しかも騎士ときた」
名前も誕生日も告げていないのに、悩みと婚約者を言い当てられてしまった。これだけですっかり相手を信じてしまった私はお婆さんに悩みを吐露した。
「私、彼の婚約者のままでいいのか悩んでいまして……」
私とレオン様の縁が繋がったのは、もう十年も前のこと。
レオン様の十歳の誕生日パーティーの日。王家に連なるヴァルフォード侯爵家主催で開かれたそれは、実質的に彼の婚約者探しの場でもあった。そんなことも知らない七歳の私は両親に手を引かれ侯爵家の門扉をくぐり、拙いカーテシーでレオン様に挨拶をした。
……ただそれだけで、私はその場で婚約者として選ばれた。
まるで初めからそのようにヴァルフォード侯爵家が仕組んであったと言わんばかりの即断即決。弱小貴族に分類されるグラン伯爵家の面々は喜びながらも首を傾げるという奇妙な動きをするしかなかった。
レオン様は幼い頃から聡明なお方だった。更に「勉学など本を読めばすぐに頭に入る。ならば自他を守れるように体を鍛え剣術を磨いた方が有効的」と秀才ゆえの発言を繰り出して、騎士を目指して体を鍛え始めた。
侯爵として跡を継ぐまでは騎士として働く……そんな目標を掲げ、時には平民と共に汗を流し切磋琢磨するレオン様が忙しいのは当然。よって相手から望まれた婚約であったにも関わらず、レオン様と会えるのは半年に一回、二回といった程度。
最近では年齢的に婚約者同伴のパーティーが増えてきたので頻度は増えたが、それでも月に一回ほど。学生の私と王家直属の近衛騎士団に所属するレオン様では、用事がある時にしか顔を合わせる機会はない。
「でも、お誕生日には毎年贈り物をくれるのです。まるで私の心を覗いているのかと思うくらいに毎年欲しい物ばかりをくれて、スマートにデートに連れ出してくれるの。だから私はすぐにレオン様を好きになってしまったのですが……」
秀才で容姿端麗、腕っ節も強く私を理解してくれているとなれば、好きにならない理由がない。
「うーん、それでもお嬢ちゃんは不安に思ってしまうのね?」
お婆さんの言葉に、こくりと頷く。
「……私を大切にしたいと言われても、それが本心なのか分からなくて」
今では年齢相応に現実的になった私だったが、幼い頃はそれなりに夢見る少女だった。結婚できる十八歳になったら好きな人からプロポーズされて結婚するのだと、政略婚が当たり前のこの国で理想を描いていたのだ。
レオン様の方から婚約を申し込まれたこともあって期待したのだが……まぁ、何年も彼の態度を見ていれば、そんなのは難しいと理解するのは容易い。
(だってレオン様、私と一緒にいる時は笑わないもの)
いつも冷静で表情を乱さない彼は、私と一緒にいて楽しそうな表情をしたことはない。
プレゼントには定型文の「愛している」のカードが付いているが、それは……婚約者に対する形ばかりの言葉だろう。
「でも不安に思うようになったのは最近なのです。実は先日初めて事件に巻き込まれて……」
おしどり夫婦な両親のように、愛のある求婚から新婚生活をスタートさせたいという幼心に抱いた夢などとうに諦めていた私だったが、先日初めて誘拐というものを経験した。
『侯爵家嫡男の婚約者が弱小貴族』となれば身代金誘拐してくれと言っているようなもの。しかし私は不思議とこの年齢まで危険な目に遭うことはなく、しかも先日の誘拐は身代金目的ではなかった。
「そこで犯人の方に愛の告白をされまして、一緒に国外へ逃げてくれと言われました」
「……まさかお嬢ちゃん、その犯人に乗り換えたいっていう相談じゃないだろうね?」
「いいえ! 私が想っているのはレオン様だけです。颯爽と駆けつけて私を救ってくれて、むしろ惚れ直したくらいですもの」
あっという間に私を犯人から引き剥がして、犯人を追い詰めて、その喉元に剣を突きつけた。そこまでは何も問題なく格好良いだけだ。
ただレオン様は……私への想いを未練たらしく吐き連ねる犯人に、こう言ったのだ。
『それで誘拐事件か。くだらない……』
いつも冷静な彼らしくない、心から相手を軽蔑するような言い方だった。
「レオン様にとっては、恋情なんてくだらない感情。そんなものどうでもいいというお考えだったようなのです。……レオン様に恋している私では、彼の価値観に合わないのではないかと急に不安になってきて。こんな気持ちのまま嫁げば、失望される気がするの」
お婆さんは急に額に手を当てて、天を仰いだ。頭痛がするのだろうか? いつも持ち歩いている薬入れを学生鞄から取り出して、頭痛薬を手渡す。何かあった時のために持ち歩くようにと、レオン様に指示されていた。
「心配いらないよ、心優しいお嬢ちゃん。ここまで盛大な両片想いに遭遇するとは思わなくて、尊さで言葉を失っただけで」
「両肩、重い……? 大丈夫ですよお婆さん。頭痛薬は肩が痛いのにも効きますから」
「うん。鈍くて心優しいお嬢ちゃんにはこのお守りをあげようね。その薬と交換ということで手を打とう」
薬を受け取ったお婆さんは、代わりに淡いピンク色の小袋を私に手渡す。何が入っているのかと見慣れぬ形状をした小袋の紐を解こうとしたが「お守りの中は見るものじゃないよ。心配せずとも、異国の匂い袋のようなものさ」と言われる。確かに、僅かに百合のような凜とした甘い香リが漂う。
「私の描いた魔法陣が中に入っていて、お嬢ちゃんの恋が叶うようにサポートしてくれる。恋愛成就を願うお守りだよ」
「お婆さんは魔法使いなのですか!?」
魔法陣を描き、そこから非現実的な力を発生させる人々──それが魔法使い。その存在は希少で、レオン様が「魔法使いがあと一人でもいいから増えてくれれば、騎士達の負担が随分と減るのだが」と溢したのを聞いたこともある……強大な存在だ。
驚き声をあげれば、お婆さんは「秘密にしておくれよ」と釘を刺してきた。
「私は恋の魔法使いなんだよ。苦難を乗り越えて成就する恋こそ、私の力の源となる。お嬢ちゃんには是非幸せになって欲しいね」
◇ ◇ ◇
──彼の婚約者のままでいいのか。
肝心な部分がよく分からないままに丸め込まれ店を出た私は、ひとまずその恋のお守りをスカートのポケットに入れたまま、王都の中心部にあるベンチに腰掛けて休むことにした。
「願いが叶ったらお守りを返すように言われたけど……そんなに上手くいくものなのかしら」
「……エルシア?」
今まさに脳裏に描いていた人物から声をかけられて、驚きでビクリと肩が跳ねる。いつの間にか騎士の制服姿のレオン様が真正面に立っていた。
「レオン様!? どうしてこんな場所に」
この時間はまだ仕事中のはずだ。まさかもうすでにお守りの効果が出たのかと、私はスカートのポケットに手を当てる。
「いや、偶然通りかかったら姿が見えたから。共も付けずにこんな場所で居たら危ないだろう。軽率な行動は控えた方がいい」
こんな場所と言っても、王都のど真ん中である。この国内で最も安全な部類に入る場所のはずだが、きっとレオン様はこの前誘拐された件を根に持っているのだろう。私は黙って視線を下げる。
(期待しちゃって馬鹿みたい。レオン様にこれ以上迷惑をかけるわけにはいかないし、すぐに帰ろう)
「ごめんなさい。すぐに帰ります、から……」
いつも通りのつもりだったが、不意に言葉の最後が震えた。それを誤魔化すように慌てて彼に作り笑いを向けて、立ち上がる。
「では、失礼いたしま──」
「待て」
重みのある何かが体にかかる。鼻腔に届くのは、いつものレオン様の香り。柑橘系の香りが私を包み込む。
「え……」
「馬車を呼ぶから、家に着くまでは着ていろ。秋口にこんな日陰で座っていれば冷える。もっと自分の体を大切にしてくれ」
ふいに長めの前髪の奥のサファイアが細められる。感情があまり表に出ない彼にしては珍しい表情に、とくんと心臓が大きな音を鳴らした。
私の肩にかけられたのは、レオン様のジャケット。どうやら言葉の震えを、私が寒さで震えていると勘違いしてくれたらしい。
「私がこれを借りると、レオン様が寒いのでは?」
「俺は鍛えているから平気だ。華奢なエルシアとは違う」
「じゃあ……ちゃんと洗ってからお返し──」
「いい。そのまま返してくれ。後日になっていいから、洗わずにそのまま返して欲しい」
なぜか食い気味にそう主張されたので、私は勢いに押されて頷いた。
(そうよね……大事な騎士としての制服なのだから、素人に洗濯させたくないわよね)
こっそりと袖口を口元に当てれば、濃くなる彼の香り。まるで彼に抱きしめられているかのような錯覚に陥り、私は予期せぬ幸福感に顔を綻ばせた。
「……エルシア」
「は、はい!?」
「次の誕生日プレゼントの希望はあるか?」
匂いを嗅いでいたのがバレたのかと思い身構えたが、予想外の質問に拍子抜けする。
「珍しい質問ですね。いつもレオン様が選んでくださるのに」
「いや……十八歳は大人の仲間入りをする大切な区切りだ。何か希望があるなら叶えてやりたいと思って」
欲しいものは今までにレオン様がプレゼントしてくれているし、私はそこまで物欲が強い方ではない。
(あえて言うなら、レオン様からの愛の言葉が欲しいけど)
そんな希望述べたところで、届くのは定型文のメッセージカードだろう。今更甘い言葉など期待しても無駄なことは、私が一番よく分かっている。彼は恋愛に興味がないのだから。
だから私は笑顔で嘘をついた。
「特にありません。レオン様におまかせしますし、お祝いの言葉だけでも私は嬉しいですから」
◇ ◇ ◇
お守りを貰った翌日のことだった。学院に登校した私は、クラスメイトの皆から一斉に哀れみの視線を受けた。
「……え?」
戸惑っていれば、友人のうちの何人かが気まずそうに声をかけてくる。
「エルシア様、元気を出してね……貴女ならもっと良い人が見つかるわ」
「大丈夫。エルシア様は妖艶な美人じゃないけど、可憐な美少女という枠なら国の中でも片手に入るから。次は上手くいくわよ」
何を言われているのかさっぱり分からない。
「あの……ごめんなさい、何のお話かしら?」
「え? だってレオン様の浮気を止めようと待ち伏せしていたけど、結局一方的に責められて家に帰された上、彼は浮気相手の元へ向かったのでしょう?」
……余計に話が分からなくなってしまった。
確かに私は昨日、レオン様が呼んだ侯爵家の馬車で家に送り届けられた。
レオン様は用事があるということだったので、その場で別れた。
……その後何をしていたかは知らない。
ただ分かるのは、彼のジャケットは今も私の手元にあるという……それだけ。
「見ていたご令嬢がいるの。エルシア様だけを馬車に乗せた後すぐに、レオン様は王立庭園のガゼボで他のご令嬢と寄り添っていたって……」
体から力が抜けて傾いた。頭から倒れることは免れたが、それでも無様に尻餅をついてしまう。
……二重の痛みで、胸が張り裂けそうだった。
「エルシア様!?」
「大変、誰か医務室へ……!」
「大丈夫……ごめんなさい。少し動揺してしまっただけです」
弱小貴族であってもレオン様に相応しい……侯爵家に嫁ぐ者として相応しいように努力してきた私が、ここまで動揺を表に出すのは珍しいことだった。
突然悲劇のヒロインに転落してしまった私に、クラスメイト達は優しかった。
……いや「理不尽に負けてはいけない。こちらは悪くないのだから、胸を張って勇猛果敢であれ」と私を奮い立たせようとした。
というわけで、私はクラスメイト達に囲まれた状態で、その浮気相手の偵察に向かわされた。どうやら相手は同じ女学院に通う、私より一つ下の学年のご令嬢らしい。
「……少しくらい感傷に浸る時間が欲しいのですけど」
「ダメですわよエルシア様!」
「エルシア様はただでさえ男性の庇護欲を掻き立てる見た目をしていらっしゃるのですから、ここは泥棒猫をぎゃふんと言わせて強さをアピールしとおかないと。弱った所を狙う卑劣な男に捕まってはいけませんからね」
そんなこんなで泥棒猫令嬢の教室前に人だかりをつくる私たち。
「……あの窓際の席に座っているお方ですわ」
こそこそと耳打ちされるので視線を向ければ。……そこに居たのは「妖艶」という言葉が似合う美人だった。
レオン様と同じ漆黒の髪と青の瞳。ゆったりとカールした髪を横にまとめているだけなのに、首筋から色気が放たれているかのような……そんな女性。年下とは思えない。
レオン様と並べば、美男美女でお似合いな気がした。
「クラリッサ・スタリンド侯爵令嬢ですわ」
「数ヶ月前にご自身の婚約者と別れたばかりだとか」
「だからって、相手がいる男性に擦り寄るなんてルール違反よね」
「レオン様もレオン様よ。こんなに愛らしいエルシア様がいるのに、あんな女に走るなんて……」
「でも正直……硬派なレオン様が、露骨に浮気するなんて信じられないわ」
「婚約が可能な年齢になった六歳のエルシア様を真っ先に攫った人ですものね。婚約者を決めるための自分の誕生日パーティーを三ヶ月も早くに開催するなんて狙っていたとしか思えないと、伝説になった……」
「それが浮気ねぇ……世の中何があるか分からないものね」
私の代わりに周りのクラスメイト達が喋り続けるので、口を挟む暇はない。
「エルシア様、どうします?」
黙り込んだ私を心配して友人が声を掛けてくれる。私は眉尻を下げて、無理やりに微笑んだ。
紡ぐのは、侯爵令息の婚約者としてあるべき言葉。
「何もしないわ。レオン様が形だけの婚約者をお求めの間は頑張りますし、婚約破棄して彼女と一緒になりたいと言うなら従うまで。レオン様が幸せになるのなら……それで構いません」
「まぁ、なんてお強い!」
「愛が深いですわ……レオン様も、こんなに一途なエルシア様を放っておくなんて罪な人。私はエルシア様のように相手の幸せを願うなんてできそうにないわ」
そんな立派なものではない。
──むしろ今まで私を支えてきてくれた「レオン様は恋愛に興味がない」という考えは、ぽきりと音をたてて折れてしまった。
支えを失った私は、その後どうやって自分の教室や家に帰ったのかもよく覚えていない。
(レオン様は恋愛をくだらないと言ったわけではなく。……私に対して恋愛感情を抱くのが、くだらないと言ったのね)
優しくしてくれたのも、
プレゼントをくれたのも、
危ない所を助けてくれたのも、
……私が名目上の婚約者だったから。
義務だと思って相手をしてくれていただけなのだ。……私は長年彼の優しさに甘えて、勘違いして、恋していただけ。
「……こんな思いをするなら、誘拐犯にそのまま攫われて行った方が幸せだったかもしれないわ」
私はお婆さんにもらったお守りに縋るように、それを握りしめてこっそりと泣いた。ポウッとお守りが光ったような気がしたが、きっと泣き疲れて見た幻覚だろうと、私は疑いもしなかった。
◇ ◇ ◇
「……それでも、借りたものは返さなければいけないわよね」
翌日。私が学院の帰りに寄ったのは、近衛騎士団の詰め所がある王宮だ。レオン様のジャケットを抱え、彼に怒られぬよう侍女を一人連れて、慣れない王宮を歩いていた。
腫れてしまった目の言い訳はしっかり考えてきたし、大丈夫。そんなことを考えながら歩いていれば、廊下の角でトンっと他の女性と肩がぶつかった。ふわりと薔薇のようなの香りが漂う。
「あら、ごめんなさい。急いでいて前をよく見ていなかったの」
足まで氷づけになってしまったかのように固まる私。それもそのはず……私にぶつかって謝る女性は──クラリッサ様だったのだから。
碌に言葉も返せなかった私を置いて、彼女は立ち去る。それと入れ違いになるかのように、今度は馴染みの低い声が私の名を呼んだ。
「エルシア? またこんな場所に一人で来て……いや、今日は侍女も居るのか」
「あ……はい。お借りしていたジャケットを返そうと思いまして」
なんとか平然を装ってレオン様にジャケットを返そうとした私だが、不意に彼から香った匂いに心の中が絶望感で満たされる。
だっていつも柑橘系の香りがするレオン様から──クラリッサ様と同じ薔薇の香りがしたのだから。
ばさりと音を立てて、私の腕からレオン様のジャケットが滑り落ちた。
「……先程まで誰かとお会いしていましたか?」
会っていないと言って欲しい。
誤解だと弁明して欲しい。
なのにレオン様は私の欲しい言葉はくれない。
「エルシアには関係のない話だ」
ジャケットを拾う彼とは視線も合わない。
冷たい言葉が私の胸を刺して、私の疑念が真実だと告げる。
「それよりエルシア。昨日言っていた誕生日プレゼントだが……」
「ごめんなさい。気分が悪いのでまた今度にしてください」
これ以上彼と一緒にいたくなくて、私は嘘をつく。
……恋のお守りなんて、偽物だったのかもしれない。
◇ ◇ ◇
私は次の日から学院を休んだ。同じ学院内にレオン様が愛する人がいるのだと思うと吐き気がして、どうしても学院の門をくぐれなかった。嘘が本当になってしまったのだ。
事情を知るクラスメイト達は心配するだろうし、どこからか私が学院を休んでいるのを聞きつけたレオン様が毎日のように手紙を送りつけてくる。今まで手紙なんてほぼ送ってきたことがなかったのに、こんな時にだけ……と、私は意地になってそれを開封しなかった。きっとクラリッサ様に浮気した言い訳でも書いてあるのだろう。
そうしているうちにレオン様は痺れを切らしたのか、夜分遅くにグラン伯爵家まで訪ねてきた。どうやら仕事帰りに寄ってくれたらしい。その頃には私は一ヶ月も学院を休んでおり、机の上にはレオン様から届いた未開封の手紙の山が出来上がっていた。
「エルシアは無事なんですか!? 何か悪い病では──」
「ヴァルフォード侯爵家の伝手で医師を手配し、費用も全て持ちます。だから、一目でいいからエルシアに会わせてください」
「もし体調が少しでも良さそうな日があれば、一言でもいいので話を……」
私を心配するレオン様の声が、部屋まで響いてきた。賢いレオン様のことだから、私に聞こえるように、わざと大きな声で話しているのだろう。
それでも私の気持ちは変わらない。
「私は……会いたくないの」
侍女を通じて伝えてもらった私の意思は、最終的には尊重された。代わりに私の元へ届いたのは小さな箱とその表面に書かれた走り書きのメモ。きっとここに書けば嫌でも読むと思ったのだろう。『愛するエルシアへ』という彼の感情のが全く乗っていない文字列には、もはや嫌悪感しかない。
さらりと書いた文すら優美な姿をしているレオン様の文字は、私を心配すると同時に来月二人で出席する予定のパーティーにはこの箱内にあるネックレスをつけて欲しいと綴る。
カレンダーを見れば、私の誕生日の前日に王宮でパーティーが開かれることになっていた。王宮のパーティーは、婚約者やパートナーを同伴するように義務付けられている。……今年は誕生日にデートには誘われないだろうから、前日遅くまでパーティーに参加しても特に影響は無いだろう。なんなら誕生日すら忘れていて、日付を誤解してこうやって贈り物をしてきた可能性すらある。
いつも私が欲しいものを贈ってくれる彼のことだ。ネックレスなら、去年貰った髪飾りと合わせて淡いピンク色の宝石が付いたものを仕立てようと思っていたので、そういった類のものかもしれない。
中身を予想しつつリボンをほどいて箱を開ければ、中から出てきたのは──
「サファイアの、ネックレス……?」
ピンクどころか、海のような深い青。レオン様や……クラリッサ様の瞳のようなサファイアがいくつも散りばめられ、ヴァルフォード侯爵家の家紋である鷹をイメージさせる鳥がモチーフとなった豪華なネックレスだった。
華奢なデザインの物を好む私の趣味とは違った装飾に、首を傾げる。いつも的確に私の好みを突いてくる彼にしては珍しい選択だ。
少し考えて……私はとある結論に至った。
「もしかしてクラリッサ様用に作ったけど、受け取り拒否されたとか?」
レオン様が私へのプレゼントにピンク色を採用しがちなのは、私が好きな色であると同時に、私の瞳の色でもあるからだ。その理屈からすれば、クラリッサ様の色を彼女にプレゼントしようとしたが、受け取ってもらえなかったという想像はあながち間違えていないように思う。
それを婚約者の私に贈る。……心の奥から真っ黒の感情が吹き出しそうになった。
その感情から生まれた想像なのだろうか。レオン様とクラリッサ様が抱き合った後にプレゼントを渡し、気に食わなかったクラリッサ様が別の物をレオン様に可愛くおねだりする様子が脳裏に浮かぶ。レオン様はクラリッサ様に「では別のものを用意するから」と囁いて──
「酷いです! こんなに清楚で可愛らしいお嬢様のことを二番目の女のように扱うなんて!」
「応対の際に、ヴァルフォード侯爵令息を睨んでやりました。お嬢様を大層心配しているような口振りで、なんとかして会おうと必死でしたが……信じられませんね! お嬢様の方から『穢らわしい浮気男は嫌いだ』と婚約破棄を突きつけてやればいいと思いますよ」
私の心が完全に闇に覆われる前に、馴染みの侍女達が私の代わりに怒ってくれた。脳裏に浮かんでいた逢瀬のシーンはスッと息を潜める。
……彼女達の前で泣くなんて出来なかった。真っ黒の感情を必死に押し込めて、蓋をする。
「……もう十八歳になるのだから、少しは大人びた格好をしなさいということかもしれないわ。今度のパーティーにはこれをつけて行くから、申し訳ないのだけどドレスを見立ててくれる?」
そうやって私は無理に笑った。……ただの強がりだが、少しは合理的な発言に捉えてもらえただろうか。
侍女たちは「お任せください! ヴァルフォード侯爵令息が土下座して謝るくらい素敵なレディーに仕上げますよ!」と張り切ってくれて。……準備でバタバタしているうちに、あっという間にパーティーの日を迎えた。
◇ ◇ ◇
体のラインを強調する、腰上まで開いた背中が丸見えの藍色のドレス。ふわふわとした長い金の髪は結い上げて、丸みを帯びた目が大人びた印象になるように、長めのアイラインを引いてもらう。白い肌を強調するような黒の総レースの長手袋をして、仕上げにレオン様がくれた豪華なサファイアのネックレスをつける。最後にハンドバッグの中にピンクのお守りを忍ばせた。
偽物だろうと思い何度も捨てようとしたが、百合のような凜とした甘い香りを嗅ぐたびに、捨てようという気持ちは不思議と引っ込んでしまう。
「……詐欺ね」
鏡に映った自分を見て思わず呟く。死ぬ気で寄せて上げて引き締めて……作り上げたメリハリある体は、日常を知る者からすればもはや詐欺だ。侍女達はやり切った顔で太鼓判を押してくれたが、どうにも似合っていない気がする。
その証拠に、馬車で迎えに来たレオン様は私の姿を見るなり、顔を赤らめ停止して固まった。
「エルシア、体調は……いや、その格好は……?」
「体調はもう大丈夫です。今日のドレスはいただいたネックレスに合うものにしました。……似合わないのは分かっていますから、傷をえぐらないでください」
「いや……似合っている。非常に似合っているのだが、目のやりどころに困……くそっ、誰かケープかショールか、とにかく上半身を隠す物を持ってきてくれ!」
「……もしかして、隠さなければ隣に立ちたくないほどに似合いませんか?」
「違う!! いい加減エルシアは、自分の持って生まれた容姿を自覚してくれ!!」
こちらを見ようとしないレオン様の胸には、私に贈られたネックレスに近いデザインのブローチが付けられていた。モチーフとなっている鷹の足元には、ピンク色の宝石が輝いている。男性にしては珍しい選択だと思った。……クラリッサ様の趣味だろうか?
侍女が持ってきたショールを、レオン様は私の肩から胸元にかけてぐるぐる巻きにする。そんな状態で私は馬車に乗せられて、パーティーへと向かった。
馬車の中での必死の抵抗の結果、ショールぐるぐる巻きミイラでのパーティー参加は回避した私だったが。……どうにも会場内での視線が痛い。
王族主催の大きなパーティーなので女学院でのクラスメイトの姿もちらほらと見かけるが、皆必ず見てはいけないものを見てしまったという顔で顔を背けてくる。そして婚約者やパートナーとコソコソ話しながら、時折そっとこちらを伺ってくる。しかも、パーティーといえば立派な社交場なのに、私達に話しかける人は皆無。むしろ皆避けている。
そこまで露骨な態度を取られると、似合っていないと分かっていても辛いものがあった。
「……レオン様」
エスコートのために差し出してくれていた腕にきゅっとしがみ付けば、驚かせてしまったのか彼の腕がビクッと大きく跳ねる。
「ごめんなさい。驚かせてしまって」
「いや……構わないよ。どうかしたのか?」
「無理してこんなドレスを着てくるのではありませんでした……。これではレオン様まで笑い者になってしまいますから、私は先に帰ろうと思います」
「は? こんなに美しいエルシアを笑う者がいるはずがない。 エルシアを盗み見ようとする不埒な奴ばかりで、威嚇がこんなに忙しいというのに……」
「だって皆んなに目を背けられるのです……。大人っぽい格好をした女性と参加したかったのなら、いっそクラリッサ様を呼べば良かったのに」
彼の腕が私を振り払うかのように動く。まるで私がクラリッサ様の名前を呼ぶことすら拒絶しているかのようだった。
──心から闇が溢れて、目の前が真っ暗になる。
「どうしてそこでクラリッサの名前が出る? まさか薔薇の──」
「私、ちゃんと知っているもの! レオン様は私じゃなくてクラリッサ様をお好きなのでしょう!?」
私は知っている。
二人は愛し合っていて、毎日のように逢瀬を交わしている。
婚約者の私は邪魔者で、レオン様は私と婚約破棄したがっている。
レオン様は、今から私との婚約を破棄するつもりだ。
もっと早くに婚約破棄しておけば良かったと、苦虫を噛み潰したような顔で──
(……あれ? 私そんなこと、いつ知ったのかしら)
分からない。
分からないけど、何かが私に「それが真実だ」と囁く。
私はレオン様の事を好きだったはずなのに、どこからか現れた黒いモヤが、私の記憶も思考も、覆い隠してしまう。
まるでそれに『私』が塗りかえられてしまうかのようだった。
「エルシア! どうしたんだ? やっぱりこの間から何かが変だ。体調がまだ悪いのか……いいや、これは魔法の気配……?」
「レオン様の馬鹿! 恋愛に興味ない振りして浮気して……私のことなんて少しも愛してくれなかったくせに」
「は? 俺は浮気なんてしていない! それにエルシアには何度も愛を──」
「言い訳は結構です! 仏頂面で私が大切だと言われても信じられませんし、ましてや他の女性と同じ香りを纏われては、いくら文章で愛を告げられても嘘としか思えません。こんなことなら誘拐されたままの方が良かった。レオン様なんて大嫌い……貴方と結婚なんてしたくない」
周囲が騒めきたつ。「何だ?」「喧嘩か?」という声をバックに、レオン様が酷く傷ついたような表情で……目から光を消した。
……違う。
私はレオン様に、そんな顔をさせたかった訳じゃない。
混乱した私は履いてきた十センチヒールをレオン様に向かって投げつけて、淑女にあるまじきスタイルでその場から逃げ出した。
「エルシア!!」
後ろから大声で引き止められるが、私は構わずに王宮の廊下を走る。近衛で王宮を熟知した彼から逃げるのは、服装的にも体力的にも困難。私はひとまず休憩室として開放されている空き部屋に転がり込んだ。
息を切らせながら閉めたドアにもたれて、ずりずりと床に座り込む。
「どうしたのかしら私……何だか最近情緒がすごく不安定な気がするわ」
「──あら。……レオンの可愛い婚約者ちゃんじゃない」
独り言に返事が返ってきて驚く。顔を上げれば、暗い室内で男性と密会していたと思われる──クラリッサ様がいた。健全に抱き合っていただけのようだが、サッと血の気が引いて正気に戻る。
こんな場所で鉢合わせたくなかった。いや、勝手に部屋に飛び込んだのは私の方なのだが、こんな場所で好きな人が男性と二人きりで密会していたなんて、レオン様が知ったら……
「こんなシーンをレオン様に見られたら、大変ですよ……!?」
「大変? 何がかしら」
「レオン様、失恋したショックで泣いちゃうかもしれません!」
……数秒の間の後。クラリッサ様はその妖艶な雰囲気からは想像できないくらい、腹を抱えて大笑いし始めた。
「アハハハッ! ここ数週間レオンが婚約者に避けられている、嫌われたかもしれないって鬱々としていたのは、そういうこと? 私はレオンのいとこで、恋人じゃないわよ。ご覧の通り、ちゃんと恋人もいるし……どうしてそんな勘違いをしたのかしら?」
「だ……だって、私にクラリッサ様の瞳の色のネックレスを贈ったり」
私は必死に胸元のネックレスを持ち上げて、クラリッサ様に見せる。
「私の色? どう見てもレオンの瞳の色じゃないの。まぁ、いとこだから色も同じな訳だけど」
「えっ」
「鷹はヴァルフォード侯爵家の家紋。それとレオンの瞳の色を合わせたネックレスを誕生日にフライングして贈るなんて、なりふり構っていられないくらい必死な独占欲でしかないわ。……ねぇ?」
クラリッサ様が恋人に同意を求めれば、彼もコクンと頷いた。
「でもレオン様とクラリッサ様が二人で会っていて、同じ香りを……」
「確かに会ったけど……誤解しないで。あれはレオンが貴女のためにしたがっていることに対して協力してあげただけよ。第一、私はこの人と一緒になりたくて、わざわざ他国の王子との婚約を破談にしてこの国へ帰ってきたばかりなの」
クラリッサ様はわざとらしく恋人に抱きついて、接吻を交わす。見てはいけない物を見てしまった気分になった私は、真っ赤な顔を大慌てでグルンと背けた。
「ふふ……ご存知? レオンって硬派に見えるけど、初心で可愛らしい婚約者と結婚した暁には、どこからつついて食べてやろうかと日頃から考えているような男なのよ。顔に出ない分得してるわよね」
「そ、そんなことをレオン様が考える訳が──」
「クラリッサ、その辺にしておいてもらおうか。俺のエルシアを揶揄わないでくれ」
背中を預けていたドアが開いて、後ろに倒れる。あっと思った時にはすでに私はレオン様に捉われていた。
床に座り込んだままの状態で、しっかりと腹に彼の腕が回されており……逃げられない。
「や……!」
クラリッサ様とは比較的落ち着いて話をすることができたのに、レオン様が現れた瞬間に情緒がおかしくなってくる。
抵抗しようとした私だったが、その瞬間私のハンドバッグから光が溢れ、あたりが眩い光に包まれた。レオン様が咄嗟に私の頭ごとその逞しい腕の中に包み込んで覆い隠してくれたが──。
──気がつけば、私たちはこの部屋に閉じ込められていた。
*+:*+:*+:*+:*+:*+:*
そうして、今に至る。
(やっぱり、二人きりでこんな変哲な部屋に閉じ込められるなんて、このお守りのせいよ! 真実の愛を告げないと出られないだなんて……そんなの、私たちには不可能なのに)
しばらくは物理的に脱出を試みていたレオン様だったが、無駄だと分かったのか扉を斬りつけるのを中断し、怒気をそのままに私の元へ戻ってくる。まさか私を殺して、物理的に指示事項の達成を不可能にするつもりだろうか。
「や……私、まだ死にたくないです!」
「何を勘違いしているんだ。……ところでエルシアは最近奇妙な魔法陣の描かれた紙を見なかったか?」
突然の質問に、私は首を傾げる。
「見てません……」
「そうか。なら何処かに仕込まれているな……少し荷物を見せてもらうぞ」
私の返事を待つことなく、レオン様は私の持っていたハンドバッグを奪って開ける。ポイポイと口紅やら手鏡やらが放り出されて、最後にピンク色のお守りが出てきた。その後ちゃんとその他の放り出した荷物はバッグに戻してくれるあたりが、几帳面なレオン様らしい。
「これだな。どこで手に入れたのか記憶は?」
「やっぱりそれが原因……あ、えっと、こっちの話です。それは占い師さんに貰いました」
恋愛成就のお守りとして貰ったとは、とてもじゃないが言えない。
「ここから精神操作の魔法の気配がする。貰った時期は?」
「二ヶ月くらい前でしょうか」
「エルシアがおかしくなったのと同時期……やはりこいつか。俺たちを苦しめた諸悪の原因は」
レオン様はお守りを床に置いて、再び剣を引き抜く。こちらまで息を詰めてしまうような殺気が放たれた。
「俺のエルシアに『レオン様なんて大嫌い』と言わせた罪は重いぞ、魔法使い」
レオン様がその殺気のままに、剣を振り下ろす。ザンッとお守りが真っ二つに裂かれた。
……心を覆っていた黒いモヤが引いていくのが分かる。
私はレオン様が浮気するその瞬間を見た訳じゃない。
学院を休み続けた私を心配して、仕事終わりで疲れているはずなのに、わざわざグラン伯爵家まで様子を見に来てくれた。
今日のドレスだって、あまりこちらは見てくれないけど……似合っていると褒めてくれる。
落ち着いて考えれば、レオン様が突然私に婚約破棄を申し入れてくるような状況では──ない。
いくら状況がグレーであったとしても、いつも冷静なレオン様が後先考えずに私を捨てるとは考えにくい。
「私、どうしてあんなことを考えていたのかしら……」
「エルシア……! 良かった、術が解けて……」
レオン様が真っ二つに裂いたお守りの中には、同じく裂かれた魔法陣を描いた紙が入っていた。どうやら私はこのお守りに感情を操られていたらしい。レオン様が助けてくれなかったら、どうなっていたのだろう。そう考えればゾッとした。
真っ二つになったお守りを懐に仕舞ったレオン様が、私を優しく抱きしめる。ダンスの時以上の密着で緊張してしまう私に、レオン様は告げる。
「さて……諸悪の原因を裂いても出られないと言うことは、あそこに掲げられている条件をクリアしないと出られないのだろう」
「そうかもしれません……相手までは指示されていませんから、レオン様はクラリッサ様への想いを告げれば解決するのではないでしょうか?」
「は? ……術が解けたのに、まだそれを言っているのか。俺は長年エルシアに想いを告げてきたつもりだったのに、どうして誤解されているのか分からない。そのネックレスの包装にだって、愛するエルシアへと書いてあっただろう」
「あの類の文章はお決まりの定型文で、気持ちが込められたものではないですよね?」
二人の間に沈黙が流れる。
それを先に破ったのはレオン様の──深いため息だった。
「……分かった。俺の気持ちがエルシアには一切伝わっていなかったのだと、今更理解した」
彼の手が私の肩を隠していたショールを奪う。そして彼の指が、広く開いた背中をツゥと辿った。
悲鳴と共に顔を赤らめる私に、彼は暗い笑みを落とす。
「模範的な紳士として振る舞うように、こんな執着心を見せないようにと努力してきたが……エルシアがここまで鈍い上、妙な勘違いをしているなんて思っていなかった。我慢せずに早々に押し倒しておいた方が、こじれなかったかもしれないな」
「え? レオン様……?」
「クラリッサとは、薔薇を取り寄せるための取引をしていた。あの領にしか咲かない、エルシアの瞳と同じ色味の薔薇だ。……本当はこの夜会の後に渡して求婚して、二人きりで誕生日を祝うつもりだったのに。せっかくの計画が魔法のせいで台無しだ」
レオン様の手は私の背から自身のジャケットの内ポケットへと滑り、懐中時計で時刻を確認する。
「時間だな。エルシア……」
今まで聞いたことのないような、低くて甘い声が私の名前を紡ぐ。懐中時計は彼のジャケットに仕舞われて、その手は私の手を握った。
サファイアの瞳と視線が交わり、絡め取られて、目が離せない。
「十八歳の誕生日おめでとう。六歳のエルシアが俺の誕生日パーティーにきてくれたあの日よりも、前から。俺は、──ずっとエルシアを愛していたよ。どうか俺と結婚してほしい」
私は一瞬、呼吸を忘れた。
言葉は理解できる。けれど、心が追いつかない。
だって今、レオン様が言ったのは──
──定型文なんかじゃない。気持ちのこもった、私が欲しかった言葉だから。
しかしそれでもまだ扉は開く気配はない。
私の手を握っていたはずの手はいつの間にか私の頬を包む。騎士らしい節の目立つ親指が私の唇をなぞった。
「勘違いさせ傷つけて申し訳なかったが、俺は心底エルシアに惚れていてね。別にこのまま部屋から出られずとも二人でいられるなら構わないのだが……エルシアの口からも聞きたい。嫌いだという言葉は撤回して、俺のことが好きだと言ってくれないか」
「私は……、んっ!?」
聞きたいと言ったくせに、言葉を紡ぐ前に私の唇は塞がれる。そっと合わせるだけでも口づけなんて初めての私は、もう感情がいっぱいいっぱいで何が何やら分からなくなってきていた。
角度を変えて私の唇を啄み続けるレオン様からなんとか顔を背けて、叫ぶ。
「待ってください! じゃあどうして私の前では楽しくなさそうな表情ばかりしていらっしゃったの?」
「常に気を張って自分を抑制しなければ『十八歳の誕生日にプロポーズされて結婚する』なんて清らかな願いを叶える前に、エルシアの中に俺たちの愛の結晶が──あぁ、そういうことか。これだけ愛を伝えても扉が開かないのは、それをもって『真実の愛』とするのかもしれないな」
「え……」
「では真実の愛を告げようか。エルシアの体の中に、直接」
彼の吐息が耳元にかかり、つけていたサファイアのネックレスが外される。
ぴくりと肩を跳ねさせれば、彼の口角がゆるりと上がった。彼の意図がわかってしまった私は、もはや彼の顔を直視することすらできない。
「悪い虫が寄らないように一層知識をつけ、剣術を学び、努力してきたのがやっと報われる」
「や……待って! 違います、多分それは条件が違いますから!! きっとあとは私からも気持ちをお伝えすればいいだけで──レオン様!?」
「十一年以上、君のために抑制し続けた俺の愛は重いよ。覚悟するといい」
──その少し後。息も絶え絶えに呟いた私の「好き……だから、もう許して」の一言で、カチャリとドアの鍵が回る音がした。
(おまけ:レオン side)*+:*+:*+:*+:*+:*+:*
エルシアと初めて出会ったのは、彼女が六歳になる直前だった。
ヴァルフォード侯爵家は王家に連なる家系として国家の重要な役割を担うことが多い。例に漏れず現在のヴァルフォード侯爵──父上はこの国の宰相として、この国の実権を握っている。
勿論それは私欲からくるものではなく、この国の明るい未来を願ってのことだ。この役割を他の家に奪われては、国の未来がどうなるものか分かったものではない。
将来的に俺にもそのような国家の中心部での役割が期待されるのは理解している。だからこそ俺は九歳という若さで、ヴァルフォード侯爵家を頭とする「ヴァルフォード派」の会合に出席していた。
会合には家族連れで参加する者も多い。夫人やその子供たちが庭園で楽しそうに歓談する様子を、毎回俺は上階の窓から眺めていた。大人の男たちに混じって。
「時にはあちらに参加してはどうかね。同じ年齢の仲間を作るのも大切だよ? ……そろそろ婚約者も決めなければならないのだから」
父上はそう言ったが、将来背負うべき役割を全うすることの方が大切。婚約者なんて、適当に釣り合いの取れる家の令嬢を選べばいいだけ。俺はそう考えて、子供達に混じることはなかった。
それでも外から声は聞こえてくるので、時折視線は窓に逸れる。
(……あの子、いつも一人でいるな)
何度も見ていれば顔ぶれも把握できる。
……皆の輪から離れた位置で、庭の花に目をやる幼い少女。金のふわりとした髪が特徴的な彼女は、何かと群れたがるご令嬢にしては珍しく、いつも単独行動だ。
父上に彼女の家柄を聞くが、グラン伯爵家は仲間意識が強く、人当たりの良い家系だ。仲間外れにされる理由は見当たらない。
内気なだけなのだろうか。事情はわからないが、派閥に属する者が不遇な思いをしていてはならない。俺はそんな義務感で、休憩時間に庭に出て彼女に声を掛けに行った。
「こんにちは。ここで何をし──」
植え込みを見ていた彼女が顔を上げた瞬間、時間が止まったような気がした。淡い、けれど少し翳りを帯びたピンクグレーの瞳が、真正面から俺を見上げてくる。
ただそれだけなのに、呼吸が一瞬止まった。口に出そうとしていた言葉も、途中で消える。
……おかしい。何なんだ、この感覚は。
可愛らしいとか、綺麗だとかそういう表面的な言葉で片付けられない何かが、心に引っ掛かる。
しかもそれが決して不快なわけではなく、むしろ心地よく感じているのが、また厄介だった。
俺はそんな心内をひた隠しにして、彼女の答えを待つ。
「ここなら、わたしと同じ色のお花があるかもしれないと思って……探していました」
どうやら仲間外れにされていたわけではなく、目的があって一人で動いていたようだ。
この国で流行っているのは色味のはっきりした花だ。ピンクの花は数多くあれども、彼女の瞳のような淡くてくすんだピンクグレーの花は少ない。
そう考えれば、広い庭園のある侯爵家で探すのは理にかなっている。さらに、人に探させるのではなく、自分の足で探しているという点に好感を抱いた。
俺は頭の中でざっと侯爵家に咲く花の種類をさらって、答える。
「……残念ながら、今はないかな」
そう答えれば彼女は非常に残念そうに眉尻を下げた。しかし戻ってきた返答は大人びていた。
「そうですか……だいじょうぶです。まだ時間はたくさんあるので、ゆっくり探すことにします」
「時間?」
何の時間だろう。誰かへのプレゼントに使いたいのだろうか。事情によっては、分かる範囲内でなら協力してあげたい。
「はい。わたしと同じ色のお花と一緒に結婚を申し込まれるのが、夢なの。お父様とお母様みたいに」
「……は?」
「だから、大人になったら。……そのお花と一緒に、結婚してくださいって、言われたいの……」
俺の相槌が悪かったのだろう。少女の言葉は尻すぼみになっていく。
初めに大人びた返事が返ってきていたのもあって、その子供らしい夢のある回答が眩しく……愛おしく思えた。
「だってお父さまとお母さまは、仲良しだもの! だからわたしも、そんな風になりたくて……」
グラン伯爵夫妻は国の中でも特にオシドリ夫婦として有名だ。しかし政略結婚が一般的、夫婦共に愛人を作るのが当たり前のこの国で、それを夢にするのは無茶がある。
……普通なら。
「おいで」
俺は少女の手を引いて、屋敷の中に入る。回廊を少し行ったところにある花瓶の前で俺たちは足を止めた。そしてその花瓶の中に生けられた薔薇を一輪引き抜く。
「俺が知る中だったら、これが一番色味が近いかな」
父上の妹が嫁いだスタリンド侯爵領。そこで最近秘密裏に品種改良された魔力を帯びた薔薇だった。香りには沈静作用があるらしい。効力を試すために、同派閥のヴァルフォード侯爵家にこっそりと持ち込まれていた。
そっと彼女の髪に挿せば、薔薇の方が若干色味が濃い。それでも思ったより似合っていて、思わず息を呑む。
「わぁ……! ありがとう、きれいなお兄さま」
はにかみ微笑む少女の頬が、ほんわりと赤らむ。
『婚約者も決めなければならないのだから』
胸の高鳴りと共に、父上の言葉が脳裏を駆けた。
──決めた。
この子にしよう。
そして、俺がこの子の夢を叶えてあげよう。
「君、名前は?」
「エルシア・グランです。ふふ、このお花おぼえておかなきゃ……ふわぁ、なんだか眠──」
急にぐらりと彼女の体が傾く。咄嗟に伸ばした手はただ空を掴んだ。そして小さな体が大理石の床に倒れ込む。
──痛ましい音がした。最悪な想像が頭をよぎる。
「エルシア!!」
……笑っていたはずのエルシアは、突然倒れた。
◇ ◇ ◇
グラン伯爵令嬢は体調不良だった。
……ということで真実は闇に葬られたが、俺は珍しく父上に散々怒られた。秘密裏に効果を試していた薔薇をエルシアに渡してしまった上、その効果によって突然倒れるというアクシデントを引き起こしてしまったからだ。
しかもエルシアは頭を強く打ったせいか、はたまた特殊な薔薇のせいか。この日の記憶を失ってしまった。
「全く……お前をこう叱る日が来るとは思わなかったよ、レオン。グラン伯爵令嬢がこれで傷でも負っていたらどうする気だったんだ。婚約前のご令嬢にとっては、傷一つがその後の人生を左右するような話になるんだぞ?」
「父上、問題ありません。だって──」
──エルシアと結婚するのは、俺だから。
それから俺は体を鍛え、剣術を学び始めた。
今度こそは、この手でエルシアを守れるように。
無事に俺の婚約者となったエルシアはやっぱり可愛くて、つい抱きしめてそのまま攫ってしまいそうになる。どうしても会う頻度は少なくするしかなかったし、欲求に耐える俺の表情は強張るばかりだった。
それでも、彼女は毎回楽しそうに笑ってくれた。だから近寄ろうとする虫は全て排除、警護も侯爵家より人員を派遣し万端にして……守ってきたのに。ちょっとした隙を突かれて、彼女は誘拐された。
やっぱり彼女に懸想した男の仕業だったが、男が並べた彼女を好きな理由は平凡なものに過ぎなかった。
(お前は、エルシアがどれだけ俺に心を向けてくれているのか、知っているか?)
茶会をすれば、最後に「……あと十分だけ、お話してくださいませんか?」と毎度名残惜しげに引き伸ばされる。
近衛騎士団に所属することが決まった時には、お祝いとして剣や防具の手入れをするクロスを沢山プレゼントしてくれた。
俺にいらぬ心配をかけてはいけないからと、進学時には女学院を選んでくれた。
初めて戦地に赴くことになった際、涙と共に贈られた家紋の刺繍入りハンカチは、今でも常に胸に忍ばせている。
彼女の周りの人間に地道なヒアリングを重ねて彼女好みの贈り物をすれば、こちらの方が舞い上がりそうなほどに喜んでくれる。
「エルシアちゃんは、いつも僕に優しくしてくれた! 愛のない結婚を強いられているなんて可哀想だから、僕が攫ってあげた方が幸せに──!」
「それで誘拐事件か。くだらない……」
エルシアのことは俺が一番に想っているし、エルシアだって同じ気持ちのはずだ。だから俺は容赦なく犯人に裁きを下す。
俺とエルシアの間に割って入ろうだなんて……くだらない。
それなのに。
……18歳の誕生日の二ヶ月前になって、エルシアは変わってしまった。
体調不良を訴え学院を休み、俺を避ける。手紙も読んでくれていないのか、返事もこない。
焦った俺は、誕生日に贈るはずだったヴァルフォード侯爵家の家紋と俺の瞳の色をイメージしたネックレスを先もって贈った。俺の嘘偽りない気持ちを表したそれも不発に終わったのか、エルシアからの反応は無い。
思えば、エルシアの願いを叶えるべくスタリンド侯爵領から例の薔薇を取り寄せる算段をとり始めた頃からだ。まさかどこからかその話が漏れて「そんな求婚では期待はずれだ」と俺に失望したのだろうか。
それとも、少しでもエルシアの香りがついたものが欲しくて貸したジャケットを洗わずに返せと発言したのを、気持ち悪いと思われたのだろうか。
彼女を見舞うという名目で訪れたグラン伯爵家では侍女たちに白い目で見られた上、ボソボソと陰口を叩く彼女たちは「婚約破棄」なんて言葉を口にしていた。
当然ながらエルシアを手放す気なんてない俺は、予想外の展開にショックを受ける。
こんなことになるなら我慢なんてせず、彼女が俺に好意をもってくれているうちに押し倒しておくのだったと、取引の合間にクラリッサに溢した。
薔薇の色味はエルシアの瞳の色そっくりに。その香りの効果はごく控えめに……魔法使いとしての才も持つクラリッサに頭を下げて無理に調整してもらっていた。
「エルシアが体調を崩してから、毎日のように手紙を送ったのが不味かったのか? それとも、やっぱり他の男が……いや、まだ大丈夫だ。俺が婚約破棄を受け入れない限り、エルシアは俺から逃げられない」
「レオンのその重苦しい愛がバレたから避けられているのではなくって? 仮面を被ったあっさり風味のレオンに恋していたのなら、真の姿を知って引く気持ちも理解できるわよ」
「もう無理だ誕生日まで待てない。クラリッサ、やっぱり薔薇の香りの効果をもう少し上げてくれ。白い結婚から離婚を迫られるのを防ぐには、エルシアが無駄な抵抗を出来ないようにして──」
「せっかく十一年も待ったのなら、せめてあと数日待って彼女の夢を叶えてあげなさいよ。馬鹿なの?」
……そうやって俺は、エルシアは忘れてしまった約束の薔薇を用意して、義父上となるグラン伯爵には彼女の外泊許可まで取った。これでエルシアは誕生日前後は俺の元から逃げられない。
俺は君の夢を叶える。
だからどうか、もう一度俺に笑顔を向けて。
パーティー会場であまりにも美しく着飾ったエルシアを直視できないでいれば、突然魔力の気配が漂った。そして彼女の口から恐ろしい言葉が飛び出す。
「こんなことなら誘拐されたままの方が良かった。レオン様なんて、大嫌い……貴方と結婚なんてしたくない」
──目の前が真っ暗になった。
昔から思い描いていた、二人で寄り添い過ごす未来が、音を立てて崩れていく。いつも冷静だと評される俺が、身動き一つ取れないほどに、何も考えられない。彼女の唇が「嫌い」と動く場面ばかりが、脳内で繰り返し再生される。
俺はこんなにもエルシアが大切で、愛していて、喉から手が出そうなほどに欲していたのに。
あまりのショックで呆然としていればエルシアは俺に靴を投げて逃げ出した。普段なら難なく受け止められるはずのそれはポンと俺の腹に当たり床に落ちる。
『レオン様は私じゃなくてクラリッサ様をお好きなのでしょう!?』
『こんなことなら誘拐されたままの方が良かった』
魔法であっても、全く思ってもいない虚偽を発言させるのは困難。エルシアの発言が魔法によって言わされた言葉であったとしても。……彼女の心の中にあったしこりであることに違いはない。彼女は俺の愛を疑っている。
「絶対に逃がさない」
十一年も待った男の執着を、舐めない方がいい。
◇ ◇ ◇
中途半端なタイミングで開いた部屋の鍵のせいで一度は中断を余儀なくされたが、彼女の瞳の色の薔薇で埋め尽くしておいた宿の部屋で再度仕切り直して求婚すれば、エルシアは「疑って申し訳ございませんでした」と何度も謝罪の言葉を口にした。
エルシアさえ手に入るなら構わない。そんな俺の想いは実り、魔法に操られることもなくなったエルシアは俺の手の中へ落ちる。
やっと手に入れたからこそ、俺は周囲を警戒していた。
ベッドサイドのテーブルにわざとらしく並べておいた、真っ二つになったお守り。寝台で眠るエルシアの髪を手で梳いて楽しんでいるように見せかけてそれを注視していた俺は、すぐさま気配を察知して隠しておいた剣を手に取る。
剣を抜き何もないはずの空間に突きつければ、黒いローブを目深に被った人物が現れた。
「来るだろうと思っていたが、本当に来るとはな。……魔法使い」
「おやおや、警戒心の強い坊ちゃんだこと。こんな時くらい幸せに浸かって眠っていれば良かったものを」
「この俺が、エルシアを苦しめた奴をみすみす逃すと思うか? お前、わざと俺とエルシアの仲が拗れるような術を施しただろう」
長く騎士として務めていれば、魔法の心得はなくとも少しばかりは詳しくもなる。エルシアが持たされていたお守りという名の小袋の中に入っていた魔法陣は、ただの恋愛成就なんて可愛らしい効力のものではない。
ますは持ち主を一度どん底に突き落とす。突き落とす手段は選ばない。無理矢理作り出した辻褄の合わない不幸の幻覚すら、真実と認識させてしまう。そこからやっと持ち主の願いを叶える方向に、魔法が作用し始める。
そして願いが叶った暁には、持ち主が感じた幸福の一部をその魔法陣の中に蓄えるのだ。エルシアはこのお守りを占い師の魔法使いに返しに行く約束になっていたと教えてくれた。きっとそれは、今から何かに利用されるはずだ。
(……エルシアの幸せは、彼女だけのもの。他の誰にも奪わせはしない)
そんな気持ちで魔法使いを睨みつければ、彼女は皺の深い目を細めてクツクツと笑う。
憎さから俺は奥歯を噛み締めて、年老いた魔法使いを更に睨みつけた。
「私だってここまでやるつもりはなかったんだけど、やけに拗れたねぇ。でも坊ちゃんが紛らわしいことをしたせいでもある。全てを私の責任にしないで欲しいね」
「黙れ。エルシアから掠め取った幸福をどうするつもりだったのか教えてもらおうか」
「坊ちゃんこそ、黙った方がいいんじゃないかい? また私の変哲な魔法に捉われても知らないよ」
「俺は騎士だ。お前の魔法になど屈しない」
エルシアを起こさぬように。それでかつ、素早く。脚を沈め、瞬時に重心を前に乗せて、魔法使いに切り込むようにして剣を振る。容赦なく攻撃したつもりだったが、その剣先は宙を切った。剣が貫通した魔法使いの姿はゆらりと揺れ、陽炎を切ったかのように手応えがない。
チッと小さく舌打ちすれば、それに反応したエルシアが掛布の中で寝返りをうつ。……起こしていないのを気配で確認してから、剣を鞘に仕舞った。
『それの回収は諦めるとしよう。魔法陣ごと煮るなり焼くなり好きにすれば良い。それよりも……』
辺りにはもう魔法使いの姿はない。ただ声だけが俺の脳裏に響く。
『お嬢ちゃん、侯爵家の嫁になるには随分と純粋で騙されやすくて危ないねぇ。他人を簡単に信じないように、よぉく言い聞かせておくんだよ? 有事の際に犠牲になるのは、そういう子だから』
「ハッ……そんなこと。お前に言われなくとも、俺は何年も前から知っているさ」
エルシアはそのままでいい。素直で可愛いエルシアは、ありのままの姿で俺の隣で笑っていてくれればいい。
今回は少し失敗してしまったが、俺は必ず君を守るよ。どんな手段を使ってでも。
だからこそ俺は、宰相を務める侯爵家の跡取りでありながらも……君を守る手段を増やすために、騎士となったのだから。
エルシア。君は俺にとって命よりも大切で──絶対に守りたいものだ。
「必ず幸せにするから」
閉じられたピンクグレーの瞳を想って、瞼に口付ける。
眠っているはずの君の口角が、くすぐったそうに少しだけ上がった。
お読みいただきありがとうございました(*´꒳`*)