犠牲者
某月某日。
とある新年会まっさかりを迎えたシーズンの話である。
都内某所にあるなんの変哲もないコンビニの前には連日通り、店員によって朝刊が並べられていた。
その朝刊の三面記事に、それはあった。
『路上で頭部を殴打、男性死亡』
19日午前8時20分ごろ、東京都足立区中村南の無職、高村幸正さん(19)が路上で血を流して倒れているのを通行人が発見し119番通報した。高村さんは病院に運ばれたがすでに死亡していた。被害者は事件当時ひどく泥酔しており、さらに現場にはひどく争った後があったため警察は突発的な喧嘩が原因と見ている。頭部にはビンのようなもので殴られた跡があり、警察は殺人事件として捜査を始めた。
それは、どこの時代にもどこの町にもありふれた事件だった。多くのサラリーマンによってその日のうちに目を通され、しかし誰の意識にも止まることのない記事。親族連続殺人やどこかの国で行われている自爆テロなんかに比べれば狂気などとは遠くかけ離れた下らない、覚えておく必要すらないものだ。そこには死んだ人間の悲劇性などは認められず、ただ酒に溺れた者の末路としてどこかの酒場で語られるだけである。最近の若いもんは、ああはなりたくないものだ、その程度の言葉で語りきられてしまう。死した人間が、なぜ死んでしまったのか。死の淵でなにを思い、なにを嘆いたのか。そんなことは誰にも考えられることはなく、当人が死した後にはもはやあったことすら分からなくなる。いや、“無かったこと”にされてしまう。その程度でしかない記号であり、その程度でしかないが故の悲劇なのだろう。
今ひとり、その記事の載った朝刊を持ってサラリーマン風の男がコンビニの中へ入っていく。そしてまたひとり、今度は年配の重役風の男がその朝刊を買っていく。そうやって、朝刊は売れていく。そうして、男の死は本当の意味で知られることなく記号として世の中に埋もれていくのだ。
話は、ここから少しだけ前に遡る。
◇ ◇ ◇
男は道を歩いていた。
周囲は暗いながらも空はうっすらと白み始め、夜明けが近いことを知らせていた。時間にすれば午前四時か五時といったところだろうか。しかし男の周囲に時計はなく、男が現在の時間を知ることはなかった。いや、そもそも時計があったところで男がそれを確認することもなければ気づくこともなかったかもしれない。
男は泥酔していた。ぱっと見は大学生然とした男だった。年齢は20歳前後といったところだろうか。もしかしたらまだ未成年かもしれない。ジーパンに、若者風の派手な赤のコートを羽織っており足には高そうな、ブランドメーカーのスニーカーをはいている。手には日本酒の一升瓶を持っていた。その一升瓶の底には真っ赤な熟したワインのようなものが染みに、いや、凝固してこびり付いていたが、男は全く気にした風はない。中身はほとんど無くなっていたが、空というわけではなくあと一センチだか二センチだかが男の足取りに合わせて揺れていた。顔は意外にも大人しそうな印象を受ける。実際、彼の周囲の普段の評価は品のいい好青年だった。
だがその足取りはどこか危うげだ。千鳥足、とまでは言わないが、どこか力の入る場所が間違っているような酔っていない人間とは違う歩き方なのだ。
ここは東京都の足立区。都内でありながら、その辺境に位置する区だ。どちらかといえば都心よりも埼玉県のほうが近く、畑こそないものの町の雰囲気も大都市という印象は受けない。昔から土地に住む人間と都心で働く中流階級の集う一介の住宅街だった。だから深夜から明け方にかけては交通量も非常に少ない。男はそんな町中だからこそ、道路の真ん中を歩いていた。
男は昨夜、仲間たちと集まり酒を飲み合っていた。仲間のうちのひとりの家で、始めは5人で。それからまた別な仲間を呼んだり用事のある奴が帰ったり。しばらくすると飲むだけもつまらなくなり皆で町へ繰り出した。都心のそれと違い夜の早い町ではあるが、それでもカラオケ店など深夜でも営業している店はある。そのうちのひとつへ男たちは入り、またバカ騒ぎを繰り返す。といっても騒いでいるのはもっぱら男の仲間たちで、男自身はそれを見て笑いながら静かに酒を飲んでいただけだったが。だが、そうして楽しく騒いでいるのも束の間、午前三時になると店はついに閉店時間となり男と仲間たちは店を急かされるようにして追い出されるのだった。
男の住んでいる家は実家であり、家には遅くまで仕事をしていた共働きの両親がいる。そして今日は日曜日だ。両親は久々に揃って休みだと言っていた気がする。あの二人のことだから、二人して昼過ぎまで寝こけるのだろう。しかし失敗したことに男は昨夜鍵を持って家を出るのを忘れていた。今帰れば仕事で疲れている二人を起こしてしまう。そう思った男は仲間たちへ三次会へ行こう、と誘った。だが、仲間たちの返事はしぶく皆そろそろ帰りたがっていた。
結局、男は特に仲の良い仲間を家の前まで送っていくことにした。仲間は遠慮したが、男としてはそれで時間がつぶせるので都合が良かった。自転車できていたそいつはカゴに余った酒を乗せ、自転車を押して男と適当なことを話しながら家路についた。
男の仲間は別れ際、結局開けなかった日本酒の一升瓶を男に譲った。こんなにどうしろってんだ、と言う男へ仲間は明日の二日酔いのための向かい酒用だと笑い、男もそれならばと受け取った。
しかし、男が仲間を家まで送り届けてもまだ夜は明けなかった。時計は見ていなかったが、まだ日が昇ってこないことを考えればまだ八時にすらなっていないことは容易に想像ができた。しかし、友人を送れば時間がつぶせると思っていた男にとってそれは大きな誤算だった。しかし自転車で15分程度しか離れていない友人宅ではそんなにたくさんの時間が潰せないのは少し考えれば当たり前のことだった。男は自分の思考が酒で鈍っていることに苦笑した。
男は実は昨夜、生まれて初めて酒を飲んだのだった。これが酒にようことか、とそう思った。話に聞いたような、思考に靄がかかるようなことはなかった。むしろ、感覚としては鋭敏になったような気すらする。視界が開け、自分が“なにか”から開放された気がするのだ。酒を飲んだ時は記憶が飛ぶ、という友人もいたが、その感覚はよく分からなかった。自分が自分である感覚は確かにする。ちゃんと肉体の手綱を握る精神の存在は感じ取ることができる。だが、その手綱を握っている自分が“なにか”から開放され、ほんのちょっとの万能感に脳がどうにかなりそうになった。これは、確かに少し気持ちがいいかもしれない。
ただ、本当に感覚が鋭敏になったわけではない。それが分かるくらいには男の精神はまだ少しの正気を残していた。なぜなら思考や体の動きが、脳の命令よりも0.5秒遅れるような違和感が付き纏うのだ。だから、しっかりと歩こうとしてもなぜかいつもと感じる衝撃に違いを感じ、力を入れる場所が少し分からなくなる。
だが、それにしたって他人が男を見たら大概の人間には素面に見えただろう。歩き方の違和感は、足を少し悪くしているようにも見える。それくらい、男の背筋はしゃんと伸びていたし顔には理性の色が見えた。また、男は酔ってもそれが顔にでないタイプの人間だった。
しかしそれはあくまでも見た目の問題であることには変わりはない。やはり男は否定できないくらいに泥酔していた。
なぜなら男には酒を飲むと記憶が飛ぶという友人の話は理解できなかったが、酒を飲むと凶暴になる親父という昼ドラによくある設定はよく理解できたからだ。男は手に持っている一升瓶をそこいらへんに突っ立っている電信柱に思いっきり叩きつけ、酒飛沫をあげさせた衝動と何度も戦わなければならなかったのだ。偽物の万能感に焼かれそうになる脳に、何度も渇を入れなければならなかった。そんな友人のご近所の迷惑にしかならないことを、意味もない自己満足にしかならないことのためにしてはいけないと、理性は思ったのだ。そして男は自分の周囲を見回して、安堵に唇を歪める。
誰も居なくて良かった、今の俺はたぶんとんでもなく切れやすい。こんな状態で喧嘩なんか売られたら、きっと買ってしまうだろう。こんなことで怪我をするのも、誰かを怪我させるのも馬鹿馬鹿しい。
そんなことを、その時男は考えていた。
この先に待ち受ける運命など知らずに、そんな嗤ってしまうようなことを考えていたのだ。とても愚かな男だった。
そして男は友達の住む一軒家に背を向けた。その時、まだ並々入っていた瓶の中の日本酒がぽちゃん、と音を立てた。
それから二時間がたった。
男はまだ歩いていた。
そこは線路沿いの道だった。
線路は男の頭上高くを通っており、男の左手方にはコンクリートの高い壁があり、それは視界の先まで広がっていた。そのところどころには線路の真下に入れるような造りになっており、そこは月極の駐輪場になっていた。そしてずっと先にはその部分がスーパーになっているのを男は知っていた。そしてその先には小さな駅があることも。そして一方通行の車道をはさみ、右手方にはこの時間帯ではやっているはずもない飲食店や薬局などがかなり間をあけつつ並んでいるのだった。その光景は、この町を象徴しているようだった。寂れているわけでもなければ栄えているわけでもない。そんな町並みだ。
灰色の世界だ、と男は思った。
それはコンクリートの壁が多いからなのか、日が昇りきっていないからなのか、雲が多いからなのか、男には判断がつかなかった。もしかしたら、それ以外の理由かもしれない。
くっ、と男の口から空気が漏れた。それは笑い声には到底聞こえないただ空気の漏れる音だった。
だがそれは間違いなく笑い声だった。男はこの灰色の世界がどうしようもなく可笑しかった。
ふと一升瓶を持っていない左手に目をやると、そこは血で真っ赤だった。
痛かった。
どうにかなってしまいそうだった。
それが、どうしようもなく可笑しかったのだ。
くっくっく、と男の口からは空気が漏れ続ける。
涙はでなかった。
ただお父さんとお母さんに申し訳なかった。
そう思うのに、口からは笑いが止められなかった。
そうかこれが狂気か、と男は誰に諭されるわけでもなく独りこの世の真理を理解した。
それを受け入れてからは、なんだか楽しくてしょうがなかった。
でも痛くて、気持ち悪くて、その気分は湧き上がる端から打ち壊され、壊される端から湧き上がってくるのだった。
意外と身近にあるんだな、と思う。
それ以外にもたくさんのことを走馬灯のように思った。
その間も男の足は片時も止まることはなかった。あの、足を悪くしたように見える力の入り具合のおかしな足取りで、コンクリートの壁沿いに世界の果てを目指す。
そうしてしばらく進むと、ようやくそれは見えてくるのだった。
そこには人だかりが出来ていた。こんなにも朝早くなのに野次馬とはごくろうなことだ、と男は思った。しかし野次馬は誰も一升瓶を下げた男に見向きもしない。皆、なにかを熱心に覗き込んでいた。どうやら警察が来ているようだった。男はその中に混じる。そして、隙間から見るのだった。
男がつい一時間前に殴り殺した高村幸正の白目を向いた死体を。
男は殺した相手がちゃんと死んでいることを確認すると、満足して野次馬から離れた。そして、野次馬から踵を返す。現場は警察の人間が野次馬を整理するための怒号で混沌としていた。誰も、男に気づく様子はない。大丈夫、痛むのはせいぜいあのチンピラに殴られた頭だけだ。何の問題はない。
男は二時間前には並々残っていた日本酒の、最後の一口を一気に煽る。透明な液体を嚥下すると、独特のアルコール臭が鼻の奥を突き、喉が少しだけあたたかくなる。何度飲んでも、まずい。
そんなことを考えながら男は猛禽類を思わせる表情で、だらしなく舌を口から垂らした。酒だか涎だかも分からない液体が一滴、男の舌から滴った。その表情は誰に見せたものでも誰が見たものでもなかったが、酷く獰猛で、醜悪な表情だった。
「酒は飲んでも飲まれるな、っと。ヒック」
男は胸を優しく包む万能感に酔いしれつつ、我が家へ向かう一歩を今夜初めて抜き出した。