右側三番目の席
柏駅を出てバス停に続く下り階段が視界に入った瞬間、僕は少しだけ苦しくなる。
秋風の吹き始めた駅の前、二層ロータリーの二階を早足にならないように気をつけながら歩く。
階段へたどり着くと、一歩一歩そこを下るごとに、その苦しさは増していく。
でもそれは決して不快な苦しさではない。
それはまるで山の頂に居るような息苦しさだった。
あえぐほどの苦しさではない、ちょっとした違和感のような呼吸困難。きっと酸素が薄いせい。そしてその山はまだ曇り空。どんな綺麗なものが見えるのかとちょっとドキドキしている。でもそれと同じくらい不安。だって頂の足場は悪くて、簡単な弾みで谷底までまっさかさまに落ちてしまう。
そんな感じだ。
そしてここまでくれば、もう視線を上げればそこには“彼女”がいる。
緊張からか、視線が下がりがちだ。
意を決して目線を上げる。
彼女はやっぱり今日も居た。
水曜日の三限に、十五分前に着くバス。
それが僕が彼女に出会える唯一の場所だ。
彼女の存在を認識したのは一ヶ月前。たまたま水曜日のこの時間にバスへ乗った時だった。
その次の週、もしかしたら、と思っておんなじ時間にバスへ乗ると、やっぱり彼女は居た。
そしてその次の週も、となり今日でついに四回目だった。
一目惚れ、というほどドラマチックなものでもない。
話したこともない相手、好きかどうかなんて分からない。
ただなんとなく気になる異性、一度話してみたい相手、だった。
とはいっても見ず知らずの他人にそんな興味を持ったのは生まれて初めてで、一度そんなことを意識してしまうともう意識しない、なんてことはしたくてもできない。
そんなわけで僕はよく知りもしない、まして相手からは認識されているのかも分からない状況で、妙な緊張を余儀なくされているのだった。
彼女が立っているのは階段が終わり、二松学舎のバス停の立て札の横だった。
セミロングというには少し短いかもしれない髪型で、今日はロゴの入った長袖のシャツにジーパンといった装いだった。文庫本を片手で開いて読んでいる横顔は、どこか凛々しい印象を受ける。
相変わらず“かっこいい人”だった。
昼も過ぎた中途半端な時間のせいか、この時間はいつもバス利用者は少ない。
それは今日も例外ではない。
それどころか、今は彼女しかバス停にはいなかった。
僕が階段を下りきった時、忙しくさまざまな種類の車が出入りを繰り返すロータリーに二松学舎の専用バスが入ってきた。
時間ピッタリだった。
そしてバスは僕らの前に停車すると、独特の音と共に扉が開いた。
一度文庫を閉じた彼女に続いて、僕もバスへ乗り込む。
バスの中へ入ると、彼女は前のほうへ歩いていく。
僕は入ってすぐの二人がけ最前列の席へ、ひとりで腰掛けた。
彼女のほうを改めて見ると、座るのはやはり右側前から三番目の席。
それは彼女を見かけてから四回、変わることのない彼女の指定席だった。
――なんで右側前から三番目なんだろう。
大したことではないのかもしれないが、なにかこだわりがあるのだろうか。
話しかける機会が作れたら、聞いてみるものいいかもしれない。
――あ、でもそんなことしたら毎週見てたのがバレちゃうじゃん。
そんな結論に行き着き、その場面を想像して僕はひとり赤面した。
その時、まるで僕の心臓を代弁するかのように、バスがぐらりと揺れた。どうやら走り始めたらしい。
一度落ち着いた心臓が、バスと一緒に走り出すのを誤魔化すように、僕は再び彼女を見た。彼女は先ほど仕舞い込んだ文庫本を取り出して、再び読み始めていた。
ここからでは顔は見えないが、彼女の丸い、うつむいた後頭部からも、彼女自身のオーラがにじみ出ているようだった。活動的でありながら静謐。どちらかといえば鋭い感じ。
なんで、と聞かれても困る。
僕には彼女がそんなふうに見えた。
また、僕が彼女を気にする理由は、そのオーラというか雰囲気というか、とにかくそのあたりが気になってしまうからなんじゃないか、なんていう無粋な分析結果もある。
分析したのは僕自身で、無粋だと評価したのは友達だったけれども。
それにしても。
出発時に高鳴った心臓は、なかなか落ち着いてくれず、未だに僕の体を苛んでいた。
窓の外を見やると、バスはすでに駅前の栄えた通りを抜け、ちょうど突き当たりにあるブックオフを尻目に右に曲がり、国道16号に入るところだった。
そうして外を見ていると、ふっと肩が少しだけ降りた気がした。
どうやら、気がつかないうちに体がこわばっていたらしい。
僕は自分の状態に苦笑して、そのまま外を眺め続けることにした。彼女を見続けるのも楽しそうだったが、それはこれから授業を控えた身にはとてもきついことのように思えた。
僕はしばらくの間、国道沿いの店やバスを追い抜いていく車を見るともなしに見てすごしていた。
◇◇◇
いつの間にか眠っていたらしい。
気がつくとバスはすでに止まっており、窓の横には二松学舎の校門が見える。周りに立ち並ぶ木々も、高校みたいな校舎も、間違いなく大学へ到着していることを告げていた。
しかし、僕は未だに夢の中にいることを確信していた。
なぜなら僕の前には“彼女”が立っていたからだ。
いや、目の前に立っていたことなら何度があった。今日だってそうだ。でもそれはあくまで立っていただけ。目が合ったわけでも、それどころかその目を覗き込まれたわけでもない。
「大丈夫ですか? バス、着きましたよ」
彼女が僕になにか話しかけているが、夢の中に居る僕にはうまく聞き取れない。頭が働いていない。しかし、明晰夢なんてのは案外こんなものなのかもしれない。
「? どうかしたんですか」
それにしても夢というのはいいものだ。視線の合った彼女をじっと見詰めていても、誰もなにも言わない。彼女だって目をそらさない。
それに彼女、かっこいいとばかり思っていたが、よく見ればぜんぜん可愛い。
日本語になっていないが、彼女はぜんぜん可愛かった。
いや、知ってたけどさ。
なんて、僕は自分で自分の思考に照れた。
しかしこれが夢だとしたら、もういくらもしないうちに醒めてしまう。
せっかくの夢なのだから、聞きたかったことも聞いてみよう。現実では絶対に聞けないのだし。
「あの……」
「ああ、よかった。ちゃんと起きてるんですね、目を開けたまま寝ちゃったのかと思いましたよ」
僕が呼びかけると、彼女はそう答えた。
それに気を良くした僕は、質問を口にした。
「あの、なんで右側前から三番目なんですか……?」
「え?」
ちなみに、これが夢ではない、ということに気がついたのは、質問に唖然とした彼女の顔を見た五秒後のことである。
この後、慌てて事情を説明した僕に彼女が大爆笑し、赤面症もかくやというほど僕が真っ赤になったのは言うまでもない。
終わり.